「ホワイダニット」嫌い

 ちょっとミステリについて書いてみようかなーみたいな話。

 ミステリ、というか本格、本格探偵小説についてのひとりごと。

 突然ですが僕、フーダニット、ハウダニットホワイダニットとかいう言葉あんまり好きじゃないんですよ。僕も今まで使うことはあったし、使いやすいのかもしれないけど、何かイヤなんですよね。使いやすい言葉には注意というか、その使いやすさゆえに取りこぼすものがあるというか……。

 まあ、もともとこれらが使われる中で、序列ができているというか、どちらがより優れている、高度であるという文脈で語られることがあって、それが嫌だったんですね。

 機械的トリックより心理的トリックの方が優れている、とかいう類のいっぽう方向的な進歩史観のようなしょーもなさが張り付いているといいますか。

 つまり、機械的なものから心理的なものへと移ることが高度である、という前提に基づいた、心理的な“動機”を扱ったホワイダニットの方が他よりも優れている、という認識。

 そういうわけで、特にホワイダニットという言葉が嫌いなのです。響きもバカっぽいし。

 そもそもホワイダニットという言葉自体が変だと思うんですよ、動機の謎という認識になっているわけですが、Whyというのは“なぜ”であり、その“なぜ”は何故やったかという犯行動機にかかるだけではないじゃないですか。落ちている手掛かりに対して、なぜそこに落ちているのかという何故も当然ある。なぜ彼が犯人なのか、なぜこの状況は生じたのか。

 そもそも、推理小説、探偵小説というのはそのような“なぜ”の集積であり、その何故に答えていくことが、事件を解決することに繋がるわけで、つまり、探偵小説において、最も大事なのは、何故そうなのかを一つ一つ論証していくそのプロセスにあるわけです。

 ホワイダニットをはじめとした~ダニットという言葉は、そのミステリの本質である何故のプロセスではなく、誰が、どうやって、何でやったのかという点にのみ焦点を当て、その結果のみに重点を置くようにしてしまう。つまりはネタがどうであるか、という考えを形作ってしまうわけです。そしてそれは、違った種類の“驚き”を取りこぼすことにはならないだろうか。

 ネタのインパクトで作品を見ることは、まあ構わないとは思うのですが、それのみで見ることは、驚けないからダメ、みたいな了見の狭い意見を生み出しがちです。実は驚きはどこにでもある。犯人が意外でなくとも、それを導き出すプロセスには驚きが潜んでいるかもしれないのです。

 まあそういうわけで、私はこれらの言葉に対しては、もういいじゃないかというふうに思っているわけなのです。固定化されたものではなく、推理小説にはいろいろな“なぜ”が、そしてそれに基づく豊かな“驚き”が潜んでいるはずなのです。