蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

生きながら死んでいる男たちの:ウィリアム・フリードキン『恐怖の報酬:オリジナル完全版』

 映画ファンの中では伝説ともいえるウィリアム・フリードキンによる『恐怖の報酬』。そのオリジナル完全版を観てきました。ネタバレ前提的に語るので、まあそのつもりでお願いしますです。

 『恐怖の報酬』――もともとは1953年製作のアンリ⁼ジョルジュ・クルーゾー監督による傑作サスペンス。それは今なお古典として映画の殿堂に列せられている。

 77年に制作されたリメイク版はその影となった。色々な意味で。監督はあの『エクソシスト』のウィリアム・フリードキン。『フレンチコネクション』『エクソシスト』と続く、一番脂の乗り切った時期。フリードキンも自身の最高傑作と語る映画はしかし、長い間不本意な扱いを受けることになる。それは、当時のハリウッドの潮流、映画が迎えようとしていた流れとも少なからず関係がある。

 77年と言えばあの『スターウォーズ』が公開された年として、これからも刻まれるだろう。その前の76年はこれまたあの『ロッキー』。これまで、映画界を覆っていたリアルで重たいアメリカンニューシネマの流れがついに覆されようとしていた時代。『スターウォーズ』と同年に『未知との遭遇』を放ったスピルバーグが次々と娯楽作を送り込み、ハリウッドの重苦しいリアリズムを払底し、娯楽の復権を遂げはじめる、そんなちょうど境目にこの映画は生まれた(一応、77年にはあのリンチの『イレイザー・ヘッド』も公開されていたりする)。つまりはこの映画は「時代遅れ」になりつつあったのだ。

 古典であるクルーゾー版に引きずられた評論家の評価、そして興業の大失敗(製作費2200万ドルに対し興業収益は900万ドル……)。それを受け、ドキュメンタリータッチで重い前半部、そしてハッピーエンド的な終りになるようにまさしく「カット」された短縮インターナショナル版が米国以外で公開されるも、こちらも不評で終わり、この映画は輝かしい監督のキャリアのつまづきの石と化し、「失敗作」として(特に米国以外で)埋もれていく。

 複雑な権利関係もあって、再上映もままならず、DVDも北米のみ。そんな状況が長い期間続いていた。しかし、フリードキンの執念が二大映画会社の権利関係を解き、レストアを施し、元々のランニングタイム121分オリジナル完全版として2013年にヴェネツィア映画祭で上映。それから5年、ついに日本でそのオリジナル完全版が上映され、私の住む日本の片田舎でも上映される時が来た。

 そんなわけで恐怖の報酬。クルーゾー版はDVDで観ましたが、フリードキン版についてはもちろん劇場で観たことも無い。一応、リメイク版があることは知っていましたが、へー、あのエクソシストの監督かあ、ぐらいの興味しかなかったです(いきさつを知らなかったので何故かDVD見ないな、という感じで終わっていた)。調べたらうちの地方でもやってるということで、映画館へ。

 いやー、マジ凄いですね。何なんじゃこりゃ。こんな映画が半ば埋もれてたとか、そりゃ作った人間は意地でも日のあたる場所に出したいと思うだろうよ。本当に、とんでもない映画を掘り起こしたという感じだった。確かに当時の評価に憤る気持ちはわかる。まあでも、日本の批評については、短縮バージョンでこの映画の一番重要なところをカットされてたわけだし、あまりこう、見る目ねーなと罵倒するのはフェアじゃないかな、という気もしますが。

 とにかく、この映画はオリジナルを踏襲しつつ、まったく別の映画として成立しています。先人をリスペクトしつつ、独自のものを打ち立てる。そんな気迫に満ち、またそれを見事に成し遂げている。すごいよフリードキン、あなたはやっぱり映画の鬼だ。いや、この場合はこの映画の原題(Sorcerer)に倣って魔術師というべきか。

 あらすじ

 アイリッシュマフィア(ロイ・シャイダー)、不正取引をはたらいた投資家(ブルーノ・クレメル)、アラブテロリスト(アミドゥ)、ナチスを追う殺し屋(フランシスコ・ラバル)。罪を抱え追われる立場になる四人の男たちが流れ着いた場所は南米の小国。支配者の将軍のポスターが至る所に貼られた貧しい村。入ったら出られない、そんなアリ地獄のような国からの脱出を図る男たちは、石油会社のにおける事故火災を鎮火するためのニトロ運搬という危険な仕事にすべてを賭ける。もう戻る場所のない、戻ることができない男たち。生きながらすでに死んでいる彼らはひたすら行くしかない。しかし、どこへ?

 向こう側へ

 クルーゾー版が終始、それこそ運転席背後のニトロに火が付きそうな、じりじりと太陽の照りつける画面を展開したのに対し、フリードキンの映画は迷宮のようなジャングルの中を突き進んでいきます。まとわりつく緑、叩きつける雨。鬱蒼とした暗がりを悪魔のようなシルエットの改造トラックが、社会的に死んでいる亡者たちをのせて突き進む。どこか暗く湿った画面はクルーゾー版の陰画のようなものとなっていて、映画自体の境遇含めて、最初に言った通りまさに影といった感じの映画なのです。

 映画の前半部はクルーゾー版をリスペクトし、吹き溜まりに集まってくる男たち4人の境遇を一人一人かなりきっちり描きます。そのドキュメンタリータッチの部分ですでにじっとりと重い。同時に描かれるのが、彼らがそれぞれ何らかの形で、ひとに死を与えたということが描写されていきます。のっけからナチス残党を狩る殺し屋のサイレンサーで幕を開け、アラブテロリストは爆破テロを起こし、投資家は共同経営者を自殺に追い込む。そしてアイリッシュ・マフィアは教会を襲撃後の逃走中、仲間内のいざこざのなか運転を誤り、自分以外の仲間を死なせる。そんな彼らが、今度は自らを死のそばに置き、やがてそれに追われるようになる。

 この映画もまた、フリードキンの向こう側への希求が前面に出ています。フレンチコネクション、エクソシスト、それらは主人公たちが物語の果てについにここではない向こう側へ足を踏み入れてしまう、その瞬間が描かれてきました。そしてこの映画もより強烈な形でその向こう側が描かれます。仲間を一人また一人と失い、アイリッシュマフィアのドミンゲスが独りたどり着くは、むき出しの岩が石筍のように並ぶ砂漠。白い骨のような岩がまわりを覆い、紫色に沈む空はまるで寺山修司の『田園に死す』の恐山のよう。彼の耳に響くのはつい先ほど死んだ元殺し屋の高笑い。呆然としつつ、どこへ? と自問する男。もはやここは黄泉の国。そこの“踏み越えた”感はこの映画のクライマックスといっていいでしょう。嵐の吊り橋ももちろんすごいのですが、やはりここの瞬間こそがフリードキンの真骨頂でしょう。ここはマジでやばい。

 ついにトラックがエンストし、事故現場――闇夜に火柱が吹き上がる場所へ、最後はニトロを抱えてふらふらとした足取りで征くその姿はもはや幽鬼のようだ。ここのロイ・シャイダーもほんとすごい。死を抱え、彼は向こう側へ渡る。かつてのポパイ刑事やカラス神父のように。

 死が人をつかむ瞬間を描く

 そして、映画のラスト。やはりここをカットしたら映画の印象は180度変わる上に、映画が死んでしまう。それほど重要なシーン。というか、ここがすごくドキッとする。タンジェリン・ドリームのテーマソングがここまで禍々しく響き、死のにおいを奏でるとは思いませんでした。なんとなく古いけどカッコいい感じだと思ってたら。やばい。

 ここの一連のシーンもすごい。黄泉の国を渡りつつ、帰ってきて“しまった”男をカメラはアップで映す。その表情はどこか虚ろで、魂を置いてきたような表情。金を手に入れたのにこれからの行き先を決められない彼。気を紛らわせるように店の女中である老婆の手を取り、踊る。陽気でやすらかなタンゴが流れる中、カメラは引いていく。店の外へ出てゆき、その一気に客観へと変わるカメラワークにぞくっと来ます。店の外に横づけられるタクシー。そして、彼の追手が、まさに死の天使のように降りてくる。

 この濃密な、死が人に追いつき、そしてつかむ瞬間を見事にとらえる。フリードキンの冷徹なカメラが主観と客観という境界を越えてその瞬間をつまかえ、観客に突きつける。まさに映画史に残るべきラストだと思います。本当に素晴らしくて、これを劇場で観ることができて本当によかった。そして、フリードキン監督の執念に畏怖と感謝を。

 最後に。この映画、極限までセリフを削って、画で見せる映画となっていて、そこもまた緊張感と相まって凄みがあります。最初は先んじて賞金を独占しようとしたり、どっちが危険地帯で誘導するかで対立する男たちが、道をふさぐ大木をみんなで工夫して突破した時の、あの全員の何とも言えない連帯感が生まれた瞬間。みんな何も言わないんだけど、確かにそれが画面に映っている。このシーンもなにげにすごいというか好きなシーンでしたね。

 

 

 一応けものフレンズ2を観ました。

 ……これ、どこを狙ってるんだろう。低年齢層を狙っているんだろうか。それにしては動物感はキャラクターから減じているような。

 いや、なんていうかですね、個人的にけものフレンズの面白さって、CGモデルの動きにあったというか。サーバルちゃんでいうと耳の動きとか、ぴょんぴょん跳ねるような動き、ネコ科っぽいしぐさにあったと思うんだけど。まあ、全然ないってわけじゃないんだけど、もともとのアプリがアニマルガールということだし、動物の格好をした女の子よりになったということなんでしょうか。

 てか、キャラクターが自分の動物特性を口でいうところとか、児童向けっぽいキャラクター化を狙ってるのかなあ? ボスが解説してくれないからなんだろうけど、やはりそうだと動物感は薄れるというか、キャラクターの自己紹介的に映る。自分が何か、ということを把握してるわけだし。あとパート間に挟まれる動物解説は実際の動物の映像が出てくるのはいいんですけど、もろにきれいな解説という感じで、ざらついた電話録音の関係ない飼育員の雑感とかはもちろんなく、声優さんの聴きやすいザ・解説という感じになってましたね。それはともかく、実際の映像を見せるのは悪手だと思いますね。それだと実際はどうなんだろうという興味、そしてそこからあった動物園への導線という、一期の見事なギミックが完璧消えてしまってます。実際の映像見せたらだいたいそれで満足してそれっきりです。一期の動物紹介はアニマルガールが檻の中にいるということで一見ギョッとさせつつ、彼女たちのもとになった動物が動物園にいるということを示しつつ、本来の姿はどうなのかという興味を持たせるものとなっていました。だから、あれを見て動物園に行った人が多かったんじゃないでしょうか。キャラクターを動物園に置くことで動物園がいわゆる“聖地化”した、それほど見事なギミックだったのに……。2のやり方は動物園とのかかわりを自ら切ってるようにしか見えず、かなりマズい選択だと思ってます。

 で、出てくる動物たちですがカルガモ、パンダ、レッサーパンダ。どれもその動物の特性がお話のドラマとうまく結ばれてない感は少し否めないというか……。まあ、カルガモさんは頑張ってた気がするけど。というか、サーバルカラカルは何なんだろう……なんかよく分からないぞこの二人……。そもそも一話一話、そしてこのアニメ自体の基礎骨格って何なんだろう。どういう形で何を見せるかというフレームがきちんと決まっているんだろうか……うーん、あんまりよく分からない。

 とはいえ、動物ネタを挟みつつ、可愛い擬人化美少女キャラたちがわちゃわちゃ旅をする、という感じで観ていけば、それなりに楽しいのでは、という気もしています。

 とはいえなあ……一方でクイック賄派さんの同人があるんですけど、クオリティ高すぎじゃないですか? 奇しくもこちらにもロバが出てきたんですが(しかも竹林まで……)、登場シーンの元動物らしさにちょっと感動しましたよ。あの一期の続きからの二次創作なんですけど、フレンズに出会うワクワクがあって、マジ続きが楽しみで仕方ありません。

 というわけで、クイックさんの漫画は一期が好きだった人には特におススメなのです。

www.pixiv.net

 

※正直書いてしまうとですね、けものフレンズというコンテンツを再生する形で新たなフォーマットを作り、その後の展開にも創作意欲を燃やしていたクリエイターを追い出してまで作られた世界で、彼らを除いたまま、すごーい、という輪の中にはとてもじゃないが入れない。私にはもうこれ以上はムリだ、キツイ。

言葉でどこまでもつながってゆける 笹井宏之『えーえんとくちから』

 詩や短歌、それは僕にとって何とも言えないジャンルだ。一応、学校の教科書のものを目にしたことはあるわけで、「君死にたもうことなかれ」とか、「白鳥は悲しからずや」とか、なんかそんな感じのが記憶にある。古文の万葉集とか、古今和歌集とかその辺は全然ダメで、いまだに何言ってるのか分からない。とりあえず愛の歌が多いんだっけ?

 学校経由のイメージはそんな惨状。とはいえ、好きな詩とかは一応あって、中原中也の「骨」とか「サーカス」、萩原朔太郎の「殺人事件」、「干からびた犯罪」。あと、施川ユウキ経由で宮沢賢治の「告別」とか。短歌はあんまりよく分かんない。そういえば中井英夫の『黒衣の短歌史』は積んでる……。

 まあなんというか、好きだなあ、みたいな詩が片手で数えるくらいあるだけで、系統だった詩歌の流れとかほとんど知らないし、まともに詩歌集を読み切ったことも無い。

 そういう人間が、とりあえずこの本に出会った。そういうわけなのだ。

 例によってツイッターである。ちくまのアカウントが発売するということで、タイトルが流れてきた。「えーえんとくちから」というなんだか一瞥してよくわからない言葉。永遠解く力? 永遠と口から? 著者は26歳で亡くなったらしい。夭逝。俗人なのでそういう言葉と人に興味を持つ。検索。そして、ブログを見て(まだ、ご両親が続けているようだ)そこにある詩「切れやすい糸でむすんでおきましょう いつかくるさようならのために」を見て、あ、買ってみたいなと思った。その言葉にもっと触れてみたくなった。そして日曜の朝から本屋にのりこみ、一直線にちくま文庫のコーナーに向かい、手に取った。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください

 ああ、これはすごいものに触れてしまったな、そんな感じがした。この冒頭の歌が私をつかまえた。同時に私も彼の言葉をつかんだ。そんな感覚はなかなかない。とにかく、この歌に何か感じたのならこの本の歌たちに触れてほしい。これ以上、歌は引用はしない。本を開いて何首か見てほしい。

 彼の歌はまさに言葉に触れる、そんな感じなのだ。透明感があり、熱くも寒くもなく、どこまでものびやかで、すごく近くにいると思えば、いつのまにか遠くに連れ出されている。彼の言葉を介し、世界をゆったりとただようような感覚になってゆく。

 「私」と「世界」との交歓感覚。穂村弘は解説でその歌の特徴を魂の等価性と述べている。“私やあなたや樹や手紙や風や自転車やまくらや海の魂が等価だという感覚”それがおそらく、作者の歌にある透明感に繋がっている。また、作者はあとがきでこう述べている。

キーボードに手を置いているとき、ふっ、とどこか遠いところへ繋がったような感覚で、歌は生まれてゆきます。

(中略

風が吹く、太陽が翳る、そうした感じで作品はできあがってゆきます。

ときに長い沈黙もありますが、かならず風は吹き、雲はうごきます。

  流れに逆らうことなく、彼は言葉を待っている。そして、拾い上げられた言葉は、それにふれるものを作者と同じように、ふっ、とどこか遠い所へ繋げる。言葉で、ひとはどこまでも行ける。気負うことなく、当たり前のようにつれて行ってくれる。

 そして、私はその繋がったそれを放さないようにと怖れることなく、離すことができるのだ。その言葉が、私を、その繋がるすべてと等しくさせてくれているのだから。

 

えーえんとくちから (ちくま文庫 さ 49-1)

えーえんとくちから (ちくま文庫 さ 49-1)

 

 

「体験」を再現する装置としての映画 『ボヘミアン・ラプソディ』

 というわけで、新年初の映画はこれでした。おまけに恐らく人生初のIMAXで観た。ぶっちゃけ、同行者との時間の都合でIMAX字幕しかなく、えー、高い、みたいな感じで劇場に乗り込んでいったのですが、いや、観てよかったです。というか、これはIMAXで観るべき映画だ。

 まず映画が始まる前からアツい。20世紀フォックスのファンファーレがエレキで奏でられる。ここでもうビリビリと掴まれた。このファンファーレ、現クイーンのブライアン・メイロジャー・テイラーがこの映画のために録音したものだそう。そして、オープニングはベッドの上で目覚めるフレディ・マーキュリー。咳き込む姿に彼の生涯を少しでも知っているなら、それが重く胸に垂れ込めるだろう。彼はステージに向かう「ライブ・エイド」という、アフリカ難民救済のためのコンサート。そして、クイーンが語られるうえで伝説となったコンサートへ。スタッフによって幕が開かれ、満員の客が待つステージに上がるまでにかかる「Somebody of love」で既に何かこみあげてくる。一応言っとくと、私はそこまでクイーンのファンってわけじゃないです。ベスト盤をヘビロテしてた時期があった、というくらいでメンバーのこともフレディがエイズで亡くなったくらいしか知らない。

 それでも震えた。その音に感動した。それはまあ、IMAXの力ということかもしれないけど。

 映画はフレディのバンド生涯を追うように、その時その時の発表した楽曲を鳴らしながら、2時間30分のランニングタイムとはいえ、かなり一気に駆け抜けていきます。そういえば、観る前に時間もなげえな……と思っていたのですが、ほとんど気になりませんでしたね。それほどスピーディーに展開していきます。

 父親が望む強い男性像に反発しつつも、なれなかった自分として惹かれてゆく。そういったフレディの性的嗜好を軸にして「家族」への葛藤、反発、孤独、そしてバンドという「家族」へと回帰してゆくのが、この映画のドラマパートで、まあ、その辺は事実とどうこうというのはあるのでしょうが、映画の最低限の骨組みとしてそれはあるという感じでしょう。

 この映画の本質はその音と臨場感、そして、最後の最後にあるライブエイドのライブにあるといっていい。IMAXで観るそれは、圧倒的な体験として観る者に刻まれる。それはたぶん、当時の「体験」を体験することを目指している。当時の映像を、記憶を忠実に再現し、「体験」を体験する映画。多分これはそんな映画なんだ。

 過去との接近。これはたぶん、この十年くらいのインターネットの作り出した世界のカタチに沿っているのではないか。つまり、僕らは時代を超えて気軽に過去のコンテンツに触れられる時代にある。好きな時に、好きな時代の映像が、音楽が、そばにある時代。かつてないほど今と過去が漸近して、それはさらに進んでゆくだろう。

 そんな感覚の先として、VRが進化し、そこにいたことをよりリアルに「体験」することができる時代がきっと来る。ライブだけでなく、世界で起きているあらゆる出来事、デモや戦争をはじめ、歴史的な瞬間の数々を世界のあらゆる人々が「体験」し、まだ見ぬ未来の人々とそれを完全ではないかもしれないが「共有」する時代。そんな未来のとば口に立っているのかもしれない――なんて考えて、その始まりとして、こんな映画がジャンルとして増えてゆくのではないか、と映画の感動とは別な部分でもワクワクしたりしたのでした。

 最後は、映画の感想からは外れちゃったけど、もしまだ観てないならとにかくIMAXで観るんだ、実は言いたいことはそれだけだ!

 小学生の時だ。友人と合作で漫画を描き始めた時期がある。私としては本来小説を合作するつもりで誘ったのだが、うまく伝わらなかったのか、友人は勘違いしたか漫画を描こうぜ、ということになった。ノートというか、白い横長の雑記帳に何列かの線を引いたコマ割りに、アドリブで絵を描き、セリフを入れ、それを交互にしていくことで物語らしきものを行き当たりばったりで作っていったのだ。

 小説を書こうと誘ったわけで、私自身は絵なんか描けなかった。対して友人は漫画をたくさん持っていて、私なんかよりずっと絵が上手かった。その代わり、私は話を作るのが得意だった……としたら、もう少しこの“共作”は続いたかもしれない。しかし、話を作るのも友人の方が巧い、というかメインになるアイディアは友人で、私はテキトーな補足というか、余計なセリフの追加とか、展開の引き延ばしみたいなことしかできなかった。当然、このはるか昔の「バクマン」はあっさりと終わりを告げた――それぞれで描こうぜ、という風に。

 結局一人で白い紙を前に私は何もできず、友人の漫画をチラ見して似たような冒頭を描いて、友人は私に漫画を見せようとしなくなった。

 まあ、今は昔のこれは前振りだ。その時のなんとなく印象に残っている友人の漫画の冒頭が、これから書こうとすることに繋がっている……ような気がする、というだけだ。その冒頭は、パンパかぱーん、と新世紀を祝っている人々の前に敵が襲来するという、まあ、他愛もないといえば他愛もない冒頭。しかしそれが今も印象に残っているのは、私が新世紀を迎え、その後の世界を見たからだ。もしかすると友人はその新世紀の気分をとらえていたのかもしれない……なんていうのは私の後付けの理屈なのかもしれないが。

 世紀末、という気分を私はその時期に思春期をすごしながらも、少し年上の人たちがにめり込んでいたような終末的なものとして浸れなかった。そして、この世の終わり、終りへと向かうフィクションに浸ることができなかった。

 世紀末で終わりを迎えることなく、新世紀を迎え、新たな戦いが始まる。もしかしたら、友人のその漫画の冒頭は、私の当時の世紀末にノれない気分をさりげなく代弁していたのかもしれない。まあ、先に書いたように後付けと言えば後付けな話ではある。しかし、時間がたつごとに、その時見た漫画の冒頭が印象深くなっているのも確かだ。

 他愛もないが何故か忘れがたいものと化している、そんな話。

 そして、友人の漫画の、新世紀とともに始まった戦いの続きは分からずじまいだ。

「高天原の犯罪」の構造 天城一『密室犯罪学教程』

 

探偵小説は読者に参加の夢を与えると称しながら、実際は読者を操作するにすぎませんでした。

                    『密室犯罪学教程』献辞より

 

 ※「高天原の犯罪」そしてチェスタトンの某作(ブラウン神父の童心収録作)に触れています。いずれもネタを割る、又は真相を示唆する部分が出てくるので、未読の場合は注意してください。

 ツイッターのフォロワーさんのブログに触発され、天城一天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)の主に「密室犯罪学教程」を読み返しています。個人的に天城一は結構むかしに読んで、短い割になんかよく分からん、密室トリックがことごとくしょぼい、みたいな印象で、代表作の「高天原の犯罪」に感心しつつも、ああ、チェスタトンのあれの日本的バリエーションね、みたいな感じで、かなり不真面目に読んでいました。というか、私にそれを読み込むだけの力がなかった(今だってあやしいもんですが)。密室犯罪学教程も結局はトリックカタログとして、トリック第一主義の阿呆の前には作例集的に消費されただけでした。トリックに囚われるな、という言葉も囚われた人間にはうるさい小言にしか聞こえなかった、というところでしょうか。

 天城一は、トリック中心主義――その真ん中に居座っているとして江戸川乱歩を批判するために、トリックなど大したことないよ、ということを理論と実作によって証明しようとしました。その批判はまるで、トリックに囚われた乱歩を救おうとしているかのように見えたりします。天城は戦後も乱歩に戦前のような小説を書いてほしかったのかもしれません。

 トリックは大したものではない。確かにトリックなどどうとでもなる。しかし、乱歩と天城にはそのトリックに対する食い違いがあったように思われます。無二のトリック、人跡未踏の地を渇望する人間を、ある意味既成の理論によって生成されるトリックがその渇を癒せただろうか。トリックは大したことない――確かに大したことないトリックがそこには量産されていた。

 大事なのはトリックではない。それをいかに使うか。そのためにはシチュエーションが大事だ――トリックの鬼に多分それは伝わらなかった。

 天城一はそのトリックをいかにして成立させるか、そのシチュエーションに拘ります。密室犯罪はメルヘンですと喝破し、徹底した作り物として高度にフィクショナルでなければならない、そしてそれこそがこの《教程》が書きたいところだというのです。

 天城一の興味は恐らく“構造”にある。トリックの構造を解析し、徹底してフィクショナルな世界としての探偵小説に還元する。先ほどの乱歩との食い違いを絡めていうならば、乱歩は新たな“構造”を求めたが、天城は“構造”を分析して自分なりのカタチで複製することに拘った。

 原理を発見することで特定の恩寵を誰にでも分かつことができるとする、それが天城の構造への希求だった。それが科学である、と。それによって探偵小説は神秘ではなく、誰にでも開かれたものになりうるのだ、というのが数学者でもある彼の信念だった。

 その構造を分析する、という信念がトリックとともに、それを成立させる空間に及んでいきます。それはフィクショナルなものでありながら、しかし磨き抜かれた故にか現実の社会を映し出す鏡となってゆく。やがて天城一は“我々”を分析し、その構造を見つめてゆくことになる。

 密室犯罪学教程は後半になるにつれ、社会批評的な色を帯びてゆきます。

 体制は批判ではなく対策を出せといいます。対策は否決できますが、批判は否決できません。体制は批判を恐れます。

 批判を欠く体制は破滅です。それでも権力は批判を恐れます。

  これなど、今なおこの国を蝕む腐敗の構造ではないでしょうか。そして、天城が日本人なるモノの構造を分析して生み出されたのが、かの傑作と名高い「高天原の犯罪」でした。その前段階として天城はチェスタトンの「見えない男」のトリックの構造を意識下の密室であると分析します。明なものは見えない――それはこの国の人間にとって何か? と問うことで神殺しのトリックを案出します。

 次にトリックが成立するシチュエーションを探すこと。それは社会の構造を分析することであり、日本人の構造を分析することだったわけです。そして日本人にとって明らかなるがゆえに見えない存在――天皇を導き、それを神と紙に還元し、新興宗教団体を縮図として「神殺し」を描いたわけです。

 神と紙。冗談のように聞こえるかもしれませんがこれが重要なのです。神は見えないだけでは片手落ちなのです。神として上がっていったモノが紙として下りてくる。そしてそれは時代の変遷をも示唆している。「高天原の犯罪」の凄みとは、見えない“神”が見えない“紙”として戦前と戦後の間を行き来する。現人神が憲法という成文によって象徴となる。ただの人間となって詔を持って下りてくる。内実を失った象徴。しかし我々はそれを形式的に受け入れていく。

 内実は関係ない。形式さえ崩れていなければ、お前たちは滞りなくそれを続けるだろう。それがどんなものかなどどうでもいいのだ。お前たちがぬかずくのは神と書かれた紙で十分なのだ。このトリックを外部から眺めるようにし、まるで千万年前から「民主国」に住んでるような顔をして、今度は民主主義という「神」をあがめるか。天城一による彼の、そして我々日本人なるモノの構造へのナイフのような批評は、今なお我々の喉元に突きつけられているのではないでしょうか。

 最後に、天城一は探偵小説の構造は本質的に平凡人の勝利を、そして平林初之輔が予感したように大衆の時代を予知するものであるとしています。すべての人々に探求の門が開かれている。誰にでも参加の資格があると告げ知らせるものとしての探偵小説。それはこの時代に達成されたでしょうか。そもそもそれはどういうことなのか。冒頭にあげた彼の言葉のように、やはり今でも探偵小説は読者を操作するにすぎないのか。

 すべての人々がある程度、平等に情報を発信するようになった時代。ある意味、平等に探偵たる大衆の時代は訪れた。それが天城一の思い浮かべた光景だったのか、この時代に書かれる探偵小説の姿は果たしてどう映ったのか、もう彼が答えることはないにせよ、それを我々が自問することは意味があることなのかもしれません。

 

 

天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程

 

 

 文章を書く、ということについて、みんなどんな風に書いてるんだろう。とにかく書くのが楽しくて、それだけでたーのしー、というタイプもいるんだろうけど、自分はあんまりそういう感じではない。一気に書くというよりはぶつぶつ書いてはやめ、うーんと唸り、パソコンから目を逸らし、適当に動画サイトやSNSに逃げ、戻ってきてはぽつぽつ言葉をひねり出して……の繰り返し。ぶっちゃけ結構つらい。書くこと自体は嫌いではないが、問答無用で楽しくてたまらないという感じじゃない。

 ただ、なんだか自分の中で形になっていないものを書きだして、削り取ってはこね、なんだかそれっぽい形にしてゆく、それが楽しいという感じだろうか。その書きだして作り出した文章のカタチが上手く行ったらそこそこうれしいし、うまくいかなかったらションボリという、まあ、それを含めて楽しいかな、という感じだと思う。

 なんだかすごくとりとめのない文章になったが、一応、来年もまあ続けていけそうかな、ということで筆をおこうと思います。