蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 ケムリクサの11話にびっくりしたので、思わずこんな文章を書きなぐってしまった。一応、ネタバレは極力避けてますが、未視聴なら今すぐ観てください。

 

 ケムリクサが11話でその全容が明らかになったことで、『けものフレンズ』の再来みたいになってきましたね。構成的にはあの『まどか☆マギカ』っぽいですが、あれよりもかなり静かな形で進んできました。その辺はある意味かなりミニマムな製作体制だからできたのかもしれません。なんていうか、このアニメ、ビビるくらい従来のアニメが培ってきたアニメ的なケレン味がほとんど表に出ていません。派手なショッキング描写を要所要所に挟むことはないし、分かりやすいくらいの極端なキャラ属性もない(よく観ればキャラクターはかなり立ってるのだが)。そもそも、ほとんどの場面が赤と青灰色の廃墟で画面に彩がなく、キャラクターだって一人を除いてパーソナルカラーが同一、おまけに名前まで似通っていて、大丈夫なのかそれ、という見た目なのです。作品数が飽和状態で三話どころか一話で切られかねない現代にあって、いくら『けものフレンズ』がスロースターターだったとはいえ、地味極まりなくないか、という感じなのです。(『けものフレンズ』は一話ですごい! という見方はされなかったけど、なんかヘンなアニメがあるー、くらいに目立ってはいた)だいたいあんなことあって、勝負をかけるような作品でこんなリスクだらけな選択するか? と。よっぽど面白いと信じてないとできないし、視聴者を信じてないとできないですよ。

 そして『けものフレンズ』もそうなのですが、この『ケムリクサ』もなんというか、アニメ的な動きの快楽には重きを置いてません。いわゆるすごい作画とか、動きのタイミングやそれに合わせて音楽を重ねる、気持ちのいいミュージックビデオ的なアニメの快楽とは距離を置いているように見えます。とはいえ、たつき監督のTVアニメ以前の自主製作アニメでは、パロディを含め、そういったアニメらしいアニメーションをふんだんに用いていました。自主製作版『ケムリクサ』なども、いかにもなエフェクトやガジェットをはじめ、アクションも従来のアニメの文法に従っていたはずなのに、たつき監督はTVアニメからそういうものに、背を向けているように感じます。ただ、背景はかなりいいです。『けものフレンズ』はかなり分かりやすく、キャラクターよりもリッチな背景美術が作品に大きな役割を占めていました。『ケムリクサ』も同じくらいいいのですが、暗くて気づきにくい部分があります。ただ、幻想的な光景は『けものフレンズ』以上ですので、その幻想性に注目してほしいところ。

 私は正直、TVシリーズに期待していたことの一つは、自主製作時的なアクションシーンが増量されるのかな、ということだったのですが、そう言った戦闘シーンは結局のところほとんどないというか、今のところかなり抑え気味にしかなかったわけです。そしてこのアニメのほとんどは、なんと移動と会話によって展開されてゆく。

 登場人物が限られていて、雰囲気も同じような舞台で、歩いて会話するのがメイン――そんなアニメが面白いのか? それがきちんと面白い。よく分からない世界があって、そこにいるのは出自はおろか人間かすら分からないキャラクターたち。まったくもって分からないことだらけ。それが少しづつ明らかになってゆく。ただ、それでもどこか靄がかっていたのが11話で一気に晴れる――というかそれまでとは打って変わった、情報の質と量に圧倒されているうちに、えらいことが起きてつづく、ですからね……。そして、リスクとしか思えなかった世界観やキャラクターにもみんな物語的に意味がある。

 11話でケムリクサという世界の成り立ち、その仕組み、そしてすべての始まりが明らかになる。この11話がすごいのはそれによって一気にこれまで見てきたこと、特にキャラクターの関係性がガラッと変わることです。そして世界すらも一変してしまう。これまであった違和感が演出レベルで伏線だったと気がつくカタルシスは、SFでありながらミステリのそれです。そして、悲しくも愛に満ちた輪廻の物語だったこと、求めていたものがすぐそばにあって、これまでの光景が必ずしも絶望や悲愴ではなかった、ということに気がついた瞬間、絶望が始まる。なんて物語構成を作り上げたのかとビックリしましたよ、ほんとに。そして残る最後の12話、彼らはどうなってしまうのか。まったくわかりませんが、こうやってドキドキしながら次回を待つのは久しぶりという感じなので、それだけでもなんだか楽しいですね。

 蛇足としてですが、物語の構造が美しいアニメがこんな感じでアニメのメインストリームで爆発する傾向は、最近続いてる感じなので、私はその傾向はかなりうれしいです。なんていうか、庵野・宮崎ライン的な、ディテールの積み重ねのみで引っ張る影響下から外れた、全体構造を重視するアニメが出始めてて、それがメインで評価され始めているのは、次のステージに移りつつある感じもして興味深いです。もしかしたら、ワンクールアニメの乱立が、全体構成で勝負する傾向に淘汰圧をかけたのか。それはわかりませんが、今後の流れとして構成美はより重視されていくのかもしれません。

暗くてしんどいよ:映画『湿地』

 “社会派ミステリ”ってやつの褒め方って、結構聞いてるとイラっとしません? 私はめちゃくちゃイラっとします。これぞ読み応えのある小説とか、重厚とかやたら言ってきて、だからなんだよ、みたいな。重々しければ小説としての価値が保証されるのでしょうかね。よく分からないです。小説の読み心地って色々あって、重厚さなんていかに語るかという選択の一つ、なんというか包装紙の一枚みたいなもんじゃないの、と思うんですけどね。まあいいや、あんまりいうと私自体がウザくなりますね、はい。でもいい小説って色々な語られ方があるし、言外に本格ミステリなどの他ジャンルを引き合いに出す言い方ってスゲーむかつくんですよ。だから嫌われるんだよ。

 そんなことはともかく、今回は『湿地』という映画です。これは同名の小説を映画化したもので、著者はアーナルデュル・インドリダソン。東京創元社文庫で出てるみたいですね。ハヤカワミステリマガジンの「ミステリーが読みたい」第一位に選ばれたとか。アイスランドが舞台でいわゆる北欧ミステリってやつだと思うんですが未読です。なので、原作とどう違うのか、忠実なのかはよく分からないですけど、とりあえずあらすじを。

あらすじ

 アパートで男の死体が発見された。死後二日経っていた男の部屋はやけに異臭に包まれている。そのあたりは湿地を埋め立てていて、地盤の沈下と沼の臭いが住民たちを悩ませていた。

 現場検証にあたったエーレンデュル刑事は男の部屋にあった机の引き出し裏から一枚の写真を発見する。トイカメラで撮られたらしいそれには墓標が写っている。そこにある名はウイドルと書かれていた。墓所を見つけ、ウイドルの母親を特定するものの、すでにその母親――コルブルは自殺した後であり、しかも彼女はレイプされていたという。彼女の姉がエーレンデュルを罵倒する。お前たち警察は事件をもみ消したと。その当時の担当刑事ルーナルに会いに行くエーレンデュル。彼はすでに定年退職していたが、あれはレイプではないと事件性を否定する。彼女は男たちを誘っていたのだと。エーレンデュルはルーナルの様子から彼が事件をもみ消したと直観する。

 エーレンデュルはコルブルの姉の証言からレイプ犯のうち、一人がアパートで死んでいた男であるということを突き止める。そして、ウイドルの墓の写真が残されていたことで男がウイドルの父であるのではないかと推測。被害者の男の解剖結果から、遺伝性の脳腫瘍が見つかったことにより、エーレンデュルはウイドルの墓を暴き、脳を確認しようとする。しかし、暴かれた墓に眠っていた幼女の頭骨から脳はすでに抜き出されていた。誰が彼女の脳を抜き出したのか。恐らく関係している遺伝病とレイプ犯の死。その背景にはいったい何があるのか。人口が少なく、その住人たちの遺伝子を管理しているアイスランドという土地が生み出した悲劇にエーレンデュルはやがて向き合うことになる……。

感想

 なんというか、暗いです……。終始曇天のなか、冷たい風が荒涼とした大地を吹き抜けてゆく。住んでいる人々もどこか影があって、そこには貧しさがこびりついている、そんな陰鬱な画面がずっと続きます。そのドンヨリとした画面が結構いいです。荒れた海やその近くにぽつんと立つあばら屋と吹きすさぶ寒風――そういった寒々とした光景が好きなら、なかなか楽しめるかもしれません。全体的に淡々としてますし、ミステリといってもそこまでミステリ的な楽しみがある感じでもないですし。

 事件と並行してエーレンデュルの家庭事情というか、娘との関係も語られるのですが、そこも最初は陰鬱です。薬と男におぼれ、中絶の金を無心する娘。刑事である父と、どこに行っても刑事の娘であると知らない人はいない場所で生きづらい娘の、何とも言い難い距離感が息苦しい。一応、最後にはなんとなく救いのようなものが見えなくもないですが。

 そして、事件の核をなしているのが遺伝疾患で、レイプによってそれが犯人の出自及び呪いとなってしまう。物語はその呪いに焦点を当てつつ、人口が少ないがゆえに国民の遺伝子を管理している国のシステムを映し出してゆく。

 アイスランドといえば、金融国家というイメージがあったんですけど、遺伝子研究先進国みたいな側面があるとは。まあ、そこには人口が少ないが故の遺伝子の均一性が背景にあるわけですが。

 遺伝子、村的なコミュニティ、それを包む全体的なトーンはジメジメとした貧しさをはらんだ空気。日本の土俗的な空気感にも似た陰鬱さが全編を支配した映画です。その空気感を楽しめれば……って、なかなかキツイかもしれませんが……。観終わった後に、みょうなモヤモヤ感というか、そこに映し出されていた鉛色の空みたいなドンヨリしたものがなかなか消えない、そんな映画だったと思います。

 

湿地(字幕版)

湿地(字幕版)

 

 

詩野うら『有害無罪玩具』

 

有害無罪玩具 (ビームコミックス)

有害無罪玩具 (ビームコミックス)

 

 

 これは、著者が2016年からWebに公開していた長編漫画のうち、表題作を含めた三本と最後の書下ろしである『盆に覆水 盆に返らず』を加えた全4本の作品からなる初の作品集である。知っている人は知っている漫画家ではあったが、こういう風に本が出て、Webにはこういう才能がたくさん潜んでいて、その異能者たちの一端に多くの人が触れる機会が増えることは喜ばしい。ぜひ多くの人に手に取ってもらいたい。

 なんというか、メジャーどころの作風ではなく、一風変わったスタイルで描かれる風変わりな感触の物語たち。それらは、一般的な意味でのワクワク感やキャラクターを追うことで得られる快楽を与えてはくれないかもしれないが、認識や時間、永遠について、著者の内宇宙を覗くような感じで触れることができる。その感触はやがて、読む者の内宇宙へと伝わって、ぐるぐると作品が読者の中で回遊し続けるだろう。一読してよく分からないかもしれない。それでもいい。一息にわかろうとするのではなく、徐々に取り込んでいけば何か見えてくるかもしれない。これらはそんな作品たちだ。

 基本的には一つのテーマを追求することでそれぞれの作品は成り立っている。第一作目にして表題作の「有害無罪玩具」は、私という認識についての話だ。

 舞台はとある博物館。明確な理由はないが、なぜか販売を停止するべきとなった物を対象として収集している博物館。主人公は社会科見学の一環で割り振られたその博物館で、そんな収集品を案内される。それらの品は、人間の認識、主に「私とはなにか」という意識に揺さぶりをかけてくる。「私」というものをかたどっているものとは何なのか、紹介される玩具は、そんな「私」というものが実はぽっかりとあいた空洞なのではないか、という疑問をまざまざと見せつける。そんなどこかアブナイ認識の迷宮にこの作品は読者を誘い出す。この作品を通して、果たして読者は世界をどのように見るのか。それは、この作品の主人公のようにそう簡単には答えが出せないだろう。

 続いて、虚数時間の遊び」。これは、自分以外の時間が止まった世界に取り残された人物の話だ。どれだけ止まっていたのかも分からない。そもそも自分以外が止まっている世界で、どれだけ時間がたったなどという問いが意味のあるものなのか分からない。とにかくそういう状況に置かれた人間とはどういったものか、ということをひたすら描くのがこの作品だ。別人格の自分を作り出して会話したり、身投げ中の女の人や捨てられた赤ちゃんを拾ってきて、家族ごっこをしたり、消火器の安全ピンをひたすら抜き集めたり、自分が投射した物体が一定距離で停止するのを利用し、ゴミをひたすら投射して星を作ったり。そういった時間が停止した世界で行われるものは、ひとえに干渉しえないその自分以外の“世界”に対し、干渉を試みる、つまり世界へのかかわりを取り戻したいという欲求に他ならない。著者はそれをあからさまには描かず、主人公は飄々としたまましかし、延々と繰り返すその世界への干渉の試みがどこか哀切な感情を喚起させる。そして、最後、主人公は自分の記憶のかけらと出会うのだが、そんなことはもう、忘れてしまっているのだ。そんな主人公の記憶の哀愁を“水だけが宙を走っている”という表現で見せる。

 そして「金魚の人形は人魚の金魚」。これは、ただあるだけの存在が、永遠にあるのだとしたら? という世界を描き出す。金魚の人魚。それは空中を浮遊する人魚の姿をした金魚だ。不死であり、人の姿をしているが知性はなく、自身が行うのはただ習性として飼い主らしき人の周りを回遊し、ときおり金魚のように小石を口に入れたは吐き出す、ただそれだけだ。しかし、その人魚――人型――のような外見が、それを見る人間には意味があるように感じてしまう。その存在自体には徹底して意味がないのに、人はそれが人の顔をしているというだけで、そこに意味を見出す。空虚だからこそ、そこに意味を満たそうとする。そんな人型であるから意味を感じてしまうというのは、長谷敏司の『BEATLESS』におけるアナログハックと同じテーマを扱っている。ただ、この作品は、その概念が徹底して浮遊しているだけだ。どんなに時間が経とうとただ、普遍の存在の周りが目まぐるしく変化してゆく。それが人や環境――地球から、やがて宇宙とスケールアップしてゆき、そこをただ、金魚の人魚は泳いでゆく。金魚の人魚は人魚の金魚――循環しつづけるその、永遠を描いた作品。あとにはそんな存在の残り香が、読者の鼻先をかすめるかもしれない。ちなみにこの作品、Webに公開していた10本の長編の最終作に当たり、それまでの作品のキャラクターがところどころ登場する。前二作のキャラクターも登場しているので、オールスターの楽しみもある。ある意味、その時点での作者の宇宙と言えるかもしれない。

 最後の「盆に覆水 盆に返らず」。こちらはコミックス描き下ろし。死者の死に水――死の際に口に含ませた水? 説明しづらいのでここは漫画を見てほしい――を死者が死んだ場所で水に垂らす。そうすることでお盆に死者が、水に姿を借りて帰ってくる。死者の姿はあくまで水なので、何か言葉を話すわけでもなく、しかし、口をパクパクさせる姿や人や物に干渉しようとするその行動で、意思があるように感じられる。主人公もまた、そんなふうにしてお盆に自分のかつてのパートナーと再会を行っていた。そして、日本人初の時間飛行士に選ばれた彼女は、1000年後の未来で同じようにしてここで会おう――もしいいのなら、待っていてほしいと約束を交わす。1000年後の結果を見た私は戻ってきて、あなたにやっぱり待たなくていい、というのかもしれないし、そんな過去でありながら未来に私の行動を決めるのは、どの時点の私なのか、そもそもあまのじゃくなあなたはそれに素直に従うだろうか――。そんな、時間とロジックの先にある、二人の再会する瞬間を描く。この作品集の中で一番エモーショナルな作品だ。その時間旅行が生み出す世界の光景を音楽として表現するのもすごく印象に残る作品である。

 とにかく、一読してすぐにすっと入ってくるわけではないかもしれないが、どれもがそのどこか心に引っかかるトゲのようなものを持った物語たちだ。気の向いたときに、のんびりと読みふけるといいと思う。そして、こんな世界があるんだなあ、と思いをはせてみるのもいいのではないだろうか。

透明感のある幻想:オブライエン『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』

 

不思議屋/ダイヤモンドのレンズ (光文社古典新訳文庫)

不思議屋/ダイヤモンドのレンズ (光文社古典新訳文庫)

 

 

 フィッツ・ジェイムズ・オブライエン。彼はなかなか破天荒な一生を送った作家で、アイルランドコーク州で生まれ、父親と母方の祖父の遺産を相続したのち、ロンドンやパリで放蕩三昧を尽くし、わずか二年半で八千ポンドの財産を使い尽くしてしまいます。貧困に陥った彼はロンドンでかねてからやっていた文筆活動に本腰を入れ、雑誌の編集なども行いつつ、知人の紹介でニューヨークに渡ると、そこで十年間執筆活動を行います。初めは友人の俳優ジョン・ブルーアムの編集する「提灯(ランタン)」という雑誌に寄稿していましたが、やがて出版大手の「ハーパー・ニュー・マンスリー・マガジン」や「ハーパー・ウィークリー」に作品を発表。「イヴニング・ポスト」や「ニューヨークタイムズ」などの新聞にも寄稿し、友人の喜劇俳優のために戯曲なども描き下ろしたりします。

 しかし、アメリカにわたってからも奢侈が抜けきらず、その贅沢な暮らしぶりをさして高いわけではない原稿料では支えきれず、やがてロンドンの時と同じように貧困に陥ります。下宿を追われて友人宅に転がり込んだり、借金を繰り返して友人たちと不仲になったり、拳闘家に殴られてケガをしたり。しかし、それでも彼は並外れて元気で、友人にとって愉快な仲間であり続けました。

 そんな持ち前の明るさで目の前の暗雲を吹き晴らしていたオブライエンの前に南北戦争が勃発し、彼はその中に飛び込んでゆきます。そして1862年、2月16日、敵方の将校と一対一の決闘とをして相手を撃ち殺したものの、自分も左肩を打たれ、致命傷ではなかったものの、その後の治療が適切ではなく、そのまま亡くなってしまいます。34歳でした。そんな夭折した作家は死後埋もれたままでしたが、ポーの後継者として今では評価されています。

 オブライエンの作品は、その影響を受けたとされるポーの作品同様に美しい怪奇性に満ちています。一方で、ポーの流れを汲みつつも、オブライエンの作品は独自の魅力を放っています。それは、訳者の解説が“妖美”と表現していますが、妖しさの中に、どこか透明感のある、そんな感触。ポーがどこまでも暗がりに沈んでいくような仄暗い妖しさに対して、オブライエンの短編はどこかに明朗さが残っているように感じられます。あと、当時の科学的な(あくまで当時のですが)見地を取り入れていて、その今から見るとメスメリズムなどの疑似科学がかもしだす幻想性も見どころかもしれません。

 とにかく、どれも幻想や奇想に満ちた短編ですので、興味があるならば読んでみることをおススメします。

 個人的に好きな短編を挙げるとするなら、やはり表題作の一つ「ダイヤモンドのレンズ」でしょう。そこには幻想や、SF、オカルト、ミステリといった諸要素が混然となって、ある美しい光景を紡ぎ出す。その物語の美しさの結晶といってもいい短編は、せめてこれだけでも読んでほしい一作です。

 あと、ミステリ者として注目したいのは、この作品の中で「密室殺人」が描かれている点です。密室ミステリは、ポーの「モルグ街の怪事件」(1841年)を嚆矢としていますが、そこから直近だとドイルの「まだらの紐」、ザングウェルの『ビッグ・ボウの殺人』(どちらも1892年)まで、結構間隔があいています。1858年発表のオブライエンのこの短編は、密室の謎を解く話ではありませんが、ダイアモンドを手に入れるため、自殺に見せかけて持ち主を殺し、機械的なトリックで外から鍵をかける場面が描写されます。ポーの事件が不可抗力だったことを考えると、意図的に密室にしようと仕掛けを巡らせる密室として、最古の部類に入るのではと考えているのですが。まあ、もしそれ以外の作品に心当たりがあるという方はよろしければ指摘していただけると嬉しいです。

 以下、それ以外の作品の短い評をば。

「チューリップの鉢」

 幽霊が心残りからその遺産のありかを示すという話ですが、メスメリズムなどを用いて、幽霊と科学(あくまで当時の)を同調させて、幽霊同士というか、残留思念のようなものが交感するみたいな姿を描き出すのが面白い。怪奇でありながら、恐怖というよりはそれを理論づけたい著者の欲望のようなものが見えたりするのも面白く思えます。

「あれは何だったのか? ――一つの謎――」

 透明人間ものの先駆、ということでしょうか。幽霊かと思って捕らえたもの――それは透明だが確かに実態があり、しかしその全容がよく分からない。そしてそれが結局分かりそうで分からないまま終わる話。最後にそれが博士に進呈されるという所もなんだか科学的な意識が感じられます。なんだかわからないその何かを明らかにするのが小説じゃないのか、という意見を見ましたが、なんだか分からないという感覚を描くのもまた小説であり、そのどこか割り切れない感覚こそがずっと後に残ってゆくものなんじゃないでしょうか。少なくともこの小説はそれがタイトルからしてテーマだと思うのです。

「なくした部屋」

 こちらは純粋な怪奇ものというか、自分の部屋を失ってしまった作者自身の実体験から来る恐怖感や寂しさ、やるせなさを反映しているようなお話。どこか取り残されたような寂寥感が、読む者に残ります。

「墓を愛した少年」

 こちらはその妖美というか、どこか儚く、透明感がある彼の資質を端的に表したような掌編。最後の一文の効果が素晴らしい。

「不思議屋」

 純粋に邪悪な怪奇に満ちた一編。ペットショップでの惨劇が出色のシーンで、血みどろのはずなんだけど、九官鳥を用いて何とも言えない終りの情景を紡ぎ出す。悲惨でありながらどこか滑稽な人物たちの最後を経て、焼け跡から輝く青空を望む。それがオブライエンという感じがします。ロボットの古典という評価のようですが、どっちかというと呪いの人形ものという感じが。

「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」

 それまでとは打って変わり中国を舞台にした一篇。こちらは幻想性や奇想性で彩られた、ある種のおとぎ話のような読後感を残す話。極彩色の異国譚という感じで楽しめます。

「ハンフリー公の晩餐」

 O・ヘンリーみたいな話。夫婦のつらく貧しい境遇を、想像力で払っている姿が痛々しくもどこかほほえましく、そんな彼らの行く末に光が差す、その瞬間が読む者の心を温かくさせます。そしてオチのタイトル回収がしゃれてます。短編集の掉尾を飾るにふさわしいお話。※ていうか、これポーにも似たような話があったような気がする。自分と妻ヴァージニアみたいな夫婦が、貧困の中で伯父さんの遺産が転がり込んでハッピーエンド、みたいなやつ。お互い、貧しい境遇という生み出した作品として、その共通点というか願望が垣間見えて面白いようなせつないような。

 

好きだからこそ闘う:山口つばさ『ブルーピリオド』

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

  今かなり来てる漫画というか、いいよと言われることが多くなってきたので読んだらヤバかったです。これはヤバイ。

 美術。実のところ、漫画やアニメという私たちの周りにありふれているのにもかかわらず、まあ、よく分からんという人が多いというか、美術の時間なんて学校では退屈だったり遊んでたという人も多いかもしれない。美術館に足を運ぶのなんて一年に一回あるのかどうか。名前は知ってるけど、ピカソの良さとか分からん、というのもよく聞く話だ。一応学問としてあって、大学があるけど、それっていったいどういう所でどんな人が目指すの? という疑問を持つ人もたくさんいるだろう。この漫画はその美術の道に進むことを決めた人間が美大――なかでも唯一の国立、東京藝術大学を目指す漫画だ。

 主人公、矢口八虎はそれまで美術とは無縁の人間だった。勉強や人間関係をいかにうまく高い所で維持するか、いかに社会の中で「負けない」で生きていくか、そんなふうにしてひたすら人生を“攻略”していくのに腐心する毎日を送っていた。そして、それでいいと思っていた。それは親や教師をはじめとして、多くの大人が彼に期待するそうあるべき一つの理想であり、彼はそれを求められていることを知っているからだ。日常にはこなすべきノルマが無数にあり、それ相応のコストをかけて、得るべき結果を得る。当然のことをしているだけだ。その認識ゆえか、人の称賛は八虎には虚しく感じられる。

 そんな彼にとって美術の時間は、テキトーに単位を取りつつ他の「実用的な」科目を効率よくこなすために睡眠などにあてる時間に過ぎなかった。しかし、美術室に忘れた煙草を取りに行った放課後、八虎は美術室で一枚の絵と出会う。美術部員の描きかけらしいその絵に目を奪われる八虎。その時の感動が彼を変え始める。自分の気持ち、自分の感動ってなんだ? 八虎は仲間と飲み明かした朝の空気――その色を思い出す。

 テキトーに流すはずだった「私の好きな風景」という課題に取り組みだす八虎。そしてそこに込めた「青」を仲間に理解されたとき、彼は絵を描くことに自分を見つける。これが好きだ、と。そう感じた彼は美術部に入部し、好きなことを追求するために美大を――東京藝術大学をめざす。それがこの漫画の既刊(1~4巻)での概要だ。

 八虎は自分を押し殺してきた。いや、自分というものを伝えられなかった。友人たちの中にはいるが、常にその周りをまわってるような人間だった。朝の空気が好きだな、という言葉ですら、怪訝な顔をされ引っ込めてしまう。そんな彼が初めて自分の感覚を描いた絵。それを見た友人に「これ、お前が言ってた朝か?」と言われた時、初めて彼は自分の感動が誰かに伝わる喜びに涙する。

 美術教師は言う。美術は文字じゃない言語だと。美術によって彼は初めて自分の言葉を持ちえたのだ。この漫画は、ある意味いわゆるリア充的な生き方をしつつも自分の言葉を持てなかった人間が初めてそれを得て、改めて自分の周囲と対話してゆく漫画でもある。美術を通して彼は友人や親と言葉を交わし、自らの意思を伝える。

 そして、彼は初めて美術という「好きなもの」を発見し、そのために生きてゆくことを決める。美大を目指すにはどんなことをやっているのか、デッサンや構図の取りかた、予備校での容赦のない講評会。そして彼を待っているのは現役生だと60倍の倍率。そこへ入るためにはどうすればいいのか? これまでの「正しい」勉強のやり方では突破できないとわかった時、彼に道を示すのが「好き」という想いであり、そして同時に彼を苦しめるのもそれなのだ。

 好きだから頑張れる。だけど、好きだからつらくなる。自由でいていいはずなのに自分の作品は順位を付けられ、合否が決められる。他者の評価にさらされるが、そこに目指すべき正しい形はない。自分をいかにして出すのか。常に他者と比較してしまう環境の中で、一位の絵ではなく、自分の「最高の絵」を目指すこと。

 それは、まるで何もない海原を、砂漠を征くような心地がする。好きなものは恐怖へと変わる。楽しくて歩き始めたのに進めなくなる。握りしめた楽しめばいいという言葉も、楽しんで作って、それが否定された時どうしたらいい? 

 そんな、ともすれば隠れそうになる「好き」という自分の本音を偽らないこと――それは文字通り苦闘だ。でも好きだから、だから闘う。それが好きだという気持ちは嘘ではないから。本気だからこそ、そのために闘う。

 美術という文字ではない言語を用いて自分の「好き」を表現すること。この漫画はその道を選んだ人間たちの青春を色鮮やかに描き出している。別に美術に明るくない人間もその姿にきっと引き込まれるだろう。人間は根源的に自分の感動を他者に伝わってほしいと願うものだし、それは美術じゃなくても誰でも持っているものだろうからだ。

 自分の中に生まれた感動を誰かに伝えたい。自分のこれが好きだ! という気持ちが伝わってほしい。それは作中で八虎の先輩が描く絵のように、やっぱりどこか祈りに似ている。どこまで伝わるか分からない。でも、それでも伝わってほしいと思う。私が書くこの文章もそんな思いの産物だ。この漫画から受け取った感動が、少しでもどこかの誰かに伝わることを祈って。それでは、この辺りで筆を置こうと思う。

幻想は地べたを這いずり始まりを目指す 映画『ガルム・ウォーズ』

 久しぶりに観たんで。あ、一応ネタバレで語るので注意です。

 『ガルム戦記』――プロジェクト『G.R.M』。押井ファン、特に長年のファンには思い入れがあるタイトルだろう。そのパイロットフィルムを見て、日本がハリウッドを凌駕するSF超大作を世界に問う「幻想」を見た人もいただろう。そして文字通りそれが幻想と化し、2000年の公開予定から15年を経てついに公開されたのがこの『ガルム・ウォーズ』である。

 すでにかつて製作総指揮を執るはずだったキャメロンの超大作CG映画『アバター』が世界を席巻した後であり、押井自身、ガルム戦記の「機能限定版」として『アヴァロン』を撮り、クローンが繰り返し生まれ変わって戦い続ける『スカイ・クロラ』など、テーマや要素を抽出してきたわけだし、いわば抜け殻となった『ガルム戦記』を『ガルム・ウォーズ』として完成させることの意味はどこにあるのか? ある種の落とし前――そうかもしれない。ただ、それでもこの映画は失墜した幻想を次へとつなげようとそのカタチだけでも残そうとした。多分、それだけでも意味があることなのだ。

 あと、相変わらずというか、押井映画の常だが、評価が固まるまで時間がかかる。この作品も、その影響を受けたクリエイターがきっと出てくるだろうが、それまで時間がかかるだろう。この映画に対する品のない罵詈雑言については、特に何も言いたくはないが、ただ、映画の受容の仕方はさまざまだ。お金を払った分、口を開けておいしものを入れてくれるのを当然とするという観方を否定はしないが、そういうことをわざわざしてくれない映画というのも存在する。それだけのことだ。

 しかし、これだけのビジョンを実際にフィルムに定着できる、つまりSF映画を描ける監督が日本に今どれだけいるというのか。異論は出るかもしれないが、あえて言うと押井がはからずしも「日本最後の“SF映画作家”」となりつつあるなか、それを正当に評価しようという人間は、残念ながらこの国にはあまりいない。この国が捨てた幻想は、多分海の向こうの誰かが拾うだろう。……それでいいのかもしれない。

 まあ、愚痴はここまでで、感想に行こう。

 まずこれ、言われてるほどそんなに難解な話だろうか。最後の方は少しわかりにくい所はあるかもしれない。しかし、前提は創造主が去った惑星でそれぞれの役割を持つガルムという8つの種族が覇権をかけて争い、最終的にブルガとコルンバの二大部族の決戦に至っている、というファンタジーとかではよく聞く話なのではないだろうか。そして奇しくもブルガ、コルンバ、そしてブルガに隷属することで生き延びているクムタク、死に絶えたはずのドルイドという、それぞれの部族の四人が集まり、ドルイドの聖地を目指す。自分たちはなぜ生まれたのか、そして自分たちの未来とは何かを求めて。

 ところで、多部族間の争い、それがやがて二大部族の最終決戦間近となっている舞台設定、いにしえの巨大な力、巨人、という諸要素について、私自身すごく良く似た話を思い出した。吉橋 通夫著『巨人の国へ』(1987年出版)という児童書だ。こちらもとぶ砂の国、もえる山の国、きらめく川の国……という風に七つほどの国が争い、残るは砂と山の国の戦になり、お互いの国はその最後の戦いに備え、巨人たちの国にあるとされるヒバシリという古代の武器を求める。主人公は幼いころから人を殺すためだけに訓練されてきた兵士であり、戦いの中で仲間とはぐれた主人公は、滅ぼされた川の国の娘、巨人の子供たちと行動を共にする。ヒバシリを求める旅の中、主人公は戦い続ける自己について、疑問を覚えるようになる……という感じでナウシカシュナの旅以上に結構似てる。

 興味があれば、読んでみるのもいいかもしれない。

巨人の国へ (現代の創作児童文学)

巨人の国へ (現代の創作児童文学)

 

  まあ、ある意味物語の一つの類型ともいえる。聞きなれない種族名に気を取られたりするから混乱するのであって、物語の大枠は古来のファンタジーに聖書的な意味合いを盛り込んだ異星のハルマゲドン、というきわめてシンプルな話だ。用語はたいして複雑ではない。

 この作品、自分がまずびっくりしたのは自然を舞台にしていること。押井監督の作品でここまで自然を中心にした舞台ってなかったはず。自然と文明(人)を対置させる宮崎駿と対照的に、押井守は都市、文明の中の人間を描いてきた。都市の点描をしつこく描いてきた押井が、今回は荒地や海、そして森といった自然の風景を点描していくのだ。ここにきて自然が登場することの意味とは何か。

 一方で登場人物たちはすべてクローン、作り物だ。死ぬと彼らは記憶を更新し、肉体を再生する。更新した回数、つまり再生した回数が名前の後ろにつく。カラ23、という風に。そして、ガルムと呼ばれる彼らは戦い続けることを運命づけられた――プログラムされた存在。そんななか、それとは違う存在としてグラという生きものがいる。押井映画のいつものバセットハウンドの姿をしているそれはクローンを禁じられていて、すぐ死んでしまう存在であり、それに触れられることが祝福を受けるということになるらしい。グラというものはある意味、人工であるガルムに対する「自然」ということなのか。

 グラに祝福された主人公カラは自己の記憶、その最初の記憶を意識することで、自分とは何かということを考え始めてゆく。私とは何か、ガルムとは何か、なぜ我々は争わなくてはならない? その疑問への解を求め失われし種族ドルイドの聖地ドゥアル・グルンドに赴くカラ。

 しかし、結局のところ彼女を待ち受けていたのは、彼女たちの行動が新たな戦いの口火を切ってしまったという皮肉な結末に過ぎなかった。ドルイドはただの外殻でしかなく、それを通して遺跡に接続した“神”はこの星のガルムを滅ぼすべく、巨人たちを起動し最終戦争を仕掛ける。なんというか、これまで、都市や文明という卵の中で永遠とループしたり、『アヴァロン』のように仮想現実が玉ねぎの皮のようにどこまで行っても積み重なっているといった作品が押井守の通底したテーマだった。ガルムはなにも作り出さず、あるものをただ維持するだけ。停滞していた時間。常にすべては予感としてあるのみ。それは、永遠に繰り返す学園祭前夜*1と同義だ。そこについに終わりの始まりがくる。押井作品で初めて終りを示唆された作品が、この『ガルム・ウォーズ』といっていいだろう。

 とはいえ、結局のところ、神がガルムを滅ぼすのは隣の星でもう一度似たようなことをやろうとするためで、作中で示される「嫉妬の神」による、その創造と破壊のサイクルのあくまで枠内である、という風に考えるとするなら、やはりこれもまた、壮大なループにすぎないのかもしれない。しかし、たとえそうだとしてもひとつの時代が終わり、新たな時代の始まりであることは確かなのだ。たとえその先が終りであったとしても。

 ガルムは創造主たちの被造物にすぎない。ではグラは、そして映し出されていた風景は自然なのだろうか。創造主はガルムはおろかすべてを造り、名を与えた。では、グラや荒れ地や海、森もまた被造物である「自然」に過ぎないのではないか。それらとガルムにどんな違いがあるというのか。押井作品にこれまで見られない「自然」の風景は、やはりただの自然の風景とは違った意味を持っているように感じられる。すべてが被造物ならば、クローンであるとかないとかが、いったいどのような意味を持つのか。

 注目してほしいのは、恐らく初めて自然の中に放り出されたカラが、それについて特に感動したりはしないことだ。ありがちな演出としては、そういう人工側のクローンが自然に感動したりしてそこに対立項や優劣みたいなのを無邪気に生み出してしまうが、この映画ではそんなことはしない。全てを作った者から見れば、自然も不自然もありはしない。どちらにも特権性など存在しない。そして、どちらもいらなくなれば神は平等に一掃する。

 押井守宮崎駿みたいにそれでも生きるとか、血を吐きながら明日を越えて飛ぶ鳥だ、とかは言ってはくれない。ただただ、そうでしかなかった世界の終わりの始まりを描き、映画は終わる。

 始まりがあるから、終りがある。終りがあるから、始まりがある。この映画は、いや、このG.R.Mという企画そのものがずっと凍結され停滞してきた。このまま宙ぶらりんにすることで、それを夢見た者たちが永遠にその幻想に微睡むことだってできたはずなのだ。しかし、押井監督はこれを映画として作り上げることでついにその幻想を終わらせた。膨らみすぎた幻想はやろうとしていたことの半分もできずに失墜した。壮大なCGの空中艦隊戦の冒頭から文字通り地に墜ちた主人公たちがその大半を地べたを歩き回るこの映画はどこか示唆的だ(一応、パイロットフィルム通りのプロットではあるのだが)。

 しかし、失墜したからこそ幻想を受け渡せることができる。作品として作り出されることで、G.R.Mという幻想は終わった。しかしこの作品が掬い取ったそれはきっと誰かが受け取り、新たな幻想を紡ぐはずだ。そんな新たな“始まり”を夢見て、この文章を終えようと思う。

 それはそうと、ここまで美しい感じのSFってあんまないよなー、と思うんですけどね。プロットは後半ちょっと急ぎすぎてたり、スケリグを殺すために行動が不自然(ケーブル狙えっていってただろ)になってたり、監督にしては雑なところがあったりするんですが、この独特の雰囲気を持つ美しいSFって、割と貴重なんじゃないかなーと思ったりしてますね。まあ、これも『アヴァロン』や『スカイ・クロラ』みたく十年すれば、好きな人とかフォロワーによる再評価がなされるんじゃないかと期待してます。

  あ、あと最後に。あのラストのカットは何なんですか、「巨神兵東京に現る」まんまじゃないですか。某監督への当てつけか。90年代の亡霊みたいで超恥ずかしかったあの映像を、撮るならこうしろ! と言わんばかりにモノローグ含めてバシッと叩きつける感じは、個人的には嫌いじゃないですが。

ガルム・ウォーズ Blu-ray豪華版
 

 

*1:もちろんビューティフルドリーマーのことだ

私に衝撃を与えたミステリ10選

 ツイッターでみんなやってたので、現時点の整理として自分自身の10作と、それについてそれぞれなんで衝撃だったのかを書いていこうかな、と。衝撃といっても、個人的な感覚とか結構あると思うし、どの部分が衝撃的だったのか説明した方が、その衝撃性が浮き上がるかな、という風に思ったので。ベストとはまた違いますが(かぶってるものもある)。

『魔術師』江戸川乱歩
『僧正殺人事件』ヴァン・ダイン
『虚無への供物』中井英夫
『ふたたび赤い悪夢』法月綸太郎
『第八の日』エラリー・クイーン
『夏と冬の奏鳴曲』麻耶雄嵩
『斜め屋敷の犯罪』島田荘司
『火蛾』古泉迦十
『名探偵に薔薇を』城平京
『フランクフルトへの乗客』アガサ・クリスティ

 リストとしては以上です。以下、その解説。直截なネタバレは避けてますが、微妙にネタバレを示唆する部分もあるので、未読の方は注意です。

 

 

 

 

『魔術師』江戸川乱歩

魔術師 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

魔術師 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 

 まずはこの作品。小学3年か4年だったように思う。名探偵明智小五郎シリーズを怪人二十面相からのながれで手に取ったのがこの本だったが、衝撃性はその中にあった残虐性にある。もっというと「獄門船」である。恐ろしさとともにこんなもの読んじゃっていいのか、という背徳感みたいなものもあった。そして、犯人の造形にも、読んでいた自分は衝撃を受けた。これにより、後年クイーンの某作を読んでも特に何とも思わなくなるのだが……。


『僧正殺人事件』ヴァンダイン

僧正殺人事件 (S・S・ヴァン・ダイン全集) (創元推理文庫)

僧正殺人事件 (S・S・ヴァン・ダイン全集) (創元推理文庫)

 

 これは、名探偵という存在が自分にとって単なるヒーローではなくなった瞬間である。終盤のヴァンスの行為に何のフォローもなくて、彼自身もシレっとして幕を閉じ、え、いいのこれ……という思いが童謡殺人以上に残っている。個人的に、この作品の最大の功績というか、後世への影響はそちらにあるのではないのかとすら思ったりしている。


『虚無への供物』中井英夫

虚無への供物 (講談社文庫)

虚無への供物 (講談社文庫)

 

 これはもう、終盤の「犯人」の告発である。ここまで、探偵小説を読むということについて、自分たちの世界とリンクさせたものがあっただろうか。ある意味、世界が探偵小説であることこそが、アンチ探偵小説、反人間のための反探偵小説ということなのではないのか、その世界が裏返る感覚は今でも私の中に深く刻まれている。


『ふたたび赤い悪夢』法月綸太郎

ふたたび赤い悪夢 (講談社文庫)

ふたたび赤い悪夢 (講談社文庫)

 

 これは後期クイーン的問題に初めて触れた作品というか、探偵の、そして著者法月の、探偵を支える根拠などどこにもない! という絶叫がこちらを揺さぶった。え、いいの、こんなこと言っちゃって、という驚き。そして、名探偵の苦悩と苦闘。作家の死か、探偵の死か、そこまで突き進んだシリーズは、悩める名探偵「法月綸太郎」が死ぬことで作家的な死を回避し、以降は悩みを回避した名探偵法月綸太郎として「復活」する。


『第八の日』エラリー・クイーン

第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)

第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)

 

 これはまあ、“土曜日”の一行のインパクトだろうか。ここではない彼岸のような世界での謎解き。舞い降りた新しい救世主とすれ違うクイーンは、どこへ向かうのか。どこかシリーズ最終作みたいな雰囲気が漂う神話的な作品。ファンタジーのガジェットなどを使用していないにもかかわらず、ミステリがファンタジーに越境するような作品でもある。マジックリアリズムとも少し違う、独特の味を持っている。プロットはダネイだが、デヴィットスンによる代筆である。もしかしてそこに独特の雰囲気が生まれているのかもしれない。


『夏と冬の奏鳴曲』麻耶雄嵩

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

 

 これはやはり、終盤の崩壊感というか、アイデンティティの崩壊が衝撃的。謎解きを行う根拠が崩壊し、守るべきものが融解する。彼の選択に、そして彼女の瞳の色に読む者は戦慄する。トリックの扱いも衝撃的だった。


『斜め屋敷の犯罪』島田荘司

改訂完全版 斜め屋敷の犯罪 (講談社文庫)
 

 これはもう、トリックそのものに衝撃を受けた。純粋なトリックの衝撃。ん……? からの!? がここまで鮮烈だったのは後にも先にもこれだけかもしれない。


『火蛾』古泉迦十

火蛾 (講談社ノベルス)

火蛾 (講談社ノベルス)

 

 「物語」が人を飲み込むことがある、そういう意味で衝撃を受けた作品。実際にスーフィズムのような酩酊感に覆われ、その先にあるもの。その「物語」が生き物のように人物の背後に忍び寄る感覚は唯一無二の体験である。


『名探偵に薔薇を』城平京

名探偵に薔薇を (創元推理文庫)

名探偵に薔薇を (創元推理文庫)

 

 名探偵の苦悩としては、法月綸太郎やクイーンの真相への到達、その不可能性についてではなく、名探偵であるという運命的な苦悩が描かれ、その名探偵像について衝撃を受けた作品。この作品もまた、名探偵がヒーローであるという私の視点を覆した作品だ。


『フランクフルトへの乗客』アガサ・クリスティ

フランクフルトへの乗客 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

フランクフルトへの乗客 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 こちらは何というか、“正義”を追求し、ポワロの『カーテン』で一つの到達を描いた作家の“失墜”としてのインパクト。持てる者側からの世界の解釈が、とても「穏やか」な世界をもたらすというグロテスクな光景。少しSF的なテイストを持っていて、そのユートピアディストピアを著者が本気で楽園と考えていることもまた衝撃的かもしれない。クリスティの影を凝縮したような作品。伊藤計劃『ハーモニー』の先駆的な作品だと思っているし、たまに同じように言っている人を見かける。

※ 番外

 『エジプト十字架の謎』

 「フランクフルト」と少し迷った。こちらはそのロジックによる衝撃というか、初めてロジックというものを自分の中に刻み付けた作品。それまでトリックをいかに解くかということが、探偵小説だと思っていた私にとって、クイーンの国名シリーズは、探偵がどうでもいい些末なことをグダグダ言って終わる、大してトリックも何にもない作品であった(少し言い過ぎかもしれないが、まあそんなに楽しんではいなかった)。で、この作品も最後あたりまでどうでもよく、乗り物を使った犯人追跡も退屈だった。しかし、エラリーが指摘した一点によって、ロジックというものが、そしてその論理の流れがトリック以上にインパクトを持つものだと、それを侮っていた自分を突き刺してくれた。そういう意味で、自分の探偵小説をどう読むのか、ということについても転換となった作品である。