蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

島田荘司:御手洗シリーズ作品紹介 その1

 一応、今のところ御手洗潔シリーズは、ほぼほぼ全部読んでると思うので、その登場作品を出来る限りというか、根気が続く限り刊行順で紹介していこうかと。まあ、マニアながっつり批評みたいなのはムリなので、軽いファンの思い出話まじりの紹介文です。……まあ、島田荘司 おススメ、みたいな感じで検索すればより分かりやすい記事がゴロゴロ出てくるんで、完全な自己満です。気が向いたら、という感じでぽつぽつ更新していけたらな、と(正直これで終わる可能性もかなり高いですが)。ではとりあえず、その1として初期の四作をば。

 まず記念すべき第一作にしてデビュー作である『占星術殺人事件』から。

占星術殺人事件 改訂完全版 (講談社文庫)
 

  この本が刊行された1981年(自分が生まれる前ですね)はあの横溝正史が没した年でもあり、本格派の巨匠の後を受け継ぐようにして、その後の本格を牽引してゆく著者が現れたことはなかなかドラマチックな符合です。そして、これ以上ないほどそれにふさわしい作品なのです。

 六人の娘からそれぞれ切り取られた人体のパーツによって究極のアゾートを作り上げる――狂気の怪人、梅沢平吉の手記から始まるその異様な物語は、実際にその通りに平吉の娘たちが殺され、それぞれの部位が奪われた状態で発見されてゆく。しかし、当の平吉は事件発生前に密室内で殺害され、アゾートの行方、そして犯人の正体はようとして知れないまま、究極の謎として四十年の月日が経った。その謎に一週間という期限付きで挑むことになったのが、当時占星術師として横浜の馬車道に事務所を構えていた御手洗潔であり、この作品の語り手である石岡和美。ここに、日本を代表する名探偵&助手コンビの一つが誕生した。

 二度も読者への挑戦状が挟み込まれ、最初に刊行されたノベルス版では袋とじだった(私は残念ながら所持しておりませんが)という究極の謎は、それにふさわしいトリックが用いられ、名探偵が巨大なトリックを解き明かすというこの物語は、当時退潮気味だった本格の、ふたたびミステリというジャンルにおける一大潮流として復活する、その大きな原動力となります。正確には、この作品によって影響を受けた若い読者たちが、呼応するようにして名探偵という一時棄却されそうになった存在(都築道夫の名探偵復活論とかありますが)や、それらに付随していた要素を復活させる大きな流れを、島田荘司とともに生み出してゆくのです。

 この作品は手記――物語内の物語という要素が一つの特徴をなしていて、この要素はこれからの島田荘司作品の長編における重要なモチーフというか、作品構成であり、物語の語り方となります。そのような物語の入れ子構造は、島田作品において基礎となる形であり、以降この形をあの手この手で変奏してゆくこととなります。島田荘司作品において、語り手以外の誰かが書いた物語、という要素はこれから大きな要素を占めてゆくので、そこも注目しておくといいかもしれません。

 まあ、とにかくすごいトリックですよね。そして、そのトリックを占星術に絡めて、アゾートという演出に仕立て上げるその手腕。名探偵御手洗潔の素晴らしい名探偵キャラクターぶりと、このころはまだまだ元気な石岡和美との掛け合いも楽しい。そして、強固な謎と40年という時間に閉じ込められた犯人――トリックが生み出した孤独に収束する見事さ。本格ミステリの歴史に残る傑作のひとつです。

 ただ読むに際してよく問題と言われるのは、冒頭がかなり長い手記であり、御手洗潔も「電話帳を読まされたみたいだ」と述べるほど。だいたいそこを乗り切るのが大変と言われますが、奇妙な想念に囚われたい男の異様な手記、そういうものとして読んでみれば、45ページほどはそう辛くはないかと……まあ、そこは人によるでしょうが。私は結構好きなのです。他人が書いた妙な情熱の怪文書ってやつは。

 

改訂完全版 斜め屋敷の犯罪 (講談社文庫)
 

  第二作の『斜め屋敷の犯罪』、これもまたそのトリックと後続に与えた影響の大きさでは、第一作と引けを取りません。斜めに傾いだ建築物――本格ミステリにおける“館”という存在が住居空間というよりは極端な舞台装置の存在として、ある種のキャラクターのような存在感を持つにいたる、その大きな流れへの決起となったといってもいいかもしれません(個人的には黒死館が大元の源流なのではないかと思っています)。そして、トリックのための建築物というかなりラディカルな、しかし本格らしい詩想設計による「館」の誕生(ここもまあ、甲賀三郎の先例を考えると「完成」と言った方がいいかもしれませんが)。以降、日本の「館」は奇妙な独自発展を加速してゆくこととなります。

 この作品、島田荘司作品としては割と異例な感じで、物語の入れ子構造というものがなく、物語構成はかなりストレートに進んでいきます。お話自体も、ストレートな雪の山荘ものという感じで進み、御手洗潔も最後の解決篇にデウスエクスマキナ然として現れ、謎を解いて幕。最後の犯人とのやり取りは、結構好きな人は多いかもしれませんね(俺もあんなセリフ言ってみたいぜ……いや、嘘です、言われる側になりたいです)。ストレートにして雄大なトリックと、それを支える細かい設定や条件が堅実に構築された、従来型の構成を取ったザ・本格という感じで、ここから入ってみるのもいいかもしれませんね。出番は少ないですが、御手洗&石岡コンビのドタバタや、御手洗の奇矯な行動とその真意が明らかになる犯人逮捕シーンも注目です。

 

御手洗潔の挨拶 (講談社文庫)

御手洗潔の挨拶 (講談社文庫)

 

 『御手洗潔の挨拶』。御手洗シリーズの初短編集となります。二作目以降、御手洗シリーズはかなり期間が開くこととなります。その間細々と書き溜められた短編がこの短編集にまとめられるまで、実に五年の歳月が流れています。まあ、そのことについて詳しいことは『異邦の騎士』のところで後述します。

 この短編集には、4つの短編が収められており、そのクオリティや謎のバラエティー、物語の構成を考えると一番スッキリとした入門テキストとなっているように思うので、ここから入るのもテかもしれませんね。どれも面白く、個性豊かな短編たちが取り揃えてあります。それでは、それぞれについて軽く触れていきますね。

「疾走する死者」

 島田荘司らしい強烈な謎が印象的な一編。アパートの一室から消えた被害者――その死の状況は、電車に轢かれるために全力疾走したとしか思えない形であった。強烈な不可能興味、そしてそれを解き明かすアクの強い名探偵御手洗潔、という島田作品の基礎要素がぎゅっと詰まった短編。そして、細かい出来事や思惑の積み重ねが摩訶不思議な状況を生み出す島田荘司お得意の組み立てが堪能できます。ちなみにこの話の語り手は石岡ではなく、後に『嘘でもいいから殺人事件』『嘘でもいいから誘拐事件』の主役兼語り手となる隈能美堂巧。

「数字錠」

 タイトルの数字錠の部分については、御手洗潔の説明を聴いてるそばからえ? という疑問が浮かびますが、そこはまあ、なんだか自信満々な御手洗に流されておきましょう。メインはそこではなく、一人の少年の人生のお話。ファンの人気が高いのはミステリ部分ではなく、その少年の境遇と、東京タワーから御手洗が指さすそんな無数の孤独たちの哀切さによる。島田荘司の小説部分が堪能できる一作でしょう。

紫電改研究保存会」

 御手洗潔、というか島田荘司のミステリの故郷の一つがホームズにあることが如実に伺える一編。確かホームズ譚は一行目でタイトルが分かるくらい読みこんだという話がありましたね。一言でいえばあの有名作のパロデイみたいな作品という感じでしょうか。

ギリシャの犬」

 この作品もホームズ譚的な語り口がワクワクさせる冒頭。そして、タコ焼き屋台の盗難というヘンな事件と、その現場に落ちていた暗号文のような紙切れ、そして誘拐事件。なんだか分からないうちに事態が大きくなっていくさまが、加速するように展開され、奇妙な発端から大捕物のアクション劇につながる構成はまさにホームズ的な楽しさといっていいでしょう。あと、奇妙な形で意図しない「暗号」が成立するアイディアが良いですね。

異邦の騎士 改訂完全版

異邦の騎士 改訂完全版

 

  御手洗シリーズ長編第三作ですが、著者が初めて書いた小説『良子の思いで』に改稿・修正を加えたもの。それが『異邦の騎士』です。実は、御手洗シリーズは長編第二作の「斜め屋敷」から第三作のこの作品まで、六年の歳月*1があります。著者によると、御手洗潔という探偵が出版社から求められなかったということらしいですが、まあ、やはり当時の流行と御手洗シリーズには齟齬があり、それを受け入れる若年層の存在をもう少し待たねばならなかったということでしょう。そして、御手洗潔のシリーズとしての本格的な活躍は、この作品から二年後の一九九〇年以降となります。

 また、この作品については、初めに読むよりは、御手洗シリーズのどれか一つ、出来れば初めの方を読んでからをおススメします。まあ、結局は刊行順に読むのが一番いいとは思いますね。

 記憶を失った男。そこに現れた女性と彼女にまつわる奇妙な出来事、そして男がある手記を紐解くとき、事件は取り返しのつかない場所へと加速してゆく。知り合ったその男を助けるため、御手洗潔は鉄の馬を駆る。そして、男は……みたいな話。島田荘司の抒情性が詰まった青春小説としても読める、これまた素晴らしい傑作となっています。

 記憶を失った男視点の巻き込まれ型サスペンスで、物語としての完成度はたぶんトップクラスであり、この作品が一番好きと挙げる人も少なくないと思います。それまでの長編二作とはまた違った形のミステリが展開されていて、著者のミステリの力量とその物語作家としての実力がいかんなく発揮された作品です。

*1:この間、『御手洗潔の挨拶』を含む長短編合わせて実に二十一冊が刊行されています。

誰かの物語が私という物語を作る:エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』

パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)

 初マコーマック。全編これ奇譚という感じのエピソードが横溢していて、とても良かった。そして物語というものを巡る物語というか、そんな構造の物語であり、それが急に雲散霧消してしまうその作者の騙りというか、書きぶりにも唸らされる作品でした。

 なんというか、物語というものにあれこれ感じ入ったり考えたりしましたが、とにかく面白いエピソードが次々流れてくるので、それを眺めているだけでも楽しい読書になると思います。

あらすじ

 エズラ・スティーブンスは物語にとり憑かれていた。それは、祖父ダニエル・スティーブンスが語った奇妙な物語だった。ある時ふらりと姿を消し、三十年ぶりに親族の前に姿を現した祖父は、自分は甲板員として船に乗り、長い間旅をしてきたと語る。

 その中でもパタゴニアの旅で自分は奇妙な話を聞いた――ダニエルは語り出す。それはある一家にまつわる奇怪で悲惨な事件だった。

 それはマッケンジーという一家――その四人の兄妹達にまつわる話だ。彼らの父である医師は彼らの母親を殺し、バラバラにした。その母親の体の一部を、父は彼の子どもたちの体に埋め込んだというのだ。母親の切断された両手両足を埋め込まれた四人の子どもたち。エスター、ザカリ―、レイチェル、エイモス。

 エズラは、自分の名前に彼らの頭文字が埋め込まれていることに気づく。奇妙な符合。そして、祖父が聞いたというその話にエズラは傾倒していく。しかし、母であるエリザベスは父であるダニエルを嘲笑する。どこが長い旅よ? どこにもいかなかったくせに――ダニエルは消えてから三十年間長い放浪の旅になんか出ていない。ちょっと離れた炭鉱の町でずっと一人で隠れるように住んでいただけだ。

 彼の旅での話なんて嘘っぱちだ。そんな物語は存在しない。しかし、エズラは祖父の話に出てきた四人の兄妹――彼らのその後の物語に次々と遭遇していく。果たしてその物語は真実なのか。祖父の語った物語とは何だったのか。

 これはそんな、物語を巡る物語。

 

感想

 この小説は、物語に囚われた男の物語だ。自分を捉え、形成していった物語というものがある。エズラは祖父が語った物語に絡めとられ、その物語のその後を追ってゆくことになる。そして次々と彼の前にはシュールでグロテスクな妖しい物語たちが現れては、あるはずのない祖父が聞いた物語をエズラの中により深く、くくりつけてゆく。

 誰かの物語によって、私なるモノが構成され、動かされてゆく。そういう部分が私たちにはある。エズラは祖父の物語の続きである四兄妹の奇怪な物語に次々と遭遇し、それを取り込んでゆく。そしていつしか、それが彼の物語となってゆく。

 エズラの物語は、自分が囚われたそんないくつかの物語の集合体だ。そして私なる物語が誰かの物語の集合であるならば、その誰かの物語が消え去ってしまった時、私という存在とはどういうものになるのだろうか。語られた物語が騙られた物語であった時、エズラという人間もどこか揺らぎ、読者の前からその物語は砂のように崩れてゆく。

 煌びやかな物語たちが作る物語という砂上の楼閣。その妖しく儚い手触りを感じながら、私は本を閉じた。

学生アリスシリーズの思いで。

 そういえば、有栖川有栖の学生アリスシリーズについて少し語りたい。

 中学から高校にかけてのことだったと思う。当時探偵小説に飢えていた。小学生の時に乱歩に出会って、探偵小説にのめりこんでいたわけだけど、ホームズ、ルブラン、ヴァンダインの『カブト虫殺人事件』やクリスティの『メンハ―ラ王の呪い』、『大空の殺人』などと読み進んだものの、どこか物足りないというか、国産の探偵小説が読みたいという熱が高まっていたのだ。しかし、今の日本の推理小説と言えばこれ、という風に親から渡された『点と線』である種絶望してしまう。これが今の日本の探偵小説というのならば、自分にとって読もうという気にはなれない、そんな気分だったのだ。そして、その後は宗田理の『ぼくらシリーズ』やライトノベルに傾倒していく(純文学は教科書で読むくらいでわざわざ買って読もうとかは思わなかった)。

 そんな中、本屋をぶらついてた時に隅の創元推理のコーナーにて、表紙のジャケットで目を引いたのがフェラーズの『猿来たりなば』と有栖川有栖の『孤島パズル』だった。その時ようやく東京創元社という出版社を意識の中に入れたのだ。それまで、広く取られた講談社や角川の棚ばかり見ていて、隅っこや裏側の創元やハヤカワは視界の外にあったのだった。

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 

 なんだかんだで迷ってフェラーズを買い、後日やっぱりこれも買おうというふうに『孤島パズル』をレジに持って行った。ぶっちゃけ、あらすじの「密室」という言葉に後ろ髪引かれたのだ。乱歩の『魔術師』を読んで以来、密室とか不可能犯罪に目がなかった。

 だから、初めて読んだときはその扱いにガッカリしたし、探偵役の江神さんの密室に対する、そっと扉を閉めて去る、みたいな玄人な語りもなんじゃそら、というふうに理解できなかった。作中のメインのロジックについても、それが披露される時のヒリヒリするような感覚と、それによってとある光景が目に焼きつく印象深いものとなったものの、なんか求めてたのと違うな、という感じで終わったのだった。その後、不可能犯罪の方を求めて、二階堂黎人ディクスン・カーあたりを読み込んでいって、有栖川有栖自体から遠のいていた。

 転機になったのは、エラリー・クイーンの読み方が分かってきたころからだ。クイーンも当初は、退屈な議論ばっかりであんまり面白みを感じられなく、ほとんどとりあえず抑えとかないとな、みたいな気分で読んでいた。『Xの悲劇』『Yの悲劇』『ギリシャ棺の謎』……どれも長さや探偵(特にレーン)の芝居がかった仕草にイライラしながら読み捨てていった。それが変わったのが『エジプト十字架の謎』で、あの有名なロジック(というか手掛かり)が、本格ミステリにおける論理の魅力、というものの理解への転機となったのだ。そして、その後の『Zの悲劇』や『オランダ靴の謎』で、手掛かりの魅力からロジックの流れ、その展開手順そのものが、快楽であることを教えられたのだ。

 そして準備は整い、次に手に取ったのはあの『双頭の悪魔』。

双頭の悪魔 (創元推理文庫)

双頭の悪魔 (創元推理文庫)

 

 そう、学生アリスのみならず、有栖川有栖の最高傑作との呼び声も高いあの作品である。日本の本格史に残る一大傑作を、このような形で紐解けたのは、とてもいいタイミングだったと言えるだろう。

 推理というものが、そのロジックを積んでは崩し、真相へとにじり寄っていくという過程自体が、こんなにもワクワクするものなのか!――それは一つの大きな体験だった。そして、私はミステリにおけるロジックの追求というものが、トリックの驚きと同等かそれ以上の悦楽を享受できるということを決定的に刻み付けられた。それは、私のミステリにおける、第二のパラダイムシフトだったと言える。

 とにかくこの作品はぜいたくなロジックがふんだんに盛り込まれていて、二つに分断された場所で名探偵江神二郎の鮮やかな推理、そしてその向こう側では名探偵ではないかもしれないが推理小説については人後に落ちないアリスをはじめ、織田や望月といった推理研のメンバーがあーでもない、こーでもないと頭をひねり、推理を披露しては他が反論し、あっちへいきこっちへいきつつ次第に真実へと焦点を当ててゆく。特にそのアリスたちによるすったもんだの推理行が特に素晴らしい。そして、江神、アリスたちそれぞれの推理が一つの像を結ぶとき、この事件の悪魔が姿を現すのだ。

 本当に素晴らしい、国産本格の一品。読んでいないのならぜひ手に取ってその妙技に、そして推理することの楽しさに浸って欲しい。

  そして、さかのぼるようにして手に取ったのが第一作である『月光ゲーム』だった。

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

 

  この作品はクイーンの『シャム双生児の謎』にインスパイアというか、本歌取りをしたような、火山の噴火によってクローズドサークルを形成する作品だ。そして、この作品におけるロジックーーその手がかりはシリーズでいちばん好きというか、印象深いものがある。確かに登場人物が多くて、把握しづらい所はあるかもしれないが、私自身はそこまで気にならなかったし、きちんと区別はつくように書かれている。

 学生アリスシリーズは割とセンチメンタルな色合いがあって、今作ではアリスを含め江神さんにもちょっとロマンス描写があり、先に二作を読んでいたぶん、意表を突かれるところがあった。そして、センチメンタルな部分と事件を明らかにすることで浮かび上がる悲哀のバランス、というのもこの作品から確立されている。メンバー同士のやり取りに見る青春の清清しさや、事件をロジックで解明することをあきらめない冒険的な要素と事件の裏に潜む悲哀の混交のバランスが、このシリーズの魅力の核なんだろうと思う。

 あと、ダイイングメッセージの扱いについて、解明はしつつも犯人特定の要素とはしないというダイイングメッセージに対する近年の本格作家たちのスタンスは、この作品における有栖川有栖の態度が源流のような気がしないでもない。

  そして現在最新作の『女王国の城』に至る。

女王国の城 上 (創元推理文庫)

女王国の城 上 (創元推理文庫)

 
女王国の城 下 (創元推理文庫)

女王国の城 下 (創元推理文庫)

 

  この作品は待ちに待った作品という感じで買ってすぐ読んだ記憶がある。新興宗教という閉じた世界をクローズドサークルの舞台にして、論理だけを武器に江神さんら英都大学推理研メンバーは謎に挑んでいく。今回のロジックは長大な分量にしてはシンプルで、『双頭の悪魔』のような物量で圧倒するようなタイプではないが、シンプルな分え、それだけで分かるの? という切れ味が鋭い。ロジックの居合切りだ。そして何より根幹にあるトリックのアイディアが素晴らしい。シンプルだが雄大なそれを効果的に発揮できる舞台設計との結びつきもいい。

 もはや職人芸のような無駄のないロジックの手つきがひたすらカッコいい。そして、読者への挑戦も。読者への挑戦は全作品にあり、そのどこかロジックに対するロマンティックな文章もまた、このシリーズを彩る要素の一つだ。

 学生アリスシリーズは全五作ということで、残りあと一作を待ち望みつつも、まだ続いて欲しいというジレンマがファンを苛んでいる。私もそんなファンの一人だ。

  最後に、この学生アリスシリーズの魅力というのは月光ゲームのところで述べた部分もそうだが、何と言っても本格としてそのロジックの魅力、その展開というかプレゼンテーションの仕方にあると思われる。ただ単に水も漏らさぬ説明をします、ということを見せつけるのではなく、見落としていた手掛かりを取り出すタイミングや一つの証明から導き出されるロジックの道筋。それを探偵と一緒にたどるような感覚。それはディスカッションの魅力だ。そして、その先にある真実へと至る瞬間に焼き付く手掛かりやロジックのビジョン。それはとある人物の何気ない姿だったり、登場人物にロジックの神が下りてきた瞬間だったり、ある物の手触りだったりする。そういう、ロジックによって焼き付く決定的な瞬間が、その推理を唯一無二の魅力的なものにしているように思うのだ。

消えないニオイ:映画『パラサイト 半地下の家族』

『パラサイト 半地下の家族』を観てきたので、とりあえずその感想を。ちょっと内容に触れたりするので、観てない人は観てから読んでください。あらすじは略。

 

 

 

 

 

 

 

 なんていうか、キツイ映画だった。別に面白くないというわけではない。映画としてはとても面白い。しかし、キツイのだ。それは、破綻することが分かっている、今にも崩れそうな建物が崩れるのを今か今かとじりじり見つめ続ける感覚に近い。絶対にこの生活は長く続かない。それがあらかじめわかっていながら、ある程度成功しちゃって「半地下の生活」から束の間の光を見ているような彼らを見るのがツライ。別に彼らはいい人間というわけではない。といって邪悪な人間というわけではなく、生きるためにそれ相応の狡賢さ備えた貧しさの中であえいでいる人間たちだ。そして、彼らに寄生される側の金持ちもまた、悪い人間ではないが、特別好感を抱く人間でもない。特に、何もできない“奥様”は外見の美しさ以外たまたまそこに居るような人間で、ソン・ガン・ホら“半地下”の家族との違いとはいったい何なのかと思わなくもない。

 家庭教師のバイトのピンチヒッターを友人から得た長男を決起に次々と金持ちの家の中に入り込んでいく半地下の家族たち。ヒュー・ウォルポールの「銀の仮面」のように金持ちの家に上がり込んだ人間たちが次第に家を乗っ取るのかという事前の予想とは裏腹に、彼らはあくまで寄生するのみだ。そして、だからこそ悲劇は起こる。どんなに近づいたとしても絶対に越えられないし成り代われないのだ。厳然とした溝がある。それこそ、ソン・ガン・ホ演じる父ギデクに染み付いた臭いのように。

 そしてそれが、まばゆい光の中の地獄にギデクを突き落とすことになる。どうあっても踏み越えることができない予感が、最後の息子の妄想と父への言葉に嫌という程重ねられていて、またそこが気分を暗くさせるのだ。格差、というものが実感を伴って流れ込んでくる時代。その“貧困の臭い”の恐怖が私にもよく分かる。

 なんだかんだで二〇一九年も終わり、この感想文やら雑文やらの集合体も三年近く続きました。とりあえず百記事書けたらということで始めて何とか書き切りましたし、二百くらいいったら終わってもいいんじゃないかと思ってたりしてますが、とりあえず何らかのフィクションに触れて、それについて書きたい気持ちが続く限りはやっていこうかな、と。まあ、時間と気力の問題もあるとは思いますが。

 紹介というには回りくどくて野暮ったいアジ文章だったりしますが、目的としてはフィクションを齧って、その時の自分の気持ちというやつを書き留めていくことが主ですので、それがもし、誰かの琴線に触れてくれれば幸いというか。

 しかし、誰に届くか分からないというのは、なかなか良いものですね。どのみちいつか消えていくものであっても、どこかの誰かさんに届く瞬間がある。実感なんてほとんどないけど、そういうファンタジーを少しでも信じようとする感覚が、こんな文章を書かせている一つの原動力なんだろうと思います。

 砂漠に散らばったがらくた――気に入ったものを拾ってまた遠くに去ってゆく。ネットの感想ブログというのはそんなフィクションを齧って進む人々の束の間の結節点なんだろうと思いながら、できるだけ続けていけたらな、と。私の感じた「面白い」(もちろん「つまらない」も)が、ほんの少しでも伝わることを祈って。

 それでは、今年もよろしく。

素晴らしい実写化:映画『夏、19歳の肖像』

夏、19歳の肖像 [DVD]

 島田荘司の映像化は、本邦でも近年になって多数作られているのだが、台湾で制作されたこの『夏、19歳の肖像』がたぶん一番いい出来だろう。原作を基本としながら、現代の話としてスマートフォンを有効活用し、サスペンス性やミステリ性を底上げして、原作の映画化というだけでなく、一つの映画作品としても非常に質の高いものになっている。島田ファンだけでなくとも一個の面白いミステリ映画になっていると思う。おススメである。

 主人公と彼がのぞく家に住むヒロインはもちろん原作準拠だが、その周りの人物などは新たにオリジナルな人物配置を行っているが、本筋としてはかなり忠実だ。そして、一九八五年の原作を二〇一八年に持ってくることで当然導入されるスマートフォン。これが原作のサスペンス性を壊さずに、むしろより謎や緊張感を増幅させていてその組み込み方が巧い。

 そして、原作の青春の過ぎ去ってゆく寂しさを描きつつも、後年の島田荘司テイストーーネジ式的なその先の希望のようなものを感じさせる終りになっていて、そこもまた個人的にはよかった。

 ただ、動機の部分はストレートに金銭的な後ろ盾のみになっていて、「家」や「土地」なるものの執着という部分はばっさりと切られていた。その辺は分かりづらい日本的な部分だったのだろうか?

彼らが“ぼくら”になる7日間:映画『ぼくらの7日間戦争』

 宗田理の『ぼくらの七日間戦争』といえば、ジュブナイルの金字塔で自分も小学生高学年から中学生の時にこの作品に触れ、シリーズを結構読んだ覚えがある。『ぼくらの魔女戦記』の一巻の最後あたりがたぶん一番好きだ。

 このシリーズとズッコケシリーズやかぎばあさん、エルマーシリーズといった児童書が自分の青春物語に対するイメージというか嗜好の核を作っているのは間違いない。もしかしたら、自分の青春は小学生中学生で止まっているのかもしれない……。

 まあ、それはともかく懐かしの作品が新しくアニメ映画としてよみがえるというわけで、期待半分不安半分というか、むしろ不安七割くらいで観に行ったのだった。ちなみに実写版は観ていない。

 観た感想としては、観て良かったというのがまず言える。確かに、批判評にはそれなりの正当性はあるし、何かが引っかかってそれが展開上論理的に解消されなければならないという観点から見れば減点だらけになるだろう。とはいえ、それでもこの映画は楽しいというか、ただの新海・細田フォロワーではない、独自の味を持ち得ていると思う。

 原作小説からは登場人物の名前から違うし、廃墟に立てこもるという要素ぐらいしか引き継いでいるものはない。その立てこもりも、自分たちの意志というよりは成り行きにすぎない。彼ら自身も二人、三人の繋がりはあるのだが、全体としてはあまりよく知らないクラスメイトの集まりでしかない。そんな彼らが、自分たちが密かに抱えた思いを解放することでようやく“ぼくら”になる、そんな映画だったように思う。

 なお、新海だ細田だとか、見た目であれこれ言いたくなる人がいるのは分かるが、実質、そんなに絵似てるだろうか……。見た目のリッチさはないが、ミニマムな堅実さ、的確さのある作画やレイアウトだと思う。特に彼らが立てこもる石炭工場の美術はとてもいいし、夜空に浮かぶコムローイ(ランタン)の光景や夜の空気感もいい。この映画、青春映画としての夏の青空はもちろんあるのだが、どこか彼らが身を寄せ合うような夜の光景が印象に残る映画ではないだろうか。

 あと、確かに前半部はスピーディーというにはあまりにも段取りをすっ飛ばしている感は否めない。ただ、それでも実のところ、とある女の子たちの気持ちのラインは最初からさりげなくもきちんと描写されているし、なんとなく集まっている、背景がほぼ語られないからこそ、彼らが隠していたもののを暴かれる瞬間が鮮烈になる部分はある。

 それからもうさんざん言われているように、いわゆる百合というやつが炸裂します。まあ、個人的に登場人物の関係性をジャンルとしてラベリングする言葉ってあんま好きじゃないんですが、とりあえず、この作品の一番の見どころは二人の女の子の秘めた思いのやり取りにあるのは間違いない。なのでそういうのが好きな人は早めに劇場に急ぐべきだろう。

 

あらすじ

  鈴原守はクラスであまり目立たない、本ばかり読んでいる少年だ。戦史好きという彼は、それを話し合える同年の友達がいるはずもなく、もっぱら同じ歴史マニアが集う平均年齢高めのチャット。そんな守るには気になる女の子がいる。隣に住む幼馴染の千代野綾だ。幼稚園の頃から一緒だった彼女の誕生日にプレゼントを贈る守は今度こそ、その時告白をしようと心に決めていた。しかし、その綾の誕生日一週間前に急に彼女が議員である父の都合で引っ越さなくてはならなくなったということを知らされる。

 せめて誕生日まではこの街にいたかったな――そうこぼす綾に思わず守は口にしていた。

「逃げましょう!」

 守の言葉に自分もそう思っていたと顔を輝かせる綾。誕生日を迎えるまでの7日、東京行きを強行する父から逃れてバースデイキャンプをしよう。閉山された石炭工場の跡地に集まったのは、守の他に綾が呼んだ四人。守にとって特に親しいわけではないクラスメイト達だったが、なんだかんだと楽しく過ごしていくことができそうな雰囲気に。

 そんな折、彼らは自分たち以外の誰かが工場内にいることに気がつく。マレットと名乗る不法入国の子ども。そしてそれを追ってきた入国管理官の二人組。大人たちから隠れ、社会の外側にいたはずのバースデイキャンプは、彼らの登場で守たち6人をのっぴきならない場所へと押し出してゆく。

 Sven Days War――彼らの自分自身を問う戦いが始まった。

 

感想

彼らが戦う理由

 この作品は原作を大幅にアレンジしていて、話自体は全然違うものとなっている。しかし、現代ならではの要素を盛り込んで、原作のスピリットを自問する形で「今、ここ」で語る七日間戦争とは、という制作陣の真摯な思いが形となった作品に結実した。

 まず、大きな違いとして立てこもる人数(原作ではクラスの男子がほぼ全員)とかがあるが、何と言っても特に仲のいいメンバーでやり始めているというわけではないところ。原作では大人に一丸となって抵抗する仲間たち、という前提があったが、本作の登場人物たちは、一応クラスメイトということや、友人、幼馴染、というつながりはありつつ、全体的には小さなクラスターの寄り合いでしかない。そして、彼らは特に進んで大人なるものに反抗しようとしているわけでもない。

 綾だって、結局は街やみんなと離れることは仕方がないとは思っている。ただ、せめて自分の誕生日を街で迎えたい、というささやかな願いがあるだけだ。そんな明確に戦うものがない彼らが大人たちを向こうに回して戦う理由となるのが、マレットという子どもの存在。不法滞在外国人という問題をはらんだマレットをその両親に再会させる――それが、彼らが戦う大きな理由となる。

 このマレットというキャラクターがなかなか重要な存在で、ある意味本当の「子ども」という存在でもある。高校生にしたことでも明らかなように守や綾たちは「大人」の部分もある。それは、体面のために嘘をついていたり、不正義だとわかりながらも見てみぬふりをする領域に片足を踏み込んでいることでもある。彼らは「子ども」であるマレットから見返される存在でもあるのだ。「子ども」たるマレットのお前たちも大人たちと一緒じゃないのか、という言葉が守たちをその場に踏み留まらせる。

◇お互いを知り“ぼくら”になる

 彼らの戦いは、目の前の大人との戦い以上に、自分の中の大人――やがて大人になってしまう自分自身との戦いでもある。そして、この作品の本領は、そのどこかのほほんとしていた彼らが隠していたものがSNSによってさらされるところから始まる。

 前述したが、前半部のあまりにも最低限の段取りでメンバーが集まることが、なんとなく楽しい思い出を作って終わり、という外見以上のものを持たないかに見えたメンバーたちの、その隠されたものがあらわにされる瞬間を鮮烈に見せている。もしかしたら時間や予算の都合もあったかもしれないが。さらにさんざん言われている新海誠の『君の名は。』や『天気の子』の二番煎じみたいな演出や牧歌的なジュブナイル風味が一気に覆り、この作品本来の顔を見せるという二重構造にもなっている。

 そして、自分たちが隠し裡に抱えていたものを共有することで、ようやく彼らは綾を中心にしたなんとなくの集まりから、一つの結束体――“ぼくら”になる。この映画は他人を知る、知ってもらおうとする映画なのだ。守は自分の気持ちを綾に知ってもらうと同時に彼女の気持ちも知る。自分の気持ちは通じ合うことはないかもしれない。しかし、それでも伝え合うことで彼らはお互いをかけがえのない“ぼくら”になれた。

 その後半部の転機となる暴露部分だが、守と綾は主役級の割には暴露される「裏」というものが特になく、終始ニュートラルで健全なキャラクターで、なんとなく集められたような残りのメンバーに強烈な「裏」があったというのもなかなか面白い構成だ。前半部は守や綾の周りにいるだけのような「仲間」たちに急に陰影がつく。中でも山咲香織というキャラクターは裏主人公と言えるくらいの内面が前半部から丁寧に織り込まれている。彼女の顔半分に影が差す演出はベタながらも的確に彼女のキャラクター性を描き出している。さり気ない部分も含めてその表情に要注目なキャラクターだ。

◇最後に

 今作は原作とは対照的に空が解放のモチーフとして描かれる。ラストシーンやコムローイを浮かべる場面。中でも告白を経て結束した彼らが二度目にコムローイを飛ばすシーンは挿入歌の「おまじない」を含めて印象的な場面だ。今作は青春映画の定番、青空よりもどこか夜の空のシーンが良いように思う。どこかしっとりとしたトーンの夜空に浮かぶ、彼ら自身の思いを込めたコムローイ。その開放のイメージがこの映画の本質を示しているような気がした。