蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

透明感のある幻想:オブライエン『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』

 

不思議屋/ダイヤモンドのレンズ (光文社古典新訳文庫)

不思議屋/ダイヤモンドのレンズ (光文社古典新訳文庫)

 

 

 フィッツ・ジェイムズ・オブライエン。彼はなかなか破天荒な一生を送った作家で、アイルランドコーク州で生まれ、父親と母方の祖父の遺産を相続したのち、ロンドンやパリで放蕩三昧を尽くし、わずか二年半で八千ポンドの財産を使い尽くしてしまいます。貧困に陥った彼はロンドンでかねてからやっていた文筆活動に本腰を入れ、雑誌の編集なども行いつつ、知人の紹介でニューヨークに渡ると、そこで十年間執筆活動を行います。初めは友人の俳優ジョン・ブルーアムの編集する「提灯(ランタン)」という雑誌に寄稿していましたが、やがて出版大手の「ハーパー・ニュー・マンスリー・マガジン」や「ハーパー・ウィークリー」に作品を発表。「イヴニング・ポスト」や「ニューヨークタイムズ」などの新聞にも寄稿し、友人の喜劇俳優のために戯曲なども描き下ろしたりします。

 しかし、アメリカにわたってからも奢侈が抜けきらず、その贅沢な暮らしぶりをさして高いわけではない原稿料では支えきれず、やがてロンドンの時と同じように貧困に陥ります。下宿を追われて友人宅に転がり込んだり、借金を繰り返して友人たちと不仲になったり、拳闘家に殴られてケガをしたり。しかし、それでも彼は並外れて元気で、友人にとって愉快な仲間であり続けました。

 そんな持ち前の明るさで目の前の暗雲を吹き晴らしていたオブライエンの前に南北戦争が勃発し、彼はその中に飛び込んでゆきます。そして1862年、2月16日、敵方の将校と一対一の決闘とをして相手を撃ち殺したものの、自分も左肩を打たれ、致命傷ではなかったものの、その後の治療が適切ではなく、そのまま亡くなってしまいます。34歳でした。そんな夭折した作家は死後埋もれたままでしたが、ポーの後継者として今では評価されています。

 オブライエンの作品は、その影響を受けたとされるポーの作品同様に美しい怪奇性に満ちています。一方で、ポーの流れを汲みつつも、オブライエンの作品は独自の魅力を放っています。それは、訳者の解説が“妖美”と表現していますが、妖しさの中に、どこか透明感のある、そんな感触。ポーがどこまでも暗がりに沈んでいくような仄暗い妖しさに対して、オブライエンの短編はどこかに明朗さが残っているように感じられます。あと、当時の科学的な(あくまで当時のですが)見地を取り入れていて、その今から見るとメスメリズムなどの疑似科学がかもしだす幻想性も見どころかもしれません。

 とにかく、どれも幻想や奇想に満ちた短編ですので、興味があるならば読んでみることをおススメします。

 個人的に好きな短編を挙げるとするなら、やはり表題作の一つ「ダイヤモンドのレンズ」でしょう。そこには幻想や、SF、オカルト、ミステリといった諸要素が混然となって、ある美しい光景を紡ぎ出す。その物語の美しさの結晶といってもいい短編は、せめてこれだけでも読んでほしい一作です。

 あと、ミステリ者として注目したいのは、この作品の中で「密室殺人」が描かれている点です。密室ミステリは、ポーの「モルグ街の怪事件」(1841年)を嚆矢としていますが、そこから直近だとドイルの「まだらの紐」、ザングウェルの『ビッグ・ボウの殺人』(どちらも1892年)まで、結構間隔があいています。1858年発表のオブライエンのこの短編は、密室の謎を解く話ではありませんが、ダイアモンドを手に入れるため、自殺に見せかけて持ち主を殺し、機械的なトリックで外から鍵をかける場面が描写されます。ポーの事件が不可抗力だったことを考えると、意図的に密室にしようと仕掛けを巡らせる密室として、最古の部類に入るのではと考えているのですが。まあ、もしそれ以外の作品に心当たりがあるという方はよろしければ指摘していただけると嬉しいです。

 以下、それ以外の作品の短い評をば。

「チューリップの鉢」

 幽霊が心残りからその遺産のありかを示すという話ですが、メスメリズムなどを用いて、幽霊と科学(あくまで当時の)を同調させて、幽霊同士というか、残留思念のようなものが交感するみたいな姿を描き出すのが面白い。怪奇でありながら、恐怖というよりはそれを理論づけたい著者の欲望のようなものが見えたりするのも面白く思えます。

「あれは何だったのか? ――一つの謎――」

 透明人間ものの先駆、ということでしょうか。幽霊かと思って捕らえたもの――それは透明だが確かに実態があり、しかしその全容がよく分からない。そしてそれが結局分かりそうで分からないまま終わる話。最後にそれが博士に進呈されるという所もなんだか科学的な意識が感じられます。なんだかわからないその何かを明らかにするのが小説じゃないのか、という意見を見ましたが、なんだか分からないという感覚を描くのもまた小説であり、そのどこか割り切れない感覚こそがずっと後に残ってゆくものなんじゃないでしょうか。少なくともこの小説はそれがタイトルからしてテーマだと思うのです。

「なくした部屋」

 こちらは純粋な怪奇ものというか、自分の部屋を失ってしまった作者自身の実体験から来る恐怖感や寂しさ、やるせなさを反映しているようなお話。どこか取り残されたような寂寥感が、読む者に残ります。

「墓を愛した少年」

 こちらはその妖美というか、どこか儚く、透明感がある彼の資質を端的に表したような掌編。最後の一文の効果が素晴らしい。

「不思議屋」

 純粋に邪悪な怪奇に満ちた一編。ペットショップでの惨劇が出色のシーンで、血みどろのはずなんだけど、九官鳥を用いて何とも言えない終りの情景を紡ぎ出す。悲惨でありながらどこか滑稽な人物たちの最後を経て、焼け跡から輝く青空を望む。それがオブライエンという感じがします。ロボットの古典という評価のようですが、どっちかというと呪いの人形ものという感じが。

「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」

 それまでとは打って変わり中国を舞台にした一篇。こちらは幻想性や奇想性で彩られた、ある種のおとぎ話のような読後感を残す話。極彩色の異国譚という感じで楽しめます。

「ハンフリー公の晩餐」

 O・ヘンリーみたいな話。夫婦のつらく貧しい境遇を、想像力で払っている姿が痛々しくもどこかほほえましく、そんな彼らの行く末に光が差す、その瞬間が読む者の心を温かくさせます。そしてオチのタイトル回収がしゃれてます。短編集の掉尾を飾るにふさわしいお話。※ていうか、これポーにも似たような話があったような気がする。自分と妻ヴァージニアみたいな夫婦が、貧困の中で伯父さんの遺産が転がり込んでハッピーエンド、みたいなやつ。お互い、貧しい境遇という生み出した作品として、その共通点というか願望が垣間見えて面白いようなせつないような。