蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

物語り続ける、その後姿に。

 『白鯨伝説』というアニメを知っているだろうか。一九九七年から一九九九年にかけてNHK衛星第二で放送されたSF冒険アニメで、監督は『ガンバの冒険』や『エースをねらえ』OVA版の『ブラックジャック』などを手掛けた出崎統。タイトルの通り、メルヴィルの『白鯨』をモチーフにしている。

 当時のNHK衛星第二はアニメをたくさん放映していて、ガジェット警部やスプーンおばさんを食事時に観ていた。そして、モンタナ・ジョーンズと並んでよく覚えているのがこのアニメだった。

 ぼんやりとご飯を食べながらテレビを見ていた僕は、まずはそのオープニングのカッコよさに引き込まれた。白くて太いタイトル文字が出ると、荒々しい線で描かれたイメージボードのようなキャラクターや世界がOP曲「風と行く」とともにゆっくりと流れてゆく。はっきりとは分からないけれど、真っ白な鯨だけは目に焼き付くそのOPは今でも好きなOPだ。

 そして、今見てもそのクオリティの高い第一話の冒頭。子ども心にすごいな、と思いあの神々しいまでの白鯨の姿に圧倒された。そして、語り手のラッキー・ラックをはじめ、エイハブ船長や仲間たちの生き生きとした姿に夢中になった。

 物語ははるか未来。人類は宇宙に拡大し、そんな宇宙バブルというべき時代の遺産として使い捨てられた宇宙船が宇宙をただよい、それを鯨取りと呼ばれる廃品回収業者たちが競って回収し金に換えている。そんな荒くれ者たちの一団の一角、エイハブ一味に押し掛けたラッキー・ラック。ラッキーの故郷、惑星モアドは新型惑星開発弾の実験場として住民の強制退去が連邦政府によって進められていた。そのレジスタンスに力を貸してほしいと懇願するラッキー。当然嫌がるエイハブだが、連邦政府側の戦闘戦艦についての話を聞いて態度を一変させる「そいつ雪のように白かったか?」そうエイハブは声を張り上げる。彼の脳裏に浮かぶのはかつて自分の片目片足を奪った因縁の相手、超巨大戦艦『白鯨』の姿。運命――そうと言いようのないものに導かれ、エイハブは再び白鯨にまみえるべく惑星モアドへと向かう……。

 ――てな感じの話なのだが、この作品、めちゃくちゃ総集編をやっていたことで有名で、またかーと思いつつ、それでも毎回欠かさず観ていたのだった。しかし、全三十九話の予定は結局二十六話に短縮され、制作会社は倒産し、第十八話でいったん打ち切りとなる。そんなすったもんだのあげく、虫プロ制作でようやく残りの八話が制作されて完結した。

 僕が残りの八話を視聴したのは結構あとになってから。DVDで視聴した。結局打ち切りみたいになって終わったという理解で、残りが制作されたことは知らなかった。だから、驚きとともに、その最後がどうなるのかという期待を胸にディスクをセットした。

 当時からたぶん十年近くたっていたと思うけど、変わらず彼らはそこに居て、そして変わらず面白かった。出崎監督は時間がかかっても物語を語り終えようとしてくれていた。いいぞ、すごいぞ、しかし、ラスト三話あたりからこれ終るんだろうか、という疑問が頭をもたげ始めた。あと二話、あと一話、これは……あとBパートしかないぞ……!

 そして、最終話が終わる。ギリギリ、終りの終わりまで、ペンを走らせるようにして出崎監督は物語り続けた。制作状況の悪化に伴う大幅な話数の短縮で、満足のいく形ではなかっただろう。実際、物語はエイハブ船長と白鯨の決着を語れるかどうかすら怪しくなっていた。そのあまりにも足りない余白にしかし、監督は――出崎統は物語を描き続けた。

 いろんな事情で最後がわやになるアニメは多い。そのまま低い点数になるくらいなら、いっそ0点を取るとか、答案用紙をビリビリにするとか、そういう「ずるい」やり方でインパクトを残す選択肢だってあるだろう。しかし、最後の最後までペンを走らせる。物語ることを放棄することなく、登場人物たちの姿を語り切ろうとすることを監督は選んだ。

 そして、僕はラストの壮絶な流れとエイハブの慟哭と同じくらいに、その監督の語り切ろうとする意志に心を動かされた。エイハブたちの物語は終わっていないのかもしれない、しかし、監督は全身全霊をもって語ろうとし、最後の瞬間まで彼らと向き合い、そして課せられた制約の中、物語なるものに立ち向かい続けた。

 白鯨伝説、その物語に焼き付いているのは、そんな僕にとっての物語る者の後ろ姿だ。

 

 

とりあえずこのゲロかっこいいOPと第一話を見てくればそれでいい。


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あの夏、終わってしまった何かに:映画『Summer of 84』

 閑静な郊外。そこには見知った穏やかな人々がいる――そういうことになっている。

 しかし、誰もその心の裡を知りはしない。お互いが本心を見せたりはしない中、ふと疑いを抱くとき、そこを覗くことは何を招くのか。

 この映画は、80年代のノスタルジックな、しかしどこか得体のしれない郊外の風景を描き出す。15歳の四人の少年たちの青春物語というに風にはじまった物語は、やがてどこかじっとりとした暗がりが彼らの周りに淀み、決定的な出来事が彼らを後戻りのできない場所へと押し流してゆく。

 なにかの“終り”とは唐突にやってくる。これはそんな映画だ。

 

あらすじ

 1984年、オレゴン州イプスウィッチ。ごく普通の郊外に住む15歳の少年デイビーは、仲間のイーツ、ウッディ、ファラディ、そして年下の少年たちとつるんで夜にかくれんぼをして遊んでいた。そんな中、彼は隣人の警察官マッキーの家に見慣れない少年が彼といるのを目撃する。不審に思いながらも、鬼に見つかり、そのまま遊びの中に戻るデイビー。

 しかし、彼はその後家でシリアルを食べるために手にした牛乳パック――行方不明者の目撃情報を呼びかけるために印刷された顔写真を見て、それがマッキーの家にいた少年であることに気がつく。

 イプスウィッチの近隣の街ではここしばらく同年代の少年たちが行方不明になる事件が多発していた。もしかしたらマッキーが何か関わっているのかもしれない。デイビーは仲間たちを秘密基地に招集し、マッキーを監視することに。どこか探偵団的な高揚感の中、彼らはマッキーの不審な行動を少しづつ明らかにしていったかに見えたが……。

 

感想

 隣人が殺人鬼かもしれない――そんな自分たちだけが気づいた世界の秘密についての、少年たちのひと夏の冒険。

 ――なんて思っていたら、最後にとってもイヤな気持ちになること請け合いですので、それを期待する人は『IT』とか見た方がいいです。

 確かに導入部分はそんな感じで少年たちの探偵ものっぽくはあります。少年たちは、UFOだのシリアルキラーだののゴシップ記事を自室に恥ずかしげもなく貼り付けているオカルトマニアっぽい主人公を筆頭にデブ、眼鏡、不良とかなりきっぱりとキャラ分けがされていて、そこに主人公の幼馴染の女の子が混じってくる。なんというかいかにもな感じ。実のところ主人公とデブことウッディ以外はあんまり深く描けてはいない感じなのですが、外見のキャラ分けがきっぱりしているので、見分けつかなくなることはなかったです。あと、主人公以外は家庭に事情がありそうなことだけはどことなく匂わせています。

 それにしても、前半部分はすごいです。何がって、猥談が。この少年たち、ものすごいエロガキで、ことあるごとに裸見てえ、ヤリたい、みたいなことばっかり言ってちょっと辟易します。80年代の15歳というものはこういうものなのか、そもそも15歳の少年とはこういうものなのか。とにかく、中年の猥談好きなオッサンとはこれがこのまま年を取ったんだろうなあ、とは思いますが。

 とはいえ、このやたらと飛び出す少年たちのエロトークというものは、ある意味平和な瞬間の象徴みたいなところがあり、それは後半にかけてスーッと引いていきます。

 この映画、みんなで殺人鬼らしい隣人の証拠を探そうぜ、というノリで進んでいき、恐怖の瞬間を迎えつつも、ある意味少年探偵団ばんざーい、な展開を迎えはするのです。が、最後の最後に付け加えられたいわばエピローグのような部分によって一変します。なんというか、じっとりとした恐怖の感覚が観る者を捉え、そして何かが決定的に終わってしまった感覚を残して映画は終わるのです。

 その終わりの感覚というのは、青春の終わりというより、主人公の人間関係の終りみたいな感覚があります。少年たちは通過儀礼として思春期をくぐり、青春を終える――そんな定型的な青春物語からはどこか永遠に脱落してしまったような、そんな感覚。

 主人公デイビーに唐突に振るわれた終りの刃は、仲の良かった知り合いたちの結びつきをあっという間に断ち切り、そしてそのまま終わってしまう。幼馴染は去り、路でかつての秘密基地を解体する親友たちと目を合わせてもそのまま通り過ぎてしまう少年の姿。

 そしてラストは冒頭と同じく新聞配達をするデイビー。犯人からの“呪い”を受けつつも日常に復帰しているかに見える彼ですが、彼の「隣人」たちはすべて何を考えているか分からない人達になっている。

 人は決して本性を見せない。そんな街で、彼はこれからも生きていく。そうするしかないのだ。

魂の行方:筒城灯士郎『世界樹の棺』

恋を成就させたいのに自ら失恋に向かっていく人も……世の中にはいると思うんです。

世界樹の棺 (星海社FICTIONS)

 今年の本格ミステリで一番好きかもしれない。そんな作品に出会えました。まあ、なんというか波長が合う、完全に好みに合致した感じなので、広く勧められるかというと、ちょっとわからなところはありますが。とにかく、私は面白いと思ったし好きですね。

 著者はあの筒井康隆が書いたラノベビアンカ・オーバースタディ』の続編を第18回星海社FICTIONS新人賞に送ってそのまま受賞しちゃったという、なんかすごい経緯の作品、『ビアンカ・オーバーステップ』でデビューを果たし、今作が第二作目となります。SF方面の人かと思ってましたが、本格ミステリのセンスも十分あるようです。必要な情報が出そろってからの、“読者への挑戦”もあり、それに見合うだけの推理がきちんと待っています。本格ファンとしては、読み逃してはならない作品だと思いますね。おススメです。

 本作は、一見してファンタジーな世界でSFな要素を絡めつつ、密室殺人を中心にしたミステリ――かつ、ミステリとして収束することがより大きな世界のビジョンを解放する形になっていて、それぞれのジャンルが絡み合って、一つの物語世界を構築しています。

 基本的にミステリ読みの自分としては、謎解きによって人の外、もしくは内側の世界を一変させる、今まで観ていた世界を越境すること――そういう要素が好みなので自分の琴線にめちゃくちゃ刺さりました。

 おぞましさも、哀切さも、すべて飲み込んで、彼女の日常は続いてゆくのだろう。天国と地獄が重ね合わされたような読後感はなかなか後を引きますし、この物語の構造は、一読だとなかなか全容をつかみづらく、再読することでより詳しく理解したいという欲求が起こります。そして、もう一度初めから読んでみることでより理解が深まるところがあると思いますので、再読必至な物語と言えるでしょう。

 あと、この作品はいわゆる百合というやつです。壮大すぎる百合なので、百合好きはマストバイ。百合ミス好きはこれを読む&推さない手はないと思うので、それを自任してる人たちはぜひぜひこの作品を読んで広めて欲しい所です。

あらすじ 

 とある小国で恋塚愛埋はメイドとして仕えている。ある日彼女は”相棒”のハカセとともに〈古代人形〉たちが住む〈世界樹の苗木〉の調査に出向く。これまで交易していた〈古代人形〉たちが何故か姿を消してしまったというのだ。世界樹を調査し、交易屋を探せ――それが国王が二人に発した勅令だ。〈古代人形〉たちが中に入るのを禁止していた内奥へと足を進める恋塚と博士。彼らはそこで、棺を運んでいる少女たちと出くわす。

 彼女らの住処に案内された恋塚と博士。〈古代人形〉の行方は少女たちも知らないらしい。恋塚らの街に住んでいたという少女たちは、なんとなく気がついたら、苗木の中の館で暮らしていたという。守衛がいるはずの関所をどうやってくぐったのか……彼女らを不審に思いつつ、すすめられるままその館で一夜を過ごすことにする恋塚とハカセ。そして事件が起きる。年長で一人だけ名前すら明かさなかった茶髪の女性が殺され、しかも入り口の鍵がなくなり、彼らは館に閉じ込められてしまう。事態の打開を図る恋塚とハカセだが、やがて第二の殺人が。

 事件を解明しようと乗り出す恋塚とハカセは、館に隠されていた世界の秘密にふれ、ついに二人は事件の真相に到達する。そして、よりおぞましい世界の「真実」が姿を現す……。

 

感想

 お姫様とメイド(恋塚)のパートとメイド(恋塚)とハカセのパートがカットバックで語られていくわけなのですが、一国の存亡がかかる不穏な空気が横溢するお姫様パートと、密室殺人を中心にしたミステリのパート。二つのパートはそこにまたがって登場する恋塚をはじめ、どこか共通する部分がありながら、しかし何かが決定的に違う違和感を纏い、それぞれの物語は進んでゆきます。その二つの物語は、一体何なのか。それを結びつけるのが、恋塚とハカセが遭遇した殺人事件です。人間そっくりの〈古代人形〉なのではないか、という疑いがぬぐえない六人の女性たち――殺されたのは、殺したのは、果たして人間なのか、古代人形なのか。

 まず、この古代人形という人間そっくりの存在と、そこに組み込まれた特殊設定が作り出す事件はがっつり本格ミステリなロジックが支えています。恋塚とハカセは一つ一つ仮説を組んでは状況に否定され、試行錯誤しながら真実に迫ってゆきます。その過程が面白くできていてよい。メインとなる第二の事件は、一見何てことなさそうな状況ですが、証言や状況を整理することで、簡単に見えた事件が密室殺人へと謎が深まってしまうという展開で、とてもいい。こういう何てことなさそうな所から謎がより手強くなる演出は、著者にきちんとしたミステリのセンスがあることをうかがわせます。そして、上手くいくかに見えた推理が、あと一歩およばず、真実がすり抜けてからがまた、ワクワクさせられます。

 本作のミステリ部分は特殊設定を軸にしたものですが、その設定を特殊なロジックというよりは、ごく当たり前の人間のレベルに落とし込んで展開させ、状況を再構成しつつ真相を明らかにしていきます。状況の理由がパズルのピースがハマっていくように再構成されてゆくさまがとても気持ちいい。

 そして、事件が解決されるとともに、もう一つのパートである、姫とメイドのパートが大きな意味を持ってきます。帝国が狙う世界樹の棺、それを持ち出した彼女たちの逃亡劇の果て。棺の中にある物が姿を現し、それまでの物語の「真実」が姿を現します。このスケール感がすごく、物語が統合されることで、新たな物語が顔を出す構成はある種のカタルシスがあり、本当に素晴らしい。前述しましたが、事件の謎ときが世界の謎ときに連動して、読者が物語を越境する感覚は個人的に大好物なので、大いに堪能しましたし、そういうものが好きな人に特に勧めたいところです。

 

 

※ 以下はネタバレ込みのメモみたいなものなので、特に目を通す必要はないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミステリ的には、 犯人を見たけど憶えていない、という京極夏彦の作品をSF的な解釈で成立させた作品でもあるだろう。

人形の機能

 ●〈創造主の安眠〉:アンドロイドが自分のことをアンドロイドではなく、人間だと思い込むこと

●〈ケッコンシステム〉:人間の魂をアンドロイドに移すシステム。

人間から人形に魂を移し替えられる。人形から人形も可。

魂を移し替えられた人間+人形は「人間」としてふるまう。

 

◇恋塚ーハカセパート (以下ハカセパート)

時系列:以後(おそらく)

キャラクター

恋塚ー人形(姫の魂) 博士ー人形(旧世代のメカ) アンリ(人間) インビ(人形) ウロン=吸魂の巨人 フメイ(人形) ホノカ(人形) グレイ(人間:帝国兵)

 

◇恋塚ー姫パート (以下姫パート)

時系列:以前(おそらく)

キャラクター

恋塚=人形(姫の妹の魂)姫(人間)ハカセ(メカ?)ラインハルト(人間?) 長(?)

 

  ■恋塚の流れ

  1. 恋塚はもともと、人工呼吸で姫の妹を助けようとした際に、姫の妹の魂を取り込んでいる。
  2. 姫パート(以前)に棺から出てきた吸魂の巨人(ウロン)に魂を捧げて帝国兵の殲滅を願う。吸魂の巨人は魂をエネルギーに力を使うため、恋塚の(姫の妹)魂は消滅したと思われる。
  3. その後、姫が恋塚の抜け殻にキスすることで、恋塚(姫の魂)になった。P303:「そのときは、しょうがないから、『眠れる森の美女』みたいに、わたしがあなたの王子になって、キスしてあげるわ」

 

気になる点

クリスタルの短剣:姫パート(以前)で壊れているが、ハカセパート(以後)では恋塚が変わらず磨いている。恐らく、人形の恋塚が壊れていると認識せずに「いつもの通り」磨いている。つまり、以前と以後で恋塚の中身(魂)が入れ替わっているということか。

傘山教:空を覆う赤いカーテンを遮断して、通常の空を見せているらしい。帝国の首都にあるらしいので、帝国もやはり、人間多数の国家なのか。

世界樹の苗木の長:こいづかと名乗る彼は何者だったのか? 個人的には一番の謎。彼は何者だったんだろう。彼の「血」が剣を急激にさび付かせているため、人間とは思えないが……。恋塚シリーズというか、“恋塚”というのはメーカー名なのか?

世界樹の木の苗木からなぜ〈古代人形はいなくなったのか〉:世界樹で交易していた方が人間だった? 外の人形たちに魂を移すことでいなくなった?(それだと死体が出ていないのが奇妙だが)

インビら6人はどうやって世界樹の苗木の中に入れたのか:グレイはもともといたとしても、残りの五人はどうやって門番を通過したのか。

なかなか説明が付けづらい所もあるので、正直他の人の解釈を読みたい。あと、ここ読み落としてるよ、という指摘があればぜひお願いしたいです。

 

 あと、二度目の巨人兵器との戦い、ということなのだが、果たしてそれは本当なんだろうか。もしかしたらこれを繰り返しているのではないか? 例えばマトリックスのシステム化されたザイオンのような。恋塚とハカセのフェーズは果たして何番目なんだろうか……という思いもよぎるが、正確なことは分からない。

狂気が見た白昼夢:映画『まぼろしの市街戦』

 

  名前は聞いていたけど、観たことがなかった映画。今回、デジタル修復版が出て、気軽にに観れるようになって、ようやく鑑賞を果たせました。

 あらすじ

 第一次世界大戦後期、ドイツ軍が占領していたとあるフランスの町。劣勢により、ドイツ軍は街を撤退することにするが、彼らの後にそこを占領することになるイギリス・スコットランド軍を吹き飛ばそうとコンクリートで固めた火薬庫に時限装置の仕掛けを施す。街のレジスタンスがそれを察知し、連絡を試みるが、肝心の仕掛けについて言及する前に撃たれ息絶えてしまう。

 街に爆弾があることはわかった。しかし、それがどんなものなのかは分からない。イギリス・スコットランド軍は、爆弾の詳細とその解除のために、一人の通信兵を街に先行させることにする。フランス語が喋れるということでその任務にあてられた二等兵プランピックは、相棒の伝書鳩を入れた籠を片手に街へと向かう。

 街はドイツ軍が撤退し、住人達も避難した後でもぬけの殻のようになっていた。しかし、まだそこに残された人々がいた。精神病院に残されていた人々だ。街に潜入したプランピックは、最後まで居残っていたドイツ兵らに追われ、その精神病院に逃げ込み、なんとか彼らをやり過ごす。その際、名前を問われてハートのキングと答えたところ、それを聞いていた精神病院の人々に王として担ぎ出され、人のいなくなった街でパレードを行いながら教会へ向かい、戴冠式を行うことに。

 ひたすら戸惑うプランピックだが、自身を王と無邪気に慕う彼らや一目ぼれしたコクリコという少女たちとの、戦争から無縁なひと時を楽しむようになり、また彼らに親しみを抱く。

 街に仕掛けられた爆弾の存在するところは判明するが、それを起爆させる時限装置は分からない。ただ、起爆するのは恐らく日付が変わるころだとは判明する。とりあえずみなを街の外に連れ出そうと煽り、先導するプランピックだが、彼らは街から出ようとしない。街の外には野獣がいる、そう彼らは主張し、戻ってしまう。そんな彼らを見て、プランピックは一人で出ていこうとするも、出来ず彼もまた街へと戻る。最後を彼らと過ごそう――プランピックはそう決心する。

 最後の夜、彼はコクリコと過ごす。時間はあと三分。「無限の三分だわ」そう言うコクリコに微笑むプランピック。しかし、その次に言ったコクリコの言葉が、ついに彼に起爆装置の場所をひらめかせる。そしてプランピックはその場所――騎士が鐘を叩く時計塔へと走るのだった。

 

感想

 戦争というのは、巨大な精神病院みたいなものなのだ。この映画は、そう言って戦争を嗤う。チャップリンの『独裁者』は文字通り独裁者を嗤いのめしていたが、ラストの戦争についての演説はかなり真面目だ。それに対してこの映画は最後まで戦争を嗤い続ける。

 戦争という非日常が日常に変わり、異常は正常へと変わる。そんな中でも精神病院に閉じ込められていた「異常者」たちは、街から彼ら以外がいなくなることで、戦争という異常の空白地帯になった街に出る。戦争という日常にぽっかり空いた平和な街という非日常な場所は、そっくりそのまま患者たちのいる場所となる。

 患者たちは、その街で思い思いの服装を着て街の中でパレードを行う。司祭や伯爵、将軍や娼館のマダム。そして主人公は王様の格好。どこか古臭い格好だ。そして、どこかサーカスめいた雰囲気も漂う。実際、クマやチンパンジー、ライオンといったサーカスの動物たちが闊歩していたりする。あくまでそこは「非日常」の場所なのだ。

 プランピックは、兵士という服装を王のそれで上書きされることで、街の人々の中に入る。そして、いったん兵士としての自分に戻るが、それを捨て去り何者でもないプランピック自身として、彼らの中に入ってゆく。世界が狂気と化した時、狂人の居場所とされた場所が、まともな場所として逆転する。殺し合いをする方がよっぽど狂っている。最後に素っ裸のプランピックが、精神病院の鉄柵の前に鳥籠を持って佇む姿はすごく象徴的だ。その鳥籠の中に入っているのは“平和”の象徴であるハトなのだ。

 狂人たちに呆れられる世界は、しかしその後、史実として第二次世界大戦というより悲惨な狂気を呼び込むことになる。精神病院のなかに帰れた人々も、やがて、彼らこそ率先して迫害され、収容所という狂気の中の狂気へと追いやられるだろう――この映画の冒頭で出てきた滑稽な「伍長」によって。歴史のことを考えると、この一瞬だけ現れた白昼夢のようなその光景のはかなさが、一層際立つような気がして、美しく滑稽だけどどこかやるせない思いもまた、押し寄せてくるのだ。

 それにしても、戦時中に突如出現する祝祭空間の雰囲気はすごくいい。CGとかではなく、実際にある街並みと人々の衣装と音楽によって、どこか不思議な空気感が醸成されていて、その白昼夢感がたまらない。そして、美しさを感じさせるカメラ。その何とも言えない映像を観るだけでも見る価値はある。というわけで、観ていなければぜひ。

相反する世界の接触面:半田畔『科学オタクと霊感女』 -成仏までの方程式-

 科学オタクと霊感女 ?成仏までの方程式? (LINE文庫)

 

 囚われる――人は何かに自分の意志を制限される。それは言葉だったり、過去の過ちや願いや希望だったりする。何かに囚われていることは、自由ではないというふうに見られがちだ。だが、何かに制限されることが、その人を形作っている、その生き方を縁取っているということは往々にしてある。というか、実のところ人は何かに囚われることで自己を形成している。

 この小説は、そんな何かに囚われることについての物語だ。科学オタクである浮島華や霊感女である四ツ谷飾をはじめ、彼らが出会う幽霊たち――彼らは何かに囚われている。

 過去の出来事によって科学を信奉する浮島華と幽霊が見え、触れることで他人にもそれを見せることができる四ツ谷飾。彼女たちがバディを組んで、死してなお幽霊として彷徨う人々が囚われた心残りを科学を用いて解消してゆく、というのがこの小説の大筋だ。

 とにかく、御託は抜きにしてまずは面白い。色々な要素が詰め込まれているが、その要素に寄ったジャンル小説というよりは、それらをうまく均等に融合させたエンターテインメント小説という感じだろうか。章ごとが短編という形式を取りつつ、一、二、三、四&終章が起承転結にきっちりと組まれ、物語全体を傷を与えたものと受けた者が手を取るまでのお話として構成してあり、かなりきちんと組み立てた小説となっている。あと、基本的に華と飾の会話劇が面白いので、それを追うだけでも楽しい。

 それから飾が他者に触れると幽霊を見せられるというギミックが、女の子二人を物理的にくっつけられるという方向に色々と生かされていて、いわゆる「百合」な雰囲気を作る理由付けとしてなかなか巧いな、と。

 

あらすじ

 「幽霊なんているわけないじゃん。適当なこと言うな」

 その言葉に、浮島華は囚われたままだ。小学生の時、華は屈託なく人と触れ合う人間だった。ある時、彼女は家で男の子の幽霊を目撃し、それをクラスメイトに話したところ、普段隅で本を読んでいる女の子が言い放った言葉――それをきっかけに、華が幽霊を見たという話は、彼女が人気取りに嘘を言っているとみなされた。華はいじめられ、孤独になった。自分をそのような境遇にした原因である幽霊。そんなものを信じたばかりに自分はこんな目にあった。だから幽霊を否定するため、彼女は科学にのめりこむ。それ以来、友達と呼べるものは、彼女には存在していない。大学に入り、たった一人の科学研究サークルに半ば引きこもるようにして実験に明け暮れる華。

 しかし、このままサークルが一人では閉鎖処分になると、同大学教授にして叔母の杏子から宣告され、しぶしぶ勧誘活動を行う華。テーマは「幽霊」。サークル説明会にて幽霊は存在しないと一席ぶつ華に、一人の女子が反論した。

 「幽霊はいるよ」四ツ谷飾という名の短髪で明るい髪色をした、華とは雰囲気が正反対の女子はなおも幽霊は存在すると主張する。「幽霊を見せてあげる」そう言って彼女は華の腕をつかみ、そして華は自分のその後を規定した“それ”に、ふたたび対峙することになる。

 

感想 ここから先は、ネタバレ込みですので、そのつもりで。

 

 科学と幽霊。対立するはずのそれを幽霊の存在を前提としたうえで、その幽霊たちが抱えるものを科学で解決するというのはなかなか面白い。幽霊たちの心残り、その執着部分をミステリ要素の核として展開しつつ、それを科学で詰めていく。とはいえ、結構丁寧というか、ことさらミスリードしたりするわけではなく、ストレートな形で物語は進む。あくまでこの物語は二人の女子大生が幽霊の成仏を通して自分たちの囚われているものに対峙し、そして彼女たちがお互いの距離を縮めるお話だ。

 前述したように幽霊だけでなく、生きている華や飾もまた、何かに囚われて生きている。華はかつての飾の言葉に、飾は彼女の祖母に。そんな自らも囚われている彼女らが、成仏できない幽霊たちが囚われていることを解消することで彼らを解放してゆく。

 幽霊たちは囚われたままだと、その囲われた人という文字通りにやがて動けなくなり、一つの場所で暴れる凶悪な霊と化す。そうなる前に何とかしなくてはならない。そういうある種の時間制限付きの緊張感も少し組み込まれていて、エンタメ的な目くばせに抜かりがない。

 基本的には飾が幽霊たちを見つけ出し、華が科学によって幽霊たちを解放する。幽霊現象は実は科学で解明できるとか、科学では推し量れない幽霊だとか、そういうものではなく、厳然とある幽霊という存在を科学によって成仏に導く。どちらかがどちらかを飲み込むのではなく、相反するものが接することで、問題は解決してゆく。最終話などは死者と生者が純粋に触れ合う形で解決する。そしてそれは、相反する性格の華と飾も同様だ。異なるものが接触すること――それが一つの希望として描かれる。

 また、幽霊たち――つまり死者は囚われることがなくなることで崩れ去る。あたかも細胞膜が崩壊して死にゆくように消え去ってゆく。しかし、生者は囚われることで自己を形成し、そのカタチで生き続ける。第三話の“幽霊”琴吹七音は、失った自身の声と向き合いながら生きてゆくことを選んだ。それはなくしてしまった声と夢を抱えたまま生きることでもある。華や飾もまた、自分たちをそういうふうにしたものを抱えながら生きてゆく。華はかつての言葉を発した飾につきまとわれ続けるし、飾は祖母の霊がいなくなっても幽霊たちは見え続けるし、幽霊を追うことも止めない。

 死者たちのように解放されるのではなく、自分たちを縛ることになったものの延長に触れながら、彼女たちはこれからも生きてゆく。そして、彼女たちがお互い接触することで生まれたもの、それがまた彼女らの新たな生き方を形作るのだ。

 

野村亮馬『インコンニウスの城砦』

インコンニウスの城砦 (馬頭図書)

 

あらすじ

  氷期を迎えつつある惑星。少しでも温暖な赤道面を巡り、世界は北半球と南半球に分かれて争っている。「深い湖」のカロは、孤児院から南半球側の密偵に志願した少年だ。彼は北半球側が建設中の56号移動城砦――その地下工廠に潜り込み、そこで見聞きした情報を持ち帰る任務に就く。

 燃素管動作試験助手として首尾よく潜りこみ、同じ密偵で指導係のニネット、先輩のニドらとともに密偵としての日々を過ごすカロ。56号移動城砦の情報を探る彼ら南半球側は、同時に城砦攻略のためのゴーレム――戦略巨像を建設中であった。カロからの報告が、戦略巨像の仕様を決定づける。

 両陣営ともその兵器を着々と建設してゆく。そして、カロたちが潜む街に北半球の皇帝、インコンニウスが凱旋してくる。移動要塞が起動する日が近い。カロたち密偵たちは来るべき戦闘に向けて動き出す。そして、同じように北半球側もその動きを察知していた……。

 

感想

 なんというか、まずその世界観に魅せられる。緻密に描かれた、少し絵本のおとぎ話のような雰囲気。北と南に分かれているわけだが、北側は魔術を科学に援用しているような国家で、南側は北側が掠め取っている魔術の大元たる神人たちが支援している国家という感じだろうか。北側の科学と魔術が混交している感じがとても面白く、特に物語の根幹にある燃素管――召喚魔術を故意に失敗し続けることでその神からエネルギーを掠め取っているという要素は、その世界を象徴している。あまりはっきりとは語られないのだが、北と南の人間同士の争いの他に、魔術を不正に使う人間とそれをよく思わない神人との対立があったりして、物語に深くは関わらないが、そういうさりげない二重構造が作品世界の奥行きを感じさせるものとなっている。

 物語そのものとしては、密偵として移動要塞で働くカロという少年を中心に淡々と進む。カロはあまり感情を表に出さない。カロと深く関わることになる指導&監視係のニネットも笑みを見せることなく、硬い表情で敵情を探るという緊張感の中、カロをじっと見つめるのみだ。そのぶん、先輩のひょうきんなニドやカロが助手として付く仕事場のサグマ老人たちが、その緊張で凍てついた物語に少し明かりをともすような存在となっている。

 そして、だからこそどこか冷たいカロとニネットの二人の姿が印象深く浮き上がってくる。ニネット――眼鏡の奥で厳しい目をした女は、カロを世話しながら密偵としてのカロを監視している。裏切るな、彼女はカロにそう繰り返す。彼女の過去は詳しくは語られない。しかし、裏切りによって多くの仲間を失ってきたことは伺える。はたからは姉弟のように見えながら、しかし、二人の距離はあくまでつかず離れずのまま、取り立てて通じ合うような描写ははっきりと描かれない。しかし、その二人の微妙なあるかなきかの、視線を交わしてはそのまま通り過ぎてしまうような関係性が、この漫画の核のような部分だ。

 カロもニネットも特に内面を言葉や心の声で吐露するような場面はない。しかし、微妙な仕草は描かれている。それぞれを見る視線や一人の時の表情。そんな彼らのかすかな機微をたどり、物語はあくまで静かに、だが決定的なカタストロフを経て、憎悪の目を向ける者、そしてそれを受け止めるしかない者が交錯し、彼らを取り残すようにして物語は終わる。

 鮮烈というよりは降り積もる雪のように、堆積するしかない何かを見ているような終わりが読者に訪れる感覚。どこかやりきれなさを含んだ、しかしとても印象深い物語だったと思う。個人的にはなかなか言葉にしがたいものが描かれていて、とても好きなタイプの漫画だ。

ライミ印の笑えるホラー:映画『スペル』

 サム・ライミ作品。『死霊のはらわた』を観れば分かるが、彼のホラーはきちんとしたホラー演出で驚きつつも観てるうちになんだかドツキ漫才というか、スプラスティックコメディめいた展開になっていき、ついには恐怖よりも笑いが先に来るようになるのだ。

 この映画もまた、そういうライミ印のホラーコメディとなっている。怖いの苦手という人も結構楽しめると思うので、迷っていたらぜひ。あ、でも視覚的にキタナイ描写は結構あるよ。

 

あらすじ

 クリスティン・ブラウンは銀行で融資を担当している。彼女の目下気がかりなことは、いまだ空席になっている次長の椅子。支店長はクリスティンの可能性が高いと言ってはいるが、アジア系男性の同僚スチュにも目をかけているようだ。クリスティンは積極的にアピールする。彼女には大学教授の交際相手がいて、結婚を前提に考えている。しかし、彼の母親はもっとふさわしいキャリアを持った女性を望んでいる。ここはどうしても確かなポストが欲しい。しかし、支店長はすかし、曰く決断力のある者が望ましいというのみだ。日々、焦りを募らせるクリスティン。そんな彼女の前にローン返済の期限を延ばしてほしいという老婆が現れる。ハンカチに痰を吐いたり入れ歯を取り外したりでなんだか、あまりいい感じのしない老婆。クリスティンは支店長に相談するが、支店長は彼女の判断に任せるという。決断力……次長の椅子……クリスティンは意を決し、支払期限の延長を拒否する。家を奪われることに老婆は絶望し、クリスティンに嘆願する「どうか、どうか家を奪わないでちょうだい、あたしゃ行くとこがないんだよ!」ついには頭を下げる老婆。異様ともいえる狂態にクリスティンは警備員を呼び、老婆を連れ出してもらう。「こんなに頼んでいるのに! あたしに恥をかかせたね!」絶叫する老婆。

 その場は事なきを得たかに見えた。しかし、仕事が終わり、地下駐車場に出てきたクリスティンは異様な空気を感じる。いぶかりながらも車に乗り込んだ彼女の後ろに異様な影が映る。あの老婆が潜んでいたのだ。取っ組み合いになる二人。ついに老婆はクリスティンのコートの裾のボタンをちぎり、呪いの呪文を唱える。三日後にお前は地獄に行く、そう言い残して老婆は姿を消した。

 その後、恋人に連れられ帰宅する途中、クリスティンは導かれるように、霊能者の看板を目にし、ドアをくぐる。心理学教授の恋人ははなから疑いを隠さないが、クリスティンを視たその霊能者ラム・ジャスは態度を一変させ、お代は結構と彼らを追い出した。不安を募らせるクリスティン。そしてそれはやってくる。彼女に憑いたモノ――ヤギの角を持った悪霊――ラミアは部屋にいた彼女を襲い、壁にたたきつけて風のように去っていった。それからなおも彼女に襲い来る悪魔の影そして悪夢。クリスティンは許しを請うため老婆の家に急ぐが彼女はすでに死んでいた。

 最後の手段として霊能者ラムのつてをたどり、かつてラミアと対峙した霊能者サン・ディナにすがるクリスティン。サン・ディナによる除霊は果たしてクリスティンを救えるのか。悪魔を迎え撃つ、その夜が訪れようとしていた……。

 

感想

 ようやく観たのですが実にサム・ライミらしいホラーでした。私は『死霊のはらわたⅢ』こと『キャプテン・スーパーマーケット』が大好きなのですが、あれほどハチャメチャではないにせよ、思わず笑ってしまうシーンが目白押し。もちろん、ホラーという軸はしっかりとあるので、そういう恐怖演出はしっかりとあります。

 サム・ライミのホラーというのは、一風変わった感じというか、ガチで怖がらせるというよりは、幽霊とか悪魔とかが積極的にぶん殴りに来て(そう、呪いがどーとかよりもライミの霊はドツキに来るのだ)、そうやってぶん殴られているうちに、どこか思わず笑ってしまうようなドタバタ感が浮き上がってくるのがミソ。「死霊のはらわた」シリーズだと、アッシュが死霊に吹っ飛ばされてどっかにぶつかると頭に何か落ちてくるとか、右手に悪霊が取り付いて、自分の右手にどつかれて格闘し出したりと、サイレントちっくなドタバタがいつしか恐怖を塗り替えてゆくのです。

 この映画もそんなライミの味が詰まったホラーとなっています。この映画の呪いの主体であるのはラミアという悪霊なのですが、それを食うほどのインパクトを持つのがやはり冒頭の薄気味悪い婆さん――ガーナッシュ夫人。死んでからもクリスティンの悪夢の中に登場してはキタナイものをクリスティンにぶっかけます。しかし、ほんとクリスティン役のアリソン・ローマンが体を張ってるというかなんというか(大体CGだとは思うけど)……鼻や口に蠅が入るは、チェンソーマンの主人公張りにゲロやそれに類するものを口に注がれるは、あげく老婆のフィスト(拳)が口に……。もうめちゃくちゃですので、そこを眉をしかめるかゲラゲラ笑えるかが、この映画を楽しめるどうかというところ。

 流血シーンは一応ありますけど、ヒロインの漫画みたいな鼻血ぶーから、ゲロみたいに血を吐くシーンですので(しかも人にぶっかける)ちょい引くかもしれませんが、結構笑えるシーンとしての流血デス。

 主人公のクリスティンは、ちょっと理不尽な感じで呪われて、なんだかんだでひどい目に合うヒロインというふうに一見見えたりして、最後の最後はちょっとヤな感じになる人もいるかもしれませんが、全体はあくまで彼女の主観でしかなく(特に老婆は悪い人ではないのだ。彼女から見たらなにか汚らしい感じに見えているだけで)、引いてよく観るとこのクリスティンもなんか自己中なヤな奴なのでは? という感じに見えてきて、果たしてただただかわいそうな子ヤギなのかどうなのか。ホントの姿はどんなものか――そこも注目して観るといいかもしれません。なかなか怖くて笑えて、味のある映画だと思います。

 サム・ライミはやっぱこういう感じが好きだな。