蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

本当のプロパガンダは「怖く」ない:映画『NO』

 

NO (ノー) [DVD]

NO (ノー) [DVD]

 

 

 プロパガンダ。その言葉で何が思い浮かぶだろうか。いかめしい指導者の肖像画やポスターが学校を始めとする公共施設や広場に掲げられている光景だろうか。テレビやラジオから流れる指導者の言葉とそれらがまとめられた印刷物、国や指導者をたたえるしゃちほこばった歌が流れている、なんてのも思い浮かべるかもしれない。もしくはレニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』みたいな、そういう映画の光景を。

 そしてそこに強制や洗脳といったものを思い浮かべているかも知れない。しかし、プロパガンダの本質はそこではない。特定の思想やイデオロギーを強制するものはそんなに怖くない。それはいかにもな顔をしているからだ。プロパガンダの本質にして、真に恐ろしいところ、それは“楽しい”ということにある。

 楽しい? それはどういうことかと思うかもしれないが、この映画を見ればなんとなくわかる。とはいえ、この映画における主人公が行うプロパガンダは、それが往々にして想起されるネガティブなものというよりは、人々を動かしたもののひとつであり、独裁に対する抵抗の一つとして描かれている。プロパガンダは本来的には宣伝にすぎない。TVのCMもプロパガンダの亜種だし、ネットなどはそういうものの巣窟だ。そう考えると、我々は日常的にプロパガンダにさらされているわけだ。問題はその宣伝がどのような形で成され、効果を及ぼすかということだ。人は常に人を動かそうとする。政治的な意図があろうがなかろうが、人はそういうものの影響から抜け出ることはない。だからこそ、プロパガンダとはなにかを見つめる必要がある。

 あらすじ

 1988年、チリ。そこでは15年もの間、独裁が続いていた。独裁者の名はピノチェト。将軍である彼が敷いた軍事政権により、多くの人が拷問や投獄を受け、または誘拐され行方不明となっていた。そのような独裁体制が続いていたが、国際社会による批判がついにその政権の信任を問う投票へと踏み切らせる。投票までの27日、その間に政府と反政府の野党連合は一日15分、深夜のTVCMで国民にこのままでYESかNOか、それぞれアピールすることが認められた。

 アメリカ帰りの広告マン、レネは左派連合の友人に依頼され、ピノチェト「NO」のためのCMを作ることになる。制作に入り、それまでNO派が作ろうとしていたCMをみてレネは顔を曇らせる。これではダメだ、と。彼らのCMは、ピノチェトによってどれだけの人間が殺されたり行方不明になったりしたか、その苦しみはどれだけ大きかったのかを切々と訴え、彼にNOを突きつけようというものだった。レネは言う、これは楽しくない、喜びがない、と。

 そして彼が作ったCMはそれまでの陰鬱さとは打って変わった、ポップな歌に合わせた明るい映像――ひたすら独裁NO後の楽しさや喜びの未来、といったものを映し出してゆく。レネは宣伝とは楽しくあるべきだ、という確信があった。しかし、彼が作ったCMは一部の議員の不興を買う。これはこれまで独裁に苦しんできた人々の気持ちをないがしろにしている、我々が受けてきた苦しみや怒りを無視する気か、そう言って席を立つ議員を見送り、しかし、レネは方針を変えることはない。

 広告屋の流儀で戦う、それがレネの信念だからだ。広告にはユーモアが必要なのだ。そして、彼が作ったCMは、そもそも深夜の時間帯で誰が見るのだという政権側の余裕をよそに、次第に支持を得ていく。YES側のCMはピノチェトを表に立て、その内容は彼のためのCMでしかない。やがてそれは人々の憎悪の的になる。焦り始めたYES側はレネの上司を制作担当に据え、NO側のCMのネガティブキャンペーンやその手法の一部を取り入れたようなCMを制作、同時にレネや制作陣に対する無言の圧力を強めてゆく。

 それに屈することなくレネの明るく楽しいCMは人々の心を着々とつかみ、そして、運命の信任投票の日を迎える……。

 感想

 プロパガンダというのはもともと宗教に由来していて、一六二二年、ローマ教皇グレゴリウス一五世がプロテスタント宗教改革に対抗し、また新大陸へのカトリックの布教を強化するため「教義布教聖所」なるものを設置したことに端を発する。「教義布教聖所」はラテン語で「Sacra Congregatio de Propagande Fide」と書く。ここに出てくる「Propagande」とは、動詞「propago」に由来し、「動植物を繁茂させる」などという意味を持っていたが、この時はじめてカトリックの教義を普及させるという意味を与えられた。その後、政治的な意味合いを帯び始めたこの言葉を教会側が忌避することで、プロパガンダは政治性を帯びた言葉として確立する。*1

 もともと布教という意味をもつ言葉であるプロパガンダは、教会の広域な組織網が支える情報伝達技術と不可分だった。つまり、情報の高度な伝達がプロパガンダというものを可能にしたといえる。かつてヒトラーのそれを支えたものが新聞やラジオだったように、その次がテレビ、そして現在はネットが主なその舞台となっている。

 教会やラジオやテレビ、ネットはあくまで道具にすぎない。人をある意思、思想、そして行動にもっていこうとするものは、それを介して行われる表現であり、それは、興味をひくものでなくてはならない。しかし、そのためにはただ説明や発信する側の思いを訴えるだけではダメなのだ。というか、そこに至るまでどうするのかが重要で、そのためには楽しくなくてはならない。つまりはエンタメ(娯楽)だ。

 プロパガンダは楽しくなくてはならない。人がこぞって消費したくなるものにこそ潜ませるべきものなのだ。そしてその本質に気がついていたレネは楽しい広告を作り続ける。彼の妻は不快そうに言う。あなたのCMはただのコピーよ。コピーのコピーのコピー。あれに映っている人たちは誰? チリ人でもない外国人。彼らは何で笑ってるの? 誰に笑っているの? と。しかし、それでもレネは楽しい広告を目指す。

 その広告がすべてではないだろうし、国民それぞれの意思が国を動かしたと主張する声は当然ある。もちろんそういう面はあるはずだ。しかし、一方で人は他人の深刻な訴えにはそれほど積極的に影響されないという側面をこの映画は映し出している。

 この映画は独裁者と戦った側のプロパガンダであり、そこにある楽しさが、独裁者のいかめしい広告を打ち破ったという体裁にはなってはいる。しかし、その“楽しさ”はいつも自由や正義の側にあるわけではない。当然抑圧する側も使ってくる。

 その“楽しさ”について、開放感や喜びに裏打ちされたものとそうでないものを区別した方がいいという考えもあるかもしれない。人を抑圧する側から出たそれは、上手くいかないのではないか。だが、それは楽観的な見方のように思える。今現在、ネットの中にある“楽しいプロパガンダ”的土壌というものは、レイシズムや歪んだ国粋主義、そして無責任なポピュリズムから発する“楽しい”に満ち溢れているし、それを何のためらいもなく享受する人々の多さにめまいがしないだろうか。辻田真佐憲の『たのしいプロパガンダ』によると、例えば戦時下の日本では、官製のプロパガンダが上意下達というよりも、民間の娯楽産業が政府の意向を忖度しながら営利のためにつくられたプロパガンダが主流だったことが書かれている。

 儲かりさえすれば、企業というものはどのような主義主張だろうが加担する面があるのは、レイシズムむき出しの出版物が横溢する現状を見れば明らかだと言わざるを得ないだろう。そして、いつの間にか、身の回りにそういった“楽しい”プロパガンダがあふれていることは、いま現状を鑑みるにないとは決して言い難い。

 この映画は広告マンのCMが独裁に対する抵抗の一つを示した、という物語以上に優れたプロパガンダの本質が“楽しい”ものであるということを浮き彫りにする。それは劇中の選挙の勝利の喜びよりも、どこかより深刻で先の見えない不安をいま観る者に抱かせはしないか。レネは、終始彼自身の政治信条は描かれないし、最初はそこまで気が進まない風ですらあったのだ。その上司がYES側でCMを作ったように、彼らはただ仕事をしていたにすぎない。最後は上司と一緒に次の仕事に向かうレネ。彼がいつ今度はYES側的な立場でCMを作らないとは限らない。彼にあるのは自分の仕事への信念であり、そこにイデオロギーは存在しないのだ。それは、自身の主義主張を声高に訴える人間よりも怖い気がするのだ。

 本当のプロパガンダの怖さ、それはただ単に楽しませることが目的の人間が作る“楽しさ”にあるような気がしなくもない。もちろん、この映画のように抑圧に対してユーモアで戦うということは、大事なことではあると思うが。 楽しいことは悪くはない。しかし、楽しいからついていくというふうになると、そこには大きな陥穽が待ち構えているような気もまたするのだ。私が“楽しい”それは、はたしてなぜ楽しいのか、それを改めて見つめてみるのも、大事なことなのかもしれない。

*1:出典:『たのしいプロパガンダ』辻田真佐典憲より