蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

相反する世界の接触面:半田畔『科学オタクと霊感女』 -成仏までの方程式-

 科学オタクと霊感女 ?成仏までの方程式? (LINE文庫)

 

 囚われる――人は何かに自分の意志を制限される。それは言葉だったり、過去の過ちや願いや希望だったりする。何かに囚われていることは、自由ではないというふうに見られがちだ。だが、何かに制限されることが、その人を形作っている、その生き方を縁取っているということは往々にしてある。というか、実のところ人は何かに囚われることで自己を形成している。

 この小説は、そんな何かに囚われることについての物語だ。科学オタクである浮島華や霊感女である四ツ谷飾をはじめ、彼らが出会う幽霊たち――彼らは何かに囚われている。

 過去の出来事によって科学を信奉する浮島華と幽霊が見え、触れることで他人にもそれを見せることができる四ツ谷飾。彼女たちがバディを組んで、死してなお幽霊として彷徨う人々が囚われた心残りを科学を用いて解消してゆく、というのがこの小説の大筋だ。

 とにかく、御託は抜きにしてまずは面白い。色々な要素が詰め込まれているが、その要素に寄ったジャンル小説というよりは、それらをうまく均等に融合させたエンターテインメント小説という感じだろうか。章ごとが短編という形式を取りつつ、一、二、三、四&終章が起承転結にきっちりと組まれ、物語全体を傷を与えたものと受けた者が手を取るまでのお話として構成してあり、かなりきちんと組み立てた小説となっている。あと、基本的に華と飾の会話劇が面白いので、それを追うだけでも楽しい。

 それから飾が他者に触れると幽霊を見せられるというギミックが、女の子二人を物理的にくっつけられるという方向に色々と生かされていて、いわゆる「百合」な雰囲気を作る理由付けとしてなかなか巧いな、と。

 

あらすじ

 「幽霊なんているわけないじゃん。適当なこと言うな」

 その言葉に、浮島華は囚われたままだ。小学生の時、華は屈託なく人と触れ合う人間だった。ある時、彼女は家で男の子の幽霊を目撃し、それをクラスメイトに話したところ、普段隅で本を読んでいる女の子が言い放った言葉――それをきっかけに、華が幽霊を見たという話は、彼女が人気取りに嘘を言っているとみなされた。華はいじめられ、孤独になった。自分をそのような境遇にした原因である幽霊。そんなものを信じたばかりに自分はこんな目にあった。だから幽霊を否定するため、彼女は科学にのめりこむ。それ以来、友達と呼べるものは、彼女には存在していない。大学に入り、たった一人の科学研究サークルに半ば引きこもるようにして実験に明け暮れる華。

 しかし、このままサークルが一人では閉鎖処分になると、同大学教授にして叔母の杏子から宣告され、しぶしぶ勧誘活動を行う華。テーマは「幽霊」。サークル説明会にて幽霊は存在しないと一席ぶつ華に、一人の女子が反論した。

 「幽霊はいるよ」四ツ谷飾という名の短髪で明るい髪色をした、華とは雰囲気が正反対の女子はなおも幽霊は存在すると主張する。「幽霊を見せてあげる」そう言って彼女は華の腕をつかみ、そして華は自分のその後を規定した“それ”に、ふたたび対峙することになる。

 

感想 ここから先は、ネタバレ込みですので、そのつもりで。

 

 科学と幽霊。対立するはずのそれを幽霊の存在を前提としたうえで、その幽霊たちが抱えるものを科学で解決するというのはなかなか面白い。幽霊たちの心残り、その執着部分をミステリ要素の核として展開しつつ、それを科学で詰めていく。とはいえ、結構丁寧というか、ことさらミスリードしたりするわけではなく、ストレートな形で物語は進む。あくまでこの物語は二人の女子大生が幽霊の成仏を通して自分たちの囚われているものに対峙し、そして彼女たちがお互いの距離を縮めるお話だ。

 前述したように幽霊だけでなく、生きている華や飾もまた、何かに囚われて生きている。華はかつての飾の言葉に、飾は彼女の祖母に。そんな自らも囚われている彼女らが、成仏できない幽霊たちが囚われていることを解消することで彼らを解放してゆく。

 幽霊たちは囚われたままだと、その囲われた人という文字通りにやがて動けなくなり、一つの場所で暴れる凶悪な霊と化す。そうなる前に何とかしなくてはならない。そういうある種の時間制限付きの緊張感も少し組み込まれていて、エンタメ的な目くばせに抜かりがない。

 基本的には飾が幽霊たちを見つけ出し、華が科学によって幽霊たちを解放する。幽霊現象は実は科学で解明できるとか、科学では推し量れない幽霊だとか、そういうものではなく、厳然とある幽霊という存在を科学によって成仏に導く。どちらかがどちらかを飲み込むのではなく、相反するものが接することで、問題は解決してゆく。最終話などは死者と生者が純粋に触れ合う形で解決する。そしてそれは、相反する性格の華と飾も同様だ。異なるものが接触すること――それが一つの希望として描かれる。

 また、幽霊たち――つまり死者は囚われることがなくなることで崩れ去る。あたかも細胞膜が崩壊して死にゆくように消え去ってゆく。しかし、生者は囚われることで自己を形成し、そのカタチで生き続ける。第三話の“幽霊”琴吹七音は、失った自身の声と向き合いながら生きてゆくことを選んだ。それはなくしてしまった声と夢を抱えたまま生きることでもある。華や飾もまた、自分たちをそういうふうにしたものを抱えながら生きてゆく。華はかつての言葉を発した飾につきまとわれ続けるし、飾は祖母の霊がいなくなっても幽霊たちは見え続けるし、幽霊を追うことも止めない。

 死者たちのように解放されるのではなく、自分たちを縛ることになったものの延長に触れながら、彼女たちはこれからも生きてゆく。そして、彼女たちがお互い接触することで生まれたもの、それがまた彼女らの新たな生き方を形作るのだ。

 

野村亮馬『インコンニウスの城砦』

インコンニウスの城砦 (馬頭図書)

 

あらすじ

  氷期を迎えつつある惑星。少しでも温暖な赤道面を巡り、世界は北半球と南半球に分かれて争っている。「深い湖」のカロは、孤児院から南半球側の密偵に志願した少年だ。彼は北半球側が建設中の56号移動城砦――その地下工廠に潜り込み、そこで見聞きした情報を持ち帰る任務に就く。

 燃素管動作試験助手として首尾よく潜りこみ、同じ密偵で指導係のニネット、先輩のニドらとともに密偵としての日々を過ごすカロ。56号移動城砦の情報を探る彼ら南半球側は、同時に城砦攻略のためのゴーレム――戦略巨像を建設中であった。カロからの報告が、戦略巨像の仕様を決定づける。

 両陣営ともその兵器を着々と建設してゆく。そして、カロたちが潜む街に北半球の皇帝、インコンニウスが凱旋してくる。移動要塞が起動する日が近い。カロたち密偵たちは来るべき戦闘に向けて動き出す。そして、同じように北半球側もその動きを察知していた……。

 

感想

 なんというか、まずその世界観に魅せられる。緻密に描かれた、少し絵本のおとぎ話のような雰囲気。北と南に分かれているわけだが、北側は魔術を科学に援用しているような国家で、南側は北側が掠め取っている魔術の大元たる神人たちが支援している国家という感じだろうか。北側の科学と魔術が混交している感じがとても面白く、特に物語の根幹にある燃素管――召喚魔術を故意に失敗し続けることでその神からエネルギーを掠め取っているという要素は、その世界を象徴している。あまりはっきりとは語られないのだが、北と南の人間同士の争いの他に、魔術を不正に使う人間とそれをよく思わない神人との対立があったりして、物語に深くは関わらないが、そういうさりげない二重構造が作品世界の奥行きを感じさせるものとなっている。

 物語そのものとしては、密偵として移動要塞で働くカロという少年を中心に淡々と進む。カロはあまり感情を表に出さない。カロと深く関わることになる指導&監視係のニネットも笑みを見せることなく、硬い表情で敵情を探るという緊張感の中、カロをじっと見つめるのみだ。そのぶん、先輩のひょうきんなニドやカロが助手として付く仕事場のサグマ老人たちが、その緊張で凍てついた物語に少し明かりをともすような存在となっている。

 そして、だからこそどこか冷たいカロとニネットの二人の姿が印象深く浮き上がってくる。ニネット――眼鏡の奥で厳しい目をした女は、カロを世話しながら密偵としてのカロを監視している。裏切るな、彼女はカロにそう繰り返す。彼女の過去は詳しくは語られない。しかし、裏切りによって多くの仲間を失ってきたことは伺える。はたからは姉弟のように見えながら、しかし、二人の距離はあくまでつかず離れずのまま、取り立てて通じ合うような描写ははっきりと描かれない。しかし、その二人の微妙なあるかなきかの、視線を交わしてはそのまま通り過ぎてしまうような関係性が、この漫画の核のような部分だ。

 カロもニネットも特に内面を言葉や心の声で吐露するような場面はない。しかし、微妙な仕草は描かれている。それぞれを見る視線や一人の時の表情。そんな彼らのかすかな機微をたどり、物語はあくまで静かに、だが決定的なカタストロフを経て、憎悪の目を向ける者、そしてそれを受け止めるしかない者が交錯し、彼らを取り残すようにして物語は終わる。

 鮮烈というよりは降り積もる雪のように、堆積するしかない何かを見ているような終わりが読者に訪れる感覚。どこかやりきれなさを含んだ、しかしとても印象深い物語だったと思う。個人的にはなかなか言葉にしがたいものが描かれていて、とても好きなタイプの漫画だ。

ライミ印の笑えるホラー:映画『スペル』

 サム・ライミ作品。『死霊のはらわた』を観れば分かるが、彼のホラーはきちんとしたホラー演出で驚きつつも観てるうちになんだかドツキ漫才というか、スプラスティックコメディめいた展開になっていき、ついには恐怖よりも笑いが先に来るようになるのだ。

 この映画もまた、そういうライミ印のホラーコメディとなっている。怖いの苦手という人も結構楽しめると思うので、迷っていたらぜひ。あ、でも視覚的にキタナイ描写は結構あるよ。

 

あらすじ

 クリスティン・ブラウンは銀行で融資を担当している。彼女の目下気がかりなことは、いまだ空席になっている次長の椅子。支店長はクリスティンの可能性が高いと言ってはいるが、アジア系男性の同僚スチュにも目をかけているようだ。クリスティンは積極的にアピールする。彼女には大学教授の交際相手がいて、結婚を前提に考えている。しかし、彼の母親はもっとふさわしいキャリアを持った女性を望んでいる。ここはどうしても確かなポストが欲しい。しかし、支店長はすかし、曰く決断力のある者が望ましいというのみだ。日々、焦りを募らせるクリスティン。そんな彼女の前にローン返済の期限を延ばしてほしいという老婆が現れる。ハンカチに痰を吐いたり入れ歯を取り外したりでなんだか、あまりいい感じのしない老婆。クリスティンは支店長に相談するが、支店長は彼女の判断に任せるという。決断力……次長の椅子……クリスティンは意を決し、支払期限の延長を拒否する。家を奪われることに老婆は絶望し、クリスティンに嘆願する「どうか、どうか家を奪わないでちょうだい、あたしゃ行くとこがないんだよ!」ついには頭を下げる老婆。異様ともいえる狂態にクリスティンは警備員を呼び、老婆を連れ出してもらう。「こんなに頼んでいるのに! あたしに恥をかかせたね!」絶叫する老婆。

 その場は事なきを得たかに見えた。しかし、仕事が終わり、地下駐車場に出てきたクリスティンは異様な空気を感じる。いぶかりながらも車に乗り込んだ彼女の後ろに異様な影が映る。あの老婆が潜んでいたのだ。取っ組み合いになる二人。ついに老婆はクリスティンのコートの裾のボタンをちぎり、呪いの呪文を唱える。三日後にお前は地獄に行く、そう言い残して老婆は姿を消した。

 その後、恋人に連れられ帰宅する途中、クリスティンは導かれるように、霊能者の看板を目にし、ドアをくぐる。心理学教授の恋人ははなから疑いを隠さないが、クリスティンを視たその霊能者ラム・ジャスは態度を一変させ、お代は結構と彼らを追い出した。不安を募らせるクリスティン。そしてそれはやってくる。彼女に憑いたモノ――ヤギの角を持った悪霊――ラミアは部屋にいた彼女を襲い、壁にたたきつけて風のように去っていった。それからなおも彼女に襲い来る悪魔の影そして悪夢。クリスティンは許しを請うため老婆の家に急ぐが彼女はすでに死んでいた。

 最後の手段として霊能者ラムのつてをたどり、かつてラミアと対峙した霊能者サン・ディナにすがるクリスティン。サン・ディナによる除霊は果たしてクリスティンを救えるのか。悪魔を迎え撃つ、その夜が訪れようとしていた……。

 

感想

 ようやく観たのですが実にサム・ライミらしいホラーでした。私は『死霊のはらわたⅢ』こと『キャプテン・スーパーマーケット』が大好きなのですが、あれほどハチャメチャではないにせよ、思わず笑ってしまうシーンが目白押し。もちろん、ホラーという軸はしっかりとあるので、そういう恐怖演出はしっかりとあります。

 サム・ライミのホラーというのは、一風変わった感じというか、ガチで怖がらせるというよりは、幽霊とか悪魔とかが積極的にぶん殴りに来て(そう、呪いがどーとかよりもライミの霊はドツキに来るのだ)、そうやってぶん殴られているうちに、どこか思わず笑ってしまうようなドタバタ感が浮き上がってくるのがミソ。「死霊のはらわた」シリーズだと、アッシュが死霊に吹っ飛ばされてどっかにぶつかると頭に何か落ちてくるとか、右手に悪霊が取り付いて、自分の右手にどつかれて格闘し出したりと、サイレントちっくなドタバタがいつしか恐怖を塗り替えてゆくのです。

 この映画もそんなライミの味が詰まったホラーとなっています。この映画の呪いの主体であるのはラミアという悪霊なのですが、それを食うほどのインパクトを持つのがやはり冒頭の薄気味悪い婆さん――ガーナッシュ夫人。死んでからもクリスティンの悪夢の中に登場してはキタナイものをクリスティンにぶっかけます。しかし、ほんとクリスティン役のアリソン・ローマンが体を張ってるというかなんというか(大体CGだとは思うけど)……鼻や口に蠅が入るは、チェンソーマンの主人公張りにゲロやそれに類するものを口に注がれるは、あげく老婆のフィスト(拳)が口に……。もうめちゃくちゃですので、そこを眉をしかめるかゲラゲラ笑えるかが、この映画を楽しめるどうかというところ。

 流血シーンは一応ありますけど、ヒロインの漫画みたいな鼻血ぶーから、ゲロみたいに血を吐くシーンですので(しかも人にぶっかける)ちょい引くかもしれませんが、結構笑えるシーンとしての流血デス。

 主人公のクリスティンは、ちょっと理不尽な感じで呪われて、なんだかんだでひどい目に合うヒロインというふうに一見見えたりして、最後の最後はちょっとヤな感じになる人もいるかもしれませんが、全体はあくまで彼女の主観でしかなく(特に老婆は悪い人ではないのだ。彼女から見たらなにか汚らしい感じに見えているだけで)、引いてよく観るとこのクリスティンもなんか自己中なヤな奴なのでは? という感じに見えてきて、果たしてただただかわいそうな子ヤギなのかどうなのか。ホントの姿はどんなものか――そこも注目して観るといいかもしれません。なかなか怖くて笑えて、味のある映画だと思います。

 サム・ライミはやっぱこういう感じが好きだな。

 あらすじって、正直書くのが一番メンドイ部分なのだが、たぶん一番読まれない部分だろう。しかし、何故か書かないと先に進めない気がして、わりとあらすじを書こうと頑張って、そして書きかけのモノがたまっていくのだ……。まあでも、そもそもあらすじを書くのは、誰かのためというよりはほとんど自分のためというか、自分がどんなものを読んだり観たりしたのかをもう一度再構成するためのものだ。そんなわけだから、あらすじをきちんとかけないのは、あんま自分の中に入れられてなかったのだろう……ということにして諦めをつけるのだ……のだ。

 あらすじ云々はともかく、実のところ、一気に思い切ってやらないとダメというか、時間が経てば経つほどヤバくなる。なんとか形になった『さよならの朝に約束の花をかざろう』の感想は結構ヤバくて、母とは何か、みたいな手に負えそうもないことをグダグダ考えてて纏まらず、半年以上の時間が過ぎ、後半部を無理矢理まとめて結局ああいう感じになってしまった。しかし、それでもこれは何とかまとめられた例外であり、そんな感じでいちおう序盤だけちょろちょろ書いて捨て置いてるのが、二十くらいあって、時々未練がましく数行書いて消したりしているが、たぶん形にはならないだろう。

 思い切って消せばいいと思うが、なかなかできないでいる。

レオーネという西部劇の思いで。

 マカロニ・ウエスタン、結構好きなんですよ。まあ、どのジャンルに対しても言えるんですが、マニア的な取り組みで臨んでいるわけではないので、半可通ではあるんですが、大学生のころに結構ハマって、観てたことがありました。

 最初に観たのは、あの三大レオーネの一人にして、筆頭のセルジオ・レオーネによる『荒野の用心棒』(原題:一握りのドルのために)という、正道にして異端な所から入っていったわけです。この作品については、『用心棒』のほとんどコピー*1ということは、よく知られたことではありますが、個人的にはあんまり気にせず、むしろ最後の決闘シーンは、別個のアイディアによって独自のカッコよさを作り出していて大好きです。

 そんなわけで、レオーネから入っていったわけですが、マカロニ・ウエスタンというものは、むしろレオーネ的なマカロニは少なくて、というかレオーネが場所を確保して、かれ自身は早々に違う場所へと歩み去ったその場所で、短い間咲き誇ったあだ花、それがマカロニ・ウエスタンだったように思います。その中の筆頭がセルジオ・コルブッチであり、ジャンルとしてのマカロニ・ウエスタンというものは、レオーネの『荒野の用心棒』と彼の『続・荒野の用心棒』を源流としてスタイルを獲得していった。なんていうか、平成ライダーでいう、クウガとアギトのような関係が、レオーネ(『荒野の用心棒』)とコルブッチ(『続・荒野の用心棒』)だったみたいな感じでしょうか(分かりにくいか)。……まあ、異論はあるでしょうが。

 とにかくそんなわけで、レオーネがマカロニのスタンダードだと思って入ってみたら、なんか違った、そんな感触だったのです。正道にして異端と言ったのはそういうわけです。マカロニファンという人たちも、レオーネの『続・夕陽のガンマン』以降はあまりいい評価してない感じで、長くて大げさ、みたいな反応を結構見かけました。作品時間は短く、予算は少なく、アクションは派手に。そういう、早い、安い、うまい、みたいな軽食堂的作品群がマカロニ・ウエスタンの真骨頂というわけであり、まあ、実際のところそうだったわけです。

 とはいえ、そういうマカロニの本道も好きな自分ですが、やはりレオーネの西部劇というのは、特別な思い入れがあるのです。そんなわけで、今回はレオーネ作品について短く思い入れを語ろうかと。(前回『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』やりましたけどね……)

 

  とりあえず、この第一作。『荒野の用心棒』(原題は『一握りのドルのために』)。黒澤のパクリだぶーぶーというのは、散々聞かされて観たんですが、個人的には三回ぐらい寝てようやく履修した『用心棒』のおかげかなんなのか、かなり楽しく観れて、これによって、本場のアメリカの物を含めた西部劇というものに目覚めた思い出深い一作です。もうね、最後の決闘シーン、あのあんま意味のないダイナマイト(『用心棒』の霧の中から現れる再現なんだけど)による砂塵がゆっくりと、そして一気に流れ、中からイーストウッドが現れる場面のクソかっこよさ! マジね、何度見てもしびれますね。カット切るの早いんじゃないの、とは思うんですが、あの一瞬の残像みたいな切り方が、何度も観たくなる一因になっているのかも。レオーネと言えばのクロースアップは、この映画の場合イーストウッドの顔以上に、超ローアングルで撮られる足元のドアップ――インパクトありつつ、その構図のカッコよさがビリビリ来ます。

 『用心棒』のパクリだなんだとは言われますが、独自のアレンジ――キリスト教圏的なアレンジが興味深い所。ロバ(騾馬だけど)に乗って現れ、責め苦を受けて復活し、敵を倒して去っていく。まあ、いえばキリストのイメージが刻印されたこの映画は、文字通り、史劇ブーム*2が終わり、いったん翳った当時のイタリア映画界の救世主(ちょっと言いすぎか?)となったわけです。

 まあそれはともかく、マカロニの基本パターンの一つというか、基礎の基礎がこの映画であります。どこか陰のある寡黙な風来坊。どこにも属さず、正義のヒーローとは言い難い彼が現れた街には、悪党どもがはびこる。悪党たちと対立した彼は、一度は痛めつけられ、死の淵に追いやられるが、窮地を脱し“復活”を遂げて敵を討ち、街を去ってゆく。マカロニはだいたいこれです。上げて下げて上げる、超スーパー簡単な三幕構成。この単純な器に、あの手この手で娯楽を盛る。やがて飽きられるその日まで。十年にも満たないがそのものすごい情熱の数々が、ここから生まれていくのです。

 

  『荒野の用心棒』が世界的にヒットし、ヨーロッパ製西部劇がそのジャンルとしての産声を上げ、予算が大幅アップされたレオーネの二作目。原題は『もう一握りのドルのために』。まあ、『夕陽のガンマン』がカッコいいですよね。

 レオーネのストレートな娯楽性の頂点というか、マカロニ的な面白さが詰め込まれた作品で、マカロニファンはこれが一番好きという人が多いですね。マカロニ基礎パターンの一つ、賞金稼ぎ、そして復讐物のマスターピースですね。

 前作は二つの悪党一家が対立するなか、風来坊がその中をふらふらする『用心棒』プロットでしたが、今作は悪党一家の賞金首を巡って、二人の賞金稼ぎがライバルとして牽制し合い、実力を認めて共闘するストーリー。イーストウッドとともに、マカロニ・スターの一角となったリー・ヴァン・クリーフがカッコいい。実はこれ、彼が演じるモーティマー大佐のお話なんですよね。原題とは無関係ではありますが、ラスト大佐だけ夕陽を背負っているように見えるし、夕陽とともに去っていくのは大佐なのだ。

 

  はい、来ました最高の映画です。続とついてますが、『夕陽のガンマン』とは何も関係はないです(そうでもない部分もあるが)。原題は『善玉、悪玉、卑劣漢』という感じ。今回はマカロニの基礎パターンの一つ、隠された財宝を巡る争いです。主人公は原題にある通りの善玉(クリント・イーストウッド)悪玉(リー・ヴァン・クリーフ)卑劣漢(イーライ・ウォラック)の三人で、今回も看板はイーストウッドですが、実のところ主人公は“卑劣漢”のウォラック演じるトゥーコ――文字通り汚いおっさんです。イーストウッドも、最初の一人が二人になり、今度は三人となり自分の役どころが希薄になっていくことを感じ取っていたようで、今作を限りにレオーネと袂を分かつことになります。とはいえ、ウォラックと同程度に見せ場はあるし、ガンファイトはやはり彼。

 しかし、その冒頭で紹介される“卑劣漢”――トゥーコの登場シーンのインパクトは、かなりスゴイ。なにせ骨付きチキンを口に窓ぶち破ってくるんですよ? 漫画かよ。そして、喜怒哀楽の激しい彼とイーストウッド演じるブロンディの珍道中がこの『続・夕陽のガンマン』という映画なのです。墓に隠されたという財宝を巡り、無法者たちが南北戦争の中を駆けずり回る、痛快無比な一大エンターテインメント。あの『エル・トポ』とかにも影響を与えちゃったり、後世に与えた影響は大きなものがあります。特にタランティーノとか。

 確かに主にマカロニファンが言うように長いと言えば長い。私もトゥーコとブロンディが南軍の捕虜になるあたりで途中休憩し、お茶でも飲むか―と薬缶に火をかけたのですが、そのまま続きを観て観入ってしまい、薬缶を空焚きするというちょっと怖い事態に(イヤホンしてたのも半分は原因ですが。しかし、薬缶の音に全く気づかなかった……)。クライマックスのエクスタシー・オブ・ゴールド(モリコーネの傑作)がかかるシークエンスは本当に映画史に残る場面ですので、そこまで絶対観るのです。おじさんが墓地の中を駆け回るだけなのにどうしてこんなに感動するのか。映画の奇跡を、もし観てないのならぜひ。そしてそのまま、また最高にかっこいい決闘シーンになだれ込む。ベストオブベストの決闘シーンに刮目せよ!

 なんとなくですが、善玉、悪玉、卑劣漢、というのはトゥーコというセコイけど情に篤い人間と天使と悪魔の話なのかなーという気もしています。まあ、ブロンディが善玉というのはトゥーコの最後のセリフのように、突っこみたくはなるのですが、なんだかんだでブロンディはトゥーコの守護天使だったようにも思うのです。

 そして、この映画から、レオーネは時代という大きな枠とそこで奔走する人間たちという構図の中で映画を撮るようになっていきます。

ウエスタン [Blu-ray]

ウエスタン [Blu-ray]

 

  原題『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスタンウェスト』。邦題は『ウエスタン』。レオーネによる歴史と人間の第二弾。まあ、これについてはこの前書いたので、それを読んでください。

kamiyamautou.hatenablog.com

  つい最近まであんま評判良くなかったし、マカロニファンは大失敗作とかマカロニじゃないとか、結構言ってたよーな気がするんですけどね。まあ、当時というよりは、タランティーノを代表するように影響を受けた後世の人間が増えたことで、ようやく正当な評価を得るようになったと言っていいのかもしれません。今ではレオーネの西部劇の最高傑作とも評され、実際その叙情性に満ちた雄大さはそれにふさわしいものがあります。

  原題は『伏せろクズども!』という感じらしいですが、邦題の『夕陽のギャングたち』が分かりやすいと言えば分かりやすい……かな。

 レオーネ最後の西部劇はマカロニの一大ジャンルであるメキシコ革命もの。まあ、そもそもメキシコ革命ものって西部劇なのか? という疑問はありますが、そこはそれ。

 山賊のファン(ロット・スタイガー)は革命闘士崩れにして爆弾使いであるジョン(ジェームズ・コバーン)と出会い、彼に半ばそそのかされる形で革命という大きな渦の中に知らず巻き込まれてゆくことになる。これは、時代に翻弄される何も知らなかった男の物語。

 これもすごい映画なんですよ。こちらは『ウエスタン』と違い、興行的にも失敗し、やはり多くのマカロニファンからは無視されてしまった作品ですが、貧しい何も知らなかった山賊の男が図らずも革命に巻き込まれ、革命とは何かを問い、自分とは何かを問われる。原題の「伏せろクズども」というのは、目を背けて知らないふりをしろという含意もあるわけで、そんな革命を巡る様々な人間の思惑や姿が描かれたこれまた重厚な映画となっています。これもきっと再評価されるでしょう。

 この映画、爆破シーンがすごくて、『続・夕陽のガンマン』でも橋を吹っ飛ばしてましたが(しかも結構大きな破片が役者のすぐそばをかすめる)、今作の石造りの橋を吹っ飛ばすシーンは、これまた映画史に残る美しい爆破シーンです。

 革命、そして自由を求めた男たちの友情の行方は――レオーネ渾身のクロースアップが、何もかもを失った男をそこに永遠に立ち尽くさせる。個人的にかなり印象に残るストップモーション映画だったりしますね。

 あと、かなりどうでもいいのですが、この映画のコバーン演じるジョン――私は彼でアニメ『白鯨伝説』に出てくるコバ爺さんという、同じように爆弾を使うキャラクターを思い出すのです。キャラクターボイスは吹き替えと同じ小林清志。コバ爺さんはキヨシという犬を連れていて、どちらも小林清志がネタだと言われているのですが、着こんだダスターコートに爆弾を仕込んでいたり、バイクに乗ったその類似した姿に、コバ爺さんのコバはこの映画のジェームズ・コバーンのコバなのでは、と密かに思い続けているのです。

*1:まあ、剽窃ともいう……どのみち源流はハメットの『血の収穫』ということで落ち着く。

*2:俗にサンダル映画と言われた

怪奇とトリックが横溢する怪人賛歌:根本尚『怪奇探偵 写楽炎』

 探偵小説、そんな言葉聞いて何を思い浮かべるでしょうか。怪奇色にあふれた血みどろの惨劇、異様な姿の怪人、大胆不敵なトリック、そしてそれらに敢然と立ち向かう名探偵。なんというか、江戸川乱歩的な風景を思い浮かべる人ならばぜひ読むべき漫画があります。それがこの怪奇探偵 写楽炎シリーズです。このシリーズは、その怪奇に彩られた乱歩的な下地に、この世界ならではのトリックとロジックが組み込まれた見事な本格ミステリであり、乱歩な世界観で本格探偵ものが堪能したい向きにはこたえられない魅力を放っています。そういうのが好きならば、是非是非と強くお勧めしたい。

 なにせ、犯人たちはみな、オンリーワンの異形に身を包み、“怪人”として女子高生探偵写楽炎とその助手カラテ君こと山崎陽介の前に現れるのです。一つ目ピエロだの蛇男だの蝋太郎……ets。実に面妖なメンツが目白押しで、常に彼らは名探偵に挑戦状を突きつけ、犯行予告を行い、凝り凝りのトリックを自慢するように披露する。効率? 労力? だからなんだ。そういう「常識」で突っこんで、いかに自分だけが認識する「現実」とやらに近いかを査定し、採点する「読み」というモノサシ――それが取りこぼす別種の楽しさや面白さ。ここにあるのは、そういう現代本格云々に矯正されることのない、かつてあった名探偵物語の輝きなのです。

  変な気炎を上げてしまいましたが(まあ、私はそれでも「リアリティ」を毛嫌いしてるわけじゃなくてそうあるべきみたいな思い込みが嫌なんだ)、とにかく奇怪な事件とそれにふさわしいトリック満載で、そして何よりも全編を支配している恐ろしいトーン。

 実は、恐怖が支配していることが、この作品の大きな特徴でもあります。犯人たちは二つほどの例外を除き、かなり残忍で人間について物のような認識で殺人を行う。というか、犯人以外の人間たちもどこか人を人と思っていないような雰囲気があり、割とあっさり人殺しをしそうなのです。実際、あっさりと人を殺す側に回ったりします。主人公たちが普通のほのぼのとしたキャラであるぶん、その周りの異様さが際立つのです。

 同情や共感みたいなもののよりどころになるような人間というものが、ほとんど存在しない。そういう世界観が作り出す恐怖感というものが、全編に漂い、なんというかいつ殺されてもおかしくない「怖さ」が横溢しているのです。そのじっとりとした世界の恐怖もまた、このシリーズの魅力の一つではないかと思いますね。また、そのぶん、主人公の写楽炎の可愛さみたいなのが際立っています。殺伐とした世界によって輝く彼女のキャラもなかなか魅力です。反面、カラテ君もとい山崎君はモブですが……。あと、刑事たちも躊躇なく銃を撃ちます。レギュラーの刑事はモーゼル社製みたいな拳銃を使ってます。多分犯人撃ち殺しても処分とか特にない。

 

  現在、シリーズは三冊にまとめられ、それぞれ電子書籍で販売されています。それでは、それぞれについて、詳しく話していこうかと。※ネタバレなしで頑張ります。

  こちらには、表題作の『蛇人間』のほか、最初の事件である『一つ目ピエロ』以下『血吸い村』『踊る亡者』の四作を収録。

 まず、『一つ目ピエロ』ですが、この作品というか、漫画ならではの絵による伏線が随所にあり、また、この作品世界特有の恐怖感が、あの時違う行動をとっていたら……という形で現れ、そこがゾッとするところです。

『血吸い村』

 隠れキリシタンと吸血鬼伝説に彩られた村で起こる殺人事件。カラテ君の空手部に入部してくれた新入部員が殺され、炎たちは彼の家族を狙う怪人吸血鬼に関わることになるのだが……。

 吸血鬼事件にふさわしい血塗られた殺人道具とトリック。なかなか面白いトリックが使われていて、それをこの舞台装置の中で生かす逆算の発想で設定などが作られていった感じがしますね。

『踊る亡者』

 ヒトデの生態調査に向かった写楽炎とカラテ君。海岸から見える崖は有名な自殺スポットであり、彼らはそのスポットのおぞましい真実を知ることになる……。

 トリックは特にないのですが、やはり絵をうまく使った伏線とロジック、そしてなんといってもおぞましい怪人とそのおぞましい発想が光る好短編。中核の発想は忘れがたいインパクトを残し、その“亡者”たちの光景も怪奇探偵シリーズらしさ爆発でなかなかです。

『蛇人間』

 異様な怪人蛇人間が蛇にとり憑かれた一族を襲う。第一巻の掉尾を飾るこの作品は、シリーズにおける村ミステリの集大成みたいなものがあって、怪しい伝説を中心に組み立てられたプロット、トリックが見事です。気がつく人は気がつくでしょうが、ああいうトリックの発想は大好物です。

  この二巻には、一巻とはまた毛色の違った作品が収められていて、表題作の『妖姫の国』の他『クイズマスター』『蠍の暗号』『歪んだ顔』『影絵』の5作品が収録。この巻はまあ、比較的犯人の造形がマイルドです。あくまで比較的ですが。

『妖姫の国』

 写楽炎がアリスの不思議の国に拉致される、という奇妙な出来事から始まる怪盗との知恵比べ。これはなかなか巧い。個人的にはこの作品が一番好きかも。犯人の労力はものすごいですが、その二十面相的な所も好きですね。衆人環視の中のダイヤの消失とその解明から浮かび上がる驚きのからくり。意外性のあるいい切れ味です。ヒントとしてのある不思議な描写も良いですね。

 犯人の造形も凝っていて、その犯人像も印象に残ると思います。また、この事件から事件についての追補が付くときがあり、この作品では犯人の生い立ちが語られますが、後の作品でもこの追補が色々と面白い使われ方をして、より作品を引き立たせていきます。

『クイズマスター』

 「クイズは戦いなんだよ!」――三問間違えれば死が待つクイズ。回避するには先に三問正解するしかない。クイズマスターを名乗る謎の怪人に囚われた写楽炎は、その死のゲームに強制的に参加させられる。はたして炎はクイズマスターのクイズに打ち勝てるのか。

 ええと、犯人はヤバい人ですね。頭おかしいです。犯人当て的な要素もありますが、ロジックは控えめというか根拠が弱い気もします(それこそクイズっぽいのでこの一編らしいと言えばらしいのかもしれない)。とはいえ、メインはあくまで死のクイズによるサスペンス。あとなんかちょっとエロチックですよね。まあ、炎さんは結構な頻度で囚われてヒドイ目にあうのですが、その辺、昔のパルプな囚われの美女感があるような。

『蠍の暗号』

 次は暗号もの。仲間に裏切られた盗賊団のリーダーが、現金輸送車を襲った際に隠した金を示す暗号。天体観測中に写楽炎は、その襲われたボスから暗号文を受け取るのだが……。

 直接的なヒントもですが、シチュエーションもさりげなく伏線になっていて、分かる人にはあからさますぎるのかもしれないけど、その全篇がヒントとして構成されている感じはとても巧いと思います。そして、強盗団のリーダーから最終的に受け取るもの――そこに奇妙な魅力を感じる写楽炎。探偵と怪人が紙一重であることをかすかに匂わせる印象深いラストです。

『歪んだ顔』

 かつてATM強盗のためにシャベルカーが盗まれた際、頭を潰された建築会社の社員がいた。犯人はその後、盗んだシャベルカーで犯行を成功させ、行方をくらます。警察が後を追ったが、逮捕は叶わず十五年の時効が成立して大手をふるって生活していた。しかも宝くじまで当てた大金持ちとなって。そんな犯人の老人に、かつて殺した社員の“歪んだ顔”が迫る。

 全体構図がなかなか巧いというか、犯人についてのある種のずらしが効いています。また、犯人による犯行計画のわずかなズレが、不可能犯罪を生み出す事件の形もなかなか。あと、ラストはかなり怖い。このシリーズならではの恐怖感ですね。

『骸絵』

 過去、墓場から少女を掘り出し、それが朽ちてゆくさまを様態ごとに描く――現代の九相図事件と呼ばれた事件の画家――生血多賢が描いたとされるその「骸絵」を巡り、謎の怪人“骸絵師”の影が探偵写楽炎に忍び寄る。

  今回の事件は、骸絵の変化というか、絵の真の姿を見せてやる、という骸絵師の予告通りに、一枚の少女の絵が刻々と朽ちてゆく少し変わった謎がメインですね。衆人環視のなか、絵を見守るのは、予告も含めて怪盗物的な趣があります。しかし、このそこまで事件性がなさそうだった事件は、犯人の真の意図が明らかになるとおぞましい顔を見せるのです。それこそ骸絵のように。

  第三集には、表題作の『蝋太郎』他、『幽霊の刃』『死人塔』『冥婚鬼』『怪人X』と個性豊かなラインナップが待っています。結構おぞましい話が多い(いやまあ、だいたいそうなんだけど)。ゾッとするホラー感が増しています。

『蝋太郎』

 かつて資産家を襲って金を奪った男たち。資産家の金で起業した彼らを一人一人と殺し、蝋人形にしてゆく怪人蝋太郎。死んだはずの資産家の怨念か、その関係者の復讐か。はたまたなんの関係もない者の仕業か。蝋で満たされた密室シェルターの謎を、写楽炎は迎え撃つ。

 蝋を生かしたトリックが光る一編。メインの密室の発想に気がつく人は多いでしょうが、完全に打ち破るには少し知識が必要。まあ、ある程度想像で打ち破れるかもしれません。もう一つの事件は組み合わせの妙が光る。あと、山崎陽介ことカラテ君が今回事件にさりげなく組み込まれている点もなかなかポイント高いです。色々とテクニカルな一編という感じ。しかし、この事件も陰惨な顛末を迎えるなあ。

『幽霊の刃』

 怪人幽霊男が会社社長を追いかけている場面に出くわす写楽炎とカラテ君。社長は彼らの前で踏切を越え、列車にひかれて即死する。しかし、何故か幽霊男は今度は炎たちに襲い掛かってくる。多数の目撃者の中、何故、幽霊男は二人を襲うのか。

 この事件は特に陰惨な事件ですね。謎解きはストレートですが、犯人の最後のセリフで、ん? となった後に追補的な形で描かれるものがとにかくヤバイ。ザ・猟奇なかなり後味悪い事件です。ミステリ的には、指紋の扱いがトリックとうまく結びついていて、それが犯人への推理につながるのが巧い。

『死人塔』

 仮面専門の怪盗、スパイダーが写楽炎の学校に現れた。音楽室にあった珍しいアフリカの仮面を盗んだスパイダーは、次にとある彫刻家が持つ喜怒哀楽の四つの般若面を狙う。しかし、そこには知り合った彫刻家に半ば強制的に招かれた写楽炎が。彼らに追いかけられ、彫刻家宅近くにそびえる木造の塔――通称死者の塔に追いつめられる怪盗。しかし、スパイダーは塔から忽然と姿を消してしまう……。

 すごい力業なトリックが光る。というか、犯人凄すぎる。かなり思い切ったトリックですが、そのための状況設定などをきちんと手掛かりを織り込みつつ作り上げています。怪盗スパイダーの正体についてもなかなか面白い。あと、ぎょっとしつつもスルーされる要素*1がなかなか面白い試みだと思いました。

『冥婚鬼』

 死んだ未婚の人間を結婚させる――それを生業とする鬼。自らをそう自称する冥婚鬼に写楽炎はさらわれ、とあるベストセラー作家の死体に娶せられそうになる。生者は殺し、死体を括って夫婦となる――間一髪で救出された炎は、冥婚鬼なる怪人の真意を探り始める。

 今作の犯人は、これまでとは違ってエキセントリックさは控えめ(いやまあ、やってることはかなり異様なのだが)。動機も結構俗っぽい。見どころは、炎の犯人特定ロジックで、地味ですが言われてみればな伏線とその描写。事件自体は結構カチッとした印象です。

 しかし、この作品は追補によって恐怖が倍加するというかというか、そこからが本番。その見開きの恐ろしさにぞっとします。

『怪人X』

 夏祭りに来た写楽炎とカラテ君。祭りを楽しむはずが、刑事が現れ、彼によると怪人Xなる人物から祭りの中に死体を隠したとする犯行声明が届けられたという。炎はその場所としてお化け屋敷に目をつけ、刑事とともに中を慎重に探ってゆく。そしてやはりそこで死体を発見するのだが……。

 この事件、いままでの形とは少し違った“怪人”の関わり方という感じですね。見つかった死体は何故ミロのビーナスのような形で塗りこめられていたのか、という謎はなかなか面白いです。あとまた、漫画らしい伏線の描写も。

 この作品は少し変わった“怪人”についてのアプローチ*2が面白いです。怪人Xって、一応由来はあるけど『幽霊の刃』の幽霊男くらい微妙な姿だと思っていたら……。

 

 以上、“怪人”を愛する人は是非是非読んでください。一応個人的な好みを挙げると、

『妖姫の国』『蝋太郎』『冥婚鬼』『蛇人間』『怪人X』あたりがベスト5でしょうか。あと『踊る亡者』もなんか好きかも。

*1:ネタバレ要素に少々抵触するので読んでから見てください:ここに登場する16歳の女子高生妻と年の離れた彫刻家に何かあるのでは……? という形で注意を引き付けるミスディレクト的な要素。

*2:ネタバレじゃないけど一応伏字で:怪人が別の怪人にバージョンアップする。

喧騒と静寂、新しい時代と去りゆく者たち:映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』

ウエスタン [DVD]

 Once upon a time in the west――むかしむかし、西部で。

 『ウエスタン』という邦題で親しまれてきたセルジオ・レオーネの一大叙事詩であります。そして今現在、そのオリジナル版が日本初公開で劇場にかかっているのです。一応、2時間45分版のそのオリジナルはDVDで観ることことはできます。が、劇場で観れるのなら観た方がいい映画。私も正直劇場で観たい。しかし、残念ながら文化的な僻地であるため、私の住むところで劇場公開はしていない(涙)。

 そういうけで、観たい!……という気持ちを押し殺し、DVDを観た。今回はそんな気分の話であります。

 セルジオ・レオーネと言えば、説明するまでもなく、いわゆるマカロニウエスタンをジャンルとして確立し、そしてあのクリント・イーストウッドを「西部の魂」として生み出した男。ドル箱三部作と言われる『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』を撮り終えたレオーネは、前三作でやりつくしたマカロニ・ウエスタンとは、雰囲気をがらりと変え、歴史を切り取るようなイタリア製西部劇を作り上げました。それがこの、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』なのです。

 もともとレオーネは、マカロニ以前にブームだったイタリア史劇映画のなか『ポンペイ最後の日』や『ロード島の要塞』などの作品を撮っていて、彼はもともと歴史からスタートしているのです。そして、ドル箱三部作の『続・夕陽のガンマン』にも南北戦争という形で、歴史というものが埋め込まれている。

 

レオーネのスタイルと歴史

 レオーネのスタイルといえば、顔の両目部分を四角く切り取ったような極端なクロースアップと、これまた人が豆粒にしか見えない極端なロングショットという組み合わせが特徴であり、その個人のクロースアップとそれが風景に溶けるようなロングショットが演出を越え、個人とその人が佇む時代という対比に至ります。その萌芽が、『続・夕陽のガンマン』であり、そこでは三人の無頼漢たちが南北戦争時代を駆けずり回る財宝探し、という形でカメラはその時代の中に浮かぶ人間たちを映し始めていきました。

 そして、レオーネがその構図を自覚的に発揮し始める作品がこの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』。時代は西部開拓時代の終焉。鉄道が西部に伸び、移民にとっての未知のフロンティアという場所がなくなってゆく時代。ガンマンではなく、事業者たちの、そして彼らに雇われる労働者たちの時代。そんなガンマンたちの風景の終りに、ハーモニカと呼ばれる名無しのガンマンが、文字通りハーモニカで挽歌を奏でる、そんな映画。そして、西部劇をオペラにしたというレオーネ節がそこかしこで観る者を引き込む素晴らしい一大叙事詩となっているのです。

 

 その評価

 この映画は、製作費500万ドルをかけた超大作ではありましたが、アメリカではドル箱三部作的なマカロニウエスタンを期待されたこともあり、興行的には失敗。評価もその前の三作同様、散々なものでした。一方、ヨーロッパではイタリア、そしてフランスで興行的な成功をおさめましたが、評価という面では同様に時間がかかりました。それは、同時代というよりは、その影響を受けた映画人たちが出てくるまで待たなければならなかったのです。日本でもヒットはしたものの、再評価には時間がかかりました。特にマカロニ・ウエスタンファンはジャンルにこだわるがゆえに芳しい評価はなかったように思います。自分がマカロニにはまってこの映画を観て、ネットや書籍で見た限りでは、マカロニファンからはけちょんけちょんか無視されていましたね。確かに、「マカロニ・ウエスタン」として観れば、時間は異様に長いし、展開は遅いし、キッチュな楽しさや露悪的な残虐性は乏しいです。しかし、この映画は映画としてものすごく雄大で、豊かで、そしてその映像を観る喜びに満ち溢れています。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』、それはマカロニ・ウエスタンというジャンルから生まれた、一つの偉大な映画として歴史に名を刻んでいます。

 

その主人公たち

 この作品は『続・夕陽のガンマン』同様、三人の主人公が出てきますが、前作と違う所はメインの主人公が女性であるということでしょう。マカロニウエスタン、いや西部劇としても珍しい女性が主人公なのです。それも女ガンマンというわけじゃなくて、一人の西部で生きることになった女性。クラウディア・カルディナーレ演じるジル。彼女がこの映画の主人公であり、チャールズ・ブロンソン演じる“ハーモニカ”やジェイソン・ロバーズ演じるシャイアンは二人で彼女のコインの裏という形をとります。

 新しい時代の象徴である、カルディナーレのジル。そして、終わりゆく時代をブロンソンやロバーズ、そしてヘンリー・フォンダらが演じるガンマンたちが象徴しています。

 ジルは女性で、“ハーモニカ”は先住民族、そしてなんとなくシャイアンはメキシカンっぽい。なんというか、マイノリティたちの映画、という気もしますね。

 

 とにかく音楽がヤバイ

 やっぱエンニオ・モリコーネの音楽ですよ。映画は半分が音楽というふうに言われたりしますが、この映画の音楽はとにかくヤバイ。その挿入するタイミング、そして音楽がやむタイミング――その瞬間にも注目です。特にジルが駅に着いてからのシーン、フォンダ演じるフランクがマクベイン一家の前に現れるシーンそして、ラストの決闘とジルが労働者たち水を配るシーンは最高すぎて涙出てきます。そして、音楽が鳴っていないシーンもすごい。特によく言われるのがあの冒頭の“ハーモニカ”が現れるまで。自然の音――風や風車、帽子に滴る水、そしてハエの羽音。様々な自然の音とそして静寂。標的を待つ男たちのジリジリとした焦燥が表現された素晴らしいシーンですね。

 

 改めてDVDを観て、その感想

 冒頭から、ジルが砂漠の途上にある酒場に到着するまではとんでもなく神がかってますね。もうほんとすごすぎる。ガンマンたちのセリフの応酬(「俺の馬がないな」「どうやら一頭足りねえようだ」「いや、二頭あまる」)からの決闘シーン。あのカッコよさ! なんといっても線路の前のブロンソンとダスターコートの刺客たちを背後から収める構図とカメラワークの見事さ!

 それから、駅につき、迎えがなく駅舎の中、マクベイン一家への道筋を訪ねるジル。その彼女を窓の外から収め、彼女が出ていくのに合わせてクレーンがアップし、開発中の町を収めるあのシーンは思わず涙ぐむくらい素晴らしいのです。(バック・トウ・ザ・フューチャー3でゼメキスが丸々同じことしてましたが、感動の面では及びません)ちなみに、ジルが到着した時のあの町は本物らしいです。馬車での移動時は張りぼてらしいのですが。あの町で25万ドルを使い、それは『荒野の用心棒』の制作費とほぼ同等だったとか。

 フランク一味がマクベイン一家を皆殺しにするシーンもすごいのだ。“いい人”を演じることが多かったヘンリー・フォンダのあの冷酷さが、当時アメリカでは相当なショッキングで、少年に銃を向けるシーンはアメリカ公開時はカットされたとか。一瞬の静寂から始まる悲劇と、荒野の向こうからやってくる悪魔たち。また、途中ハーモニカの回想としてインサートされる「砂漠の向こうからやってくる悪魔」の、あのゆらゆらと揺れる姿も素晴らしい場面の一つでしょう。まあホント、すごいシーン、素晴らしいシーンで満ちています。

 それから、開発中の町ですが、様々な人が行き来し、エネルギーを感じさせ、予算を感じさせるゴージャスなシーンも見どころですが、汽車が駅につき、人々の流れ、その喧騒が引いたどこか寂しい瞬間。そこがまたいいのです。この映画には、こういう静と動というか、一瞬の熱とそれが去る寂寥感が織り込まれ、それが、新しい時代の到来と去りゆくものの姿を映し出してゆきます。

 レオーネ念願のモニュメントバレーで撮影されたシーンもその雄大さが画面からガシガシ伝わってきて、そこでも何故かちょっと泣きました。ああ、スクリーンで観たい。

 とにかく、映像を観る喜び、楽しさに満ちていて、音楽の使い方も併せて、マジで泣きます。加齢で涙腺緩んでるのと自分のすぐ泣く性質も相まって、ラストは目が痛かったです。これぞ最高のピストル・オペラ。

 ただ、素晴らしいシーンが横溢している反面、正直、完ぺきとは言い難い映画だとは思います。特に中盤は、時系列がよく分からないシーンや混乱させるだけのシーンがあったり(特にジルとフランクのラブシーンとか、フランクがモートンを弄る謎なシーンとか)。異様に丁寧な序盤と最後の最後に比べて、中盤――ハーモニカ救出シーン以降はモートンの鉄道の位置とか、シャイアンの捕まって以降の行動の描かれなさとか、もう少し編集のしようがあったのではないかという部分はあります。が、そんなことはどうでもいいのです。

 とにかく、一度は見てほしいマカロニウエスタンの、西部劇の一大傑作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』。近くの劇場でかかっているのならぜひ。私の代わりに観に行ってください(涙)。

 

余談

 このような“ガンマンの時代の終り”を描いたマカロニとしては、本作の他に音楽をモリコーネ、レオーネが原案(一部演出をしたという“伝説”も)である『ミスター・ノーボディ』が印象深い。こちらは、終わりゆくガンマンの時代を、新旧のガンマン――若者と老人(ヘンリー・フォンダ)の姿を中心に描いていて、伝説のガンマン――その最後の伝説を、時代に乗り遅れてしまった若いガンマンが見届ける。それを、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』とは違い、どこか軽やかな感じで描いた作品です。「ワンス~」の後に観てみるのも一興でしょう。 

  ニコニコで見つけた映像が超カッコ良かったので載せときます。アレンジされたテーマも素晴らしすぎ。