蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

誰かのために物語るということ:KUBO/クボ 二本の弦の秘密

 『コララインとボタンの魔女』で知られるLAIKA制作のストップモーションアニメ。とにかく、その緻密で滑らかなアニメーションがすごすぎです。コララインからめちゃくちゃ進化しててとてもコマ撮りで人形を動かしているようには見えません。映し出される世界も壮大で、特に引きのショットがすごいのなんの。冒頭の大波が割れるところもすごいし、クボから、彼が住んでいる岩山へとワンカットでグーとカメラが引いていくカットなんかどうやって撮ってるんだろうというような驚きに満ちています。この時代、どんな映像を観てもすぐCGが頭に浮かんでしまいがちで、もちろんこの作品もグリーンバックの合成なんかは使われているのですが、それでもどうやってこの映像撮ったんだろう、という興味が強烈に沸く。船での戦いのシーンやクボが三味線で折り紙を操るところなんて、そこだけのために映画館へ行ってもいい。この映画はそれだけの映像の驚きを持っている。質感もすごくて、水の表現とか神がかってます。猿の毛並みとかほんとすごいよ。

 まあまず制作の工程がヤバいですからね。公式ホームページを見ると、全製作期間が94週と二年ちかく、一週間で3.31秒。クボの表情パターンだけで4,800万通りという聞いただけで気が遠くなりそうな数字で、いくら3D プリンターが発達したとはいえ、驚きを禁じえません。メイキングとか見ても、めちゃくちゃデティールすごいのでそれを見てるだけでも楽しめること間違いなしです。

 この映画は日本を舞台にしているわけですが、外国制作にありがちな奇妙な不思議の国感――中国やオリエントとの折衷みたいなエキゾチズム感はほとんどなく、僕たちの日本とは正確には違うかもしれませんが芯を外したものではありません。盆踊りや精霊流しを含めたお盆の光景は、(おそらくそのチョイスにもよるでしょうが)どこか懐かしくすらあり、スタッフの綿密な取材ぶりがうかがえて唸ります。

  さて、とはいえイカのCEOにして本作の監督であるトラヴィス・ナイトはこのような技術はあたりまえとしてストーリーが命、と述べているわけなのですが、そのストーリーはどうなのか。僕自身の感想を率直に述べるとすれば、構成と演出は巧い、がストーリーはもう少し何かが足りない……という気がしました。もちろん悪くはないし、ラストは涙を流しました。綿密に作られているし良作ではあると思いますが、ストリーラインが直線的過ぎ、起伏がもうちょい足りない。武具集めにもう少し機智やクボの技、仲間との連携で切り抜ける場面が欲しい。

 一番気になったのは、何故クボが狙われるのか、クボの祖父の狙いは何なのかいまいちはっきりしないということです。クボの片眼を抉った理由とかも強力な理由づけが薄いし、目的がはっきりしないため、クボが最終的に戦うバックボーンがぼやけてしまっているように感じました。最終的に家族というテーマに収まりはするんですが、敵である家族(まあ、親族ですが)にもう少し描写が欲しかった。

 とはいえ、伏線や演出がいいので、題にもある二本の弦の意味が明らかになる場面とか、きちっと心をゆさぶる場面を作り上げてくれています。

 でも、僕が涙を流したのは、たぶんこの話が死者と物語についての「物語」だったから、いやむしろ物語についての物語だったことに他ならない。

「物語る」とは何か

 この物語は、「物語る」ということに非常に意識的だ。クボは三味線を弾きつつ物語を語る。しかし、母親から伝えられたその物語は聞く人々を夢中にさせつついつも途中で終わる。クボは結末を母から教えられないまま旅に出ることで、母が語る父ハンゾーの物語を追体験しつつ、自分自身の物語の結末――そのピリオドの打ち方を探すことになる。

 一方で物語るとは語るだけでなく伝える、という側面があることが強調される。何を伝えるのか、そこで出てくるのが死者である。クボの村ではお盆の時期を迎えていて、人々は死者たちを墓で出迎え、そこで彼らの話をきき、精霊流しを行う。物語る、ということは死者の生きた証を伝えていくということ。クボもまた、死者たちの列に入った両親を物語る存在として生きていく。生きるということ、それは誰かのために物語るということだ。

 クボの敵となる祖父、そして伯母たちは不死の存在、己で完結することを願い、祖父は己自身の物語を滔々と語る。それにクボは言うのだ「それはあなたの物語じゃないか!」

 自分自身のためだけに物語はあるのではない、とここで製作者たちは明確に宣言するのだ。物語る者は誰かのために語らねばならない。それが語り継ぐ、ということなのだ。

 物語は誰かから受け取った物に自分自身を乗せ、そしてそれをまた誰かへと受け渡していく行為に他ならない。クボは戦いの最後でこれまで探してきた武具ではなく、両親から受け取った“弦”をかき鳴らすことで勝利する。武具を捜す、というこれまでの物語は父の物語だった。その母から受け取った父の物語を追体験し、自分自身をその物語に乗せ、そしてクボは死者たちを見送る。その姿は感動的で、僕は涙を流さずにはいられなかったのだ。

 最後にクボの祖父は記憶を失い、己の物語を失う。そこで、村の人々が新たな彼の物語を口々に語り始める。そこは記憶を上書きしているようで少し怖かったりするのだが、それは物語の怖い側面でありつつ、祝福でもある。彼のために人々は語り、彼は人々のなかへと還っていく。

 自分自身のためだけに物語を語る人間のそれはとても貧弱だ。「物語作家」を自称する人間はそれに自覚的でなくてはならない。誰かのために、受け取った物語を誰かに伝えてゆくために。