蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 ここ最近、なぜか平沢進の「パレード」を頻繁に聞くのだが、これを聴いていると江戸川乱歩を強く意識する。

 江戸川乱歩といえば、隠れ蓑願望とか変身願望、「現世は夢、夜の夢こそまこと」みたいな言葉に代表されるように、ここではないどこかを求めるイメージを纏った作家だった。地下世界や孤島に自分のイメージを逃避するような場所として作る。そんなことを作品の中で繰り返してきた。彼は常に自分のイマジネーションで自分の居場所を作るような作家だった。だから、彼が作る場所は『パプリカ』のパレードみたいな、祝祭みたいなものとは少し違う、どこか暗い集会のような淫靡さが漂うものだった(とはいえ、『パプリカ』の夢と現実というテーマや、その境界線があやふやになる感覚は乱歩に通じるものがあるし、『パプリカ』におけるパレードにも淫靡な雰囲気は埋め込まれている)。

 それを外へと向ける、自分のイマジネーションで世界を侵食させようという感覚が、乱歩にあったのか。そこは読者それぞれかもしれないが、なかった、というのが多くの人の見解かもしれない。乱歩の小説はあくまで彼が好きだった浅草の見世物小屋的な作品であり続けた……そうかもしれない。

 しかし、外へ向かう意思が――そのイマジネーションで世界を見世物小屋にしてしまおうという意思が皆無だったのか。『孤島の鬼』の不具者製造とその「出荷」や『盲獣』の触覚芸術はそのイマジネーションが外に向かう萌芽のようにも見える。そして、そもそもその他の通俗長編、そして特に怪人二十面相は東京を一つの見世物小屋にしてしまわなかっただろうか。

 道々には怪しげな人物が徘徊し、ビルやデパートにはその怪人の影が躍る。死体やその一部は、それが括りつけられたアドバルーンが空を舞うのをはじめ、色々な場所にバラまかれる。そして道路には点々と続く暗号たち。乱歩の作品は確かに本格探偵小説ではなかったかもしれない。しかし、その小説は世界を探偵小説に変える力を宿していたんじゃないだろうか。世界を見世物小屋にしてしまう、そんな探偵小説。そして、その可能性に最も気がついていなかったのは当の乱歩だったのではないか。

 「探偵小説をお化け屋敷の掛け小屋から外に出したかった」というのは松本清張の有名な言葉だ。これは清張が横溝正史を指しているとか言われたりしているけど(事実としては具体的にさしている文章はないらしい)、私はなんというか、探偵小説を乱歩という“お化け屋敷”から出したかった、というふうに読んでしまう。まあ、その影響下から外に出したかったというところだろうか。“お化け屋敷”からお化けを出してしまえば消えてしまうように、“お化け屋敷”から出された探偵小説は推理小説と名前を変えて消えていった(表面上は)。

 乱歩自身も自分は時代に合わなくなっていたと感じていたのだろう。しかし、いまでも人々は乱歩を読む。私もその一人だ。本格ミステリ読みとしては横溝に軍配を上げざるを得ないのだけど、しかし、自分の中により深く今でもしみ込んでいるのは乱歩が紡ぎ出す妖しいイマジネーションなのだ。そして、そんな妖しいイマジネーションがサーカスの天幕のように世界を覆う姿を夢想する。トリックなんてどうでもいい。そんなものよりも彼が紡ぐ幻影こそが、探偵小説として世界を飲み込む可能性を有していた――乱歩自身はついぞ気づかなかったのかもしれないが。なんというか、私は乱歩にそういう、本気で世界を見世物小屋にしてしまうような小説を書いてほしかった、そう今でも夢想してしまうのだ。現世を“夜の夢”で飲み込んでしまうような、そんな小説を。

 ※とはいえ、通俗長編や二十面相シリーズのすべてを以ってそれを成し遂げた、と見ることもできるかもしれないけれど。乱歩は人々の共通幻想として「江戸川乱歩の世界」という異界を作り上げたことは確かなのだから。