蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

終わりなき蜘蛛の巣:蜘蛛男見てきた

 注意:なんかめちゃくちゃ愚痴になっちゃったので、無理して読まなくていいです。ネタバレもなくはないのでそのつもりで読んでください。

 

 別に観る気はそんなになかったのだが、映画館の近くに行く用があったのと、SNSでの高評価に行動を誘導されて観たのだ。 Spider-Man: No Way Homeを。

 映画の感想はまあいい、それはSNSなどで絶賛されているように、これまでのシリーズやテーマをまとめ上げ、ヒーローが孤独と引き換えにすべてを救い、大切な人の遺志を継いで前を向く、という諸々を高い水準にまとめ上げたエンタメ映画の決定版だろう。なんだかんだ、アメリカのヒーローも日本のスーパー戦隊仮面ライダーのお祭り映画に行きついて、それをものすごいお金と技術、計算しつくした脚本によってハイレベルな作品をたたき出してきた、それはいい。

 ただ、自分はこの映画にというかMCUにいよいよ拒否感が強くなったと言わざるを得ない。その拒否感の正体を一言でいえば、“終わりのなさ”に他ならない。映画のストーリーが終わったそばから、さあ次はこれとばかりに、観客ののどに詰め込もうとする臆面のなさは、まさに資本主義だが、新たな映画の断片を二つも突っ込まれるとは思わなかった。完全にこの形態はインフレするような気がするし、観客をコンテンツの蜘蛛の巣に絡めようとするその姿勢は少し度が過ぎているような気がする。

 コンテンツの蜘蛛の巣、それはこの映画の構造そのものでもある。この No Way Homeという映画は、トム・ホランド版の続きという以上に、それまでのシリーズをすべてつなぐ中心として構築されていて、それを感動的に味わうために、他のシリーズの視聴を誘導する。これまで、監督別とか、俳優別とかに分かれていた世界は、それをまとめ上げる作品の登場によって、一つにつかまれば、延々と次、次へとつながるようになり、終わりなきコンテンツの無間地獄が口を開く。もちろんそれはそれで楽しい人はいるだろうし、それが作られていくことを否定しようなんてハナから思っていない。どうせそれらはなるべくしてなったものだし、シリーズ物の行きつく果てだろう。ただ、私はもうついていきたくないというだけのことだ。単にめんどくさいというのもある。

 それになんですべてを一つにしなきゃいかんのか、という疑問もある。その作品はその一つ一つでどうしようもなく完結していたから尊いのではなかったのか。その中の悲劇は、その作品の持つ矜持だと思っていたのだが、それをまとめ上げたうえでファンや登場人物に救済を与える。それは、一人の監督が過去作をリメイクするのとは違い、ある意味もともと崩壊していた監督主義を完全に葬り去る、「ユニバース」の誕生だろう。私はそれを寿ぐ気はさらさらないので、これについても語るのをここでやめたいと思う。

 ていうか、こういう人間の気持ちも先回りして、次のストレンジの映画は、理を曲げたことに対する“報復”らしいので、こんなイチャモンも想定済みなのでしょう。頭がいい人たちってヤダなあ。

 自分的には酷評されてる007の方がなんぼか好みだよ。どうしようもなく終わった点において。