蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

何のために表現するのか パスカル・キニャール『世界のすべての朝は』

 

世界のすべての朝は (伽鹿舎QUINOAZ)

世界のすべての朝は (伽鹿舎QUINOAZ)

 

 というわけで初キニャール。伽鹿舎の文庫で、帯文の伊藤計劃がどうたらという所にひかれたというミーハーな動機で買った本でしたが、素晴らしかったですね。そんなに長くない中に、訳文もいいのでしょうか、清冽な言葉の選びで濃密な言葉の物語が織り込まれていて、伊藤計劃云々関係なしにいい小説を読んだ満足感がありました。

あらすじ

 妻を亡くした音楽家サント・コロンブはその日からそれまで以上に音楽に没頭し始める。彼とその娘たちの名声は高まり、貴族たちがこぞって彼らをたたえる。しかし、コロンブはやがてそれらに背を向け始める。その音楽はひたすら亡き妻へと捧げられ、ついに王の招聘も断り、彼はその死者へと届く音楽へより孤独に邁進してゆく。

 その父娘の中へ一人の青年マラン・マレが弟子入りする。師であるコロンブの音楽を崇拝しつつも、師の音楽を彼のうちから外へと広げようとするマレ。それが師との溝、そして亀裂を生じさせ、やがて二人の娘を巻き込んでゆく。

 感想

 とても良かったものの、実はなかなか感想書きづらい。

 弟子であるマレはコロンブの音楽をカタチにしようと躍起になります。それは自身の音楽による出世欲にも結び付いて、自身の音楽を王や貴族から素晴らしい、と称賛される音楽、宮廷音楽家としての音楽、といういうふうにして、その音楽をあるカタチに規定することを当然とすることで、師であるコロンブとの対立を深めていく。彼は、コロンブが自身の音楽を自身の中で終わらせていることが理解できない。自身の表現は外の世界に向かって開かれるべきだ。そして、それ相応の評価を受けるべき――それはある意味、当たり前といえば当たり前の態度ではある。

 しかし、コロンブはそんなことに音楽はあるのではないという。「きみに感じるための心はあるか? 考えるための頭があるか? 音というものが舞踏のためでもなく、王の耳を楽しませるものでもないとしたら、何の役に立つか、きみは考えたことがあるか?」

 音――音楽は何かのためにあるのか? それは言葉――文学にも置き換えられ、つまりは表現という領域への問いにもなる。表現は何かのためにあるのか? 

 キニャールは音楽というカタチのないものを言葉というこれまたカタチのないものでとらえようとしているかのようだ。「むずかしいものだよ。音楽はまず、言葉では語れぬものを語るためにある」それを、キニャールは言葉で語らんとしている。

 語りえないもののために語る。この世のすべての朝はかえって来ない――それは死者たちもそうだ。亡き妻、亡き娘、そして恋人、コロンブとマレは死者でつながる。語りえない者たちの代わりに彼らは音を奏でる。

 “文学は死者たちとともにある。そして、死者たちとともに消え去る”

 安藤礼二の文學評論『光の曼陀羅』の冒頭部である。そしてそれはこう続く。

 “つまり、文学とは、死者たちのために一瞬虚空から取り出され、死者たちとともに虚空に送り返されなければならない「なにものか」なのだ”

 安藤礼二は「文学は」と言っているが、恐らく表現というものが死者と共にあるにではないか。原始の表現であった踊りと歌はこの世にはいない者たちとともにあったのではないか。その一瞬虚空から取り出される「なにものか」のために、きっとすべての表現はある。

 それは、この世界のどこかにいる誰かに寄り添うためのものではない。私が時々、そういう疎外されたものに寄り添おうとするような小説に感じる違和というものは、そこにあるのではないか。もっと根源的なものなのだ。文学は、表現は。キニャールのこの小説は、簡潔な言葉の選びとその描写でその「なにものか」に私たちをするりと肉薄させてくれる。これはそんな得難い体験をさせてくれる数少ない表現が込められた小説なのだ。