蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

ここは、はるか遠くの国ではない:アンドレ・ジッド『ソヴィエト旅行記』

新たに作り直されたこの社会階級の上から下まで例外なく、最も評価されるのは、最も卑屈な者たち、最も迎合的なものたち、そして最も下劣な者たちである。

ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫)

ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫)

 

 ソヴィエト社会主義共和国連邦。かつて、そのような名前の国があった。人類史上初めての社会主義というイデオロギーによる国家。その壮大な理想国家の実験場だった国はすでにない。この国家が最終的に作り出したのは独裁者と、それが作る収容所と虐殺の世界だった。人類の究極の平等。その思想が建国して十年ほどで、すでにほころびを見せ始めていることが、その思想に共鳴し、ソヴィエトを訪問した作家の眼には映っていた。

 アンドレ・ジッドは一九三六年の六月から九月にかけてソヴィエトを訪問し、ソフホーズ〔国営農場〕やコルホーズ〔集団農場〕などの関連施設や街の様子――人々の食糧事情や子供たちの教育状況などを見てゆく。はじめは大きな期待を抱いて、感心した様子を書き綴っていたジッドだが、やがてその外国人向けに見せている姿の裏からにじむ理想国家の欺瞞を目の当たりにする。

 ここに描かれている社会主義国家の姿はどうせ過去の共産主義の失敗にすぎないとする人もいるかもしれない。しかし、それは早計だ。ここにある国家の姿はどこかの島国によく似ている。なにせかつて“理想的な共産主義国家”とまで言われたことがあったのだ。その影の部分はやがて理想的な部分が薄れてきた某国家と共通する部分が多分にある。それだけでなく、今現在世界中で起こっていることの、これはその相似形なのだ。だからこそ、この作品は今でも読まれる意味がある。

 帰国後、ジッドの『ソヴィエト旅行記』は共産党を中心とする左派陣営から強烈な批判が浴びせられた。はっきり言って、この「旅行記」はかなり穏当な書かれ方をしているが、それで猛烈な批判が起こったということは、当時、ソ連に対する左派知識人たちの理想、その思い入れの強さ――自分たちの理論の実践の無謬性に党派的な形で囚われていることがよく分かる。その後、ジッドは激烈な批判の反論として『ソヴィエト旅行記 修正』を著す。そして、この「修正」でジッドは本格的にソ連に対する批判を強めていく。

 ソ連を訪れた当初は、労働者たちとの触れ合いに感激し「向こうで撮られた私の写真が、どれもフランスではあまり見られないほどににこやかで、笑ってさえいるのも、そのためである」と述べ、さらに「向こうにいるとき、一体何度私は歓喜のあまり、優しさと愛に満ちた涙を浮かべただろう」とまで書いていたジッド。その後も文化公園での人々の様子や劇場、赤の広場で行われた若者たちの祭りにジッドは目を輝かせ、称賛を惜しまない。

 しかし、やがてジッドの眼はそんな己のまばゆい称賛に塗りつぶされない、うす暗いものを見つめ始めてゆく。ジッドが優れていたのは、その率直さだろう。それは持ち前の情熱についてだけではなく、なににおいてもそうなのだ。だからこそ、称賛の陰から見えてくるものをも率直に捉えてゆく。

 というか、まずソ連に来て間もないころの彼らの熱烈な称賛――ジッド自身のその酔ったような高揚こそが、覚めるための一つの要因だったようにも思える。ジッドたちは、列車の中で言い合う。“もしほかの国だったら”、こんなに瞬く間に、こんなに自然な真心にふれることができるだろうか、“もしほかの国だったら”、若者たちがこんなにも魅力的だろうかと。

 皮肉なことに、ジッドが称賛する人々が、逆に自らを称賛する姿に、その後かれは頻繁に出会うこととなる。外国にはこんなものはないでしょう、これは外国にありますか? そんなふうに嬉々として外国人に尋ねる民衆の姿。それは今でも、我々自身がよく知っている姿ではないだろうか。もっと言ってしまえば、それに類する安易な自己賛美番組や動画に脳が溶かされている国を私たちはよく知ってるはずだ。

 そして、民衆を見るうちに、ジッドはそこに怠惰の芽を見つけてゆく。モスクワの民衆のやる気のなさ。とある工場で彼らの話を聞いているうち、その仕事量があまりにも低いのではないか、という疑いをジッドは持つ。そして、無気力性とともに彼の眼にはその没個性的な人々の姿も浮かび上がってくるのだ。

 それだけが原因ではないにせよ、自己称賛は怠惰の芽の一つであるように思える。そしてそこには“無知”という魔物も潜んでいる。

 ソヴィエトの市民たちは外国のことを驚くほど何も知らない状態に置かれている。いや、それどころではない。彼らは、外国ではあらゆることが、あらゆる分野において、ソ連よりもはるかにひどい状態にあると思いこまされているのだ。この幻想は巧妙に維持されている。というのも、一人一人が――たとえ現状にほとんど満足していないとしても――もっとひどい状態に陥るのを現体制が防いでくれているのだと信じて、現体制を賛美するようにしておくことがとても重要だからだ。

  これなど、現在でも進行していることではないか。そしてそこからある種の<優越>が生まれるのも。そして、その例として学生の声を取り上げる。ソ連の学生の外国語があまりにも下手だということに著者は驚くが、彼は言うのだ「数年前ならまだドイツや米国が私たちに何かを教えてくれることがあったでしょう。ですが今ではもう私たちは外国から学ぶものは何もありません。だったら彼らの言語を話せたからって、何になるんです?」これもまた、どっかで聞きそうな言葉ではないだろうか。

 そして、その<優越>と並んで興味深い指摘が、「自己批判」についてだ。なるほど、我が国スゴイばかりじゃない。だが、ジッドはすぐに気づく。その「自己批判」なるものは、これこれのことが「しかるべき線(ライン)の中に収まっている」かどうかを問うものにすぎないのだということに。そこでは線(ライン)そのものは議論されない。そこにある自己批判の議論とは、ある作品なり振る舞いなり、理論なりといったものが、この神聖にして侵さざるべからざる線(ライン)に合致しているかどうかだけなのだ。

 誰も疑わないその線(ライン)という権威に従っているかが批判の対象となり、それをあいつは守っているか、という相互監視は密告へと人々を容易に導く。権力による規定そのものを疑わず、ただ守ることのみを相互監視で汲々としている――そんな姿もまた、私たちはよく知っているのではないか。

 このように、ジッドの旅行記を読んでまず思うことは、上記に書き綴ってきたことが、なんら遠い昔の出来事になっていないということだ。ここに書かれていることは、今なお続く私たちの現実でもある。ネットは広大だとはどこかの漫画やアニメのセリフだが、我々はその広大なはずのネットに「引きこもって」根拠のない優越感に浸り、同じような者同士がくっつきあって、「他者」を知ろうともせず、その中で醸成される自己本位な希望に安心感を得ているのではないか。そこにあるのは、より強いものの陰に隠れて安心し、異議を唱えるものを集団で冷笑する後ろ暗い信頼と希望である。

 ジッドはこの未来の状況もソ連において鋭く見据えている。貧しいことを罪として隠そうとし、それが知られると慈悲や援助を受けるどころか軽蔑されるのがオチであり、前に出てくる者はこの民衆の貧しさを犠牲にして安楽な生活を手に入れた者たちなのだ。しかし、そんなものたちに踏みつけにされているにもかかわらず、貧しいものたち――飢えに苦しんでいるような人でさえも――が、にこやかにしているのをたくさん見かける。彼らの幸福は「信頼と無知と希望とで」できているのだ。

 理想が無残にも崩れてゆく中にあって、それでもそれを見据えながら、作家の価値を「異議を申し立てる力」としたジッドは教えてくれる。大事なことは物事をそうであるとおりに見ることであって、こうであったらよかったのにという希望のとおりに見ることではない、と。そうであるとおりに見る、それはとても難しいことだ。そして、理想に魅入られるのでもなく、理想から目を逸らすのでもなく、そのとおり見据えた先に私たちが目指す希望をかける――そんなふうに果たしてできるだろうか。

 ジッドの旅行記は、今なお、我々を、我々自身がもつ「ソヴィエト」へと連れ出し、それを見据えるように促す。それははるか昔の、もしくは遠くの国のことではないのだ。

うつし世VS夜の夢:江戸川乱歩『大暗室』

 

大暗室

大暗室

 

  『大暗室』。乱歩の通俗長編の中ではタイトルからして比較的地味な印象で、特に語られることのない作品のように思える。筋立てもいつも以上に行き当たりばったりで構成も少々気が抜けているといわざるを得ない。よって、お世辞にもいい作品とは言えないかもしれない。しかし、この作品に描かれている悪の姿、それが夢想するビジョンは今となってはどこか予言的なものとなって我々の前にその廃墟をさらしている。

 『大暗室』は昭和十一年から連載が開始された。昭和十一年といえば二・二六事件やベルリン・オリンピックの年。国内外でやがて始まる戦争の足音が大きくなり、実際にその連載中に中国との戦争が始まる。時代は一気に戦時体制へと進み、探偵小説誌はやがて次々と廃刊してゆく。これまでの戦前の文化である探偵小説が終り始めている、そんな時代にこの作品は書かれた。

 とはいえ、これ以降乱歩が探偵小説全滅スと記す昭和一六年まで『緑衣の鬼』『悪魔の紋章』『地獄の道化師』『幽鬼の塔』といった通俗長編は書かれてはいる。しかし、それらとこの作品は少し趣きが違うのだ。この『大暗室』は『孤島の鬼』『盲獣』といった作品がほのかに見せていた、犯人の思想的観念的な形で犯罪を世界に向けて放出する、そんな路線の最後の作品のように私は思うのだ。そして、同時に魂の抜けた失敗作である、と。

あらすじ

 『大暗室』の基本的な話は善と悪の戦いだ。舞台は漂流するボートで幕を開ける。そこで救助を待つ三人の漂流者――有明友定男爵、その親友の大曾根大五郎、そして家扶久留須左門。遭難のなか重傷を負い、己を悲観し妻を案じた男爵は、かつて同じように妻京子を想っていた大曾根に京子と自身の財産を託す。男爵は友情からだったが、当の大曾根はそんなものはかけらもなく、元から狙っていたものが転がり込んできたのをこれ幸いと舌をなめずりしていた。しかしそれもつかの間、家扶の久留須が陸を発見する。それを機に大曾根は二人を処分しようとし、男爵を殺害したものの、久留須を取り逃がしてしまう。

 しかし、その後まんまと京子と有明男爵の財産を手に入れ、京子との子が生まれると大曾根は男爵の子であった友之助を事故を装い殺そうとする。間一髪、友之助は大曾根の前に再び現れた久留須に助けられる。久留須は有明男爵の最後、大曾根の本性を京子の前で暴露するも、大曾根は彼らを部屋に閉じ込め屋敷に火を放つ。久留須はなんとか脱出するものの、京子は焼死してしまう。残された友之助を正義の騎士として育てる久留須。一方、大曾根が京子に産ませた子、龍次は大曾根の残虐性をそのまま受け継ぎ、悪魔の下で順調に悪魔へと成長していた。そして、その呪われた兄弟たちはやがて東京を舞台に、二匹の蛇が絡まり合うがごとく死力を尽くした闘争を行うことになる。

 感想

 光と影の戦い。言ってしまえばこれはそんな物語だ。人物的な描写は特になく、子供向けに明智と二十面相の戦いにリライトされたが、確かにそれでも特に問題はない(そのままだと、二十面相の殺人問題とかあるにはあるが)。もっと言えば、ヒーローとヴィラン、つまりアメコミ的な趣がある。さらに言うなら、ひたすら街を混乱に陥れようとする大曾根と優秀な執事を従えた有明はジョーカーとバットマンに見える。バットマン(一九三九年初登場)に先んずること三年、すでにこのような形の物語が日本で生まれていたのだ。

 大曾根龍次はひたすら悪事を働くが、そこには特にこれといった強い動機はない。悪をなすために悪をなす、そんな存在だ。彼は東京の空を黒い火焔で覆いつくすことを宣言する。破壊の風景を現出すること、それが彼の目的なのだ。

 伊藤計劃は、ただある世界観を「われわれ」の世界観に暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役のことを世界精神型のヴィランと呼んだ。金や権力など目もくれず、ある世界に人々を誘うことそれ自体を目的とする観念型悪役。押井守パトレイバーにおける帆場や柘植、そしてノーランの『ダークナイト』におけるジョーカー。

 『孤島の鬼』の諸戸丈五郎や『盲獣』の盲獣はそんな悪役たちの萌芽を感じさせるものだった。『大暗室』における大曾根龍次もそのような悪役としての方向性は見える。しかし、致命的なことに彼は悪役として独自の世界観に欠けている。彼の夢見る風景はスケールが大きいが、ただの破壊の風景だ。その破壊の風景に何らかの彼なりの世界観があったなら、この作品には魂が入ったかもしれない。そう考えると惜しい作品なのだ。

 しかし、この作品が提示した構図自体は面白い。東京を火焔に染めるとして大曾根龍次は東京の地下に広大な空間を造り上げる。それがタイトルの「大暗室」なのだ。そして、その地下帝国と地上との支柱部分に爆薬を仕込むことで、いつでも地上を爆破し、その地下帝国へと東京を引きずり込むことができるとするのだ。その一方で彼は地下空間を彼の王国として造りこんでゆく。人魚をはじめとした異形のモノたち、その王国を彩る楽団、裸身の美女による寝台――これらは「パノラマ島奇譚」の焼き直しだ。とはいえ、地上に関東大震災と同じほどの災厄をもたらすための大暗室は、同時に大曾根の夢想する王国でもある。この地上と地下はある意味、うつし世と夜の夢なのだろう。この作品で、乱歩は自身の夜の夢が、うつし世である東京を飲み込まんとする設定をぶち上げているのだ。しかし、ついに物語としてはその境地に至ることはない。その均衡が崩れ、何かしらのカタストロフが人々を襲い、それにより人々に大曾根の観念的な悪を見せつける又はその寸前まで行けば、この作品はうつし世にヒビを入れる、これまでの作品を突破したものになり得たかもしれない。

 この作品は乱歩の夜の夢がうつし世に牙をむこうとした、そういう意味ではとても面白くぞくぞくするような要素を持っている。しかし、結果的にはそこまで至ることはなく、東京の地下に横たわる「大暗室」はパノラマ島奇譚の劣化コピーでしかなく、その夜の夢自身もどこか力のないものだった。

 乱歩がその構図に無自覚だったということももちろんあり得るだろう、そもそもうつし世は夢であると喝破した彼からすれば、地上の東京などどうでもよかった可能性は高い。しかし、もしかしたらこの構図は、徐々に厳しくなっていた検閲の影響、そして日本の状況が影を落としていたのかもしれない。それと戦わなくてはならないと彼が思っていた……かどうかにせよ、乱歩がその夜の夢をもってしても牙を突き立てることがかなわなかったうつし世である東京。それが、大曾根龍次が夢想したように灰燼に帰すのは、連載終了後わずか7年後のことである。夜の夢はまことになった。ただし、それは残酷でどうしようもないうつし世そのものによって。ある意味、夜の夢の無残な敗北ともとれるその現実を、乱歩はどう思ったのか。それはもう、分かりようもない。

 ここ最近、なぜか平沢進の「パレード」を頻繁に聞くのだが、これを聴いていると江戸川乱歩を強く意識する。

 江戸川乱歩といえば、隠れ蓑願望とか変身願望、「現世は夢、夜の夢こそまこと」みたいな言葉に代表されるように、ここではないどこかを求めるイメージを纏った作家だった。地下世界や孤島に自分のイメージを逃避するような場所として作る。そんなことを作品の中で繰り返してきた。彼は常に自分のイマジネーションで自分の居場所を作るような作家だった。だから、彼が作る場所は『パプリカ』のパレードみたいな、祝祭みたいなものとは少し違う、どこか暗い集会のような淫靡さが漂うものだった(とはいえ、『パプリカ』の夢と現実というテーマや、その境界線があやふやになる感覚は乱歩に通じるものがあるし、『パプリカ』におけるパレードにも淫靡な雰囲気は埋め込まれている)。

 それを外へと向ける、自分のイマジネーションで世界を侵食させようという感覚が、乱歩にあったのか。そこは読者それぞれかもしれないが、なかった、というのが多くの人の見解かもしれない。乱歩の小説はあくまで彼が好きだった浅草の見世物小屋的な作品であり続けた……そうかもしれない。

 しかし、外へ向かう意思が――そのイマジネーションで世界を見世物小屋にしてしまおうという意思が皆無だったのか。『孤島の鬼』の不具者製造とその「出荷」や『盲獣』の触覚芸術はそのイマジネーションが外に向かう萌芽のようにも見える。そして、そもそもその他の通俗長編、そして特に怪人二十面相は東京を一つの見世物小屋にしてしまわなかっただろうか。

 道々には怪しげな人物が徘徊し、ビルやデパートにはその怪人の影が躍る。死体やその一部は、それが括りつけられたアドバルーンが空を舞うのをはじめ、色々な場所にバラまかれる。そして道路には点々と続く暗号たち。乱歩の作品は確かに本格探偵小説ではなかったかもしれない。しかし、その小説は世界を探偵小説に変える力を宿していたんじゃないだろうか。世界を見世物小屋にしてしまう、そんな探偵小説。そして、その可能性に最も気がついていなかったのは当の乱歩だったのではないか。

 「探偵小説をお化け屋敷の掛け小屋から外に出したかった」というのは松本清張の有名な言葉だ。これは清張が横溝正史を指しているとか言われたりしているけど(事実としては具体的にさしている文章はないらしい)、私はなんというか、探偵小説を乱歩という“お化け屋敷”から出したかった、というふうに読んでしまう。まあ、その影響下から外に出したかったというところだろうか。“お化け屋敷”からお化けを出してしまえば消えてしまうように、“お化け屋敷”から出された探偵小説は推理小説と名前を変えて消えていった(表面上は)。

 乱歩自身も自分は時代に合わなくなっていたと感じていたのだろう。しかし、いまでも人々は乱歩を読む。私もその一人だ。本格ミステリ読みとしては横溝に軍配を上げざるを得ないのだけど、しかし、自分の中により深く今でもしみ込んでいるのは乱歩が紡ぎ出す妖しいイマジネーションなのだ。そして、そんな妖しいイマジネーションがサーカスの天幕のように世界を覆う姿を夢想する。トリックなんてどうでもいい。そんなものよりも彼が紡ぐ幻影こそが、探偵小説として世界を飲み込む可能性を有していた――乱歩自身はついぞ気づかなかったのかもしれないが。なんというか、私は乱歩にそういう、本気で世界を見世物小屋にしてしまうような小説を書いてほしかった、そう今でも夢想してしまうのだ。現世を“夜の夢”で飲み込んでしまうような、そんな小説を。

 ※とはいえ、通俗長編や二十面相シリーズのすべてを以ってそれを成し遂げた、と見ることもできるかもしれないけれど。乱歩は人々の共通幻想として「江戸川乱歩の世界」という異界を作り上げたことは確かなのだから。

 そういえば、前回、じゃなくて前々回の記事で100投稿ということでした。まあ、こんな感じの雑文なんかも割かしあるので、厳密には違うかもしれませんが、なんだかんだで切りのいいとこまで続けられたということで。

 それにしても、何というか一向に楽にならないというか、こういう長文感想書くのって大変ですね。毎回毎回リセットされるような感じで、なに書きゃいいんだ……ここはどうつなげりゃいいんだ……みたいな感覚が何度も何度も襲ってくるわけです。自分の中にあるその作品に対する思いについて、どういう言葉がふさわしいか、どういった言い回しでカタチにできるのか、詰まって進まない時がストレスたまるので、なんでこんなことしてんだ……と思わないでもなかったりしますが、一応、不格好ながらにカタチする方がいいというか、読んだり観たりしたものをそのまま流しちゃうのもなんだかなっていうのもありますしね。まあ、続けられる限り気ままにガンバろ。

 ああ、でも、ちょっとアレな表現ですが、なんかうまく咀嚼できなくて吐き戻してるんじゃないの、という気がしなくもないです。ホント難しいよ。

本当のプロパガンダは「怖く」ない:映画『NO』

 

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 プロパガンダ。その言葉で何が思い浮かぶだろうか。いかめしい指導者の肖像画やポスターが学校を始めとする公共施設や広場に掲げられている光景だろうか。テレビやラジオから流れる指導者の言葉とそれらがまとめられた印刷物、国や指導者をたたえるしゃちほこばった歌が流れている、なんてのも思い浮かべるかもしれない。もしくはレニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』みたいな、そういう映画の光景を。

 そしてそこに強制や洗脳といったものを思い浮かべているかも知れない。しかし、プロパガンダの本質はそこではない。特定の思想やイデオロギーを強制するものはそんなに怖くない。それはいかにもな顔をしているからだ。プロパガンダの本質にして、真に恐ろしいところ、それは“楽しい”ということにある。

 楽しい? それはどういうことかと思うかもしれないが、この映画を見ればなんとなくわかる。とはいえ、この映画における主人公が行うプロパガンダは、それが往々にして想起されるネガティブなものというよりは、人々を動かしたもののひとつであり、独裁に対する抵抗の一つとして描かれている。プロパガンダは本来的には宣伝にすぎない。TVのCMもプロパガンダの亜種だし、ネットなどはそういうものの巣窟だ。そう考えると、我々は日常的にプロパガンダにさらされているわけだ。問題はその宣伝がどのような形で成され、効果を及ぼすかということだ。人は常に人を動かそうとする。政治的な意図があろうがなかろうが、人はそういうものの影響から抜け出ることはない。だからこそ、プロパガンダとはなにかを見つめる必要がある。

 あらすじ

 1988年、チリ。そこでは15年もの間、独裁が続いていた。独裁者の名はピノチェト。将軍である彼が敷いた軍事政権により、多くの人が拷問や投獄を受け、または誘拐され行方不明となっていた。そのような独裁体制が続いていたが、国際社会による批判がついにその政権の信任を問う投票へと踏み切らせる。投票までの27日、その間に政府と反政府の野党連合は一日15分、深夜のTVCMで国民にこのままでYESかNOか、それぞれアピールすることが認められた。

 アメリカ帰りの広告マン、レネは左派連合の友人に依頼され、ピノチェト「NO」のためのCMを作ることになる。制作に入り、それまでNO派が作ろうとしていたCMをみてレネは顔を曇らせる。これではダメだ、と。彼らのCMは、ピノチェトによってどれだけの人間が殺されたり行方不明になったりしたか、その苦しみはどれだけ大きかったのかを切々と訴え、彼にNOを突きつけようというものだった。レネは言う、これは楽しくない、喜びがない、と。

 そして彼が作ったCMはそれまでの陰鬱さとは打って変わった、ポップな歌に合わせた明るい映像――ひたすら独裁NO後の楽しさや喜びの未来、といったものを映し出してゆく。レネは宣伝とは楽しくあるべきだ、という確信があった。しかし、彼が作ったCMは一部の議員の不興を買う。これはこれまで独裁に苦しんできた人々の気持ちをないがしろにしている、我々が受けてきた苦しみや怒りを無視する気か、そう言って席を立つ議員を見送り、しかし、レネは方針を変えることはない。

 広告屋の流儀で戦う、それがレネの信念だからだ。広告にはユーモアが必要なのだ。そして、彼が作ったCMは、そもそも深夜の時間帯で誰が見るのだという政権側の余裕をよそに、次第に支持を得ていく。YES側のCMはピノチェトを表に立て、その内容は彼のためのCMでしかない。やがてそれは人々の憎悪の的になる。焦り始めたYES側はレネの上司を制作担当に据え、NO側のCMのネガティブキャンペーンやその手法の一部を取り入れたようなCMを制作、同時にレネや制作陣に対する無言の圧力を強めてゆく。

 それに屈することなくレネの明るく楽しいCMは人々の心を着々とつかみ、そして、運命の信任投票の日を迎える……。

 感想

 プロパガンダというのはもともと宗教に由来していて、一六二二年、ローマ教皇グレゴリウス一五世がプロテスタント宗教改革に対抗し、また新大陸へのカトリックの布教を強化するため「教義布教聖所」なるものを設置したことに端を発する。「教義布教聖所」はラテン語で「Sacra Congregatio de Propagande Fide」と書く。ここに出てくる「Propagande」とは、動詞「propago」に由来し、「動植物を繁茂させる」などという意味を持っていたが、この時はじめてカトリックの教義を普及させるという意味を与えられた。その後、政治的な意味合いを帯び始めたこの言葉を教会側が忌避することで、プロパガンダは政治性を帯びた言葉として確立する。*1

 もともと布教という意味をもつ言葉であるプロパガンダは、教会の広域な組織網が支える情報伝達技術と不可分だった。つまり、情報の高度な伝達がプロパガンダというものを可能にしたといえる。かつてヒトラーのそれを支えたものが新聞やラジオだったように、その次がテレビ、そして現在はネットが主なその舞台となっている。

 教会やラジオやテレビ、ネットはあくまで道具にすぎない。人をある意思、思想、そして行動にもっていこうとするものは、それを介して行われる表現であり、それは、興味をひくものでなくてはならない。しかし、そのためにはただ説明や発信する側の思いを訴えるだけではダメなのだ。というか、そこに至るまでどうするのかが重要で、そのためには楽しくなくてはならない。つまりはエンタメ(娯楽)だ。

 プロパガンダは楽しくなくてはならない。人がこぞって消費したくなるものにこそ潜ませるべきものなのだ。そしてその本質に気がついていたレネは楽しい広告を作り続ける。彼の妻は不快そうに言う。あなたのCMはただのコピーよ。コピーのコピーのコピー。あれに映っている人たちは誰? チリ人でもない外国人。彼らは何で笑ってるの? 誰に笑っているの? と。しかし、それでもレネは楽しい広告を目指す。

 その広告がすべてではないだろうし、国民それぞれの意思が国を動かしたと主張する声は当然ある。もちろんそういう面はあるはずだ。しかし、一方で人は他人の深刻な訴えにはそれほど積極的に影響されないという側面をこの映画は映し出している。

 この映画は独裁者と戦った側のプロパガンダであり、そこにある楽しさが、独裁者のいかめしい広告を打ち破ったという体裁にはなってはいる。しかし、その“楽しさ”はいつも自由や正義の側にあるわけではない。当然抑圧する側も使ってくる。

 その“楽しさ”について、開放感や喜びに裏打ちされたものとそうでないものを区別した方がいいという考えもあるかもしれない。人を抑圧する側から出たそれは、上手くいかないのではないか。だが、それは楽観的な見方のように思える。今現在、ネットの中にある“楽しいプロパガンダ”的土壌というものは、レイシズムや歪んだ国粋主義、そして無責任なポピュリズムから発する“楽しい”に満ち溢れているし、それを何のためらいもなく享受する人々の多さにめまいがしないだろうか。辻田真佐憲の『たのしいプロパガンダ』によると、例えば戦時下の日本では、官製のプロパガンダが上意下達というよりも、民間の娯楽産業が政府の意向を忖度しながら営利のためにつくられたプロパガンダが主流だったことが書かれている。

 儲かりさえすれば、企業というものはどのような主義主張だろうが加担する面があるのは、レイシズムむき出しの出版物が横溢する現状を見れば明らかだと言わざるを得ないだろう。そして、いつの間にか、身の回りにそういった“楽しい”プロパガンダがあふれていることは、いま現状を鑑みるにないとは決して言い難い。

 この映画は広告マンのCMが独裁に対する抵抗の一つを示した、という物語以上に優れたプロパガンダの本質が“楽しい”ものであるということを浮き彫りにする。それは劇中の選挙の勝利の喜びよりも、どこかより深刻で先の見えない不安をいま観る者に抱かせはしないか。レネは、終始彼自身の政治信条は描かれないし、最初はそこまで気が進まない風ですらあったのだ。その上司がYES側でCMを作ったように、彼らはただ仕事をしていたにすぎない。最後は上司と一緒に次の仕事に向かうレネ。彼がいつ今度はYES側的な立場でCMを作らないとは限らない。彼にあるのは自分の仕事への信念であり、そこにイデオロギーは存在しないのだ。それは、自身の主義主張を声高に訴える人間よりも怖い気がするのだ。

 本当のプロパガンダの怖さ、それはただ単に楽しませることが目的の人間が作る“楽しさ”にあるような気がしなくもない。もちろん、この映画のように抑圧に対してユーモアで戦うということは、大事なことではあると思うが。 楽しいことは悪くはない。しかし、楽しいからついていくというふうになると、そこには大きな陥穽が待ち構えているような気もまたするのだ。私が“楽しい”それは、はたしてなぜ楽しいのか、それを改めて見つめてみるのも、大事なことなのかもしれない。

*1:出典:『たのしいプロパガンダ』辻田真佐典憲より

世界はゆるく繋がっている:道満晴明『メランコリア』上・下

 

メランコリア 上 (ヤングジャンプコミックス)

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メランコリア 下 (ヤングジャンプコミックス)

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  道満晴明。ショート・ショート漫画の達人。というか、淡白なエロ(という割には下世話さが強かったりするが)と涙のカルト作家? まあ、とにかく、一部に熱烈なファンがいる短編漫画作家の最右翼と言えるかもしれない。

 無機質というか、どこか可愛さの中に狂った線が潜む著者の漫画は、映画をはじめとした膨大なパロディや笑うに笑えない題材(ていうか、それはやめろ、という真顔になるのもある)、どうとらえていいのか分からないオチ、そして時として2ページ足らずでジワっとした感動の物語を紡いだりと、闇鍋のような作品が詰まっている。必ずしも全部がおススメではないが、独特の感覚の物語を味わえることは確かだ。『性本能と水爆戦』や『性本能と水爆戦 征服』が著者の毒を含めて十二分に本質を味わえる作品群だが、初めての人は『ニッケルオデオン(青・赤・緑』やこの『メランコリア』からの方が入りやすいと思う。特にこの『メランコリア』は収められている作品と上下巻の全体的な構成が巧くハマっていて、すごくいいのだ。

 作品はAからZまで、アルファベットから始まる題名がつけられていて、全部で26作。それぞれが一話完結のショート・ショートとしてあるが、その全体の大枠として、メランコリアという彗星が地球に向かってきているという状況が全編を貫いている。

 そして、その破滅へ向かう大きな状況下で、様々な物語のフラグメンツが時には隣合い、またある時には思いがけない交差を見せ、しかし何の関係もない時もあり、というふうにAからZに至る物語は、やがてどことなくゆるいつながりを見せ始め、円環を描き出す(実際に全体の大きなキーであるウロボロスが出てくる話もある)。その円環具合が絶妙で、下巻まで読んでまた上巻を読み、その相はみ合うような物語の輪郭が、ぐるぐると読者の中で回り出すだろう。

 変に深刻にもならず、しかし軽すぎもせず、奇妙でへんてこで、しかしどこか愛すべき狂った物語たち。それらが絶妙に一つの世界を形作っている、そんな奇跡みたいなおはなし。

食べる孤独な姿にほっとする:施川ユウキ『鬱ごはん 3』

 

鬱ごはん(3) (ヤングチャンピオン烈コミックス)

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  この世には食べ物についての漫画があふれている。おいしいものを食べることの喜び、それを多くの人と共有する瞬間が描かれ、そこに読者は幸福をかいま見る。そのような漫画でなくとも、大抵のフィクションは食によって、人々のつながりや幸福感を演出する。実際問題、人はおいしそうなものをおいしそうに食べる姿を見るのが好きだ。

 そういう食べ物をめぐる、まばゆいばかりの表現があふれ返るなか、ひときわ異様な暗さを放つ食べ物漫画がある。それがこの施川ユウキが描く『鬱ごはん』だ。タイトルからしてなんかもうアレな感じがするが、その名の通り、ご飯を食べるシーンはことごとくおいしそうではない。むしろマズそうだ。

 主人公は鬱野という自称就職浪人の青年だ。一巻では二十二歳だった彼は、九年後に刊行された三巻では律義に年を取り三十路に突入している。そしていまだに就職する気はない。というかもはやそれをあきらめているような雰囲気で、しかし、それでもどこか自分の人生について、疑問やこれでいいのかという思いを捨てきれてはいない。そんな微妙なモラトリアムのギリギリを浮遊するしかない青年の孤独な、しかしどこか自由を感じさせる食事の風景が引き続き描かれている。そして、彼の鬱々とした食事の風景は、苛まれる自意識やそれによって引き寄せられる失敗で、どこかしらの可笑しみが漂っている。それがこの作品の大きな特徴と言えるだろう。

 1から2巻では自意識が先行しがちだった鬱野だが、三十路に突入したせいか、どこか軽さのようなものを手に入れつつあり、それまで自意識の似姿として鬱野に突っ込みを入れていたイマジナリーフレンドみたいな猫(なんというか、村上春樹の『海辺のカフカ』におけるカラスと呼ばれた少年みたいな存在)が消えて、バイト仲間の描写や親戚をはじめとした周囲の人間も描かれることはなくなり、いよいよ鬱野は今まで以上に独りでご飯を食べてゆく。その姿は“孤独のグルメ”なんていう孤高の姿でもなく、相変わらず忍び寄るこのままでいいのか、という影にふと胸を突かれながらも、鬱野はその孤独をご飯と一緒に咀嚼する。

 そしてやっぱり、鬱野が食べる光景はおいしそうではない。なんら特別でもない既製の食糧たちを特に感慨もなく口に入れてゆく。だが、我々の食事風景というのも、そういうともすれば味気なく、孤独な風景がつきまとってはいないだろうか。鬱野ほど極端ではないにせよ、独りでなんとなく選んだものを口に入れて、作業的に食事を済まし、ぼんやりとそんな自分を眺めるような感慨にふける。時には実際に、ふと食器や紙包みから顔を上げ、ガラスなんかに映ったそんな自分を見ているかもしれない。

 この作品は一巻でエドワード・ホッパーの『ナイト・ホークス』を挙げてまさにそんな孤独を描くことを宣言していた。あと、石田徹也的なにおいもちょっとしていたと思う(『燃料補給のような食事』とか)。ただ、孤独や停滞している自分を感じつつも、三巻に至って鬱野はそういう自分の人生を楽しみつつある。別に開き直っているわけではないだろう。相変わらず就職への――というか、それを通り越して自分の人生を生きているのか、という切実な思いにとらわれる瞬間はある。しかし、それでも食べ物を口に入れなくてはならない。マズかろうが、失敗しようが、その時間はその人の生きている時間だ。そしてそれは、私たちの食事の風景の一面でもあるはずなのだ。

 施川ユウキは鬱野を通して今の人が陥ってしまう生きにくさを描きつつ、それでもなんだかんだで生きていけるんじゃないか、という希望ではないが、それでいいんじゃないのか、それもまた人生を生きていることなんじゃないのか、というふうに肩をたたく。別にそれで救われるわけじゃないけど、でも、少しほっとする。

 三巻になって、鬱野は頻繁に外に足を向けるようになる。今まで自分に縁がなさそうだったオシャレな店にもなんとか入るし、旅もする。鬱野が動物園に行く話は著者も気に入ってるそうだが、この巻出色のエピソードといっていいだろう。雪の降る動物園をぶらつき、独りであることを自覚しながらも、充実したような鬱野の姿。

 そんな感じで、鬱野の自意識は後退しつつ、しかし、相変わらずのブラックなギャグは読者を笑わせてくれる。その笑いはどこか身近でもあり、それが、この漫画がただ単にネガティブなアンチグルメ漫画ではなく、私たちの食事の風景に起こり得るかもしれない一面であるということを切り取っているのだ。ラストのペットボトルに飛翔を託す鬱野はなんというか、痛々しさを通り越して滑稽極まりないが、でもそんなしょうもない、“飛んだ”ペットボトルをつかむ姿に、私は少しほっとしてしまうのだ。