蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

学生アリスシリーズの思いで。

 そういえば、有栖川有栖の学生アリスシリーズについて少し語りたい。

 中学から高校にかけてのことだったと思う。当時探偵小説に飢えていた。小学生の時に乱歩に出会って、探偵小説にのめりこんでいたわけだけど、ホームズ、ルブラン、ヴァンダインの『カブト虫殺人事件』やクリスティの『メンハ―ラ王の呪い』、『大空の殺人』などと読み進んだものの、どこか物足りないというか、国産の探偵小説が読みたいという熱が高まっていたのだ。しかし、今の日本の推理小説と言えばこれ、という風に親から渡された『点と線』である種絶望してしまう。これが今の日本の探偵小説というのならば、自分にとって読もうという気にはなれない、そんな気分だったのだ。そして、その後は宗田理の『ぼくらシリーズ』やライトノベルに傾倒していく(純文学は教科書で読むくらいでわざわざ買って読もうとかは思わなかった)。

 そんな中、本屋をぶらついてた時に隅の創元推理のコーナーにて、表紙のジャケットで目を引いたのがフェラーズの『猿来たりなば』と有栖川有栖の『孤島パズル』だった。その時ようやく東京創元社という出版社を意識の中に入れたのだ。それまで、広く取られた講談社や角川の棚ばかり見ていて、隅っこや裏側の創元やハヤカワは視界の外にあったのだった。

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 

 なんだかんだで迷ってフェラーズを買い、後日やっぱりこれも買おうというふうに『孤島パズル』をレジに持って行った。ぶっちゃけ、あらすじの「密室」という言葉に後ろ髪引かれたのだ。乱歩の『魔術師』を読んで以来、密室とか不可能犯罪に目がなかった。

 だから、初めて読んだときはその扱いにガッカリしたし、探偵役の江神さんの密室に対する、そっと扉を閉めて去る、みたいな玄人な語りもなんじゃそら、というふうに理解できなかった。作中のメインのロジックについても、それが披露される時のヒリヒリするような感覚と、それによってとある光景が目に焼きつく印象深いものとなったものの、なんか求めてたのと違うな、という感じで終わったのだった。その後、不可能犯罪の方を求めて、二階堂黎人ディクスン・カーあたりを読み込んでいって、有栖川有栖自体から遠のいていた。

 転機になったのは、エラリー・クイーンの読み方が分かってきたころからだ。クイーンも当初は、退屈な議論ばっかりであんまり面白みを感じられなく、ほとんどとりあえず抑えとかないとな、みたいな気分で読んでいた。『Xの悲劇』『Yの悲劇』『ギリシャ棺の謎』……どれも長さや探偵(特にレーン)の芝居がかった仕草にイライラしながら読み捨てていった。それが変わったのが『エジプト十字架の謎』で、あの有名なロジック(というか手掛かり)が、本格ミステリにおける論理の魅力、というものの理解への転機となったのだ。そして、その後の『Zの悲劇』や『オランダ靴の謎』で、手掛かりの魅力からロジックの流れ、その展開手順そのものが、快楽であることを教えられたのだ。

 そして準備は整い、次に手に取ったのはあの『双頭の悪魔』。

双頭の悪魔 (創元推理文庫)

双頭の悪魔 (創元推理文庫)

 

 そう、学生アリスのみならず、有栖川有栖の最高傑作との呼び声も高いあの作品である。日本の本格史に残る一大傑作を、このような形で紐解けたのは、とてもいいタイミングだったと言えるだろう。

 推理というものが、そのロジックを積んでは崩し、真相へとにじり寄っていくという過程自体が、こんなにもワクワクするものなのか!――それは一つの大きな体験だった。そして、私はミステリにおけるロジックの追求というものが、トリックの驚きと同等かそれ以上の悦楽を享受できるということを決定的に刻み付けられた。それは、私のミステリにおける、第二のパラダイムシフトだったと言える。

 とにかくこの作品はぜいたくなロジックがふんだんに盛り込まれていて、二つに分断された場所で名探偵江神二郎の鮮やかな推理、そしてその向こう側では名探偵ではないかもしれないが推理小説については人後に落ちないアリスをはじめ、織田や望月といった推理研のメンバーがあーでもない、こーでもないと頭をひねり、推理を披露しては他が反論し、あっちへいきこっちへいきつつ次第に真実へと焦点を当ててゆく。特にそのアリスたちによるすったもんだの推理行が特に素晴らしい。そして、江神、アリスたちそれぞれの推理が一つの像を結ぶとき、この事件の悪魔が姿を現すのだ。

 本当に素晴らしい、国産本格の一品。読んでいないのならぜひ手に取ってその妙技に、そして推理することの楽しさに浸って欲しい。

  そして、さかのぼるようにして手に取ったのが第一作である『月光ゲーム』だった。

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

 

  この作品はクイーンの『シャム双生児の謎』にインスパイアというか、本歌取りをしたような、火山の噴火によってクローズドサークルを形成する作品だ。そして、この作品におけるロジックーーその手がかりはシリーズでいちばん好きというか、印象深いものがある。確かに登場人物が多くて、把握しづらい所はあるかもしれないが、私自身はそこまで気にならなかったし、きちんと区別はつくように書かれている。

 学生アリスシリーズは割とセンチメンタルな色合いがあって、今作ではアリスを含め江神さんにもちょっとロマンス描写があり、先に二作を読んでいたぶん、意表を突かれるところがあった。そして、センチメンタルな部分と事件を明らかにすることで浮かび上がる悲哀のバランス、というのもこの作品から確立されている。メンバー同士のやり取りに見る青春の清清しさや、事件をロジックで解明することをあきらめない冒険的な要素と事件の裏に潜む悲哀の混交のバランスが、このシリーズの魅力の核なんだろうと思う。

 あと、ダイイングメッセージの扱いについて、解明はしつつも犯人特定の要素とはしないというダイイングメッセージに対する近年の本格作家たちのスタンスは、この作品における有栖川有栖の態度が源流のような気がしないでもない。

  そして現在最新作の『女王国の城』に至る。

女王国の城 上 (創元推理文庫)

女王国の城 上 (創元推理文庫)

 
女王国の城 下 (創元推理文庫)

女王国の城 下 (創元推理文庫)

 

  この作品は待ちに待った作品という感じで買ってすぐ読んだ記憶がある。新興宗教という閉じた世界をクローズドサークルの舞台にして、論理だけを武器に江神さんら英都大学推理研メンバーは謎に挑んでいく。今回のロジックは長大な分量にしてはシンプルで、『双頭の悪魔』のような物量で圧倒するようなタイプではないが、シンプルな分え、それだけで分かるの? という切れ味が鋭い。ロジックの居合切りだ。そして何より根幹にあるトリックのアイディアが素晴らしい。シンプルだが雄大なそれを効果的に発揮できる舞台設計との結びつきもいい。

 もはや職人芸のような無駄のないロジックの手つきがひたすらカッコいい。そして、読者への挑戦も。読者への挑戦は全作品にあり、そのどこかロジックに対するロマンティックな文章もまた、このシリーズを彩る要素の一つだ。

 学生アリスシリーズは全五作ということで、残りあと一作を待ち望みつつも、まだ続いて欲しいというジレンマがファンを苛んでいる。私もそんなファンの一人だ。

  最後に、この学生アリスシリーズの魅力というのは月光ゲームのところで述べた部分もそうだが、何と言っても本格としてそのロジックの魅力、その展開というかプレゼンテーションの仕方にあると思われる。ただ単に水も漏らさぬ説明をします、ということを見せつけるのではなく、見落としていた手掛かりを取り出すタイミングや一つの証明から導き出されるロジックの道筋。それを探偵と一緒にたどるような感覚。それはディスカッションの魅力だ。そして、その先にある真実へと至る瞬間に焼き付く手掛かりやロジックのビジョン。それはとある人物の何気ない姿だったり、登場人物にロジックの神が下りてきた瞬間だったり、ある物の手触りだったりする。そういう、ロジックによって焼き付く決定的な瞬間が、その推理を唯一無二の魅力的なものにしているように思うのだ。

消えないニオイ:映画『パラサイト 半地下の家族』

『パラサイト 半地下の家族』を観てきたので、とりあえずその感想を。ちょっと内容に触れたりするので、観てない人は観てから読んでください。あらすじは略。

 

 

 

 

 

 

 

 なんていうか、キツイ映画だった。別に面白くないというわけではない。映画としてはとても面白い。しかし、キツイのだ。それは、破綻することが分かっている、今にも崩れそうな建物が崩れるのを今か今かとじりじり見つめ続ける感覚に近い。絶対にこの生活は長く続かない。それがあらかじめわかっていながら、ある程度成功しちゃって「半地下の生活」から束の間の光を見ているような彼らを見るのがツライ。別に彼らはいい人間というわけではない。といって邪悪な人間というわけではなく、生きるためにそれ相応の狡賢さ備えた貧しさの中であえいでいる人間たちだ。そして、彼らに寄生される側の金持ちもまた、悪い人間ではないが、特別好感を抱く人間でもない。特に、何もできない“奥様”は外見の美しさ以外たまたまそこに居るような人間で、ソン・ガン・ホら“半地下”の家族との違いとはいったい何なのかと思わなくもない。

 家庭教師のバイトのピンチヒッターを友人から得た長男を決起に次々と金持ちの家の中に入り込んでいく半地下の家族たち。ヒュー・ウォルポールの「銀の仮面」のように金持ちの家に上がり込んだ人間たちが次第に家を乗っ取るのかという事前の予想とは裏腹に、彼らはあくまで寄生するのみだ。そして、だからこそ悲劇は起こる。どんなに近づいたとしても絶対に越えられないし成り代われないのだ。厳然とした溝がある。それこそ、ソン・ガン・ホ演じる父ギデクに染み付いた臭いのように。

 そしてそれが、まばゆい光の中の地獄にギデクを突き落とすことになる。どうあっても踏み越えることができない予感が、最後の息子の妄想と父への言葉に嫌という程重ねられていて、またそこが気分を暗くさせるのだ。格差、というものが実感を伴って流れ込んでくる時代。その“貧困の臭い”の恐怖が私にもよく分かる。

 なんだかんだで二〇一九年も終わり、この感想文やら雑文やらの集合体も三年近く続きました。とりあえず百記事書けたらということで始めて何とか書き切りましたし、二百くらいいったら終わってもいいんじゃないかと思ってたりしてますが、とりあえず何らかのフィクションに触れて、それについて書きたい気持ちが続く限りはやっていこうかな、と。まあ、時間と気力の問題もあるとは思いますが。

 紹介というには回りくどくて野暮ったいアジ文章だったりしますが、目的としてはフィクションを齧って、その時の自分の気持ちというやつを書き留めていくことが主ですので、それがもし、誰かの琴線に触れてくれれば幸いというか。

 しかし、誰に届くか分からないというのは、なかなか良いものですね。どのみちいつか消えていくものであっても、どこかの誰かさんに届く瞬間がある。実感なんてほとんどないけど、そういうファンタジーを少しでも信じようとする感覚が、こんな文章を書かせている一つの原動力なんだろうと思います。

 砂漠に散らばったがらくた――気に入ったものを拾ってまた遠くに去ってゆく。ネットの感想ブログというのはそんなフィクションを齧って進む人々の束の間の結節点なんだろうと思いながら、できるだけ続けていけたらな、と。私の感じた「面白い」(もちろん「つまらない」も)が、ほんの少しでも伝わることを祈って。

 それでは、今年もよろしく。

素晴らしい実写化:映画『夏、19歳の肖像』

夏、19歳の肖像 [DVD]

 島田荘司の映像化は、本邦でも近年になって多数作られているのだが、台湾で制作されたこの『夏、19歳の肖像』がたぶん一番いい出来だろう。原作を基本としながら、現代の話としてスマートフォンを有効活用し、サスペンス性やミステリ性を底上げして、原作の映画化というだけでなく、一つの映画作品としても非常に質の高いものになっている。島田ファンだけでなくとも一個の面白いミステリ映画になっていると思う。おススメである。

 主人公と彼がのぞく家に住むヒロインはもちろん原作準拠だが、その周りの人物などは新たにオリジナルな人物配置を行っているが、本筋としてはかなり忠実だ。そして、一九八五年の原作を二〇一八年に持ってくることで当然導入されるスマートフォン。これが原作のサスペンス性を壊さずに、むしろより謎や緊張感を増幅させていてその組み込み方が巧い。

 そして、原作の青春の過ぎ去ってゆく寂しさを描きつつも、後年の島田荘司テイストーーネジ式的なその先の希望のようなものを感じさせる終りになっていて、そこもまた個人的にはよかった。

 ただ、動機の部分はストレートに金銭的な後ろ盾のみになっていて、「家」や「土地」なるものの執着という部分はばっさりと切られていた。その辺は分かりづらい日本的な部分だったのだろうか?

彼らが“ぼくら”になる7日間:映画『ぼくらの7日間戦争』

 宗田理の『ぼくらの七日間戦争』といえば、ジュブナイルの金字塔で自分も小学生高学年から中学生の時にこの作品に触れ、シリーズを結構読んだ覚えがある。『ぼくらの魔女戦記』の一巻の最後あたりがたぶん一番好きだ。

 このシリーズとズッコケシリーズやかぎばあさん、エルマーシリーズといった児童書が自分の青春物語に対するイメージというか嗜好の核を作っているのは間違いない。もしかしたら、自分の青春は小学生中学生で止まっているのかもしれない……。

 まあ、それはともかく懐かしの作品が新しくアニメ映画としてよみがえるというわけで、期待半分不安半分というか、むしろ不安七割くらいで観に行ったのだった。ちなみに実写版は観ていない。

 観た感想としては、観て良かったというのがまず言える。確かに、批判評にはそれなりの正当性はあるし、何かが引っかかってそれが展開上論理的に解消されなければならないという観点から見れば減点だらけになるだろう。とはいえ、それでもこの映画は楽しいというか、ただの新海・細田フォロワーではない、独自の味を持ち得ていると思う。

 原作小説からは登場人物の名前から違うし、廃墟に立てこもるという要素ぐらいしか引き継いでいるものはない。その立てこもりも、自分たちの意志というよりは成り行きにすぎない。彼ら自身も二人、三人の繋がりはあるのだが、全体としてはあまりよく知らないクラスメイトの集まりでしかない。そんな彼らが、自分たちが密かに抱えた思いを解放することでようやく“ぼくら”になる、そんな映画だったように思う。

 なお、新海だ細田だとか、見た目であれこれ言いたくなる人がいるのは分かるが、実質、そんなに絵似てるだろうか……。見た目のリッチさはないが、ミニマムな堅実さ、的確さのある作画やレイアウトだと思う。特に彼らが立てこもる石炭工場の美術はとてもいいし、夜空に浮かぶコムローイ(ランタン)の光景や夜の空気感もいい。この映画、青春映画としての夏の青空はもちろんあるのだが、どこか彼らが身を寄せ合うような夜の光景が印象に残る映画ではないだろうか。

 あと、確かに前半部はスピーディーというにはあまりにも段取りをすっ飛ばしている感は否めない。ただ、それでも実のところ、とある女の子たちの気持ちのラインは最初からさりげなくもきちんと描写されているし、なんとなく集まっている、背景がほぼ語られないからこそ、彼らが隠していたもののを暴かれる瞬間が鮮烈になる部分はある。

 それからもうさんざん言われているように、いわゆる百合というやつが炸裂します。まあ、個人的に登場人物の関係性をジャンルとしてラベリングする言葉ってあんま好きじゃないんですが、とりあえず、この作品の一番の見どころは二人の女の子の秘めた思いのやり取りにあるのは間違いない。なのでそういうのが好きな人は早めに劇場に急ぐべきだろう。

 

あらすじ

  鈴原守はクラスであまり目立たない、本ばかり読んでいる少年だ。戦史好きという彼は、それを話し合える同年の友達がいるはずもなく、もっぱら同じ歴史マニアが集う平均年齢高めのチャット。そんな守るには気になる女の子がいる。隣に住む幼馴染の千代野綾だ。幼稚園の頃から一緒だった彼女の誕生日にプレゼントを贈る守は今度こそ、その時告白をしようと心に決めていた。しかし、その綾の誕生日一週間前に急に彼女が議員である父の都合で引っ越さなくてはならなくなったということを知らされる。

 せめて誕生日まではこの街にいたかったな――そうこぼす綾に思わず守は口にしていた。

「逃げましょう!」

 守の言葉に自分もそう思っていたと顔を輝かせる綾。誕生日を迎えるまでの7日、東京行きを強行する父から逃れてバースデイキャンプをしよう。閉山された石炭工場の跡地に集まったのは、守の他に綾が呼んだ四人。守にとって特に親しいわけではないクラスメイト達だったが、なんだかんだと楽しく過ごしていくことができそうな雰囲気に。

 そんな折、彼らは自分たち以外の誰かが工場内にいることに気がつく。マレットと名乗る不法入国の子ども。そしてそれを追ってきた入国管理官の二人組。大人たちから隠れ、社会の外側にいたはずのバースデイキャンプは、彼らの登場で守たち6人をのっぴきならない場所へと押し出してゆく。

 Sven Days War――彼らの自分自身を問う戦いが始まった。

 

感想

彼らが戦う理由

 この作品は原作を大幅にアレンジしていて、話自体は全然違うものとなっている。しかし、現代ならではの要素を盛り込んで、原作のスピリットを自問する形で「今、ここ」で語る七日間戦争とは、という制作陣の真摯な思いが形となった作品に結実した。

 まず、大きな違いとして立てこもる人数(原作ではクラスの男子がほぼ全員)とかがあるが、何と言っても特に仲のいいメンバーでやり始めているというわけではないところ。原作では大人に一丸となって抵抗する仲間たち、という前提があったが、本作の登場人物たちは、一応クラスメイトということや、友人、幼馴染、というつながりはありつつ、全体的には小さなクラスターの寄り合いでしかない。そして、彼らは特に進んで大人なるものに反抗しようとしているわけでもない。

 綾だって、結局は街やみんなと離れることは仕方がないとは思っている。ただ、せめて自分の誕生日を街で迎えたい、というささやかな願いがあるだけだ。そんな明確に戦うものがない彼らが大人たちを向こうに回して戦う理由となるのが、マレットという子どもの存在。不法滞在外国人という問題をはらんだマレットをその両親に再会させる――それが、彼らが戦う大きな理由となる。

 このマレットというキャラクターがなかなか重要な存在で、ある意味本当の「子ども」という存在でもある。高校生にしたことでも明らかなように守や綾たちは「大人」の部分もある。それは、体面のために嘘をついていたり、不正義だとわかりながらも見てみぬふりをする領域に片足を踏み込んでいることでもある。彼らは「子ども」であるマレットから見返される存在でもあるのだ。「子ども」たるマレットのお前たちも大人たちと一緒じゃないのか、という言葉が守たちをその場に踏み留まらせる。

◇お互いを知り“ぼくら”になる

 彼らの戦いは、目の前の大人との戦い以上に、自分の中の大人――やがて大人になってしまう自分自身との戦いでもある。そして、この作品の本領は、そのどこかのほほんとしていた彼らが隠していたものがSNSによってさらされるところから始まる。

 前述したが、前半部のあまりにも最低限の段取りでメンバーが集まることが、なんとなく楽しい思い出を作って終わり、という外見以上のものを持たないかに見えたメンバーたちの、その隠されたものがあらわにされる瞬間を鮮烈に見せている。もしかしたら時間や予算の都合もあったかもしれないが。さらにさんざん言われている新海誠の『君の名は。』や『天気の子』の二番煎じみたいな演出や牧歌的なジュブナイル風味が一気に覆り、この作品本来の顔を見せるという二重構造にもなっている。

 そして、自分たちが隠し裡に抱えていたものを共有することで、ようやく彼らは綾を中心にしたなんとなくの集まりから、一つの結束体――“ぼくら”になる。この映画は他人を知る、知ってもらおうとする映画なのだ。守は自分の気持ちを綾に知ってもらうと同時に彼女の気持ちも知る。自分の気持ちは通じ合うことはないかもしれない。しかし、それでも伝え合うことで彼らはお互いをかけがえのない“ぼくら”になれた。

 その後半部の転機となる暴露部分だが、守と綾は主役級の割には暴露される「裏」というものが特になく、終始ニュートラルで健全なキャラクターで、なんとなく集められたような残りのメンバーに強烈な「裏」があったというのもなかなか面白い構成だ。前半部は守や綾の周りにいるだけのような「仲間」たちに急に陰影がつく。中でも山咲香織というキャラクターは裏主人公と言えるくらいの内面が前半部から丁寧に織り込まれている。彼女の顔半分に影が差す演出はベタながらも的確に彼女のキャラクター性を描き出している。さり気ない部分も含めてその表情に要注目なキャラクターだ。

◇最後に

 今作は原作とは対照的に空が解放のモチーフとして描かれる。ラストシーンやコムローイを浮かべる場面。中でも告白を経て結束した彼らが二度目にコムローイを飛ばすシーンは挿入歌の「おまじない」を含めて印象的な場面だ。今作は青春映画の定番、青空よりもどこか夜の空のシーンが良いように思う。どこかしっとりとしたトーンの夜空に浮かぶ、彼ら自身の思いを込めたコムローイ。その開放のイメージがこの映画の本質を示しているような気がした。

物語り続ける、その後姿に。

 『白鯨伝説』というアニメを知っているだろうか。一九九七年から一九九九年にかけてNHK衛星第二で放送されたSF冒険アニメで、監督は『ガンバの冒険』や『エースをねらえ』OVA版の『ブラックジャック』などを手掛けた出崎統。タイトルの通り、メルヴィルの『白鯨』をモチーフにしている。

 当時のNHK衛星第二はアニメをたくさん放映していて、ガジェット警部やスプーンおばさんを食事時に観ていた。そして、モンタナ・ジョーンズと並んでよく覚えているのがこのアニメだった。

 ぼんやりとご飯を食べながらテレビを見ていた僕は、まずはそのオープニングのカッコよさに引き込まれた。白くて太いタイトル文字が出ると、荒々しい線で描かれたイメージボードのようなキャラクターや世界がOP曲「風と行く」とともにゆっくりと流れてゆく。はっきりとは分からないけれど、真っ白な鯨だけは目に焼き付くそのOPは今でも好きなOPだ。

 そして、今見てもそのクオリティの高い第一話の冒頭。子ども心にすごいな、と思いあの神々しいまでの白鯨の姿に圧倒された。そして、語り手のラッキー・ラックをはじめ、エイハブ船長や仲間たちの生き生きとした姿に夢中になった。

 物語ははるか未来。人類は宇宙に拡大し、そんな宇宙バブルというべき時代の遺産として使い捨てられた宇宙船が宇宙をただよい、それを鯨取りと呼ばれる廃品回収業者たちが競って回収し金に換えている。そんな荒くれ者たちの一団の一角、エイハブ一味に押し掛けたラッキー・ラック。ラッキーの故郷、惑星モアドは新型惑星開発弾の実験場として住民の強制退去が連邦政府によって進められていた。そのレジスタンスに力を貸してほしいと懇願するラッキー。当然嫌がるエイハブだが、連邦政府側の戦闘戦艦についての話を聞いて態度を一変させる「そいつ雪のように白かったか?」そうエイハブは声を張り上げる。彼の脳裏に浮かぶのはかつて自分の片目片足を奪った因縁の相手、超巨大戦艦『白鯨』の姿。運命――そうと言いようのないものに導かれ、エイハブは再び白鯨にまみえるべく惑星モアドへと向かう……。

 ――てな感じの話なのだが、この作品、めちゃくちゃ総集編をやっていたことで有名で、またかーと思いつつ、それでも毎回欠かさず観ていたのだった。しかし、全三十九話の予定は結局二十六話に短縮され、制作会社は倒産し、第十八話でいったん打ち切りとなる。そんなすったもんだのあげく、虫プロ制作でようやく残りの八話が制作されて完結した。

 僕が残りの八話を視聴したのは結構あとになってから。DVDで視聴した。結局打ち切りみたいになって終わったという理解で、残りが制作されたことは知らなかった。だから、驚きとともに、その最後がどうなるのかという期待を胸にディスクをセットした。

 当時からたぶん十年近くたっていたと思うけど、変わらず彼らはそこに居て、そして変わらず面白かった。出崎監督は時間がかかっても物語を語り終えようとしてくれていた。いいぞ、すごいぞ、しかし、ラスト三話あたりからこれ終るんだろうか、という疑問が頭をもたげ始めた。あと二話、あと一話、これは……あとBパートしかないぞ……!

 そして、最終話が終わる。ギリギリ、終りの終わりまで、ペンを走らせるようにして出崎監督は物語り続けた。制作状況の悪化に伴う大幅な話数の短縮で、満足のいく形ではなかっただろう。実際、物語はエイハブ船長と白鯨の決着を語れるかどうかすら怪しくなっていた。そのあまりにも足りない余白にしかし、監督は――出崎統は物語を描き続けた。

 いろんな事情で最後がわやになるアニメは多い。そのまま低い点数になるくらいなら、いっそ0点を取るとか、答案用紙をビリビリにするとか、そういう「ずるい」やり方でインパクトを残す選択肢だってあるだろう。しかし、最後の最後までペンを走らせる。物語ることを放棄することなく、登場人物たちの姿を語り切ろうとすることを監督は選んだ。

 そして、僕はラストの壮絶な流れとエイハブの慟哭と同じくらいに、その監督の語り切ろうとする意志に心を動かされた。エイハブたちの物語は終わっていないのかもしれない、しかし、監督は全身全霊をもって語ろうとし、最後の瞬間まで彼らと向き合い、そして課せられた制約の中、物語なるものに立ち向かい続けた。

 白鯨伝説、その物語に焼き付いているのは、そんな僕にとっての物語る者の後ろ姿だ。

 

 

とりあえずこのゲロかっこいいOPと第一話を見てくればそれでいい。


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あの夏、終わってしまった何かに:映画『Summer of 84』

 閑静な郊外。そこには見知った穏やかな人々がいる――そういうことになっている。

 しかし、誰もその心の裡を知りはしない。お互いが本心を見せたりはしない中、ふと疑いを抱くとき、そこを覗くことは何を招くのか。

 この映画は、80年代のノスタルジックな、しかしどこか得体のしれない郊外の風景を描き出す。15歳の四人の少年たちの青春物語というに風にはじまった物語は、やがてどこかじっとりとした暗がりが彼らの周りに淀み、決定的な出来事が彼らを後戻りのできない場所へと押し流してゆく。

 なにかの“終り”とは唐突にやってくる。これはそんな映画だ。

 

あらすじ

 1984年、オレゴン州イプスウィッチ。ごく普通の郊外に住む15歳の少年デイビーは、仲間のイーツ、ウッディ、ファラディ、そして年下の少年たちとつるんで夜にかくれんぼをして遊んでいた。そんな中、彼は隣人の警察官マッキーの家に見慣れない少年が彼といるのを目撃する。不審に思いながらも、鬼に見つかり、そのまま遊びの中に戻るデイビー。

 しかし、彼はその後家でシリアルを食べるために手にした牛乳パック――行方不明者の目撃情報を呼びかけるために印刷された顔写真を見て、それがマッキーの家にいた少年であることに気がつく。

 イプスウィッチの近隣の街ではここしばらく同年代の少年たちが行方不明になる事件が多発していた。もしかしたらマッキーが何か関わっているのかもしれない。デイビーは仲間たちを秘密基地に招集し、マッキーを監視することに。どこか探偵団的な高揚感の中、彼らはマッキーの不審な行動を少しづつ明らかにしていったかに見えたが……。

 

感想

 隣人が殺人鬼かもしれない――そんな自分たちだけが気づいた世界の秘密についての、少年たちのひと夏の冒険。

 ――なんて思っていたら、最後にとってもイヤな気持ちになること請け合いですので、それを期待する人は『IT』とか見た方がいいです。

 確かに導入部分はそんな感じで少年たちの探偵ものっぽくはあります。少年たちは、UFOだのシリアルキラーだののゴシップ記事を自室に恥ずかしげもなく貼り付けているオカルトマニアっぽい主人公を筆頭にデブ、眼鏡、不良とかなりきっぱりとキャラ分けがされていて、そこに主人公の幼馴染の女の子が混じってくる。なんというかいかにもな感じ。実のところ主人公とデブことウッディ以外はあんまり深く描けてはいない感じなのですが、外見のキャラ分けがきっぱりしているので、見分けつかなくなることはなかったです。あと、主人公以外は家庭に事情がありそうなことだけはどことなく匂わせています。

 それにしても、前半部分はすごいです。何がって、猥談が。この少年たち、ものすごいエロガキで、ことあるごとに裸見てえ、ヤリたい、みたいなことばっかり言ってちょっと辟易します。80年代の15歳というものはこういうものなのか、そもそも15歳の少年とはこういうものなのか。とにかく、中年の猥談好きなオッサンとはこれがこのまま年を取ったんだろうなあ、とは思いますが。

 とはいえ、このやたらと飛び出す少年たちのエロトークというものは、ある意味平和な瞬間の象徴みたいなところがあり、それは後半にかけてスーッと引いていきます。

 この映画、みんなで殺人鬼らしい隣人の証拠を探そうぜ、というノリで進んでいき、恐怖の瞬間を迎えつつも、ある意味少年探偵団ばんざーい、な展開を迎えはするのです。が、最後の最後に付け加えられたいわばエピローグのような部分によって一変します。なんというか、じっとりとした恐怖の感覚が観る者を捉え、そして何かが決定的に終わってしまった感覚を残して映画は終わるのです。

 その終わりの感覚というのは、青春の終わりというより、主人公の人間関係の終りみたいな感覚があります。少年たちは通過儀礼として思春期をくぐり、青春を終える――そんな定型的な青春物語からはどこか永遠に脱落してしまったような、そんな感覚。

 主人公デイビーに唐突に振るわれた終りの刃は、仲の良かった知り合いたちの結びつきをあっという間に断ち切り、そしてそのまま終わってしまう。幼馴染は去り、路でかつての秘密基地を解体する親友たちと目を合わせてもそのまま通り過ぎてしまう少年の姿。

 そしてラストは冒頭と同じく新聞配達をするデイビー。犯人からの“呪い”を受けつつも日常に復帰しているかに見える彼ですが、彼の「隣人」たちはすべて何を考えているか分からない人達になっている。

 人は決して本性を見せない。そんな街で、彼はこれからも生きていく。そうするしかないのだ。