蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 『ザ・ウォード 監禁病棟』を借りるつもりが『ザ・ウォード 感染病棟』を借りるというチョンボをかまし、また再びTSUTAYAを覗いてきたが、二本とも貸し出し中、あう。しかし、どこも『ヴァンパイア 最後の聖戦』がないんだよなあ。カーペンターコンプリートまであと少しなんだけど。これは買うしかないのかあ。

八木ナガハル『無限大の日々』

無限大の日々

 

 これはいいSF漫画。

 平行進化、群知能、ダイソン球、軌道エレベーター、確率、といったSFゴコロをくすぐるテーマで語られるSF短編集。どれもが魅力的なアイデアに満ちていて、それを語りつくす、というよりはさらりと皿にのせて読者に供して、それぞれの咀嚼に託すタイプの作品です。

 著者は半年ほどアニメーターの経験があるらしいのだが、少女をモチーフにしたキャラクターで占められるものの、絵柄は線の細くて均一な今風のカワイイ感じではなく、結構過去を感じる太く、粗目の線でまるっこく描かれる。松本零士宮崎駿諸星大二郎らに近い、といえば分かりやすいだろうか。個人的にはハードSFな諸星大二郎という印象を受けた。もちろん、印象でしかなく、八木ナガハルという初めて知った作家のさりげなく、しかし壮大で奥深い作品世界に大いに魅了されたのでした。

 この作品集の全体的なテーマというか通底するテーマは個と群、意識と無意識という感じでしょうか。小さなところから、やがてグーッとカメラが引いてゆくようにスケールが大きくなる感覚は、まさにSFというジャンルの醍醐味を十二分に味合わせてくれるでしょう。なにげに著者は宇宙の描き方が巧いというか、巨大なオブジェや空間を表現するのに長けてるように思います。特異な冒頭に釣り込まれて、だんだんと大きな場所に連れてゆかれる感覚、地上にいたはずなのに気がついたら宇宙から眺めている、そんな得難い体験を与えてくれる作品群です。

以下ではそれぞれを少し詳しく採り上げていきますね。

※ここからはネタバレ前提なので、興味のある人はすぐにでも買って読んじゃいましょう。

 

 

 

「SCF特異昆虫群」

 三つの星の頭文字をとった、同時進化した昆虫群。宇宙を隔て、同時に出現するそれらを天然の超高速の通信機と捉えるアイディアが秀逸。そしてそのネットワークに人間のデータを組み込み別の星で実体化させ、文明を再建しつつ帰還する1000年におよぶ壮大な計画。いきなりのスケール。そしてその端で大学生の、というかその時代の人間の知的に退化したような姿が描かれ、“彼女”がはるか遠くを臨む気分をそれとなく描き出しているのも素晴らしい。

「蟻の惑星」

 とある星で進化した蟻の生態が語られる。火を使う松明蟻、文字どおり農耕をするノウコウ蟻、レーザー蟻からミサイル蟻、そして原子力を扱う蟻たちというアイディアが次々と語られ、そして構造物を建築し、植物――農耕のために環境を制御するに至る。著者の昆虫愛が詰まった一編といえるのかもしれない。

「ツォルコフスキー・ハイウェイ」

 地球をらせん状に取り囲む巨大な道路、ツォルコフスキー・ハイウェイ。自動車に乗ったまま宇宙に行けるという触れ込みの軌道エレベーターの一種が300年をかけて完成した。ドキュメンタリー作家である鎹(かすがい)涼子は依頼を受け、完成したばかりのハイウェイのドキュメンタリーを撮りに来たのだが……。

 300年のうちに担当者が代替わりして誰も何の目的でハイウェイが造られたのか分からなくなっている。それはいったい何の目的で造られたのか? 知らないうちに文明そのものが異星人のツールと化していた、いや、異星人のツールのために文明があったというのはヴォネガットの『タイタンの妖女』を思わせる。

「ユニティ」

 この話が一番お気に入り。とある入院患者の少女が語る話、そして彼女を取り巻く状況。人間は本質的に空想することができない、ただあるものを右から左に引き写すだけである、という言葉と共にそれらが重なり合う瞬間がぞくっと来る。人間には不可能という認識であってもコンピューターはそれを飛び越えて独自の認識ができる、という末尾の話も面白い。

「幸運発生器」

 ドキュメンタリー作家鎹涼子が再登場する。機械が人類の上に立ち、人類は機械の奴隷として存在しているとある惑星では、偶然性物理学の成果と称する確率を操作する機械、幸運発生機によって、すべてが“幸運にも”成立している。そしてそれは物や現象にだけでなくそこに住む住人の在り方にも影響を及ぼす。すべてが幸運にも成立する場合、そこに自由意志とは存在するのだろうか? 確率が人間の意志を左右するのでは、という仮定が興味深い一編。

「病院惑星」

 製造から遥かな時間が経ち、メーカーがとっくに倒産して構造がブラックボックス化したロボットを患者とする病院。彼らを解析し、治療する過程でのデータを収益とする病院では、患者本人はサンプルとして収納され、治療された完全なる複製が退院していく。そんな倒錯が機械だけではないことが、自分を人間と思い込んでいる機械の導入で反転するというか、人間もまたそれらと変わらないことが明らかにされる。ちょっとしたホラーな一編だ。

「鞭打たれる星」

 これもまた鎹涼子が登場する一編。彼女が訪れた星では、住民たちが軌道エレベーターを引き倒そうとしていた。住民は生まれた時からオンライン化され、ある種のスクリプトを共有することにより、数億人が一斉に行動することができるというのだ。その彼らがいま軌道エレベーターを引き下ろそうと躍起になっている。完全剛体で出来た軌道エレベーターを引き渡した無限工作社の目的とは。「幸運発生機」と並び、人間を支配して一つの行動をとるようにする無限工作社なる存在が明らかになる一編。鎹シリーズの世界の広がりを構築する一編といえるかもしれない。

「巨大娘の眠り」

 砂漠をゆく兵士たちは、眠り続ける巨大な娘を見つける。しかし、一方で自分たちが何故砂漠を歩いているのか、なぜそこにいるのか分からなくなってゆく。そして彼らは眠り続ける娘たちを前にある疑いを抱く。八木ナガハル胡蝶の夢といった作品か。諸星大二郎的なテイストが濃いように感じた一編。目覚めゆく瞬間のカットと共に“夢”の表現が印象的な一編である。

読書を追いかけて:『バーナード嬢曰く』

 

バーナード嬢曰く。 (4) (REXコミックス)

バーナード嬢曰く。 (4) (REXコミックス)

 

 というわけで、早くもというか、ようやくというか、この読書にまつわる滑稽で愛すべき漫画も四巻目。相変わらず読書好きたちの本に対するあれこれかつ、魅力的な本の紹介を行い、また回を重ねるごとに青春物的な郷愁をたたえているというか、人物たちを通して、本を読んでいたあの時の空気、みたいなものを追体験する要素が増してきているように思う。

 ド嬢の魅力というのは、まず扱っている本の幅広さ、その懐の広さだ。最初は古典の名言を引っ張ってきてあれこれギャグを展開する話だったが、次第にSFやミステリ、かつてのベストセラーといった本を取り扱い、読書好きがついやってしまうことや失敗、恥ずかしい自意識を含めて魅力的に紹介してくれる。今回もまた、多彩な本の数々が紹介されている。その紹介の匙加減が絶妙で、的確でくどくなく、しかしどこか引っかかりを与えてくれる。つい手にとって内容を確かめたくなるのが常だ。そしてなにより日常的なエピソードにさらりと本を絡めてくる、そのさりげなさがほんとに上手い。日常の中にある本の風景、それをさりげなく描き出すのが施川ユウキの巧さだろう。

 そういえば、ド嬢の人物設定も絶妙だ。読書家でも、読書家になりたい、という人物でもなく、“読書家ぶりたい”という人物、町田さわ子を中心にして、ガチな読書家である神林栞、遠藤君、長谷川さんといったそれぞれSF、一昔前のベストセラー、ミステリに軸足を置く彼らを配する。さわ子は読書家になりたいというよりは、“読書家”という概念にあこがれを抱いている。どうやったら読書家っぽくみられるのか、カタチから入ろうと悪戦苦闘し、それを見とがめる神林をはじめとした三人が突っ込みを入れつつ、本を紹介するわけだ。

 どうしたら読書家っぽくみられるのか、というさわ子の視点は滑稽だが、読書をする人間ならそれっぽさを外部にアピールしたい欲求、というものに覚えがないわけではないだろう。そんな恥ずかしい自意識をなんの衒いもなく行うさわ子を通して、読書家とは何か、読書するとはどういうことか――というまあ、そんな大げさなそぶりではないにせよ、さわ子を通して、本を読む風景に思いを寄せる、という観点もド嬢の大きな特色のように思われる。

 そうなのだ、ド嬢は本を読む風景を描き出す。かつての、そして今の、読書がそこにある私たちの風景。彼らみたいな体験はしなかったかもしれないけれど、本を通してそんな郷愁みたいな感覚が呼び出される。新幹線の途上で、雪降るバス停で、図書室の机の下で、冬の海の浜辺で――そこに描き出される本を、“読書”を携えた風景は何故か懐かしく、そしてほんのちょっぴり孤独だ。

 読書は孤独な営為だ。みんなで読書することはできないし、読書する“私”はいつも一人だ。それでも本を読む、という喜びを分かち合うことはできるし、誰かの好きな本が、それについての言葉が、私と誰かと本を繋げる。ド嬢は、そんな読書の孤独を行き交う交点を描く。理解されない孤独ではなく。

 読書家ぶりたがるさわ子だが、実のところド嬢には、それを見せつける外部は特に描かれない。趣味を描く漫画には顕著だが、趣味とは無関係な一般人に見られる“私”という視点に基づく姿――シーンは描かれない。私の趣味は理解されない、もしくは特殊であるという“理解されない孤独”なる自意識とそれに基づく仲間意識、そういうもので囲い込もうとはしない。読者をそういう輪に引き入れて、“仲間”でワイワイする、確かにそれは楽しいのかもしれない。でも、私が好きな物はもっと自由なはずなのだ。なんの後ろめたさもなく、自由に楽しみ、語らう。ド嬢のその、なんの衒いのなさや、読書人の困った自意識を笑いに変えつつも、その実、読書なるものへの貪欲な姿勢こそ、私がこの漫画を読み続ける大きな理由だろう。

 四巻の帯には「誰だって、始まりはにわかだったんだ」というコピーが載せられている。誰もが始めは、いやいつだってへっぽこな町田さわ子で、自由に、夢中に読書なるものを追いかけていける。漫画、バーナード嬢曰くには、そんなかつての、そして今の自分自身の読書へのあこがれが詰まっている。

 映画館行っちゃえば、目にしたくなくても目にしちゃったりするわけで、例の特報ってやつを見ちゃったりしたわけなんですよ。

 ……だれかカントクにたつき監督のインタビュー見せた方がいいんじゃないの? カメラぐるぐるぶん回すのいいかげんダサいですよって。十年以上前のセンスでビックリするぜ、とか。

 しかし、次回もあののっぺりした赤青背景で延々とCGエヴァのまわりをグルグルカメラ回すのかなあ……。

 T・Sストリブリングのポジオリ教授シリーズって、名探偵や論理についてのものすごい先駆的な作品だと思うし、自分の中でクイーンと並んで重要な位置を占めていて、まとまった文章を書いてみたいなあ、と思ってるんで、作品解説とかを含めてなんとか形にしたいですね。夏休みの宿題というか、夏の間になんか書けたら書こう。

家族であろうとすることが、できない場所で:映画『万引き家族』

 観てきましたよ、『万引き家族』。是枝監督の作品は、これまでは『それでも僕はやってない』ぐらいしか観てなくて、今回でやっと二作目。そして今作も「それでも~」と同じように、すっきりとした終わりではなく、どこか遣り切れない。映画の終りが終わりではなく、これからも登場人物たちの人生が続くであろうこと強く意識させ、だからこそ暗澹とした、重たいしこりを残す映画となっていました。

 そして、この映画は家族の映画でありながら、その家族のカタチとは何か、それをはっきりと指し示すことなく、観る者に委ねる形をとっています。だからこそ、観終わった後も考え続けることになる、そういう映画でしたね。

 というか、そもそも家族なるカタチとは何なんだろうか、そんなものは存在するのか? この映画は僕らがそう思いたいものを悉く否定というか、ボロボロと崩していきます。形を成すかに見えたらすぐに崩れてしまう。その無情にもさらさらと零れ落ちてゆくものの中に、観る者は何をみればいいのだろうか。

 

あらすじ

 とあるスーパー。中年の男と少年が目くばせをしながらあたりの様子をうかがっていた。店員の動き、他の客の動き、流れるその間隙、空白の瞬間を見定めて、男が合図すると、少年は手に取った小品を背負っていたリュックサックに詰めた。そしてまた小品を手に取り、淡々と詰めてゆく。

 万引き、と呼ばれる行為を彼らは日常的に行っている。

 肌寒く雪が降りそうな日、いつものようにスーパーので万引きを行い、商店街でコロッケを買った帰り道、男と少年は通りがかった団地の前で物音に足を止める。ふと覗いた隙間から廊下の前で凍える少女の姿が見えた。

 見かねた男――治は少女を家に連れて帰ってしまう。

 周囲をマンションに取り囲まれ、埋もれ、見るからに取り残された古い一軒家にその中年男と少年――治と祥太を含む5人の男女が暮らしている。そこへ治が連れてきた「ゆり」が加わり、貧しいが笑顔の絶えない“家族”の営みが「ゆり」を中心にして、より強くなってゆくのもつかの間――“祖母”の初枝の死をきっかけに、やがて“家族”の結びつきはほどけていく――。

 

 感想 ネタバレ前提で語るので、観てない人はそのつもりで

 

 まあでもほんと重い。まずはその貧困描写がすげーズンと来る。部屋の中の汚さがいちいちリアルなんですよ。薄汚れた服とかがやたらとその辺に置いてあったりとか、なんていうか、使えなさそうなものが雑多と置いてあるあの感じ。カップ麺にコロッケつけるのもあんまりおいしそうに見えない。というか、ご飯食べてるシーン、あんまりおいしそうに見えないんですよね。全編通していいもの食べてない感は見ていて苦しい。

 ほんと前半は結構苦しい感じがするんですよ。日雇い労働、クリーニング、風俗、働いてもお金が足りなくて、初枝の年金と万引きで補う生活。そういう、閉塞感漂う冒頭から、虐待されていた女の子「ゆり」を新たな家族に迎え入れてゆく過程で、少しづつ、それぞれのつながりがよりくっきりしていく姿は心を和ませると同時に、どこか不安定で薄氷を踏むような危うい影が常にちらつく。

 その危うさというのは、後で明らかになる様に彼らが世間的には認められない家族である、という所からきている。彼らは全員血のつながりのない他人であり、ゆりをはじめ、祥太、亜紀といった未成年たちはみな本当の親がいるし、「ゆり」に至っては半ば誘拐のような形で加わっているのだから。

 しかし、彼らは元居た親の許では家族にはなれなかった者たちなのだ。そんな彼らが世間の片隅で寄り添う様に生きていき、家族としてふるまう姿はその一つ一つが温かみを持ってみることができるだろう。そしてそれは崩壊の予感を感じさせつつも、海水浴のシーンで頂点に達する。初枝が海で戯れる五人を見て、観客には聞こえることのないつぶやきを漏らすシーン。その瞬間だけは、たとえその後あっさりと彼らの結びつきがほどけてしまっても、“家族”であった――だからこそ、そのシーンは目に焼き付いて離れない。

 しかしその幸せの瞬間をピークに、初枝の死とともに彼らの“家族”としての結びつきはあっさりとほどけていきます。その大きなきっかけが祥太の万引き――その行為への疑問。

 「妹」である「ゆり」万引き行為に引き入れることが、駄菓子屋のおやじにたしなめられたこと、そしてそのおやじがほどなくして亡くなり、駄菓子屋が閉まってしまったこと。忌中の文字が読めない祥太は自分が万引きをしていたから店がつぶれたのか、という思いを抱きます。そして、車上荒らしをノリノリで行う治に違和感を感じ始める。

 「ゆり」が押し止めたのにもかかわらずスーパーでの万引きを自分も行おうとするところを見て、ついに祥太の中で何かが決壊したのか、彼は店員の目の前で商品を掴んで逃げます。その商品がネットに入った夏ミカン(違ったかな?)で、それが最後、追いつめられた祥太が飛び降りた拍子にバラバラに散らばるのは示唆的です。

 そして祥太が捕まったことを皮切りに、初枝の床下の埋葬、年金不正受給、そして「ゆり」の誘拐――ということが次々に明らかになり、「家族」はバラバラになっていきます。彼らは世間からは家族とは認められない。それがどんなに「家族」として彼らなりにやってきたとしても。

 治が家の隣の空き地でサッカーをする親子を見つめるシーンがあります。そして、祥太に父さんと言って欲しいというアピールをする場面が何度もあり、彼が祥太に対して「父親」でありたいという願望が繰り返し語られます。そして、なぜ子供に万引きを? と警察官が尋ねる場面で彼はこういうのです、それぐらいしか自分には教えられることがないのだと。学も何もない自分が万引きのやり方を教えること、それが「父親」として教えられることだった――生き生きと祥太に万引きを、犯罪を教授してきた彼の姿を思い出し、そのあまりの痛ましさに胸が重くなります。

 最後の方で、すべての罪をかぶる形で収監された信代が面会に来た祥太に彼が治と信代に拾われてきた時の状況、そして本当の親に繋がる車のナンバーを伝え、肉親へと戻る選択肢を示します。祥太を筆頭に、「ゆり」や亜紀は元の親――血のつながったそれへの再帰属を促されることになるのです。この辺りが、この映画の特徴というか、アメリカ映画的な疑似家族でハッピーエンドとは違う、というかそういうわけにはいかない日本の在りようを示しているようでした。そしてかつてあった『東京物語』的な、血のつながりよりもすぐ隣にいる他者とのつながりに希望を託すこともできない。

 つまり、独立した個々が寄り集まることも許されず、血縁的な縦や地域的、他者的な横の関係にも希望を見出すことができない――その暗澹たるありさまが、この国のより今日的な有様なのかもしれず、さらに胸を締め付けるものとなっているようでした。

 だからこそ、連れ戻された「ゆり」――樹里が本当の親の許で再び疎外され、もしかしたら最悪の結果すら待っているかもしれない日常の中、再び団地の廊下のなか、塀を乗りだし、外を見る。その自ら外部を見つめようとする姿に、ほんの少しの希望を、僅かかもしれないそれを祈らずにはいられないのでした。

エロスとデスは兄弟 映画『イット・フォローズ』感想

 デヴィッド・ロバート・ミッチェルというほとんど無名の映画監督と、キャスト、そして二百万ドルの低予算で作られたこの映画は、大した宣伝もなかったにもかかわらず興行収益二千万ドルをあげ、2014年のホラ―シーンの話題をさらった。

 この映画は殺人鬼や悪霊が元気に暴れ回る映画ではない。どちらかというと、冒頭の浜辺のショッキングシーン以外はすごく地味だ。毎回姿を変え、“感染”したものにだけ見える“それ”――イットがゆっくりと歩いてくる。そして捕まると死ぬ。ホラーの要素としてはそれだけだ。しかし、そのジワジワとした怖さはティーンを中心に大きく広がった。

 シンプルな怖さ。それは、人はいつか死ぬ、という当たり前の事実であり、子どもから大人へ、その境界に立つティーンにとって、無縁だと思っていた自分にいつかやってくる“それ”を、映像的に意識させるものとなっていたからだろう。そして、その恐怖はもちろんティーンにとってだけではなく、彼らよりもずっと死に近い大人たちにも共通の恐怖なのだ。

 ひたひたと、それはいつか必ず僕らに追いつくのだ。

 

あらすじ

 大学生になったジェイは付き合っていたヒューとついに初体験を果たす。

 その後、車の中で寝そべりながら、彼女は述懐するように言う。“子どものころ、こうして好きな男の子とデートするのが夢だった。一緒にドライブしたり、手をつないだり、ラジオを一緒に聴いたり……きっと世界が違って見えるんだろうなって思ってた……ようやくその年齢になったけど……ここから先はどこに行ったらいいのかな”

 その直後、ヒューにクロロホルムを嗅がされ気がついた時には、車いすに縛り付けられ廃墟の中に彼女はいた。そして目覚めるのを待っていたらしいヒューは言う。

「これから君はイットに追いかけられることになる。まずはそれを教えておく」

 何が何だかわからず混乱する彼女を運び、ヒューは階下の線路に佇む全裸の女性を示す。あれがイットだ――それは性行為で“感染”し、それから逃れるには、誰かと性行為してそれを移す必要がある、自分が君にしたように――と。

「やつは色んな姿で追いかけてくる。動きは遅いが賢い。とりあえずは車で距離を稼げ」

 ジェイをイットが追いかけ始めるのを確認すると、ヒューはジェイを連れ出し、彼女の自宅まで運ぶと放り出すようにしてそのまま姿を消した。

 そして、後日ヒューの言う通り、イットがジェイを追いかけ始める。老婆の姿や中年女性、大男に小男といった姿となって彼女にしか見えないそれらが彼女を捕えようと一直線に歩いてくる。ひたひたと。ただひたすらに。

 ジェイは事情を妹や幼馴染たちに話し、彼らの協力でイットから何とか逃げ延びようとするのだが……。

という感じのお話。

 

感想 こっからはネタバレ前提なので未視聴ならば注意です。

 

 

 

 

 死、というものを、いつか自分は死ぬのだということを意識するのはいつからだったろうか。幼稚園児のころ、宇宙の終りを夢想してめちゃくちゃ怖くなったことがあるが、自分の死について考えたわけではなかったと思う。近しい人の死に触れても、小学校のころはやはりそれは自分とは無縁なものと感じていた。知識として人間は死ぬと知っていても、それが自分に当てはまると考え始めるのはやはり、思春期ぐらいからだったと思う。だけど、それでもそれはまだ曖昧な予感に過ぎなかった。

 この映画におけるイットは明らかに死のメタファーだ。それはゆっくりと、だが確実に迫ってくる。この映画が大ヒットした一因として、そのいつか訪れる死の予感を明確に映像として映し出したからなんだと思う。そしてそれが死を曖昧に意識し始めたティーンたちに突き刺さったのではないか。彼らを追いかけてくるイットの姿がことごとく、彼らよりも年上、中年以上の男女の姿であるというのも示唆的だ。

 この映画はホラー映画であると同時に、青春映画でもある。登場人物は大学生しかほぼ登場せず、大人たちは背景にいるモブ、もしくはイットとして出てくるのみ。なんというか、ヤングアダルト物っぽい感じ。メインの少年少女は大学生なんだけど、酒やタバコの描写とかも薄目かつ、見た目も少し幼げでぱっと見、高校生臭さが抜けきっていない感じだ。

 ジェイは前述した述懐のように、大人なるものへのあこがれ、そしてそれを性行為という形で達成したものの、そこからどこへ行けばいいのか、戸惑い、大人と子どもの境界線上にいる。ある意味、セックスすれば大人になれるのか、というティーンの思いと戸惑いを象徴するキャラクターだ。そして彼女にずっと思いを寄せつつもそれを表現することができない少年、ポール。そんな彼を見透かしながらも何も言わず、『白痴』を引用することでそれを示す文学少女のヤラ。そんな感じで、ポールのジェイに対する恋心がじれったいながらも少しづつ表出していく映画でもある。

 あと、この映画、ジェイのためにみんなが彼女の自宅や幼馴染の別荘、学校といった場所で集まって護衛するわけなのだが、それがお泊り会みたいな感じになってて、そのへん、『台風クラブ』みたいな青春物感。

 そして画面が美しい。どこか瑞々しいというとヘンな感じがするかもだが、昏い美意識みたいなものが画面に満ちている。そこからいつイットがあらわれるのか、という静謐な緊張感が忍び寄り、なんとも言えない映画の時間を創り上げている。

 さらに、なんといっても廃墟の描写。デトロイトを舞台にした本作は、廃墟と化した家々が連なる現在の姿を残酷な形で映しつつ、それが、ある意味死を色濃く連想させる絵面となっている。音楽も印象的というか、カーペンターっぽいシンセが廃墟の描写などと相まって恐怖感を盛り上げてゆく。

 ホラーとしては、退廃的な美の世界で、曇りや雨といったいかにもな天候の使い方がゾクゾクくる。そしてなんといっても追いかけてくる“イット”のアイディアだ。ゆるい動き、というのはゾンビで、追いかけられる対象の人間にしか見えない、というのは幽霊。そのハイブリットである、ゾンビ幽霊みたいな造形がユニーク。人がたくさんいる中に紛れていて、一見すると分かりずらく、しかし、それとわかると明らかに異質なものが迫ってくるという、二段仕込みの緊張感を視聴者に与えることに成功していて、観ている間じゅう、ずっと嫌な予感に囚われ続けることになるのだが、これが怖い。やはり、ホラーの神髄は予感であるなあ、と。

 

 エロスとデスは兄弟

 『生ける屍の死』という小説に上のフレーズがある。この映画はまさにそんな感じだろうか。エロス(性愛)によってデス(死)が自覚されつつも、死はまた性愛によって遠ざけられる。とはいえ、イットを他人に移しても、移した人間がイットに捕まれば、また追われる。呪いは解除されるわけではなく、順番が後回しになるだけなのだ。性の目覚めと共に、死もまた追いかけてくる。性交によって感染するということは、それが可能な“大人”は全てがその対象であり、それは、生き物すべてに降りかかっている普遍的な真理だ。生きとし生けるものはすべて死が訪れる。しかし、それを性愛によって子どもを産むことで遠ざけていく。そうやって生き物は存続していく。

 大人になるということは、死を自覚し見つめざるを得ないことなのかもしれない。それは必ずやってくる。一日がすぎればまた一歩。ひたひた、ひたひた。そして一年が、十年が過ぎて、あるいは突然、誰もがそれに捕まる。それは避けようがない。

 この映画のラストシーン、ポールの愛を受け入れ、セックスしたジェイ、手をつないだ二人の後ろ、遠くに近づいてくる男の影、最後に二人の背中を映して物語は終わる。結局は逃れられないのかもしれない。しかし、二人で歩く、愛する誰かと一緒にいる――その永遠にも思える瞬間だけは、死の恐怖を遠ざけているのかもしれない。