蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 「腑に落ちる」という評価は確かにミステリにとって肯定的な評価ではある。というか、ミステリに限らず小説は読者を説得しなくてはならない(埴谷雄高も言ってた!)ことは確かだ。そう努力することは何ら間違いではない。

 しかし、「腑に落ちた」から素晴らしい、そうでなくてはならない、そう受け手側がためらいもなく評価のモノサシとして語る時、私は何か嫌な感じを受ける。そうか? 本当にそうなのか? ただのアマノジャク、ヒネクレモノなのかもしれない。でも自信満々に言う読者の姿を見るとちょっと待て、という思いが鎌首もたげる。

 腑に落ちる、それはある意味自分の理解できる範囲内だからこそ、そういう風にお墨付きを与えることができる。でも、自分の理解の外にあるものにつきあたった時、それはダメなものなのか“ハイハイ、こんなの頭で考えただけのものですね“――それも結局、そう言う評者の頭の中だけの評価ではないのか?

 これまでの「私」の中にある理解では腑に落ちない他者の想像力に突き当る瞬間、それをどう評するか。もちろんそれは結構コストがかかることだ、我慢して挑戦してみて割に合わない場合の方が多いいとは思う。しかし、「私」の外にある作品というのは無数に在るはずで、それをどう見ていくか、どう掴むかで「私」は広がるはずだ。それこそが「私」の、もしかしたらジャンル自体の里程標となる作品との出会いではないか。そして、本を読む――他者の想像力に触れる醍醐味の一つではないのか。

 なんでそんなメンドクセーことしなきゃなんねーんだよ、時間とカネの無駄、自分を納得させる“良い”ものを求めて何が悪い――もちろん悪くはない。ただ、選択肢として、腑に落ちる落ちないというのはそれほど確実なモノサシか? という疑問を私は持ってしまう、ということだ。

 まあ、他人がそう言ってる時に異を唱えたくなるだけで、結局、私もなんかコレ腑に落ちねーな、ダメ、とやっている可能性は高い(アハハ……)。ただ、自己の読書を振り返ってみて、自分の心に針のように突き刺さっている本たちは、ストンとすべてが胸に落ちる小説ではなく、何なんだろうなこれ、これでいいのか、アリなのか、という“腑に落ちなさ”をどこかに潜ませている、そんな小説たちだったことは確かなのだ。