蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

無音の中の音 映画『クワイエット・プレイス』

※ネタバレ前提で語ってます。

 

 ホラーと音は密接な関係にあるといっていい。無音が何かが起こり得る予兆と緊張、そして実際に起こる何か。ホラー映画はその配分が出来を左右するが、優れたホラーはどちらかというとその無音の部分――何かが起きる予兆が怖かったりする。

 とはいえ、これまでは何か事が起こる――そのリアクションとしての悲鳴や絶叫、に軸足が置かれていた(と思う)。炸裂する音そのものに恐怖をのせることをメインとしてきたわけだ。無音の予兆はそのための前提的なものだった。しかし、最近のホラー映画はその予兆の恐怖をメインとして引き延ばす方向性(おそらく日本のホラーの影響があると思われる)が出てきて、『ドント・ブリーズ』がその種のエポックといってよく、今作もその延長線上にある。というか、『ドント・ブリーズ』の盲目の元軍人を宇宙生物にして、より舞台を広いフィールドで無音と音の恐怖を展開したのが『クワイエット・プレイス』といえる。

 しかし、ホントにものすごい緊張感の連続である。音を立てれば死に直結する状況下、凌いでも凌いでも襲い来る宇宙生物の恐怖(そこはやりすぎなくらいこれでもかとやる)。その中で、家族の物語が静かに、しかし激しく描かれる。発せられる言葉がほとんどなく、音による感情表現を極限まで抑制した中で描かれる人間の悲しみ、怒り、そして愛。

 無音の中の感情表現。言葉は発せない、だからこそ音が映える、重要な意味を持つ。ところで無音の映画、ということでサイレント映画を思い浮かべるかもしれない。しかし、それとは少し違う。実際のところ、この映画は結構音がする。それはサイレントの完全再現を目指した『アーティスト』とは違う。

 実のところこれは“音”の映画なのだ。夫婦がイヤホンで音楽を聴きつつ静かにダンスするシーンがあるのだが、妻がイヤホンを外して夫の耳にあてるところで、音楽がぶわっと広がるところなんか、かつてあった音楽のある日常が伺える素晴らしい演出だ。この映画の音の部分はある意味、人間的な部分を担っているといえる。

 そして無音の“恐怖”を司るのが宇宙生物だ。目の見えないコイツらはなんというか、盲目のエイリアンって感じで、母親役のエミリーブランドを探してなめるような至近距離構図とかは、まんまリプリーのオマージュっぽさがあるし、まあ、ほとんどこのお母さんはリプリーみたいなもんではある。

 映画全体の構成はゴジラ型というかジョーズ型というか。最初は恐怖の対象を見せずに、しかし確実に迫っている感じを演出し、中盤あたりでその姿を現すと今度はその具体的な恐怖の対象との闘いとなっていく。この辺はセオリーというか、過去作をよく研究している。最初はどこから襲ってくるかわからない画面外の恐怖から、画面の中に姿を現して以降は、そのおぞましい姿と凶暴な怪物を音をたてないようにしていかに避けるか、というメタルギア的な緊張感へと移行していく。

 声をあげて泣けないことはこんなにもつらいのか。子供を守るために咆哮を上げる父親の声なき声はすさまじく。そして、父があきらめず続けた聾の娘への贈り物がついに無音の抑圧を跳ねのけた時、母親の決意とともに、人類反撃の“音”が静かに響く。そのショットガンの撃鉄の音で終わるのはすごくカッコいいラストだ。

 設定的には深く考えると、この程度の宇宙生物で人類が追いつめられたりするんかな……もっと人間は狡賢いぞ、と思ったりするのですが、そういう部分はきっぱり切り捨てて、津波のように押し寄せる緊張感で観てる間はすっかり映画に飲み込ませて、余計なこと考えさせない作りにきっちりとなっていました。実際的なグロ描写はほぼないので、怖いの苦手な人でも楽しめると思います。

幻想が溶けた後に残るモノ 戸川昌子『緋の堕胎』

 

緋の堕胎 (ちくま文庫)

緋の堕胎 (ちくま文庫)

 

 

 戸川昌子という作家についていえば、歴代一の激戦と言われた第八回の江戸川乱歩賞において、あの『虚無への供物』そして『陽気な容疑者たち』を退けて入選を果たした『大いなる幻影』の著者、という知識があるだけで、手に取ったことはなかった。

 よって今回の日下三蔵編によるちくま文庫の傑作選が自分にとっての初の戸川昌子作品ということになる。

 ここに収められている作品は(短絡的に)一言でいえばエログロミステリという感じになるだろうか。エログロをより先鋭化させた江戸川乱歩の正当後継者と言えるかもしれない。全編が背徳的、反道徳的な題材や展開に濃厚な官能性を絡ませ、それが幻想性を纏い始めると、即物的なミステリとして落とす。全編の骨格としてはそのような作品が選ばれている。

 作品ごとに濃厚な官能描写が織り込まれているが、よくある中間小説的な下世話さはあまり感じない。それは解説で編者が言及しているように、それを描写している著者の視線が理性的でどこか冷淡なことに起因している。展開されていく人間が為すある意味忌まわしい行為を著者はどこかものを見るようにじっと見つめてゆく。

 そのように異様な展開や行為を何でもないかのように描くことで、それらはどこか彼岸のモノのようになり、やがて濃い幻想性を帯びてゆく。しかし、著者はその幻想性を即物的なミステリとして現実の地平に解体してゆく。感想をあさるとそのことに不満を覚える向きもあるようだ。せっかくの幻想性をどうしてミステリ的なオチで矮小化するのか、という意見はまあ、分からないでもない。だが、異様な情景を積み上げた幻想性を律義にミステリ的に落とす(堕とす)ことが、これらの作品を忘れがたいものにしているように私は思う。

 どんなに異様で不道徳だろうがグロテスクだろうが彼岸の幻想として愛でることができるということは、ある意味、読者にとって安心して鑑賞できるということでもある。そして出来のいい“幻想”という風に飲み込むことができるだろう。しかし、著者はその幻想めいた異様な風景をミステリを用いて現実的な地平に解体する。それによって幻想に溶けるのではなく、異様な諸々は矮小化しつつもごろんとしこりのように残る。

 どこか寒々とした幻影のあとに残されたそれはとても飲み込みづらく、読後に残されるこれは何なのか読者は戸惑う。それはやはり、著者の冷淡な視線のような気がするのだ。著者が異常なシチュエーションの中にある人物たちを通して、それを読む読者の方をも見つめてくるような、そんな感覚。そしてそれに見つめられたという感覚が、著者の作品を忘れがたいものにしている、そんな気がするのだ。

 

 ※ここからはそれぞれの作品について。ネタバレ込みで書くので注意。

 

「緋の堕胎」

 初っ端から堕胎というテーマで解説に引かれた筒井康隆の評が述べているように、半人間という堕胎胎児が醸し出す背徳性にまずからめとられ、その物言わぬ半人間という存在を中心に医者や助手、妊婦たちが歪んでゆく。その過程が淡々とした視点で語られることで、より異様な世界へと読む者を引き込む。掘り返される半人間たる胎児たちの骨とともに「人間」の骨が掘り出されるシーンは出色の場面だろう。そこに添えられる疑惑を含めて。

「嗤う衝立」

 病院を舞台にしたエロティック・ミステリという感じなのだが、そのエロスが不信感と混ざり合い、異様な宙づり感を作り出している。最後には妙なオチがつくのだが、笑っていいのか分からないこれまた妙な宙づり感。なんだか丸く収まっているようなのだが、はっきり言って妻とアシスタント・プロの関係がそれで晴れたわけではない。最後に勘違いした医師を笑う主人公を、まさに事件を見ていた衝立は嗤うのだ。

「黄色い吸血鬼」

 視点によってなんでもない光景が奇観と化すという島田荘司的な手法が用いられているのだが、視点人物にそれを据えるか、というような選択が著者らしい。今だとおいそれとはできない。主人公が見ている光景は異様ではないが、その光景の背後に異様なものが控えているので、奇観が晴れてもイヤなものが残る。

「降霊のとき」

 降霊相談所の女助手がふとした機会から霊媒師に成り代わって、降霊を行い、依頼人の女性たちと交わってゆく。男の霊を自身に降ろしてセックスするという倒錯的な話から、妙な因縁話が引き出される。

「誘惑者」

 黄色い吸血鬼に続く吸血鬼テーマだが、アプローチは違う。こちらもまた倒錯的な話で、その倒錯が、吸血鬼的な形で感染してゆく。短いが、まとまりはいい。

「塩の羊」

 問題作にして傑作。フランスのモン・サン・ミッシェルと思しき島が舞台。日本人捜査官が同胞女子大生失踪事件の捜査のため訪れる。修道院、そして羊から原罪というモチーフが浮かび上がる。塩の草を食べた羊は塩の味がする――という塩の羊というタイトルの挿話もそれを指していると思われる。過去の罪を食んだものが、その罪を引き受けなくてはならないのか、その「羊」は本当に塩の味がしたのだろうか。荒涼とした海と羊の皮をかぶった女の姿を主人公のごとく、読者は傍観するしかない。

「人魚姦図」

 個人的なお気に入り。背徳的な人魚との交わりの背後にあるゆがんだ父と子の関係性と因果。そして救いのない結末なのになぜかユーモラスというか、飄々としていて気味の悪さはピカ一である。

「蜘蛛の巣の中で」

 いわゆる“信頼できない語り手”による告白文のテイスト。彼女の告白は果たしてどこまでが真実なのか、“嘘”の蜘蛛の糸に搦められているのは誰なのか。

「ブラック・ハネムーン」

 まさにブラックな話。こちらもまた書簡形式というか、女性の書置きを読むことで、彼女に降りかかった悪夢を追体験することになるのだが、その悪夢の外側もまた無残なな現実であるという構成の妙が光る。ある意味甘美な悪夢が即物的な現実によってさらにイヤな形になって読者の前に現れる。確定させないにせよ強くにおわせることで、じっとり残る、その書き方が巧い。

ドニ―・アイカ―『死に山』

 

死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相

死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相

 

  この本でディアトロフ峠事件という遭難事故を初めて知った。

 1959年、冷戦下のソ連ウラル山脈でその遭難事件は起きた。ウラル工科大学生が主なその登山チーム9名は、テントから一キロ半ほども離れた場所で死体となって発見された。遭難者たちは氷点下の中ろくに衣服を身に着けておらず、全員が靴を履いていない。うち三人は頭蓋骨折、そして女性メンバーの一人は舌を喪失していた。おまけに遺体の着衣からは異様な濃度の放射線が検出されたのだった。

 そのあまりにも不可解で異様な遭難者たちの最後は、様々な憶測を呼ぶが、最終的に「未知の不可抗力による死亡」という結論が下される。目撃者もなく、半世紀以上も広範な捜査が行われたが、いまだにこの悲劇に説明はついていない。全滅したトレッキング隊のリーダーの名前を取り、彼らが遭難した周辺はディアトロフ峠とよばれ、事件の総称もそこから来ている。

 そんな世紀の怪奇事件にアメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。

 こんな奇妙な事件があったとは。正にミステリーである。まあ、なんというかムー的な香りがするというか。もちろんそんな謎の蜜に多くの人間が引き寄せられ、様々な説が唱えられた。雪崩や吹雪といった常識的なものから脱獄囚の襲撃、放射性廃棄物による死、衝撃波、または爆発によるショック死などから、果てはUFO、宇宙人、凶暴な熊などなど。冷戦下のソ連ということもあって、政府による陰謀論なども出てくる始末。しかし、どれも決定的な解決には結びついていない。

 もう60年近くの事件なのだ。関係者だって年老いている。いまさら新しい情報が出てくることが期待できるわけでもない。それを全然関係のないアメリカ人のドキュメンタリー映画作家が調べる――今さらいったい何のために?

 著者自身もそんなことを自問しつつ、始めは明らかに異様な事件に対する好奇心から事件に足を踏み入れていく。この作品は事件の真実を求めつつ、ある意味その理由を探す記録でもある。とはいえ、決していい加減な形で世紀の怪事件を面白おかしく取り上げようとするドキュメンタリーではない。著者はかなり誠実に事件に向き合っていく。

 著者の調査は実に丹念だ。当時の状況――トレッキングメンバーの人となりから、遭難現場までの行程、事件発覚と死体発見、そしてその後の捜査までの様子を資料や証言、当時の記録から出来るだけ詳しく再現してゆく。それは奇怪な事件を探る、というよりも、事件に遭遇したまだ大学生がほとんどだった遭難者たちがどのような人物たちだったのか、という所にきちんと筆が費やされている。彼らは実際にその時代に生きていたごく普通の大学生であり、家族や友人がいて将来を夢見ていた。

 そのように被害者たちをきちんと浮かび上がらせてゆく。そんな彼らが何故死ななくてはならなかったのか――だから、これは追悼の書なのだ。何の縁もゆかりもない外国人がしかし、いつしか彼らの存在を身近に感じつつ、彼らに「謎の事件」の被害者ではなく、きちんとした死の真相を明らかにすることで謎から解放すること。その意味で、このドキュメンタリーは探偵小説的でもある。“謎の死”を詳細な証拠をもとに“推理”し、個人が遭遇した不幸な事件として解体すること。

 実際、ホームズを引用し、著者が真相に突き当る過程は消去法である。これまでのあらゆる説を検証し、そのうちにとある現象の可能性に思い当たる。探偵小説ではないので、劇的ではないのだが、それによって導き出される答えはある意味恐ろしい偶然で、まさに遭難者たちには不幸としか言いようがないものだった。それは現地の言葉で、その名の通り“死の山”がもたらした死への誘いだったのだ。

 歯ごたえのある、死者たちを想うきちんとしたドキュメンタリーとなっていて、おススメの一冊である。

 伊藤計劃のサイト、「スプークテール」を今さら見てきたんだけど、自己紹介をクリックした先にある「モノローグ」や、掲示板に伊藤さんが書いている、エロゲーあるいは「萌え文化」に対する批判が結構激烈で(とはいえ、内容はなかなか面白い)、これを書いた当時(98年から2000年あたり)、伊藤さんは二十代前半だと思うんだけど、その批判の仕方がえらく年配的な感覚がして、ああ、こういう皮肉でなく頭のいい当時の青年たちが、そのまま年を取っているというわけか、そんな感じがしましたね。身体論に搦めて、他者性の欠如した(と規定した)想像に対する異様なほどの嫌悪感はいわゆる「オタク」内部から生まれ出ていた、という一つの証左としてみることができる。

 僕はエロゲ―をほぼやったことないし、Keyだとかマルチだとかそういうものがあったというくらいの認識しかないし、そもそも「オタク」という自称する意味がよく分からないというか、何でそんな言葉いちいち使うのか。伊藤さんは「オタク」という自らの領域と認識したその場所が堕落しているという風に感じて、失望していたのだろう。

 伊藤さんはアニメやエロゲ―に対する屈折した思いを結構吐露しているんだけど、それだけ期待してたのかもしれないし、特になんにも思わない僕の方が冷淡なのかもしれない。まあとにかく、当時の「萌え」やエロゲ―に対する伊藤さんのスタンスが垣間見えてなかなか面白かったです。今さらですが。

 「腑に落ちる」という評価は確かにミステリにとって肯定的な評価ではある。というか、ミステリに限らず小説は読者を説得しなくてはならない(埴谷雄高も言ってた!)ことは確かだ。そう努力することは何ら間違いではない。

 しかし、「腑に落ちた」から素晴らしい、そうでなくてはならない、そう受け手側がためらいもなく評価のモノサシとして語る時、私は何か嫌な感じを受ける。そうか? 本当にそうなのか? ただのアマノジャク、ヒネクレモノなのかもしれない。でも自信満々に言う読者の姿を見るとちょっと待て、という思いが鎌首もたげる。

 腑に落ちる、それはある意味自分の理解できる範囲内だからこそ、そういう風にお墨付きを与えることができる。でも、自分の理解の外にあるものにつきあたった時、それはダメなものなのか“ハイハイ、こんなの頭で考えただけのものですね“――それも結局、そう言う評者の頭の中だけの評価ではないのか?

 これまでの「私」の中にある理解では腑に落ちない他者の想像力に突き当る瞬間、それをどう評するか。もちろんそれは結構コストがかかることだ、我慢して挑戦してみて割に合わない場合の方が多いいとは思う。しかし、「私」の外にある作品というのは無数に在るはずで、それをどう見ていくか、どう掴むかで「私」は広がるはずだ。それこそが「私」の、もしかしたらジャンル自体の里程標となる作品との出会いではないか。そして、本を読む――他者の想像力に触れる醍醐味の一つではないのか。

 なんでそんなメンドクセーことしなきゃなんねーんだよ、時間とカネの無駄、自分を納得させる“良い”ものを求めて何が悪い――もちろん悪くはない。ただ、選択肢として、腑に落ちる落ちないというのはそれほど確実なモノサシか? という疑問を私は持ってしまう、ということだ。

 まあ、他人がそう言ってる時に異を唱えたくなるだけで、結局、私もなんかコレ腑に落ちねーな、ダメ、とやっている可能性は高い(アハハ……)。ただ、自己の読書を振り返ってみて、自分の心に針のように突き刺さっている本たちは、ストンとすべてが胸に落ちる小説ではなく、何なんだろうなこれ、これでいいのか、アリなのか、という“腑に落ちなさ”をどこかに潜ませている、そんな小説たちだったことは確かなのだ。

次回は戦争か? 映画『ザ・プレデター』

※一応、『ザ・プレデター』のネタバレしてるんで、観てから読むことをおススメします。

 

 地球にやってくる宇宙人には大雑把に分けて二種類がいる。ヒョロガリとマッチョである。そして大抵はヒョロガリ――いわゆるグレイ型やタコ型宇宙人という連中である。その高度な科学力の代償なのか、はたまたせめて体力では勝ちたいという地球人の貧しい願望の産物か、まあ確かに利便性が身体性を弱体化させるという理屈は“科学的”ではあるのだろう。しかし、一方で科学に堕落しないマッチョな宇宙人も存在する。映画におけるその代表ともいえるのがそう、プレデターである。

 高度な科学力を纏った蛮族。過去の植民地における西洋文明の似姿――という面白みのない分析をすることもできるかもしれない。まあ、それはとりあえず放っておこう。

 レジャーとしての狩というよりは、どこか民族的な儀式性を帯びたような、土俗な狩人。シャーマニックな造形(ジャマイカの戦士の絵が原型)に、そこにある魔術的な意匠として高度な科学を纏っているという、実に見事な異星人キャラクターと言えよう。そして、シリーズはその狩人、という側面にある意味忠実に拡大してきたといえる。ジャングルというまさに原点から、コンクリートジャングルに狩場を移した後は、より強力な猛獣(エイリアン)との戦い、複雑でよりゲーム化されたマップでの狩り、といったふうに。

 そして今回、原点に立ち返る形で、シリーズの正道である1、2の続きとして出てきた『ザ・プレデター』――それはいかなる狩りを描くのか?

 なんと、それは描かれなかった。ここにきて、プレデターは“狩り”を捨てたのである。一応、地球に逃げたプレデターを追うプレデターという意味でプレデターによるプレデター狩りという要素はあるが、それは設定でしかなく、決着もあっさりつく。

 というか、“狩り”にこれまでとは別の意味付け(というか後付け設定)が行われて、強い獲物をコレクションするとか、狩人の名誉的なものではなく、強い生物の遺伝子を自らに取り込んで強化するという(色々科学的にどうなの? という気もしないではないが)とりあえずSF的な理由が語られる。同時に、地球人がプレデター的に絶滅危惧種指定されていて、追われていたプレデターが、地球人を“保護”するためにあるものを運んできた、という設定が物語ひとつの縦糸となっている。

 そして、横糸となるのが、父と息子の話である。息子を救うために父は軍のはみ出し者達とともにプレデターに立ち向かう。ここはぶっちゃけあまりうまくいっていなかったような気が個人的にはした。

 今回の作品、プレデターは「捕食者」だろ、と突っこみを入れたり、過去作品のリンクや1を意識した人物構成(7人の軍人+女性)とか、プレデターファン的な目くばせが結構あって、プレデターマニアが作った作品という趣き。

 脚本は結構グダグダというか、よく考えなくてもおかしなところが散見され、最初に来たプレデターが地球人を救うために来たなら研究所での殺戮は何なんだよ(せっかく来たのにあの扱いでちょっとキレてしまったのかもしれない……)という根本的な穴があったりしつつも、まあそこはそれ。

 つまるところ、プレデターが暴れ回るところが楽しめればオール・オッケーである。登場人物に子どもがいることで遠慮するかと思われたゴア描写も特に遠慮することなく、胴体は真っ二つになり、首が飛び、手が飛び、足が飛ぶ。そして、それらに軍人たちのブロマンスが添えられた作品としてみれば、なかなか楽しめる作品でしょう。

 SF的にはもう少しプレデターの新たな科学技術とかないのかなあ、と思っていたら最後にやってくれました。最強のプレデタースーツの登場です。ぶっちちゃけここがめちゃくちゃカッコいい。マーベルの戦列に加わる気満々なスーツを人類は手に入れ、次は大挙してくるプレデター軍団との戦争が始まるに違いありません。

 そう、狩りは終わったのだ、今度は戦争だ……たぶん。

何のために表現するのか パスカル・キニャール『世界のすべての朝は』

 

世界のすべての朝は (伽鹿舎QUINOAZ)

世界のすべての朝は (伽鹿舎QUINOAZ)

 

 というわけで初キニャール。伽鹿舎の文庫で、帯文の伊藤計劃がどうたらという所にひかれたというミーハーな動機で買った本でしたが、素晴らしかったですね。そんなに長くない中に、訳文もいいのでしょうか、清冽な言葉の選びで濃密な言葉の物語が織り込まれていて、伊藤計劃云々関係なしにいい小説を読んだ満足感がありました。

あらすじ

 妻を亡くした音楽家サント・コロンブはその日からそれまで以上に音楽に没頭し始める。彼とその娘たちの名声は高まり、貴族たちがこぞって彼らをたたえる。しかし、コロンブはやがてそれらに背を向け始める。その音楽はひたすら亡き妻へと捧げられ、ついに王の招聘も断り、彼はその死者へと届く音楽へより孤独に邁進してゆく。

 その父娘の中へ一人の青年マラン・マレが弟子入りする。師であるコロンブの音楽を崇拝しつつも、師の音楽を彼のうちから外へと広げようとするマレ。それが師との溝、そして亀裂を生じさせ、やがて二人の娘を巻き込んでゆく。

 感想

 とても良かったものの、実はなかなか感想書きづらい。

 弟子であるマレはコロンブの音楽をカタチにしようと躍起になります。それは自身の音楽による出世欲にも結び付いて、自身の音楽を王や貴族から素晴らしい、と称賛される音楽、宮廷音楽家としての音楽、といういうふうにして、その音楽をあるカタチに規定することを当然とすることで、師であるコロンブとの対立を深めていく。彼は、コロンブが自身の音楽を自身の中で終わらせていることが理解できない。自身の表現は外の世界に向かって開かれるべきだ。そして、それ相応の評価を受けるべき――それはある意味、当たり前といえば当たり前の態度ではある。

 しかし、コロンブはそんなことに音楽はあるのではないという。「きみに感じるための心はあるか? 考えるための頭があるか? 音というものが舞踏のためでもなく、王の耳を楽しませるものでもないとしたら、何の役に立つか、きみは考えたことがあるか?」

 音――音楽は何かのためにあるのか? それは言葉――文学にも置き換えられ、つまりは表現という領域への問いにもなる。表現は何かのためにあるのか? 

 キニャールは音楽というカタチのないものを言葉というこれまたカタチのないものでとらえようとしているかのようだ。「むずかしいものだよ。音楽はまず、言葉では語れぬものを語るためにある」それを、キニャールは言葉で語らんとしている。

 語りえないもののために語る。この世のすべての朝はかえって来ない――それは死者たちもそうだ。亡き妻、亡き娘、そして恋人、コロンブとマレは死者でつながる。語りえない者たちの代わりに彼らは音を奏でる。

 “文学は死者たちとともにある。そして、死者たちとともに消え去る”

 安藤礼二の文學評論『光の曼陀羅』の冒頭部である。そしてそれはこう続く。

 “つまり、文学とは、死者たちのために一瞬虚空から取り出され、死者たちとともに虚空に送り返されなければならない「なにものか」なのだ”

 安藤礼二は「文学は」と言っているが、恐らく表現というものが死者と共にあるにではないか。原始の表現であった踊りと歌はこの世にはいない者たちとともにあったのではないか。その一瞬虚空から取り出される「なにものか」のために、きっとすべての表現はある。

 それは、この世界のどこかにいる誰かに寄り添うためのものではない。私が時々、そういう疎外されたものに寄り添おうとするような小説に感じる違和というものは、そこにあるのではないか。もっと根源的なものなのだ。文学は、表現は。キニャールのこの小説は、簡潔な言葉の選びとその描写でその「なにものか」に私たちをするりと肉薄させてくれる。これはそんな得難い体験をさせてくれる数少ない表現が込められた小説なのだ。