蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

幻想が溶けた後に残るモノ 戸川昌子『緋の堕胎』

 

緋の堕胎 (ちくま文庫)

緋の堕胎 (ちくま文庫)

 

 

 戸川昌子という作家についていえば、歴代一の激戦と言われた第八回の江戸川乱歩賞において、あの『虚無への供物』そして『陽気な容疑者たち』を退けて入選を果たした『大いなる幻影』の著者、という知識があるだけで、手に取ったことはなかった。

 よって今回の日下三蔵編によるちくま文庫の傑作選が自分にとっての初の戸川昌子作品ということになる。

 ここに収められている作品は(短絡的に)一言でいえばエログロミステリという感じになるだろうか。エログロをより先鋭化させた江戸川乱歩の正当後継者と言えるかもしれない。全編が背徳的、反道徳的な題材や展開に濃厚な官能性を絡ませ、それが幻想性を纏い始めると、即物的なミステリとして落とす。全編の骨格としてはそのような作品が選ばれている。

 作品ごとに濃厚な官能描写が織り込まれているが、よくある中間小説的な下世話さはあまり感じない。それは解説で編者が言及しているように、それを描写している著者の視線が理性的でどこか冷淡なことに起因している。展開されていく人間が為すある意味忌まわしい行為を著者はどこかものを見るようにじっと見つめてゆく。

 そのように異様な展開や行為を何でもないかのように描くことで、それらはどこか彼岸のモノのようになり、やがて濃い幻想性を帯びてゆく。しかし、著者はその幻想性を即物的なミステリとして現実の地平に解体してゆく。感想をあさるとそのことに不満を覚える向きもあるようだ。せっかくの幻想性をどうしてミステリ的なオチで矮小化するのか、という意見はまあ、分からないでもない。だが、異様な情景を積み上げた幻想性を律義にミステリ的に落とす(堕とす)ことが、これらの作品を忘れがたいものにしているように私は思う。

 どんなに異様で不道徳だろうがグロテスクだろうが彼岸の幻想として愛でることができるということは、ある意味、読者にとって安心して鑑賞できるということでもある。そして出来のいい“幻想”という風に飲み込むことができるだろう。しかし、著者はその幻想めいた異様な風景をミステリを用いて現実的な地平に解体する。それによって幻想に溶けるのではなく、異様な諸々は矮小化しつつもごろんとしこりのように残る。

 どこか寒々とした幻影のあとに残されたそれはとても飲み込みづらく、読後に残されるこれは何なのか読者は戸惑う。それはやはり、著者の冷淡な視線のような気がするのだ。著者が異常なシチュエーションの中にある人物たちを通して、それを読む読者の方をも見つめてくるような、そんな感覚。そしてそれに見つめられたという感覚が、著者の作品を忘れがたいものにしている、そんな気がするのだ。

 

 ※ここからはそれぞれの作品について。ネタバレ込みで書くので注意。

 

「緋の堕胎」

 初っ端から堕胎というテーマで解説に引かれた筒井康隆の評が述べているように、半人間という堕胎胎児が醸し出す背徳性にまずからめとられ、その物言わぬ半人間という存在を中心に医者や助手、妊婦たちが歪んでゆく。その過程が淡々とした視点で語られることで、より異様な世界へと読む者を引き込む。掘り返される半人間たる胎児たちの骨とともに「人間」の骨が掘り出されるシーンは出色の場面だろう。そこに添えられる疑惑を含めて。

「嗤う衝立」

 病院を舞台にしたエロティック・ミステリという感じなのだが、そのエロスが不信感と混ざり合い、異様な宙づり感を作り出している。最後には妙なオチがつくのだが、笑っていいのか分からないこれまた妙な宙づり感。なんだか丸く収まっているようなのだが、はっきり言って妻とアシスタント・プロの関係がそれで晴れたわけではない。最後に勘違いした医師を笑う主人公を、まさに事件を見ていた衝立は嗤うのだ。

「黄色い吸血鬼」

 視点によってなんでもない光景が奇観と化すという島田荘司的な手法が用いられているのだが、視点人物にそれを据えるか、というような選択が著者らしい。今だとおいそれとはできない。主人公が見ている光景は異様ではないが、その光景の背後に異様なものが控えているので、奇観が晴れてもイヤなものが残る。

「降霊のとき」

 降霊相談所の女助手がふとした機会から霊媒師に成り代わって、降霊を行い、依頼人の女性たちと交わってゆく。男の霊を自身に降ろしてセックスするという倒錯的な話から、妙な因縁話が引き出される。

「誘惑者」

 黄色い吸血鬼に続く吸血鬼テーマだが、アプローチは違う。こちらもまた倒錯的な話で、その倒錯が、吸血鬼的な形で感染してゆく。短いが、まとまりはいい。

「塩の羊」

 問題作にして傑作。フランスのモン・サン・ミッシェルと思しき島が舞台。日本人捜査官が同胞女子大生失踪事件の捜査のため訪れる。修道院、そして羊から原罪というモチーフが浮かび上がる。塩の草を食べた羊は塩の味がする――という塩の羊というタイトルの挿話もそれを指していると思われる。過去の罪を食んだものが、その罪を引き受けなくてはならないのか、その「羊」は本当に塩の味がしたのだろうか。荒涼とした海と羊の皮をかぶった女の姿を主人公のごとく、読者は傍観するしかない。

「人魚姦図」

 個人的なお気に入り。背徳的な人魚との交わりの背後にあるゆがんだ父と子の関係性と因果。そして救いのない結末なのになぜかユーモラスというか、飄々としていて気味の悪さはピカ一である。

「蜘蛛の巣の中で」

 いわゆる“信頼できない語り手”による告白文のテイスト。彼女の告白は果たしてどこまでが真実なのか、“嘘”の蜘蛛の糸に搦められているのは誰なのか。

「ブラック・ハネムーン」

 まさにブラックな話。こちらもまた書簡形式というか、女性の書置きを読むことで、彼女に降りかかった悪夢を追体験することになるのだが、その悪夢の外側もまた無残なな現実であるという構成の妙が光る。ある意味甘美な悪夢が即物的な現実によってさらにイヤな形になって読者の前に現れる。確定させないにせよ強くにおわせることで、じっとり残る、その書き方が巧い。