ここ数日、ライムスター宇多丸×辻田 真佐憲の動画漁って深夜にゲラゲラ笑っていた。戦時中の童謡や軍歌、大本営発表と辻田氏の専門領域の話がめちゃくちゃ面白く、そして笑えてしょうがないのだ。軍歌の世界とか全然知らなかったので、面白い話が満載であったし、なかでも決戦盆踊りの題名のインパクトはZ級映画のそれに匹敵するし、防諜音頭成る珍妙な軍歌もまた笑える。
もうほんと、笑うしかないのだ。その最たるものが大本営発表のムチャクチャさで、そのあまりにもあんまりな内容には乾いた笑いしか出てこない。酷すぎて、真に受ける人間は戦争末期になるとほとんどいなくなるたらしいのだが、沖縄戦前に北大東島に渡り、そこで硫黄島の二宮和也ばりに塹壕堀にいそしんでいた祖父は、それでも勝利を信じていたのらしいのだから、なんともいえない。笑えねーが、笑うしかない。そういう話だ。
ただまあ、大いに笑うには笑ったが、なんかそのシステムというか、ドツボにはまるメカニズムが、あんま変わってないぞ、と。そのどうしようもなさの地続き感というのは確実にあって、そこもまた笑えない部分である。
まあとにかく、辻田 真佐憲氏の話は面白かったので、『大本営発表』と『文部省の研究』は買ってきた。楽しみである。
そういえば辻田氏を知ったのって、以下の一部で悪評高い(?)シン・ゴジラ評でであった。
このシン・ゴジラ評だが、自分の中にあったこの映画に対する乗りきれなさ、なーんかヘンな感じ、というのをかなり具体化した形で文章にしてくれていて、僕としてはかなり頷くところが多かったのである。
しかし、この文章は燃えた。本人曰くゴジラが上陸した東京のごとくということだが、正直そこまで燃えるようなことかというか、この映画の一部の神格化は僕にはちょっと異様に思えるということをなおさら強化することになった。
この映画にちょっとでも現実的な観点から批判的な(だと彼ら信奉者が感じる)ことを言うと返ってくる常套句――現実と創作を区別しろ――これはとても甘ったれた言い草で、扱ってる題材が題材なだけに現実的な観点や政治的な視線にさらされないわけがないと思うのですが。しかも現実対虚構というキャッチフレーズぶちあげてるタイトルじゃないんでないの、と思うわけなんですけどね。“現実”とは関係なくボクら楽しんでますよ、てのはひどく自堕落なものに僕の目には映るわけです。
ていうか、一番思ったのは、辻田評を批判する多くの人間がもしかして辻田評が指摘している幻想性――儚い願望を飲み込んだうえで楽しんでいるわけではないのでは、という疑惑が浮き彫りになったんではないかと。つまり、“あえて”そう観ているのではなく、 “マジ”で観ているということなんだろうなあと、そう思ったんですね。
マジで俺たちはまだまだやれる、上のやつらが一掃されればすべて丸く収まって一丸となって事に当たれるようになる――そう思っている人間が多いのかな……。というか、そういう中間層にピタッと嵌ったのかなあ。
はっきり言うとこの映画の“願望”はかなり危険だと思うし、この国の、自分たちの“底力”とやらを疑う視点を失うとエライことになりかねないよ、と僕は思うんですが。
なんだろう、この映画を絶賛する層は「ボクらには秘めた力がある」という誘惑から距離を取り切れてるのかな、というまあ、余計なお世話かもしれませんがそういう危惧ですね。
なんだか、とりとめのない話からグダグダした今更なシン・ゴジラ評になりましたが、まあ、なかなか書けなかった私のスタンスを表明したところで筆を置いときましょうか。
追:レビューで危機は日本を成長させるとかマジで書いてるのを見ると、本当に危険な映画だと思います。