蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

ウマ娘プリティーダービー 『BNWの誓い』感想

 三周ほどしましたし、BNWの誓い――ウマ箱四巻に収録されているOVA新作三話についての感想を。筋に沿って語るため、ネタバレ前提なのでそのつもりで。まあでも、映像的な情報や楽しみが盛りだくさんなので、話の筋を知ってもその面白さは変わらないと思います。ほんと、噛めば噛むほどといいますか、クセになる情報量なので、何度も観ちゃいますね。

 私は特に競馬はやらないし、知識もアニメ観てからネットでちょこちょこ調べたくらいの知識しかないので、まあ、そういう人間の感想です。

 

 BNW――ビワハヤヒデナリタタイシンウイニングチケット。一九九三年の三冠戦線で皐月賞日本ダービー菊花賞をそれぞれ分け合い、三強と並び称された馬たちがモデルのウマ娘たちを中心としたこの話は、『ウマ娘 プリティーダービー』というアニメの、そのテレビシリーズにあった魅力がぎゅっと詰まった作品となっています。

 まずはそのキャラクター。実在の、または実在した競走馬たちをモチーフに、どのような形で女の子としてキャラクター化されているか。そしてそのキャラクターたちが繰り広げる、ギャグを取り混ぜた学園ものとしての日常。さらに、キャラクターとともに盛り込まれたのが、ウイニングライブというアイドル要素――主にキャラクターソング。それからこのアニメの魅力の中核をなすのが、個別の勝負服(G1レース以外は体操服)でそれぞれが走った史実を再現する形で走るレース。そしてなによりこのアニメの、アニメだからできること――その競走馬たちのifのレース。

 テレビシリーズが、サイレンススズカの復帰を描いたように、この『BNWの誓い』もそのifを中心に、というかifに向かって描かれます。

 三冠を分け合い、三強と言われたBNWですが、史実では菊花賞を最後に三頭がともに走ることはなく、一九九四年の秋の天皇賞ビワハヤヒデウイニングチケットがそれぞれ一番人気、二番人気で出走するも5着、8着と敗れ、そのまま怪我で引退してしまいます。ナリタタイシンも怪我で思うように出走できず翌年に引退。三頭が三強とばれた期間はとても短かった――そこから、このアニメのifは出発しています。

 ストーリーの始まりは史実においてその三強が終わってしまった秋の天皇賞あとから。それぞれのケガが癒え、再び三人で走る大阪杯に向かうはずのBNW。しかし、彼女たちはどこかぎくしゃくしたまま、お互いを避け続けていた。そんな彼女たちを危惧した生徒会はファン感謝祭の目玉として、三人をチームリーダーとしたチーム対抗駅伝大会を企画、(トレーナのくじ運の悪さで)感謝祭の実行委員に選ばれていたチーム<スピカ>が三人の説得に向かう(スイーツ一年分につられて)……というのが第一話の流れです。

 第一話は感謝祭準備期間、ということで学園祭的なノリの中、テレビシリーズ未登場だったウマ娘たちが多数登場します。次々と登場するウマ娘たちを観てるだけでも楽しいですね。そういえば、ファン感謝祭という名目で実質学園祭を割と任意に描けるのはなかなか強い設定なのでは、と思ったり。

 そんな初登場や再登場のウマ娘たちの間を縫いつつ、BNWの駅伝参加へと説得を試みるスピカメンバーが中心的に描かれていきます。先に言ってしまうと、このテレビシリーズ最終話からの流れで、メインフォーカスがスピカ、そこからBNWの三人へと移ってゆく展開がかなり自然に描かれていて、その構成がなかなか巧いです。

 元々かつての三人のように戻りたいと思っていたビワハヤヒデは、積極的に駅伝の企画を承諾、ついでウイニングチケットスペシャルウィークの説得(?)で参加を表明。ウイニングチケットが迷っていた理由は、怪我が治ったといえ、もし全力を出せなかったらほかの二人に申し訳ない、というある種の遠慮的なものに起因しています。ライバルに対する思い。それはスペシャルウィークサイレンススズカへの思い――そのまっすぐさで解くことができた。

 しかし、それとはまた違った、テレビシリーズにはない形で迷いに囚われているのがナリタタイシンで、第二話はそんな彼女の迷い――いや、恐怖に焦点が当たります。

 スペシャルウィークが主役であったテレビシリーズは、彼女の夢をメインに描き、レースはその夢を叶える場として描かれました。その中である意味、注意深く省かれていたのが、外部の視線――レースを観る人々の期待、そして失望の視線。ナリタタイシンは彼女が勝てなかったレースで人々の失望の視線を目の当たりにし、期待を裏切ることへの恐怖、そして、そこから自分自身を信じられなくなっていました(このレースは恐らくナリタタイシン最後のレース、そして16着と惨敗した一九九五年の宝塚記念がモチーフだとおもわれます)。

 引退を口にするほど彼女の意思は固く、見切り発車で進んでいた駅伝企画に暗雲が立ち込めます。この辺、タイムリミットサスペンス的になり、緊張感が高まります。ファンの期待を裏切る、という恐怖はスピカの面々にはないので、説得することができません(特にゴールドシップがメインで当たっているのは相性が悪すぎる……)。いったい誰が自分のことを待っているの? という思いにとらわれた彼女の前に現れるのが、ビワハヤヒデの妹(元の馬は弟ですが)であるナリタブライアン。彼女もまた、一時期怪我で低迷し、ファンの期待に応えられず、引退を考えたこともあったと語ります。しかし、阪神大賞典マヤノトップガンを僅差で下しての復活。その時に、自分は雑音になるものを見ないように、聞かないようにしてきた、しかし自分が見ないよう、聞かないようとしてきたものの中に、大切なものがあったと語り、タイシンに復帰を促します。姉は、そして私も信じている、と。

 その際、ナリタブライアンを介してビワハヤヒデが雨のなか探していた四葉のクローバーのお守りを手渡します。「みんな待ってる」と添えられたそれがタイシンの心を動かします。しかし、それでも彼女の「みんな」に対する恐怖は消えません。「私が私を信じられない」という言葉とともに涙をこぼすタイシン。もう少し、あと少しの勇気が欲しい。

 そんな彼女の背中を最終的に押すのはやはり友人であり、ライバルでもあるビワハヤヒデウイニングチケット。彼女たちが呼びかけることでタイシンは走り出します。そのほかの「みんな」の期待は裏切ったとしても、彼女たちの期待は裏切れない。彼女が走り出すところで第二話が終了。走り出してから、EDの歌詞につなげる演出はなかなかニクイというか良いですね。

 そして第三話。なんとか駅伝最終区にタスキが届く前にタイシンが到着したのも束の間、雨のなか四葉のクローバーを探していたことが原因となり、ビワハヤヒデが熱発で倒れてしまいます。駅伝は最終区前の第六区で中止が決まりかけますが、そこへナリタブライアンが駆け付け、姉の代役を務めることで事なきを得ます。レースは続行され、彼女たちは走る。そして、ゴールへと向かうタイシンはその中でファンの声援を耳にするのです。自分が見ないように、聞かないようにしてきた外部の声の中に、自分にとっての大切なものがあることに気づく彼女。そしてウイニングチケットとのデッドヒートのすえ、一着でゴールするのでした。

 レースは彼女が制したわけですが、しかしその後スピカの面々(スペシャルウィークゴールドシップメジロマックイーン)がそれぞれそろって意図せず違反を犯していたことが発覚、スピカのやらかしで全チーム失格となり、彼女たちの戦いはG1大阪杯へーー史実にはないifのレースへと持ち越しとなります。この辺のうっちゃりは何だよという人もいるかと思いますが、ここはあくまでBNWの三人がレースへの意欲を燃やすという形でうっちゃっておいて、真の戦いにつなげるという演出は、個人的には最後の盛り上がりにつながる形になっていいのではないかと思います。あくまでBNWの物語として、彼女たちのレースで決着をつける。彼女たちが三強として走り続けるifのレースへ、続きの物語へ繋がることで、タスキのように作り手たちの思い、視聴者たちの願いがつながってゆく。すごく見事な構成だったと思います。新曲で最後のライブも飾り、アニメウマ娘の魅力がこれでもかと詰め込まれた作品でした。

 「走るのをやめたいウマ娘はいません」「私たちは走ることを諦めない」「走り続けるの、私たち」――ウマ娘たちは言います。それは、本来の競走馬たちの気持ちというよりは、それに夢を託していた人々の願い。それは、言ってみればエゴにすぎない。しかし、彼らの走る姿に魅せられた私たちは、それを願わずにはいられない。その願いを作り手たちは真摯に描く。だからこそ、このアニメのウマ娘たちの走る姿に感動せずにはいられないのです。

 それにしても、やはり勝負服のレースはいいですね。ライブの衣装とはまた違ったアニメ的魅力があります。

 そういえばこのアニメ、競走馬+ライブという、いわゆるアイドルアニメの系譜につらなるものなのですが、それらとはズレたところがあって、ライブシーンが明らかにメインではなく、視聴者も特にそれを期待していないという特徴があります。テレビシリーズも、第一話以降は最終話までまともなライブシーンは出てきません。アイドルアニメを装いながら、ライブをカットすることがある意味、視聴者との共通認識となっていて、このOVAでも新曲を披露しつつ、ライブシーンは止め絵でとどめていますし、第一話のキャラクターたちがBNWのレースVTRを鑑賞した際、レースが終了すると即映像が切り上げられ、スカーレットがウイニングライブも見せてくださいよー、と言う場面は、なんとなくネタっぽいメタ描写に見えなくもないです。

 アイドルアニメにおけるライブは、ウマ娘にとってはレースなのだな、と改めて思いました。このアニメはやはりレースが一番熱い。勝負服をまとって走る彼女らの姿は、最高にカッコイイ。いつかまた再び、アニメでその姿が見れたらいいな、と思いつつ、この作品をもう一周しようと思います。

 

  それにしても素晴らしいジャケットだ。

 

 「百合」って言葉、別に好きでも嫌いでもないんだけど、それを気嫌いする気分というのはまあ、分からないでもないというか。

 なんだろう、人物の関係って、その人物たちごとにあって、そこにはある意味、名づけようのない関係性がそれぞれあるわけで、一様ではない。そこへ何でもかんでも「百合」という一言ですまされては、それらがその「百合」という言葉にベタっと塗りつぶされてしまう。その、繊細さのかけらもない野暮ったさというか、無遠慮さに対するいら立ち、と言いましょうか。さらにいえば、作品そのものが持つ多様な味わいが強い言葉で塗りつぶされてしまうこと(それを言うと、百合以外のジャンルを指定する言葉もそうではあるが)。これはまあ、「BL」という言葉にも言えるだろうけど。

 まあ、作品を他者と共有するうえでそういった繋がるための言葉が必要なのもわかるし、そういうので大きな共感の輪を広げた方が、作品を共通意識の下で盛り上げるためには必要なことだろう。その言葉が作品の入り口になるのなら、それもアリだ。

 でも、大きな言葉を大勢が振り回すとき、それはどこか乱暴なにおいを放つ。その乱暴なにおいで、それぞれの微細なニュアンスが塗りつぶされてしまう。私が思うのは作品に触れる個々人が、その大きな言葉の下敷きになっている、それぞれの「百合」を拾い上げられてたらいいな、ということ。

 「百合」という言葉は「ミステリ」や「SF」というジャンルの言葉とそう変わらないとは思うのだが、どこか乱暴なにおいがするのは、畢竟、キャラクターの関係性に貼り付けられるからかもしれない。キャラクターの関係性――それを尊いといいつつ、一様な言葉で括る乱暴さ、無遠慮さが、どこか嫌なにおいとして私には感じられる時がある、というところだろうか。

 まあ、フィクションなんだし、好きに消費すれば、とも思うけど。

映画『遊星よりの物体X』感想

 『遊星よりの物体X』、である。カーペンターの『遊星からの物体X』ではなく。

 今となってはカーペンターのリメイク元として有名という感じの51年作品、そして製作(演出の大部分も担当したとされる)はあのハワード・ホークス

 ていうか、ハワード・ホークスかよ。あの西部劇の巨匠がこんな怪奇SF映画製作してたなんてなんか意外な気分。カーペンター好きと言いながらその辺はあまり知らないのだった。

 この作品、雰囲気としては、UFOや植物性生物といったSF的意匠をまとってはいるが、本質的にはフランケンシュタイン的な怪奇映画の色が濃い。舞台が北極だし、物体Xの造形や動きはもろにその怪物(正確には小説ではなく、みんながイメージするビジュアルの)だ。

 カーペンターのリメイク作は少人数の閉鎖空間内での疑心暗鬼を軸にしたサスペンスとロブ・ボッティン渾身のクリーチャーが強烈な恐怖感を醸し出していましたが、この「遊星より」はUFOから掘り出した「物体」をめぐって科学者と軍人の対立を軸に、緩急を使い分けた恐怖演出が光る作品となっています。まず、物体Xが姿を現すまでが巧い。氷漬けでなんだかよく分からないものとして姿を見せず、氷が溶け、それが基地の外に逃げた時も、吹雪く中、犬たちと戦う姿を望遠で見せ、何か異様なものがうごめいている感じを出しています。ここのところの、吹雪で霞む中、犬を思いっきりつかんで地面にたたきつける描写はなかなか怪物的で、またそれが持つ純粋な暴力性が現れて印象的なシーンです。

 その後、基地内の温室に異変が発生し、そこへ向かう主人公たち。冗談交じりのどこか緊張感を欠いた牧歌的な会話が、鑑賞者を油断させます。そして、温室の扉を開けたところで、満を持して物体Xが登場。この辺の、恐怖の対象は最初は姿を見せない、というのは、後の恐怖映画、パニック映画でも使われる基礎中の基礎的演出で、今見てもなかなかびっくりします。この映画、温室のごみ箱から出てくる犬の死体とか、ちぎれた怪物の手首とか、ギョッとするものをギョッとするタイミングで画面に出してきて、そのあたりは、古い映画ですが、きちっとしていて、そこが今見ても恐怖映画として観れるところだと思います。

 それにしても、基地内に侵入した物体Xを植物性だからと室内でガソリンまいて焼却しようとするシーンは、かなり危険な撮影だったのでは。毛布でガードしてるとはいえ、怪物に襲われそうになる女優にガソリンぶっかけるシーンは違う意味でぎょっとしたり(もちろん実際はスタントだとは思うのですが)。ここの場面はカーペンターの映画の室内火炎放射器のシーンを彷彿とさせます。カーペンターの映画はなかなかこの映画をきちっと骨格として取り込んでいて、ああ、やっぱりカーペンター、この映画好きなんだな、というのが伺えます。そういう意味でも、カーペンターの方が好きで、こちらがまだなら、観てみることをおススメしますね。ほんとに、いい映画はあまり時代とか関係ないなあ、と。そういう感慨にふける映画でした。

 

遊星よりの物体X  THE RKO COLLECTION [Blu-ray]

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彼方より来たもの

 もう十五日で、十二月十日、もとい今年の黒鳥忌をだいぶ過ぎてしまったわけだが、まあいいや、僕はそんなことは気にしないぜ。とりあえず、自分にとって中井英夫、というか『虚無への供物』がどんな存在なのか、ということを書きたくなったので書こうかなと。そういう気分なんで。毎度の自分語りだ。つまりは他人の思い出語り。まあ、そういう文章です。

 『虚無への供物』。ミステリ読みなら、これを読んでこじらせた人間がたくさんいるだろう。そして躊躇なくオールタイムベストに挙げる。僕もまたそんなたくさんの中の一人だ。ただ、何故この作品に衝撃を受けたかは、少し違うかもしれない。

 最初に読んだのは高校生が終わるころ、だった。当時新本格に夢中になっていたころだ。有栖川有栖二階堂黎人法月綸太郎島田荘司、等々と読み進めているうちに、どこからともなく現れた一つの言葉に突き当る。“アンチミステリ”そして、それを冠された作品の名前――『虚無への供物』。その挑発的な言葉と本格ミステリの最高峰などと言われて手を伸ばさないわけにはいかない。その分厚く、そして大島哲似による、顔が青い薔薇のマンドリンを持つ女性を表紙の装画に据えた、その見るからに妖しい本を手に取ったのだ。

 ぶっちゃけ、最初読んだときは、イライラした――作中の登場人物に。この鼻持ちならない連中ときたら、花言葉だ誕生石だ植物の色だと大して意味のない衒学を振り回しては、意味ありげなだけで特に面白くもない(高校生の僕には)推理以前の自己中心的な妄想を推理合戦と称し、もったいぶって話しやがるのだ。何なんだこれは……僕は途方に暮れた。いくら自分の好きな密室殺人がメインとはいえ、まだだいぶページは残っている。というか、この調子でまともな解決が待っているのかも分からない。しかし、そこは高校生というか、権威主義の徒である。最高峰の本格ミステリ、という評判にすがり読み進めた。これはきっと素晴らしいものなんだ。

 とはいえ、途中で飽きたり、すごくつまらないと思うことはなかった。なんだかんだで読み進め、残りのページは少なくなっていった。そして解決篇。またもや序盤のような推理合戦が始まるが、自称探偵たちの推理は相変わらず好き勝手で自分本位で、読者である自分を説得させようとする気があまりないのも変わらない。彼らの話は推理というよりは、自分がそうあってほしいという妄想に近い。そしてそんな探偵たちにうんざりしたように現れる“犯人”……。しかし、その“犯人”が語る神話めいた動機もどこか、僕には彼岸の言葉に思えていた。

 しかし、「鉄格子の内そと」の章で文字通り、世界は反転する。

 衝撃というか、それは告発に近かった。そしてそれは、僕にとって、現実で見た光景の再来だったのだ。

 それは僕が小学生の頃にさかのぼる。世間を大きな事件が一色に染めていた。オウム真理教によるその前代未聞の事件が連日テレビをにぎわす少し前。テレビが映していたのはあの松本サリン事件だった。

 犯人と目された人物は、最初はそれとなく、そしてしだいにそうに違いないという前提のもとに語られ、僕はテレビの前で憤った。なんてふてぶてしい人物なのだと。さっさと犯行を認めるべきだ、と。その後、僕は初めてメディアというものが、いや、大人たちがそう言っていたとしても違うことがあるということを知る。「正しさ」とは何だ? あの時、僕の中の鉄格子は融解したのだ。テレビを熱狂気味に見て、テレビの向こうの派手な事件の見た目にワクワクし、あいつが犯人に違いないと叫んだのは誰だ?

 この小説は、そんなことを忘れかけ、ミステリに耽溺していた僕に、再び指をさす。くだらない推理で盛り上がる探偵たちは誰だ。気持ちがわかるだとか平気で言い、分かったような説教を上から垂れるのは誰だ。安全な場所から好奇心しかない目で被害者を眺めるのは誰だ。お前はいったい何なんだ。この小説は、現実における事実とは違う形で、時を経て再び僕を告発しに来た。初めて小説を恐ろしいものだと思った。

 そしてこの小説における「犯人」とは何なのかを理解したのだ。どうでもいいが、時々この小説の「読者が犯人」というのを文字通りそういう趣向であると勘違いしている向きがあるが、読者が犯人というのはミステリ的なネタではない。どんな時でも人は「犯人」足り得るものを備えている。いや、すでに存在そのものが「犯人」だという、それは思想なんだ。

 少しずつ人ではないもの、人間じゃない何ものかに変わっていると喝破されて、もうすでに半世紀以上が経った。僕らはいったい、何なんだろうか、何になってしまったんだろうか。

 しかし、それでも僕は推理小説を、ミステリを読んでいる。それは呪縛なのか何なのか。ただ、常にこの小説の存在が、その言葉が、ミステリを読むということを介して僕の中の「犯人」を見つめ続けている。

 

虚無への供物 (講談社文庫)

虚無への供物 (講談社文庫)

 

 ちょっと『ジャナ研の憂鬱な事件簿』などの青春ミステリを読んでダイイングメッセージについて、少し思ったことなど。

 ダイイングメッセージというと、かつて密室などと並んで探偵小説といえば、というガジェットであったにもかかわらず、今現在「本格」方面をはじめミステリからはあまり顧みられていない(ように思える)ネタである。いいとこ頭の体操的なネタというか。日本における本格のメンター的な位置づけにあるエラリー・クイーンがその創作の中期から後半期にかけて執拗に拘りを見せたのにもかかわらず。いやむしろ、偉大な巨匠が拘っておかしくなった原因とし敬遠されているのだろうか。有栖川有栖のように作中にダイイングメッセージを取り入れている作家もいるが、批判的に作中人物に語らせたり、事件の解明には直接関係がないものとしている場合が多い。

 とにかく、たびたびダイイングメッセージは批判にさらされてきた。曰くいつものリアリティ問題――死ぬ間際にそんな複雑なこと考えつくはずがない。回りくどい。そもそも残されたメッセージなどいかように解釈できるので唯一の正解にはたどり着けない、など。もちろん、作家は突っこみを逆手にとってあれこれとダイイングメッセージを利用してきた。とはいえ、書き残されたダイイングメッセージをダイレクトに解読しようとする作品はあまり顧みられていないように思われる。

 しかし、こと青春ミステリの中では少し事情が違うように思えたのだ。もちろん、ダイイングメッセージをそのまま推理するというわけではない。しかし、ダイイングメッセージが形を変えて息づいているのではないか。

 ダイイングメッセージの本質とは何か。それは、死んだ人間の意思(その多くが犯人を指し示そうとするもの)を解明することだ。もはや物言うことのない人物の意思を――彼、彼女が残したメッセージを読み取ること。それは青春ミステリにおいて死者ではなく、学校を去った人物が残したメッセージを解読することに代わる。そしてなぜそのメッセージは残されたのか? という動機の部分がクローズアップされ、その謎を解明することでメッセージの意味とともに、そこに隠された意思が浮かび上がる。その場合、メッセージは告発というよりは、去りゆくものが残した押し殺した叫びである。そしてそれが青春ミステリのある種のクリシェともいえる“苦さ”へと回収される。そういう意味でも「相性がいい」。

 隠されたメッセージを探るというダイイングメッセージの本質部は、(大げさに言うならば)学校というある時期の世界の中心を去らねばならなくなった、物言えぬ人物の意思を探るというカタチで生き残るというか、青春ミステリをその沃野として独自の広がりを見せていくような気がしている。というか、犯人は誰か? というガジェットから、何故その奇妙なメッセージは書かれたのか、という動機にシフトすることで、単線的なガジェット以上の、物語を作るツールとして使用されるようになっていく、ということかもしれない。また、そしてそういう風に使用できる(しやすい)というのが学校というフィールドの特殊性なのかもしれない。

 まあ、半ば感覚的な思いつきみたいなものなので、あくまで、かもしんないなーという程度の話ですが。

「私」を拡散するために 江戸川乱歩『盲獣』

※ 一応、ネタバレというやつなので注意してください。とはいえ、そんなことでどうこうなる作品だとは思いませんが。

盲獣 (創元推理文庫)

盲獣 (創元推理文庫)

 

  やっぱりこの人変態だよ。

 いきなりなんだと思われるかもしれませんがそうとしか言いようがない。

 探偵小説をことさら標榜する人間が生み出したアンチ探偵小説というべきなのか何なのか。よくできた最高作とはいいがたい。しかし、その得体のしれないじっとりとした闇のような暗がりが奇妙な魅力を放つ作品がこの『盲獣」である。そして、乱歩のある種の到達点と言える。そういう意味で最高の作品と言えるかもしれない。

 この作品はいわゆる通俗長編に分類され、『蜘蛛男』や『黄金仮面』、『魔術師』といったそれらの中にあって、しかしひときわ異様な光芒を放つ作品である。

 通俗長編には曲がりなりにも探偵小説であろうという意思が残っていた。自ら純粋な本格ものではないと嘆きつつ、それでも怪人が逃げ、探偵が追うという通俗探偵小説であろうとしてきた乱歩は、この作品でそれを完全に放棄する。まあ、同時期に『黄金仮面』『魔術師』『吸血鬼』と同じような通俗長編を連載していたわけで、流石に倦んだというか、うっぷんが集中したかのよう。

 そして、この作品の犯人、盲獣のごとく、己の欲望のままに昏く、そして血みどろの妄想を全開にしてゆく。そこには何のリミッターもない。ひたすら盲人の犯人が殺人を重ね、その痕跡を隠す気などさらさらない彼は、手にかけた女性たちをあの手この手で衆目にさらす。当時人気だった通俗路線にあてつけるような、あんたたちはこれが好きなんだろう、という思いがあったのか、コイに餌でもやるようにバラバラ死体を人々の中に投げ込んでゆくのだ。

 この作品は探偵小説的にも乱歩作品的にもあまり顧みられることがないと思われるが、不思議と引き付けられる奇妙な作品といえる。展開はストレートに盲獣が気に入った女性に近づいては殺し、死体をばらまく。まずそのばらまき方がいちいち凝っている。彼の犯罪を称賛気味に批評するような探偵は存在せず、語り手である作者はその残虐ぶりを次々と語る。圧巻は盲獣を出し抜こうとしてきた物好きな未亡人倶楽部の夫人を難なく返り討ちにし、風呂場でバラバラにした死体を並べてイモムシごーろごろ、などと死体の上を転がり出し、あげく死体を雑にハムへと加工し、堂々と売り飛ばす。その残虐のバリエーションがえらくねちっこくしかし官能的に描かれていて、気味が悪いほど悪趣味なのに、不思議と目を離すことができない。そしてその官能性において出色なのが、海女を海辺の岩陰に引きずり込んで殺すシーンだ。その岩場にいた蟹がたどった先に死体を描写する場面は、そのおぞましくも官能的な部分がよくできている。

 だが何といってもこの作品の素晴らしい箇所は、盲獣が第一第二の被害者を連れ込む屋敷の地下に広がる、盲獣の感覚世界そのものといってもいい異様な光景だろう。屋敷に据えられた鏡を動かし、鏡をぬける『鏡の国のアリス』的な、しかし待っているのは悪夢のような世界。そこは腕、腿、脚、乳房といった人体のあらゆる部分が彫刻として、ゴム製をはじめ象牙、黒檀、朱檀といった様々な材質製のもので形作られ、あるところでは同じ形のものが密生していたり、同じ部位でもばらばらのものが据えられていたりと、ひたすら感覚を――ひときわ視覚を狂わせる地獄風景が広がっている。

 ここの描写はやはり乱歩というか、彼にしか書けない異様性と迫真性を持ち、その妄想力には本当に平伏する。みんなが思っている異様なことを上手く描く作家は多いいだろうが、読者が思ってもいない光景を描く人間はそう多くはない。新しい異様の感覚を描き出すこと。安易かもしれないが、それはやはり天才にしかできないことなのだろう。そして、やはり乱歩は天才なのだ。私はいまもこの人の文章は本当にすごいと思う。

 さて、このシーンで、盲獣は視覚が狂った空間の中で触覚の快楽へ被害者たちを堕としてゆく。ここから盲獣の触覚芸術とでもいうべき思想は醸成され、それが一つの芸術品とでもいえるオブジェ――彫刻へと結実する。冒頭の彫刻の展覧会へと回帰する構成になっていて、気ままな殺人行を書き連ねていた話がそこでうまい具合にまとまりを見せていく。

 そして、その触覚芸術がこの作品の重要なキモであり、また、乱歩の本質に迫る重要なキーであると思うのだ。乱歩の本質というと変身願望からくる自己抹殺や破壊、ということが語られるが、私は何か少し違う気がしている。たぶん、その先がある。

 この作品に先行する『孤島の鬼』には不具者による不具者製造という行為から、それを世界に広げる――フリークスを世界で満たすという思想が現れる。「私」を外へと拡散する。そんな欲望が確かに描かれていた。そして『盲獣』はその延長上にある。盲獣は殺した被害者を秘匿しない。殺人という自分の行為を隠さずに、その成果物である死体をばらまく――人々の中へと。それは「私」を拡散する行為ではないのか。「私」を仮託した「女」を破壊し、細切れにしてばらまく、果ては食べさせようとするのだ。「私」の広がりの行き着く先として同化を試みることは、ごく自然なことのように思える。

 しかしそれではダメだ。まだ不完全だ。究極的に盲獣は、作者は思想性の拡散に至る。それが触覚芸術であり、それが込められた彫刻として姿を現す。その姿は、一言でいえばあの地下世界が像となったもので、この見た目には異様としか言えない彫刻は、とても奇妙な効果を見せ始める。

 盲人――触覚の発達した人間にしか堪能できないその美。しかし、そうでない人間にもそれの一端に触れる可能性がある。目を閉じればいいのだ。かくして、その芸術を味わうためにすべての人間が盲となり、その像を一様に撫でまわす。像を中心にして、盲とそして触覚芸術が人々の間に拡散されてゆくわけだ。

 ここにきて、『孤島の鬼』におけるフリークスの拡散が、思想性によってなされる。触覚の美を通して、人々を自身と同じくする盲獣。それを見届けて彼はその中心である像の下で死ぬ。「私」は拡散された。広がる「私」の中に「私」はある。ならば、一個の「私」である必要はない。むしろそれは、大きな「私」の檻でしかない。

 この『盲獣』によって乱歩の変身願望が完成される。人が椅子(人間椅子)になる、イモムシ(芋虫)になる。そして著者である乱歩は「女」(陰獣)になり、「女」を介してその欲望がついには「私」以外のすべて――つまり「あなた」になる。

 「私」は「あなた」になりたい。

 彼の究極の願望とはそうだったのではないか、そんなふうに私は思うのだ。

 

  ※あと、まだ連載中ですがこちらのコミック、かなりいいです。原作のエロティックさとグロテスクさの表現、そして中盤の麗子のキャラクターを生かして、絶妙に探偵小説へと改変しています。原作読了済みでも、麗子がどうなってしまうのか……これからの展開を含めてとても気になる作りになっています。絵とその雰囲気が気に入ったらぜひ、というおすすめ作です。

盲獣1

盲獣1

 

  それから、この文の下敷きというか、参考にしたのが安藤礼二『光の曼陀羅』に収録されている江戸川乱歩『陰獣』論「鏡を通り抜けて」。『孤島の鬼』→『陰獣』→『盲獣』を軸に展開される乱歩論、乱歩の「私」へのこだわりが論じられ、著作のごく一部にすぎませんが、面白いので興味があればぜひ。

光の曼陀羅 日本文学論 (講談社文芸文庫)

光の曼陀羅 日本文学論 (講談社文芸文庫)

 

 

 なんか久々に映画館に行ってきて『来る』を観てきた。原作は読んでいない。

 感想としては、後半からの奇妙な展開というか、そのどこかコミック的ともいえるテイストが評価の分かれ目かもしれない、という感じ。

 前半はかなりソリッドなホラーだ。巻き込まれ主人公視点で妻夫木聡演じる田原秀樹とその家族に迫る何か。秀樹の意味深な過去。そして同時にかなり軽薄な空気を纏う彼の他者に視点が変わった時のおぞましさ。そのまま行けば、かなり硬派でスタイリッシュな恐怖映画になっていたかもしれない。しかし、後半、この映画はかなり妙なテイストへと舵を切る。普通の一般市民的な人物視点で語られていた話が、キャラの濃い人物たちによる、除霊バトルのような様相を呈してゆく。国中の霊媒師を集めて、国家権力まで動員した壮大な除霊儀式はなんだかコミック的で、前半部との落差に戸惑う。

 話もまた、前半部分で組み立てていた諸々が放棄され、怪奇現象に対する理由や因果、原因といった「何故」はほとんど明らかにされない。

 でも、だから怖いのかもしれない。わけの分からないものにほとんど理不尽に襲われる恐怖。迫りくる「何か」も怖いが、それに取りつかれてしまう人間達もそもそもどこか変だ。ていうか、全編がどこか変で歪んでいて、何かが襲ってこなくても気味が悪い。私は、冒頭の親戚が集まるシーンや結婚式、新居に友人たちが集まるシーンなどが気味が悪くてしょうがなかった。ラストの子供の夢も失笑物の映像なのに、今思い返すと気味が悪い。

 黒沢清の何気ない日常描写のゾクゾク感とも違う、ゆがみや気味の悪さがある日常風景が、個人的には一番怖かったかもしれない。

 それにしても、ネットで感想見ると柴田理恵がカッコいいという声が大きいのね。確かに存在感はあったし、イメージからのギャップも印象深い。とはいえ、個人的には松たか子が一番カッコよかったんですよ。あとラーメンすするシーンが何故か印象に残る。