蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 少女☆歌劇レビュースタァライト、なるほど、これは何というか「語りがい」のありそうなアニメといいましょうか。そういえばこういうアニメあんま見なくなったなあ、という感じで観てました。ウテナは好きなので一~二話を結構楽しく観ました。少女が歌劇部で頑張る話かと思いきやスゴクアニメな話で、最近『リズと青い鳥』とか『ゆるキャン△』、『宇宙よりも遠い場所』といったどっちかというと演出などが写実よりっぽいアニメ見続けてきたので、こういう奔放な抽象演出が連発するアニメって少し懐かしい感じで観てます。

www.youtube.com

 

 この動画、いま結構出回ってて、中身の議論は発信者がSF寄りの人なのか、SFの問題として論じつつ、SFを創作する際の注意として「Experience is Sexy」と結論付けるわけなんだけど、どうもこの中身についてもうちょい精査するというか、SFやアニメを乱暴に総括ぎみの論調に対してあまり議論が上がらなく、すでにある自分の結論を強化する、もしくは肯定してSFは、男性は、オタク(そもそも「オタク」は男性を指すだけの言葉ではないと思うのだが……)はという風に、共感の集団内で吐き捨てて憂さを晴らす、まあそういう、いつもといえばいつもの光景が繰り広げられていて、なんだかなあ、という感じでしょうか。

 一口にSFやアニメって言ったってそもそも凄く裾野が広いし、個々に挙げられている数点の実例は良くないテンプレの一つとして議論されているはずなのだが、それがSFやアニメの特徴みたいにされるのはなんだか納得がいかない。SFはSFでも私の読んだ数少ないSF小説のなかでここで挙げられているようなBorn sexy yesterday的な作品は目にしたことはあまりないし、クラークやベイリー、ディック、ディプトリー、コーニイ、冲方丁長谷敏司などなど……にあっただろうか、そういう要素。ヤング……は少しそういう要素があったかなあ。『BEATLSS』はそういう嗜好をAIが利用するという要素があるが……。あと今はもう残っていない量産パルプ小説には沢山あったのかもしれない。でももうそれは主流でも何でもない。

 確かに表現としてあるのだけど、それでSFやアニメをひとくくりにしてだからSFは嫌いだとか、所詮は男性の願望充足などとものすごく大きなくくりで吐き捨てるのはあまりにも短絡だし、ただ単に嫌なものがあるからみんなそうだ、といういささか幼稚な振る舞いに見える。

 私はこの動画の本質ってSFのテンプレートがうんたらではなくて、過去からあらゆる創作ジャンルに忍び込んできた人物間の関係の不均衡で、それは動画内でずばり“永遠の教師と生徒の関係”という言葉で指摘されている。

 ――なのだが、過去の様々なSF外の映画から抽出してきたこの本質を、SFのジャンル内で論じるために、この本質をSFの想像力がよりテンプレートとして可能にする、という論立てになってて、結果的にSFだけがやり玉に挙げられているような結論になっちゃってしまい、結局、一部でだからSFは、男は、みたいな単純な流れにワッと吹き上がってしまっている。

 私としてはこの動画についてはせっかく本質にたどり着いていたのに、結論も含めてなんだかなあ、という感じです。関係性の不均衡が、宇宙人とかアンドロイドとかSFのガジェットと結びついてよりスムーズに実現しやすい要素があるというものであって、その“永遠の教師と生徒”という関係性は、他のジャンルの映画で挙げられているようにどんな創作物にも入りこむだろうし、これは男女間の不均衡にとどまらない。これから色んな関係性がより創作の中で描かれていく中で、男性同士、女性同士にも生じるし、そこに性的搾取な不均衡もまた生じるはずだと思うのだが。これからの作品創作のうえで注意しなければならないのは、色んな関係性においての不均衡、その一方的な支配だと思うのです。

 もちろんこの動画で挙げられた作品にある無知で無垢なキャラクターを性的に消費するのは褒められたことではないし、第一あまり面白くない。『猿の惑星』の喋れないブロンド美人なんてほとんど覚えてないよ。ジーラ博士の方がキスシーン含めてキャラクターとして印象に残ってるし。こういったキャラクターは幅がないのでそもそも面白くない、印象に残らないという視点も、創作する際には必要かもしれません。

 まあでもなんていうか、正直、全体的にはざっくりしすぎてて、これで我が意を得たりっていうのは、結局はざっくりした理解をしてるつもりの人なのではないか、という疑問もあったりしますね……やはり元動画そのものに色々議論と検証が必要かなあと思いますが。

 ジャック・リッチー『10ドルだって大金だ』を読み終える。時間がめっちゃかけちゃったので正直前半の記憶はほぼない……。そんなわけで、あまり良い読み方もしなかったし、また再読する必要があるかもしれないのだが、まあ、今のところ自分には合った感じはしないというか。

 小粋でユーモアをまぶし、脂っ気の抜けたいかにも通人仕様な感じといいましょうか。破綻も少なくというか、そうなる前に切りあげる巧さとか、減点視点で見ると点数が高めになる感じ。

 私は通人から見たら眉を顰めるかもしれない、破綻してたり変な話を含むゴリゴリの本格探偵小説ってやつが好きなので、帯にある優雅な殺人、洒落た犯罪ってやつにはあまり興味がわかない部分があります。あーなるほどな、ここをニヤリとするわけか、というところを眺めつつ、どうも物足りない思いがしてしまって、なんか距離がある読書でしたね。

 まあ、時間が経てば何か違った感興を覚えることもあるだろうということで、とりあえずしばらくは寝かせておく感じでしょうか。一応、他の作品は『クライム・マシン』あたりを読んでおこうかな、という気はしてますけど。

 またぞろ、甲子園の“物語”に一直線に熱中して、自己中心的に球児を消費し始めてるの、私が嫌いなニッポンジンって感じで、大変薄気味悪いです。オリンピックもまたこの調子でみんなでつつき合える“物語”を見つけたら一直線なんだろう。

 あと、twitterの現実を物語にパッケージして、みんなでネタ的に消費する、そういう装置としての機能が大きすぎて、最近嫌になっている。

 『エラリー・クイーンの冒険』を読む。これ、なにげにすごいというか、初刊行時の序文に、これまで省かれていた「いかれたお茶会の冒険」(キ印ぞろいのお茶の会の冒険)を加え、まさに60年ぶりの新訳決定版ともいえる完全版は、もはや本国でもそう気軽には手に入るまい。クイーンの帝国たる本邦でしか手に入らないかもしれないピカピカの“新刊”をこう気軽に手に取れるのは、クイーンファンにとって素晴らしき幸運と言えよう。

 新訳だけあって読みやすい。そしてこの短編集がいかにバラエティに富み、比較的短い枚数で内容の濃いミステリを展開しているのかが改めて分かる。個人的には「ひげのある女の冒険」から「三人の足の悪い男の冒険」「みえない恋人の冒険」あたりの評価が上がったというか、内容がよく見えるようになった。

 個人的ツボは「ひげのある女の冒険」のダイイングメッセージのインスピレーションにきちんと伏線があるというか、そういうメッセージを残す前振りがきちんとあることがなかなかいい。「ガラスの丸天井付きの時計の冒険」にもそういうメッセージを残そうとする前段階のものがあってそれが同時に犯人指摘の手がかりになる、という点の抜かりなさとかやはりすごい。「丸天井は」正直そんなに好きではないのだが、しかしそのへんの仕込みは見事だ。

 なんといってもやはり手掛かりの豊富さというか、ロジックの展開の面白さが詰まっていて、そのためのシチュエーションづくりなど、簡潔で巧い。短編集の一つの理想的メルクマールだろう。やっぱクイーンはすごいと改めて惚れ直しましたね。「新・冒険」にも期待です。

 あと、やはり、ドイルやポーの影響というか、リスペクトがそこここに散りばめられ、そしてそれを彼らなりに変奏し、乗り越えようとする並々ならぬ意欲が伺えて、そこもまた、大きな注目ポイントでしょう。

 

これで終わりなのか、カーペンター? :『ザ・ウォード監禁病棟』

 ジョン・カーペンターの(今のところの)最新作。

 記憶を失い、農家に火をつけたところで逮捕された少女、クリステンが送られたのは精神病院の監禁病棟。そこには彼女と同じくらいの少女たちが入れられていて、退院するのを待っている。そんな病棟の日々の中、クリステンの身の周りに何か得体の知れない影がちらつき始める。やがてそれは少女たちを襲い始め、クリステンはこの奇妙な監禁病棟から抜け出そうと試みるのだが……。

 まあ、そんな感じのストーリーです。一応、どんでん返しが組み込まれてるのですが、正直、観てたら速攻で分かるオチだと思います。2010年に二十年くらい前のネタを持ってくるあたり、さすがカーペンター(?)ということなのかなんなのか。

 とはいえ、今さらなオチは別にいいんです。狭い空間に押し込められ、自分たちを監禁する生身の人間と襲い来る異形の存在という風に二重の形で追い詰められていくというシチュエーションのおかげで始終緊張感がある。脅かし方、来るぞ、と身構えさせてすかし、ほっとさせて別方向からガツンと来る、そんな古典的な緩急はさすがの巨匠、といったところでしょうか。その辺かなり生真面目なので、慣れたらタイミングが分かるくらいなのですが。

 しかし今回、こんなにも登場人物を10代くらいの女の子で撮るのはカーペンターとしては初めてなんじゃないでしょうか。そこはちょっと新鮮です。そして、その関係なのか画面にどことなく美しく撮ろうとしているような気がしなくもないです。ぶっきらぼうさやいつものシンセの音楽はかなり控え目。特に音楽はなんかすごく堪えてるようなものがあって、いつものベンベン節を期待するとあれ? という感じ。

 その美しい画面はカーペンターファンを公言する監督デヴィット・ロバート・ミッチェルの『イット・フォローズ』(こっちもティーンの女の子が主人公)が音楽含めてカーペンターがそういうの撮ったら、という達成をかなり高いレベルで成し遂げたため、今さらこっちを見てしまった自分としては何とも言えない気持ち……。

 出来は悪くないけどすごくフツーな感じ。これで終わっていいのか、カーペンター? みたいな思いがしてしまうのでした。

  僕は何らかの感想の文章を書くときに、なるべく「エモい」とか「尊い」「萌え」といった言葉を使わない様に意識してきたし、多分これからもそう意識していくと思う。別に使うことに目くじら立ててるわけじゃない。コミュニケーションの一環として、そういった言葉を投げつけ合うことはアリではあるだろう。ただ、そういった漠然とした短い言葉をコミュニティで共有して終わり、みたいなことで終わるのが、ちょっともったいないと思っているし、せっかく文章を書くんだったら、何故そうなのか、ということを出来るだけ自分の中から言葉を選んで粘土をこねるようにして形にしていきたいのだ。

 また、もっと言うなら、読む分にもそういう文章を読みたいという気持ちがある。せっかく知らない誰かの文章を読むのだ、なんとなく感情を共有して終わり、というよりもあなた自身の言葉をもっと読みたい。なぜそういった感情がわいたのか、そこから何を思ったのか、あなたのそこに至るプロセスをもっと読ませてほしい。まあ、それは、僕にとってその方が面白い、というだけなので完全に一方的な願望ではあるのだが。

 もちろん強要することはできない。ただ、僕はもっとあなた自身を形作る言葉でつづられた文章を読みたいし、お互い、その方が面白いんじゃないか。

 そう僕は思うんだ。