蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

名探偵の行き先:エラリー・クイーン『第八の日』

第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)

 『第八の日』は、自分の衝撃を与えたミステリ10選として過去挙げていた作品だ。

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  そして、最近、『ミッドサマー』を観て、なんかちょっと似たようなところあるな、みたいな気がしたので、なんか記事のネタになるかもしんねえ……という下心もあり、再読した次第。ミッドと同じく、都会の疲れた人間が自然のど真ん中に展開される集落に行きつき、妙な事態に巻き込まれる。村にはそれぞれの役割を配置された十二人の評議員と彼らを導く“教師”がいて、その中心にはなんだかよく分からない謎の書物がある。燃えるやまよもぎの匂いが村につくまでやたらと漂うのはドラッグを思い起こさせるし、彼らは最終的に「儀式」をへて、外部の人間を新たな指導者として迎え入れる展開もどことなく似ている。

 とはいえ、再読し終えてしまうとその辺はどうでもよくなった。この本の持つ奇妙な引っ掛かりのほうが、改めて自分の中で大ききなっていったからだ。

 

 改めて読むと、やはりあの一行はちょっと重たいし、最後のエラリイの立ち尽くすような姿は国名シリーズを読んできた読者にはとてもインパクトがあるだろう。個人的にエラリイ三部作と呼んでいる『十日間の不思議』『九尾の猫』の掉尾を飾る作品で、なんとなくシリーズ最終作と勝手に捉えている作品でもある。

  『第八の日』はエラリイ・クイーンの作品の中で極めつきの異色作だ。この作品は1964年に執筆されたわけだが、それは東京オリンピックの年だったりする。そして、アメリカでは公民権法が成立し、ベトナム戦争が激化していった年でもある。

 しかし、クイーンはこの作品を1944年の話として書いた。第二次大戦がその多量の死を生み出さんとしていた時期だ。作中のエラリイは映画のシナリオを描くためハリウッドに赴き、一日20本のシナリオを書き、そして疲弊している。実際の執筆当時の60年代ハリウッドは、新しいうねり、いわゆるアメリカンニューシネマが台頭し始める時期*1であり、40年代のロートルたちの映画がウケなくなっているという時代でもある。

 二十年のタイムラグは恐らく意図的であり、第二次大戦とベトナム戦争二重写しの存在なのだ。カウンターカルチャーのうねりが大きくなる中で、この老作家は、自身の生み出した時代遅れになりつつある「名探偵」を外界から隔絶された村へと送り込む。

 初期のクイーンは主に閉じられたフィールドを形成することで高度な犯人当てを達成した。その後、クイーンはハリウッドやライツヴィル、ニューヨークといった街や都市というふうに、フィールドを広げ、そのどこかリングのロープが見えずらい場所で犯人と戦う方向性を模索し、そしてそれは文字通りの苦闘となってゆく。その見えずらいリングの上で探偵小説としての探偵と犯人をまとめ上げるのは、人間の意志を越えたもの――運命であり、やがて“神”が姿を現すようになる。

 勝手に個人的な三部作としている『十日間の不思議』『九尾の猫』そして『第八の日』は、その事件のフィールドを、『十日間の不思議』では家というミニマムな場所から、『九尾の猫』でニューヨークという広大な都市に移し、そしてこの『第八の日』に至り、広大な砂漠の中に浮かぶ、小さなコミュニティへと移り変わる。そのフィールドの変遷も興味深い所だ。

 今作は、広大なフィールドの中に浮かぶ小さな舞台の中で、エラリイはこれまでのような警察組織の助けを借りることなく(『シャム双生児の謎』もそうではあるが)、身一つで殺人事件の謎に立ち向かうことになる。

 社会とも切り離されたこのコミュニティは、それまで殺人事件が起こったことがなく、よって殺人事件を捜査するという概念に乏しく、指紋すら知らない。そんな中で、エラリイは、自前の捜査キット(これも「シャム」で活躍した)を使い、関係者を一人一人尋問してゆく。

 クイーナンという村には十二人の評議員とそれを統べる「教師」なる人物がいて、彼は嘘をつかない。ある種の正直人パズル的な要素が組み込まれているのだが、そのミステリの難易度というか、密度は正直低い。簡単な語り落としによって、エラリーは欺かれるわけだが、割と早く誤謬に気づき、軌道修正する。そこは、『十日間の不思議』や『九尾の猫』を通過してだけあってか、立ち直りは早い。

 しかし、またもクイーンは失敗してしまう。それは、操りという問題ではなく、この村というシステムに敗北してしまうのだ。まあ、システムというよりも掟というものに近いが。契約といってもいい。

 打ちひしがれ、村を出ていくエラリイの前に村の新たな教師がメシアのごとく現れる。愕然とするエラリイは大いなる意思を感じつつ言う――

“あの丘の向こうには新しい世界があります。そしてたぶん……たぶん……そこの村民はきみを待っているでしょう”

 

 物語を改めて眺めてみると、本当に奇妙な物語だ。エラリイはニガヨモギの匂いに導かれるようにして「世界の果て」なる名前の店にたどり着き、そこから現代社会とはかけ離れた生活を送る集団の世界へと入る。そして、彼らの社会にある予言の一部としての役割を演じ、そして去る。そこには、もはやかつてあった本格探偵小説の姿は微塵もない。

 この物語は解決はもとより徹底して二重化三重化された諸々によって成り立っている。それは、先の方で述べた時代感覚の二重性の他にも物語のいたるところで顔を出す。酩酊感を誘うニガヨモギアブサンを連想させるとともに、天使を意味し、エラリイを村へと導く。そしてエラリイは予言者であったり、キリストを死刑にするピラトのようでもある。主要人物である「教師」はイエスのようでもあり、毒杯をあおるソクラテスの役割を担う。殺される雑品係――ストリカイはユダであり、銀貨三十枚で殺されるということで、またもやキリストの姿が浮かび上がる。

 キリストの意匠をまとうのは、最後に出てくる男、教師、雑品係という三人であり、これは恐らく三位一体ということなのだろう。そしてこの村の聖書は、作中の時代における敵国の「聖書」によってあまりにも異様な二重化がなされている。また、クイーナンという村はユダヤ教エッセネ派が作り上げたコミュニティということだが、文明を拒否した自然回帰的なこの集団は、執筆当時の感覚でいうと、ヒッピー的なコミュニティ、もしくはアーミッシュ的なものが重ねられているのかもしれない。

 しかし、この多層的に意味を重ねることにいったいどんな意味があるというのだろうか。ここで、再読中に読んでいた山本七平の『空気の研究』を引っ張り出そうと思う。

 いきなりなんで「空気」における日本人論の本が出てくるのか、と思われるかもしれないが、本論というよりは、山本の西洋理解、その根幹にある聖書についての言説が目を引いたのだ。

 山本は西洋の生き方を、対象をも自らをも対立概念で把握することによって虚構化を防ぎ、またそれによって対象に支配されず、対象から独立して逆に対象を支配する生き方を学んだとし、その教科書として聖書――主に旧訳を挙げる。そして聖書は徹底的相対化世界だという。要するに対象を絶対化しない。

 聖書に記述されている「人間像」は矛盾が多々ある。しかし、聖書はその矛盾を解消しようとはせずに、あらゆる命題が自らの内に矛盾を含み、その矛盾を矛盾のままに把握する時、初めて命題が生かされるとする。例えば、ヨブのように神の声という命題を絶対化してしまえば、その命題は逆に消えてしまう。

 あくまで山本七平という日本人の理解だが、何かとても『第八の日』という矛盾だらけの作品の形態に当てはまるものがある。エラリイはひたすら矛盾に満ちた出来事を前に立ち尽くし、すべてを承認するしかない。それはある意味「名探偵」の放棄だ。

 探偵小説はある種の絶対化によって、成り立っているものだ。作者クイーンはロジックを、ロゴスを絶対化することで、ロジックが神のごとく支配する作品空間を作り上げた。しかし、絶対化したことで、その命題はやがてひびが入り、崩壊することになる。ロジックを絶対化したことが、それをもってロジックの絶対性を操る存在が生まれ、エラリイの推理は逆に揺らぎ始めてゆく。

 そして、『ギリシャ棺の謎』でうっすらと浮上していたそれが『十日間の不思議』にて表面化し、『九尾の猫』や『第八の日』では、ついに彼の「絶対的な」推理は作品全体を支配することはない。『第八の日』は矛盾が矛盾のまま、そして奇妙な意味にならない意味だけが張りついた世界が展開されている。それはたぶん、われわれの現実の世界のことでもある。

 神は一人であって、その他に神はいない――これは、『九尾の猫』の最後の言葉だ。

 絶対化されたロジックは、それを口にする探偵を絶対化させる。それゆえ、探偵は一種の偶像と化す。クイーンは探偵の偶像化を解除することをこの作品で鮮明化しているように思える。それは、探偵からロゴスを解放することだ。言葉にある意味が探偵によってまとめられ、世界を統べる一つの真理が形作られるのではなく、矛盾を抱えたまま存在するということ、それが、本来あるべき聖書的な世界であり、それはそれが書かれた人々の世界の認識であったはずだ。クイーンはこの作品によって、エラリイを絶対の偶像から解放しようとした。涙を流し、そして、彼は矛盾を承認して立ち去ることで帰還するのではないか――砂漠の向こうから来た男と入れ替わるようにして――矛盾に満ちたわれわれの世界へと。

 そういう意味でも、これは「名探偵」エラリー・クイーンの最終回(もちろんこの作品以降もシリーズとしては続くのだが……まあ、最後はここに行きつくという意味で)なんじゃないか……なんて。最後に「神」とすれ違って、ロジックのみが頼りの場所を去っていく、そういうのも含めてすごくらしいと思ってしまいますね。個人的にはポワロの『カーテン』に匹敵する名探偵最後の風景だと思っています。

 

 という感じで、最後はかなり強引にまとめてみました。ああ、そういえばプロットはクイーンの片割れであるダネイですが、執筆はSF界の鬼才ウィリアム・デヴィットスンによる云々にはメンドクサイのであえて触れませんでした。

 それにしてもクイーンに安易に手を出すべきじゃないですね、これまで以上にめちゃめちゃな文章になってしまった……あーあ。まあ、クイーンはこれっきりということで。

 とにかくなんというか、この作品は本当に奇妙な作品で、しかしどこか強烈に引き付けるものがある作品でもあります。世界という謎を残してエラリイは立ち去るしかない。残った世界の謎が、私たちを引き付ける。これはそう言う作品なのかもしれない。

*1:ニューシネマの嚆矢とされる『イージーライダー』(1969)まであと5年である