蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

模倣するけもの:『けもーたりぜーしょん』

 同人――同じ趣味を持つ人の集まり、というのはかつての辞書的な意味であり、現在における同人の大雑把なつかみ(というか、あまり知らない人間が大雑把にイメージするもの)としては、好きな作品のキャラクターをもちいて自分なりにその作品世界を模倣してみる表現の一形態、という感じだろうか。二次創作、といった言葉の方がしっくりくるかもしれない。

 けものフレンズというアニメもまた、言ってしまえば二次創作的な作品であった。アプリをオリジナルとしながら、キャラクターデザインはおろか、キャラクターの性格も違い、おまけにアプリでは存在していた人間たちのいなくなった、ポスト・アポカリプス的世界観。アニメ化とはオリジナルに忠実にすべし、という「常識」が蔓延する現代において、それはあまりの“暴挙”――であるはずだった。しかし、微妙に違うオリジナルのキャラクターを使いながら、新しいキャラクターを導入し、しかもそれを主人公の一人としてすら扱いながら、たつき監督は彼なりの模倣によって新しいけものフレンズのアニメ作品を創り上げた。

 アニメけものフレンズというコンテンツは、そういう意味でリメイクとも違う、「オリジナル」がすでに二次創作でもあるという奇妙な作品であったといっていい。(オリジンそのものというべき、アプリけものフレンズのキャラクターデザインを手掛けた吉崎観音が参加していたとはいえ)

 そしてアニメけものフレンズは「オリジナル」のアプリ以上に大量の同人――二次創作を生んだ。これから紹介する作品――『けもーたりぜーしょん』もその中の一つだ。そして、この作品の面白さが、“模倣すること”そのものにある、という意味においてアニメの精神を受け次ぐ傑作となっている、ということを初めに言ってその紹介を始めたい。

 

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 先に述べた通り『けもーたりぜーしょん』はアニメ版けものフレンズの二次創作である。漫画家のタイリクオオカミを語り手とし、スランプに陥った彼女が漫画からの逃避と創作意欲を取り戻そうとするために、あるものを作ったビーバーとプレーリードッグに聞き取り取材を行う所から物語は始まる。そして物語はタイリクオオカミが二匹の証言を元に当時の状況を書き留めていく形態をとる。

 ビーバーとプレーリーが創ったあるモノ――自走車両――はパークに変革をもたらした。その制作と変革をもたらすきっかけになったラリーへの参加――その顛末をタイリクオオカミはルポタージュとして書き留めていく。

 そのようにして本作はフレンズによる車両の発明、というか彼女ら自身による再現が克明に描かれていく。まずその過程がすこぶる面白い。自分が発明したと思ったものがすでにあったり、試行錯誤の過程で無数にある選択肢と、その中のどれを選ぶべきかという葛藤と不安。それは創作の不安そのものでもある。ビーバーたちの苦闘はタイリクオオカミの苦闘でもあり、それはこの作品の作者の、そして創作を行うものたちの苦闘でもあるのだ。

 このような相似形の入れ子構造が、本作品の創作というテーマをよりダイレクトに読者に届けることに成功している。少しでも何かをつくろうとしたものなら、引っかかるところが沢山あるはずだ。そして苦闘するビーバーたちを固唾を飲んで見守ることになるだろう。

 そして、本作はそういった創作者たちの挑戦を描いたルポという側面のほかに、優れたSFの側面を持つ。人類のいなくなった世界で、人間でないものがかつての文明、文化を再現してゆく、というテーマをアニメから引き継ぎ、本作は車輪がパークにもたらした影響を、フレンズたちがカバンとサーバルがたどった足跡をたどるラリーを通して描いてゆく。

 フレンズたちがラリーを通してカバンとサーバルの旅を追体験――模倣する。ビーバーとプレーリーは車両によってそれに参加することでより精度の高い模倣を試みる。そしてビーバーらによって車輪の概念がほかのフレンズに伝播していく。なかでも車輪の存在が、空を飛ぶフレンズと地上のフレンズをより接近させるという解釈はとても面白い。テクノロジーによって、差異を小さくさせていく、それによって新しい関係性が生まれていく。一方、どんなに精度を高めようが模倣は完全なものではなく、小さな差異を生ずる。人間とフレンズの差異がより差異を大きくし、いずれもとの人間の文化とは違う独自の文化を形成してゆくのだろう。

 ここの模倣とはつまりミームである。遺伝子というものがなく、すべてが一代限りの変異種であるフレンズの社会というものは完全なるミームの社会だ。タイリクオオカミは漫画から逃避し、ルポを、他者の姿や言葉を記述していったことで、図書館に眠るこれまでのフレンズが書き残した言葉――情報に興味を抱く。そして彼女は彼女なりの方法で、記憶をミームとして次代に受け渡すべく自身の言葉を綴る。いつか消えてしまう思いや記憶が少しでも伝わることを祈って。

 書くことは祈りに似ている――と書くとなんかうわっというアレな感じがするが、書く(描く)こと――創作することは、自分の感じたこと、その記憶が伝わることを祈っている側面がある。この作品の著者もまた、『けものフレンズ』という作品から受け取った情熱や自身の思いが創作を通して伝播していくのを祈っている、そんな感じがした。

 最後に個人的『けものフレンズ』のSF萌えポイントっていうのはポストアポカリプス設定云々ではなく、アリツさんの部屋紹介――「見晴らし」とテラスを部屋として紹介するシーンなんですね。人類文化を模倣するパターンの中で、フレンズであることが本来部屋ではないそこを部屋として認識する。カバンちゃんを介していないミームの伝播であり、そしてその伝播における差異が生まれた瞬間に立ち会ったという意味において、一番のSFしてた部分だと思うのですがどうでしょう。

 しかし、なっかなか定期的に更新できませんね……twitterのツイを引き延ばせば割とブログの文章も楽なんじゃないかと思いついたときは気をよくしたんですが、全然です。まあ一応コアにして深堀するのにはいいかな、という感じでしょうか。長い文章書くことでつぶやいた感想では見えてこなかったものが見えてきたりしますし、無い頭ひねって文章を書き連ねることはそこそこ意味があるのかもしれません。

 そういえばミステリの感想もたまっているのだ……ミステリは以前から書いてる場所で続けていこうか、新しいのはこっちで、古典は向こうでと色々思案中。ライトノベルとかはここでいいのかなあ、とも思ってますが。どうしましょう。

 しかし、今期もというかあまりアニメ見れてませんね。一応『SSSS.GRIDMAN』と『ゾンビランドサガ』『ソラとウミのアイダ』観てるんですがソラとウミは脱落しそう……。主人公の元気系サイコパスとでもいうような周囲とのかみ合わなさがツボで観てたんですけど、登場キャラの各担当回をローテするようになってから主人公が後景にひいて、ただあんまり出来の良くない物語展開が前に出てて単につまらなくなったというか……。グリッドマンは正直ガイナックスの残り香というか、そもそも好きじゃないエヴァのにおいが鼻について嫌だったんですけど、まあ、最近脱臭されてる面もあるので観てます。とはいえ、世界の謎やその他諸々の謎で引っ張る演出ってやはりあまり好きじゃないですね。

死を見つめる:施川ユウキ『銀河の死なない子供たちへ』感想

 

 

  施川ユウキはどこか暗がりを抱えた作家だ。ギャグをベースにしつつ、個人がはらむ孤独感と、そんな一人になった時にふと忍び込む諦念のような暗さ。それがよく表れたのが『鬱ごはん』だ。世に百花繚乱と咲き乱れる食についての漫画の中にあって、それはひどく異質な漫画だった。食漫画はひたすらおいしそうなものをおいしそうに食べ、幸福感をひたすら演出する。たくさんの人たちとそれを共有するシーンが読者の心を温かくさせる。しかし、現代にあって物を食べるということは、孤独な瞬間であることの方が多くないだろうか。ちょうどそう、エドワード・ホッパーの『ナイトホークス』が描いた都市の孤独のように。『鬱ごはん』はひたすらそのホッパーの絵の男の姿を描くように孤独と諦念を描く。主人公の飯はいつも味気なく、ともすればマズく、それを前に諦念じみた自問自答は、滑稽でありながらもどこか読者の心の隙間に滑り込む。

 そんな『鬱ごはん』で孤独と諦念を覗き込んだ先にあるものについて、施川ユウキはより視線を向けてゆく。それは『ヨルとネル』で色濃く描かれる“死”だ。『ヨルとネル』は小人化した二人の小学生たちが出会い、その小人視点での生活がコメディタッチで描かれるのだが、物語は後半から濃密な死のにおいで満たされていく。そこで描かれる死は劇的なものとは違う、一歩一歩近づいていき、少しづつ自身から死臭が漂ってくるのをじっと見つめざるを得ない、そんな死だ。

 施川ユウキは『バーナード嬢曰く 四巻』の空きページで自身が死に関して並々ならぬ関心があることを吐露している。避け得ざる死について考え続け、そしてそんな死についての著者初の上下巻の長編ストーリー漫画、それが『銀河の死なない子供たちへ』である。

 『銀河の死なない子供たちへ』はそのタイトル通り死なない――不死の子供の姉弟が登場する。彼らは何らかの理由で文明が崩壊し、人類が消えた地球で数百年、数千年と変わらぬ姿のまま、ただ生きている。ものすごい勢いで周囲は変化し、生き物たちは死んでゆく。それでも姉弟が死ぬことはない。そんな周囲から取り残された姉弟はある日、墜落したロケットに乗っていた女性から彼女の死の間際、出産した赤ちゃんを託される。ひょんなことから人間の赤ちゃんを育ててゆく二人。この物語はその姉弟のパイとマッキ、そして彼らが育てることになる赤ん坊ミラによる死についての物語だ。

 上巻は主にパイとマッキの不死ライフが描かれる。命のサイクルの外にいる二人。パイはひたすら外の世界をめぐり、その生と死のサイクルの中に身を置こうとしている。一方、マッキは対照的に一つ所にとどまり、過去の人類が残した書を読み、そして動物を飼うことでそれら動物たちの死をひたすら見つめている。いずれも彼らが生と死のサイクルからはじかれていることが強調されていく。そんな二人に現れるのが、彼らが育てることになる人間のミラであり、後半は彼女の成長とそして彼女に訪れる死をめぐって物語は展開してゆく。

 そういえば彼らの名前には意味が持たせてある。パイはπと表記されている。つまり、どこまで行っても数字が続く永遠を。マッキは恐らく末期。彼は終わりを見つづける。そしてミラは文字通り自分の未来(死)を見つめる。

 『ヨルとネル』は引き延ばされた死に向かう主人公たちの視点のみで描かれたが、本作はその引き延ばされた死――残り少なくなる時間、すぐではないが確実に一歩一歩近づいてくる死についての視点をミラが担い、その外側で彼女の死を見つめるパイとマッキ。彼らが三者三様に死についての決断を下す姿が下巻のメインとなる。

 三人のほかにもう一人重要な人物としてパイとマッキの「ママ」がいる。彼女はパイとマッキを不死にした存在だ。ある意味、子供を永遠に子供にし続けようとする親の暗喩ともとれる存在だ。パイとマッキはミラを育て、疑似的に親となることでこのママの「子供」であることを止めるというのも、この死を縦糸とする物語の重要な横糸となっている。

 三人が死というものについて下す決断について、それ自体の是非を問うことは特に意味はない。この漫画は答えを探すが答えが描かれるわけではないし、その答えは読む者にゆだねられている。何故私たちは死ぬのか。いつか死ぬということを知りながら、私たちはそれについて考えることを先送りにしながら日々を生きている。普段意識しないようにしている死をこの漫画を通して少し考えてみる。そうすることで何か見えてくるかもしれないし、何も見えてこないかもしれない。いや、むしろ分からなくなるだけかもしれない。

 多分、いやきっと死ぬまでわからない。しかし、私たちは死を抱え、必ず死ぬものとして生きる。その事実を意識させてくれる、そんなものとして私はこの作品を読んだ。

 死があるから生は尊いのか、生があるから死は恐ろしいのか、そんなある意味凡庸と言える認識すれすれをかすめつつ、しかしその凡庸な認識を改めて見つめる。この作品はそんなふうにして「死を見つめる視線」を読む者に与えてくれる作品なのだ。

生真面目な幽霊譚の快作 映画『ザ・フォッグ』

 

ザ・フォッグ [Blu-ray]

ザ・フォッグ [Blu-ray]

 

 

  未視聴のジョン・カーペンター監督作で、残るは『ヴァンパイア最後の聖戦』とこれだったわけなんですが、積んでたDVDをついに観ちゃいました。さすが勢いに乗ってるころの作品だけあってなかなか見ごたえのある作品でした。相変わらずの演出の冴えというか、舞台づくりが巧いです。

 日本向け予告とかだと、化け物が次々と霧の中から現れて町を蹂躙するみたいな編集されてたりしますが、そういったホラーアクションものではありません。これはかなり生真面目でクラシックな怪談――もとい幽霊譚なのです。

あらすじ

 焚火を前に老人は語る。100年前のちょうどこの日、この町のアントニオ湾、スパイヴィー・ポイント脇に一隻の快速船が引き寄せられた。そしてその船を、にわかに濃い霧が包み込んだ。足元さえも見えないほどの濃い霧だ。そんな中、霧の向こうに明かりが見えた――そう、こんな焚火のような明かりだった。彼らは明かりへと舵を切った。そして岩にぶつかり、船員たちはみな肺を海水に侵され、海の底へと沈んで行ったのだ。祖父たちは言う――アントニオ湾に再び霧が迫る時、沈んだ船員たちが海からはい出し、自分たちを沈めることになった明かりを求めてさまようのだと……

 誕生百周年を前にアントニオ湾の港町では何かが起こり始めていた。各所で怪現象が頻発し、海の先では光る霧がうごめく。そして霧に包まれた船は連絡が途絶え、後に発見されたそこには奇妙かつ無残な死体が残されていた。海の霧は次第に陸へ、町へと近づいてくる。そして周年祭の夜、ついに霧は町を覆い、沈没船の船員たちがその霧の中から無念とともに復讐へと還ってくるのだった。

 

感想

 この映画、予算は110万ドルで90万ほどかけて作ったそうですが、当時の恐怖のはやり――スキャナーズなどの血みどろ表現を意識してそちら方面にもう少しお金をかけたそうで、とはいえ別段そこまで血みどろ場面はなく、むしろこの映画の恐怖というものは見えない恐怖で成り立っている。不吉な予感、そして何かおぞましい者たちが霧の中に霞んでいる、そのビジュアルイメージがこの映画を支えている。(しかし、『ハロウィン』で大ヒットして110万ドルってどういうことなんだ。『ロッキー』の100万ドルとそう変わんないじゃん……。)

 この作品は前述しているようにかなりクラシックな幽霊譚で、それは冒頭にポーを引っ張ってきたり、のっけに老人が怪談を語る場面を持ってくるところから伺えます。というか、ここまでやってるのに、はやりで血みどろ描写増そうとしたプロデューサー、ぜってー分かってねー。この映画はそんな安手のショッキング描写ではなく、それこそ霧がゆっくりと音もなく迫る、そういうジワジワした怖さが主眼なのです。まあ、前段でも言ってるように映画自体、増したとか絶対嘘でしょ、というくらい血まみれ描写ほとんどないんですけど。

 それはともかく、この映画はまずそのタイトルが現れるまでが最の高なのです。焚火を囲む少年たちを前に町に伝わる怪談を語る老人。その語り終わった老人のアップが上にパンしてゆき、枯れ草が寒風に揺れる丘から望む荒涼たる湾。その寒々と青みがかった画面に『The・Fog』とタイトルがでる。今まさに幽霊譚が始まるという最高のオープニング。

 そして町で起こり出す奇妙な怪奇現象。電気が消えたり駐車中の車のライトが一斉に点いたりクラクションが鳴ったりと実に古典的な幽霊譚らしい演出。まずは前兆をじっくりと描いて、やがて逃れられない夜がやってくる、という風に物語全体の堀を埋めてゆく感じは『ハロウィン』で培った演出が光ります。この映画、実は本格的に幽霊たちが襲い掛かってくるのは終りの20分前くらいからで、それまで一時間以上はずっとその予兆がじわじわと町と人々を締め付けてゆく描写に費やされているのです。それって面白いの? と思うかもしれませんが、それがめっぽう面白いのです。

 最後はバラバラだった登場人物たちが一つの場所――教会に集まって籠城戦、といういつものカーペンターになるわけですが、そこまでもう少し町を逃げ惑うシーンや、パニックになる人々という絵が欲しかったり。そこはまあ、低予算映画の宿命か。一気にこじんまりと収束させます。

 終わり方は、冒頭のポーの言葉のごとく、夢の中の夢という感じに仕上げていますが、『ザ・ウォード』の時といい、個人的にはこの終わり方ってあんましグッと来ないんですよね……。カーペンターらしいぶっきらぼうな幕切れなんですが、映画の筋立てのロジックというか、物語で作った解決のロジックで解決させておきながら、それを無視する形で無理やりショックをねじ込んできているように思えるからでしょうか。やるにしても、古典的な幽霊譚で来たのだから、それとなく示唆するとかに留めておいた方がよかったように思いました。そこは、具体的な恐怖を見せる当時のマーケティングに引きずられてしまった感があります。正直、この作品の具体的にびっくりさせる恐怖シーンは古びていて、今なお光るのは古典的な幽霊譚に徹した予兆の部分だと思うのです。

 とはいえ、『ハロウィン』を撮り終え、当時勢いに乗るカーペンターの演出が冴えまくる古典的な幽霊譚である本作は、音楽を含め彼らしさを十二分に堪能することができる作品。個人的カーペンター作品ベスト3には入らないかもしれないけど、ベスト10には確実に入る作品でしたね。

島田荘司『Classical Fantasy Within 第八話 ハロゥウイン・ダンサー』

 

Classical Fantasy Within 第八話 ハロゥウイン・ダンサー (講談社BOX)

Classical Fantasy Within 第八話 ハロゥウイン・ダンサー (講談社BOX)

 

 島田荘司による(現時点で)未完の大河SFファンタジー、その第八巻目である。ちなみに私は最初から読んでなくて、いきなりこれから読みました。既刊が八巻で躊躇してて、独立した一巻で完結する話ということでまあ、手に取ったわけです。確かにこれ単体で完結していて、こちらから手に取っても構わないと思います。ミステリ作家らしいアプローチで、伏線を回収しつつ隠されていたSF的な世界が読者の目の前に開陳される――その構築性は著者ならではの剛腕で楽しめると思います。

あらすじ

  世界は滅び、かつてあった多くのものが失われた。風は止まり、雨は降り注ぐことなく、太陽がその本当の姿を現すことはない。鳥も獣も、その多くが姿を消した。かつてあった文明も。全ては神話の中に。しかし、それでも人間たちは生き残っていた。失われた文明を受け継ぐ神々の子孫として、世界が再び復活するその日まで、神々が住む聖地で生き残らなければならない。そのためには規律を守れ。疑問を持つな。与えられた仕事をこなし、決められたパートナーと子をなす。それがハロゥウイン・ダンサー市民の務めだ。

 自己を取り巻く小さな世界に対する疑問を持ちながらも、その聡さゆえに自分の中に押し込めてきた青年エドは、己が抱く疑問に正直で奔放な少女メラニーと出会い、彼女に惹かれてゆくうちに自身の疑問――ハロゥウイン・ダンサー市の秘密を追求し始める。何故自分たちが住む世界はそうなっているのか、謎の答えの一端を垣間見た彼らはしかし、それ以上を踏み込めなくなってしまう。そして時は流れ、人生の終わりにようやく彼らはすべての真実へと手を伸ばす。絶対に開けてはならないとされていた「雲の門」を抜けた二人に待ち受けていたのは――。

 

感想 ※ここからはネタバレ前提ですので注意

 

 本格ミステリ界の巨人らしくミステリとして謎を用意しつつ、しかし、この物語は問いかける。

 世界の真実を知ることに意味はあるのか? 

 二人の若者は世界が強要するルールや自分たちを取り巻く世界そのもの謎を追求する。だが、実のところその隠された真実は、全体の幸福のために存在し、それはむしろ知らない方がいいという種類の謎なのだ。しかも、最後二人は真実を希求することで死に至る。

 真実を知ることに意味はない。若き彼らは一旦はその真実の片鱗に触れ、挫折する。そしてハロゥウイン・ダンサー市の中に埋没し、多くの市民の一人としてその人生の大半を過ごす。しかし、人生の最後になって、再び真実への扉を――文字通り最大の禁忌とされる「雲の門」を目指すのだ。

 二人にとって真実そのものには意味はない。が、知ろうとすること自体には意味がある。かつての冒険、その若き日の輝きは二人にとって素晴らしいことには変わりはなかった。そして、人生の終わりに至り再びその輝きを取り戻すために、忘れていた最後の謎を求めて彼らは門をくぐり、そして死を迎える。

 この物語、島田荘司にしてはなんだか残酷な話だ。真実は二人を幸せにしたのか? それは分からない。ただ、世界に疑問を持ち共にそれを分かち合った。その瞬間だけは輝いていたのかもしれない。

 ミステリとしては、なかなか島田荘司らしい偶然の積み重ねが奇跡のような小宇宙を作り出す。船自体を深海に沈めることで出来上がる世界。海底に横たわる生命の小瓶という、その一点のイメージの力からすべてが広がってゆく物語づくりは著者の十八番といった感じだ。時間を途中で飛ばすことで、悲劇的な結末をある程度救っているーーある種の解放の物語としているのは著者のやさしさなのかもしれない。

ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』

 

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

 

  全長一マイルにも及ぶ巨大な竜グリオール。かつて魔術師によってその動きを封じられ、千年もの長き時が流れた。やがてその体には草木が生え茂り、川が流れ、人々はその体の上に町を作った。しかし、動きを止めつつも死したわけではないグリオールは、その巨大な力により周囲に影響を及ぼし、それはグリオールに住む人々にも隠然と忍び寄る。人々はそれを自覚し恐れを覚えつつも、その巨大な意思に従わざるを得ない……。

 そんな巨竜をテーマに据えた短編が四つ収録されている。いずれも素晴らしい奇譚となっているので気になったらぜひ手に取ることをおススメする。

 この作品はその文体がまず素晴らしい。結構文字数多いというか、びっしり書かれているのだが、それをじっと追っていくと次第に引き込まれてゆく。解説でもある通り、そのまま流れに身を任せて一気に読み通すことをおススメしたい。なんというか、遠く遠くへ運ばれて行く感覚を、読書によって体感させてくれる、そんな読み心地なのだ。

 さて、本作は全編が人の意思を操る竜という巨大な存在をめぐる奇譚なのだが、まずは表題作、「竜のグリオールに絵を描いた男」は、グリオールの来歴と、その動かない巨竜に絵を描き、その絵の具に含まれる毒でグリオールを殺そうとする話。そのアイディアを提唱した男の半生をつづる。メインはその男の竜とともにあった半生だ。

 次は「鱗狩人の美しき娘」。グリオールの体内に囚われてしまった娘の数奇な運命というか、グリオールの意思と娘の意思、それらが絡み合い、役目を背負わされた娘の成長譚的なものとなっている。グリオールの体内に広がる世界描写が詳しく描かれ、その異形の世界もまた見どころ。一種の浦島太郎ものでもある。こちらはグリオールの体内で過ごした日々が娘を強くするのだが。

 「始祖の石」は本格的な法廷モノのテイストがあり、ミステリでもあるので、ミステリ好きも一読してみてほしい。というか、目に見える神にも等しい存在が人々を操っていることが前提での犯罪はグリオールの意思である時、殺意というものは立証することができるのか。巨大な操り手が自明の世界での犯罪なんて、エラリー・クイーンが好きそうなネタっぽい。この設定でのミステリーてのも深堀すると面白そうなんだよなあ。作品としてはどこからどこまでがグリオールの意思なのか、というディック的な感覚が主線という感じだが。

 そして掉尾を飾るのが竜との奇妙な異種婚姻譚「嘘つきの館」。この話が一番奇譚色が強いかもしれない。そしてこれもまたグリオールの意思に翻弄される男の話である。残酷な話なのだが、最後の男に訪れる瞬間がどちらなのか、伏せている幕切れはなかなか素晴らしい。

 全体的にはファンタジーであり、その世界にぐっと読者を飲み込んでいきながら、しかし、不思議とどこか我々の世界とすぐ隣り合っているような感覚がする。そしてそれが、この作品全体を一読忘れがたいものにしているようにも思うのでした。

狂ったケモノが見通す視線 映画『狂った野獣』

 町山智博氏と春日太一氏が語る東映時代のエピソードの中で、渡瀬恒彦最強伝説という話があり、、その伝説の一つとして挙げられて、ずっと観たかった映画。ようやく、見つけてきて鑑賞しました。いやー、なかなかすごかったです。

 渡瀬恒彦っていうと、私は十津川警部くらいしかイメージがなくて、そんなにすごいアクションしてるの? みたいな感じで観てたわけですが、サラッととんでもないことしててびっくりですよ。あと、本作はあまり予算がなく、突貫で作られたらしいんですが、編集の巧さか、かなりの車がクラッシュし、バスがバイクをひき潰し、鶏小屋やら小さな小屋やらを吹っ飛ばしたりと派手派手な画面が出来上がっています。

 脚本もテンポよく、バスジャック犯と渡瀬演じる宝石泥棒がバッティングして、やがて渡瀬に主導権が移る構成や、何より狂った野獣なんていうタイトルからすると恐ろしいくらい冷めた視線が視聴者を見つめてくる。そんな油断ならない映画でした。ただのバイオレンスアクションくらいに思っていたので、少しびっくりしましたね。

 この映画のアクション部分はすごいのですが、それはあくまで装飾で、それを纏う芯の部分がきちんとしています。その芯の部分がハイジャックされるバス内の描写です。ここをきちっと序盤から中盤まで描き、それによってラストの大アクション、そして皮肉な結末が生きる。渡瀬恒彦のむちゃぶりアクションで語られることが多い本作ですが、実のところこの映画の秀逸な部分は、バスの乗客たちの描き方といっていいのではないかと思います。

 あっという間に銀行強盗犯たちに乗っ取られ、映画『スピード』的な凶悪犯と戦う主人公と頑張る乗客たち、というある意味ハリウッド的な定型を思い浮かべたのもつかの間、それとはほとんど真逆に進んでいきます。主役は犯罪者だし、乗客たちは映画『ある戦慄』に近い形でパニックに陥り、好き勝手行動していきます。しかし雰囲気が『ある戦慄』と違うのは、その好き勝手ぶりが妙なおかしみを醸し出しているところ。意図的に入れている笑いだと思うのですが、おもむろにバナナを食べだす老人や、急に真面目な顔で歌いだす旅芸人たちと、冗談なのか何なのかよくわからない絵面が何とも言えない笑いを誘います。その何とも言えない地獄の中での笑いも、この映画の面白い部分といえます。ほんと、結構笑ってしまいました。

 そういう狂った空間の中で好き勝手言い合い、乗客同士で罵り合い、決して連帯することがない乗客たちがついに最後で連帯する瞬間が訪れます。しかし、その連帯する姿が観客にとってのカタルシスとなることはないのです。それどころか、エゴイズムで連帯する小市民的醜さを目の当たりにすることとなる。その、大衆を見つめる視線はかなり冷めていますが、今日的というか、この映画から何十年たっても変わらない大衆の姿がそこにはあるのです。七人の侍の農民イズムというか、戦後のクリエイターたちが批判的に見つめていた大衆の一面。それは今でも時を超え、観る者を鋭く見つめてきます。

 そういう意味で、この作品は渡瀬恒彦の伝説として語られがちな映画ではありますが、その批評的な視線もまた、語られるに値すると思ったのでした。