蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

ゾンビ映画? いやミステリ映画だ! 映画『カメラを止めるな!』

 まあ時間もたったし、ある程度ネタバレでいきますね。

 

 ようやくあの話題の映画『カメラを止めるな』が我が地元で(地方の悲しみ)も公開され、行ってきましたよ。確かにこれはなるべくネタバレ回避で観に行った方がいいかもしれない。ただ、実のところこの映画は、ネタが割れてからが真骨頂ともいえるので、知ってから観た方が楽しめる気もします。二度三度と楽しめるし観たくなる、そんな映画だと思いますね。とりあえずもう一回は観に行こう。

 確かに前振り長いのはそうなんですよ。そこで期待したほどじゃないな……という感じでそのままずっと行っちゃう可能性は無きにしも非ず。でも、壮大な前振りの後のじっくり溜めに溜めたそれがパズルのピースのようにピタピタ嵌ってゆく感覚はとても気持ちよく、そしていちいち面白い。その怒涛の伏線回収やダブルミーニングの快楽はミステリのそれに近いです。そういうわけで、ミステリ好きとしてはなんだろこれ……と観ていたら、その本番に入ってからの展開にはニコニコしっぱなしでした。ミステリ好きはぜひ観るべきです。また、役者さんの演技も最初と最後で違って見えて、その二重化された演技にもなかなか目を見張るものがあります。なにげにすごい。

 この映画はその伏線やダブルミーニングがことごとく現場での混乱、番組の企画上、カメラを止めない様に右往左往するあれやこれやにつながっていて、前半のグダグダな間にすら理由があったりして、それがいちいち面白く、かつ奮闘する監督をはじめスタッフたちの姿に手に汗握り、応援したくなります。そしてその気持ちが、やがて監督の全力でものを作る姿に入りこんでゆく、という観客の気持ちの導線が見事で、ただ伏線回収が見事な映画ってだけでなく、妥協してばっかりだった男が、父親とは真逆の、妥協したくない娘のサポートで、ショボいはショボいなりに自分の作品を全力で作り上げる、という一本筋の入った映画になっていて、ある意味骨のある映画となっています。家族映画であったりもしますね。お父さんと娘の映画。最後の写真はその作品が父と娘の合作である、ということを簡潔に表してましたね。そういう感じで色々と楽しめるポイントが盛り込んであり、ブログタイトルにミステリ映画だ! なんて書いてますが、まあそれだけじゃないよ、ということを最後に述べて筆を置こうと思います。

 ※どうでもいいですけど、序盤の手持ちカメラ画面は結構酔う上、食べ物の臭いとなんだかよく分からない臭いがミックスされた臭気でかなり気分悪くなって、マジで吐きそうでした。手の先が冷えて頭痛と吐き気で序盤は相当つらく、そういう意味でももう一回行かないと。しかし、映画館は結構食べ物の臭いで気分悪くなること多い……。

 

破壊する先に何があるのか 映画『スター・ウォーズ エピソード8:最後のジェダイ』

 ようやく観ましたよスター・ウォーズエピソード8を。

 まあ、もう時期も時期だしネタバレで語っていくんでそこはよろしくです。

 公開後にその“破壊”を許容するかどうかの姿勢がこの映画の“前進”“革新”を受け容れる者とそうでない者、みたいな分断が広がっていてウンザリして、結局映画館では観なかった(あと、長いってのもあったけど)わけで、DVDでの鑑賞となりました。

 結論としてはまあ、悪くないかな、と。個人的にはもうあんまり覚えてないエピソード7よりは好きだと思います。同時にスター・ウォーズ好きの不満もなんとなく分かる映画でもありました。

 つまり、スター・ウォーズといえば、という部分を突き放しているというか、わざと外している。

 それから、この映画の大きな主題は「ヒーロー」の否定であり、全編がこのトーンで貫かれていて、よって、ジェダイというある種の伝説の存在を半ば否定する形でルーク・スカイウォーカーを葬り去る。そこがまあ、反発を呼ぶ一因になってるのかもしれませんが、全否定ってほどでもないし、ジェダイそのものというよりジェダイがすべてを動かすといった期待や幻想を否定する、という方向性っぽいので、個人的には強く反発しなくてもいいのかなあ、とは思いますが。

 一方、光が濃く成れば闇も濃くなる、という問題提起は出るべくして出たような問題提起で、スター・ウォーズシリーズの中では踏み込んだものというか、元々ジェダイとシスというものを真っ二つに割っていた光と闇をひとりの人間が混在させる、そういう新たなフォースの使い手の誕生、そしてバランスという落としどころを狙っているのかもしれません。ただそれによって従来のジェダイ観は破壊された。

 まあでも、ジェダイはともかく独断専行で“ヒーロー”になろうとするポーをレイアがたしなめて、彼がやがてその場その場の英雄的行為を諫めるようになり、英雄ではなくリーダーとなる、という流れは悪くないと思います。しかし、その英雄的行為がだいたい特攻ってのはなんだかなあ、という気もしますし、そういうのを否定するようなそぶりをしつつボルド提督に特攻させてしまうのはどうしてなんでしょ。そもそもボルド提督がクルーザーに残る意味あるんだろうか。ドロイドとかでいいのでは?

 そういう、演出のむらがあってどうも一貫性が薄くなってるのも気になるところです。割と脚本の行き当たりばったり感が強いというか。まあ頭がもげて壊滅寸前の軍隊なんてそんなもん、ということで一つよろしく――なのでしょうか……それで納得できるかどうかは観た人次第かも。

 まあとりあえずスター・ウォーズを象徴していたライトセイバーを破壊し、旧作における“最後のジェダイ”を葬った。ハンソロも死んだ。次はミレニアムファルコンが標的なのかもしれない。旧作の遺産を葬ることで新しいものを打ち立てる、しかしその行為は、あくまで旧作の遺産で成り立っている。破壊できるのはこれまでそれが打ち立てられていたからだ。結局は旧作の遺産に依拠した破壊なのであって、それ自体を評価できるかというと、個人的には微妙というか、問題はそこから何ができるか、ということなので次回を見なければ今回の“破壊”は評価できないかなあ、という気がします。

 では、破壊しきった地平に何があるのか。2時間半という長尺で色んな場面を挿入してある割に物語は実のところ全然前に進んでいない。レジスタンスがニュー・オーダーから辛うじて逃げ切ったか――というだけなのだ。次への種まきをしているのかもしれないが恐ろしいほどの停滞ぶり。これ何なんだろう、先を読ませないようにするというハリウッド脚本の悪癖が炸裂したような、右と思わせて左というようなひっくり返しの連続で、そのため伏線に乏しく、物語の流れを作るのではなく単発的なエピソードの陳列状態になっている。これって大丈夫なんだろうか。

 敵地に潜入して装置を破壊すると思ったらしない。マスターのもとで修業すると思ったら特にしない。ジェダイとシスが剣を交えるかと思ったらしない。したかと思ったら実は一方は思念体(なので実はつばぜり合いしていない)であったとか、この映画はこれまでやってきたことを反復するように思わせてはぐらかすことを執拗に繰り返す。まあ、同じことをやってもしょうがないし、すでにエピソード4のプロットを反復した7まであるのに同じことやっても縮小再生産になるだけで、このあえて反復しない、という行為を評価する向きもあるんだろうけど、私としては、違うことやりたいんならストレートに違うことをやればいいだけだと思うし、前振りとして過去を反復するのはそれこそ過去に依拠している。それは結局、破壊のための破壊ではないか。在ったモノを壊すという行為と自立した新しいものを作るということは違う。まあ、それは次に持ち越しということなのかもしれないが、しかし今作を革新作とは言いづらいかなあという感じです。

 あと革新性、旧作との決別を謳ってるようにしつつもヨーダのパペット感とか、過去の音楽垂れ流しとか旧作回帰な部分は何なんだぜ。サービス? よく分からない……。

 いろいろ言われてるローズとフィンのパートいるのか、とかレイアのフォースで宇宙遊泳とか、ルークの豹変とかよく挙がる不満部分は、スター・ウォーズにあんまり思い入れがないせいもあってか、青筋立てることなくまあ……という感じでスルーしてしまった(できた)のでした。色々列挙されている“謎”についても正直どうでもいいというか、レイの両親とかスノークの出自とかそんなに気になります? やたらと散りばめた謎で風呂敷広げる物語は大抵ろくでもないものと相場が決まってるので、あまりそういうのに執着するのもどうかと思いますが。

 物語はともかく、この映画はシーンの美しさや印象に残るショットという意味ではかなり素晴らしいものがあると思います。スノークの間の赤い空間とそこに控える赤い甲冑の親衛隊たちが醸し出す妖しくも美しい空間だったり、最後の赤い大地に塩が降り積もった惑星での戦闘、大地をひっかく様に戦闘機が表層の塩を削って赤い線が引かれるさまは、ビジュアルのための惑星設定バリバリながらもとても印象的なシーンを創り上げています。夕陽や炎といった使い方も巧く、月や雨が作り出す闇夜の陰影も悪くない。そして、本作のテーマカラーの赤の使い方がなかなか印象的だったようにも思いますね。あとレイとレンのフォースでの交感シーンは、カットの切り返しだけでそれを成立させていて、シンプルで説得力のあるシーンを生んでいたと思います。ついに二人が同じ画面に収まるところなんかはこの映画の一つのピークでしょう。

 また、いろいろ言われているマーベル的なギャグですが、個人的にはあまり気になりませんでした。まあ、そこまで欲しい要素ではないかもしれませんが、長大な尺のある程度の息抜きにはなっていたとは思いますし(とはいえ、そもそもそんな余計なことがあるから長いのだと言われてしまえばそうなんですけど……)。

 この映画は旧来のものを破壊しつつも、ただ、エンタメとして最低限の軸までは破壊していないので、大雑把に場面場面を見て、引きまわされるままに観ていけば楽しめるようにはできているますし(異論はあるでしょうが)、主人公たちを追い詰めつつもそれは三部作における二作目の役割の範囲内で落としてるわけで、この先どうすんだよ……というほどの破たんはなく、次回はレジスタンスのピンチに銀河周辺の同盟が応えてニューオーダーを打つ、という形ですっきり終わるんじゃないかと思います。いやまあ、それが面白いのかどうかは別の話かもしれませんが……。

 しかし、旧三部作から戦ってきたレジスタンスもを葬って、ニュー・オーダーと戦って勝つにせよ、これでスター・ウォーズサーガが終わるということもなく、恐らく新たな戦いが始まるかと思うと、何だか虚しい気もしますね……。

スター・ウォーズそのもののこれから>

 そもそも、スター・ウォーズサーガってこれから広がりを持つんだろうか? これと近いものをすでに私たち日本人はよく知ってるはずだ。

 宇宙世紀――というやつだ。

 そう、一連のガンダム宇宙世紀サーガである。一年戦争という最大の戦いが終わったシリーズは、やがて局所的な小競り合いや政治闘争へとその争いは小さくなってゆく。そして、最終的には一年戦争時やシリーズ間の穴埋めや年代記の時間を大幅に飛ばすか、ということになる。それら偉大な原点ありきのシリーズたちは原点を乗り越えただろうか? そこはいろんな意見があるかもしれない。とはいえ、個々の作品の好みはともかく、先があるのかといわれると何とも言えないものがあります。スター・ウォーズもまた、このままだと出来事の穴埋めは行き詰まり、先を描くために何千年かすっ飛ばして仕切り直すか、最終的には旧三部作やプリクエル自体をリブートするのも時間の問題でしょう。

 行き詰りつつあったガンダムは、そこをいわゆる“ガンダム顔”をしてるMSが出てくればガンダム、という強弁によってシリーズをパラレル化し、仮面ライダー戦隊シリーズと同様に際限なくガンダムユニバースを広げていく選択を取りました(そういう意味でGガンダムという作品はガンダムでやる必要がないといわれつつも、偉大な作品ではあるのでしょう)。

 スター・ウォーズも選択肢として、フォースと光る剣が出てくればスター・ウォーズという方向性をとるかもしれません(後ヘンな仮面の悪役とか……)。というか、これまでのキャラクターを捨て去ったのでその下地はできているといえるのではないでしょうか。

 実のところ顔と名前の固定されたキャラクターってシリーズとして物語を延々続ける究極的には邪魔になる場合が多く、ヒーローものやガンダムがここまで続いてこれたのは、中身をとっかえる器――それはマスクだったり、ロボットだったりがあったからで、スター・ウォーズも極端な話、ライトセイバーさえ出てくればスター・ウォーズって感じで、現代のアメリカの高校生が主人公の学園物だって出てきちゃうかもしれません。それがまあ、楽しいかは別の話ですが……。

 しかし、宇宙に光る棒を持ち込んだ、というか棒を光らせるだけでチャンバラをSFにしてしまった。それは本当に画期的で、スター・ウォーズの本質はこの光る棒にあるといっても過言ではないでしょう。

 まあ、そんなわけでグダグダ長くなりましたが、個人的には新三部作の行方よりはスター・ウォーズサーガのこれからの展開が気になる方かもしれません。

 

根無し草の怪物 映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』

 黄色いМの文字――それだけで分かる店がある。

 マクドナルド。

 世界で初めてレストランを効率化し、30秒でハンバーガーを出すハンバーガーショップの代名詞。そしてフランチャイズ化することにより、アメリカはおろか、世界のあまねく地域でその黄金色のダブルブリッジを目にすることになる。一日に世界人口の実に1パーセントの人間がその提供する商品を口にする、超ド級ハンバーガー帝国。その幕開けとはいかなるものだったのか、そしてそのファウンダー――創業者とは何者だったのか。

 マクドナルド――それは人名だ。ということは創業者の名前であるはず。しかし、実は違う。この映画の主人公であり、マクドナルドの「創業者」の男の名前はレイ・クロックという。つまり、彼はその名を奪ったのだ。

 「マクドナルド」とは、彼が簒奪したまさにすべてといっていい。この映画は、けた外れの野心以外は何も持たなかった男がひたすら「成功」を求め、それを際限なく拡大することに執念を燃やす物語なのだ。

あらすじ

 1954年、レイ・クロックはシェイクミキサーを売り歩くセールスマンだった。中西部を車で駆け巡り、重たいシェイカーを手に飲食店の経営者へ得意のセールストークで売飛び込み営業をかける日々。食事はドライブインレストランでとるが、そこは大抵たちのよくない若者のたまり場で、時間はかかるし、注文を間違えるのもしょっちゅうだ。その日も注文を間違えられ、レイは不機嫌だった。セールスもなかなか上手く行かない。

 食事を終え、レイは自社の秘書に電話をかける。秘書からはなんと一軒のドライブインレストランからミキサーの注文が6台あったという報告が。あまりの大型注文に疑いを覚えるレイだが、そのレストラン――マクドナルド・ハンバーガーショップに電話を入れると、尋常ではない繁盛した様子と2台の追加で注文が8台になる始末。なにか電話の向こう側で大変な事態が起きているらしい。そう嗅ぎ取ったレイはすぐに現地に向かう。そこで目にしたものは、これまでにない画期的な効率化システムを取り入れた新しい飲食店だった。

 これはフランチャイズ化すべきだ、そう確信したレイは創業者のマクドナルド兄弟に迫る。なんとしてでもこれに乗りたい。しかし兄弟はあまり乗り気ではない。フランチャイズ化はすでにしている、しかし、大きくし過ぎることで管理が行き届かなくなり、質が落ちる。結果これ以上大きくならないし、もう大きくしたくもないのだと。

 しかし、レイは諦めず、その執拗な執念に根負けするようにして兄弟はレイにマクドナルドのフランチャイズ化を任せることにする。そしてその時、マクドナルドの「創業者」は生まれたのだ。

 店を金持ちの道楽的な投資ではなく、上昇志向を持つ夫婦を中心にして任せることにより、フランチャイズ化の拡大に成功し、さらなる拡大をもくろむレイ。だが、そのたびにマクドナルド兄弟と対立することになる。やがてレイは自らの枷となった兄弟を「マクドナルド」から追放することを画策してゆく。

 

感想

 マクドナルドの「創業者」――それはファストフードの基礎ともいえる調理工程の徹底した効率化とマニュアル化を考案したのでないばかりか、そのアイコンも作り出したわけでもなく、マクドナルドという名前すら自分のものではない。彼がしたことはただ一つ、それをひたすら広げたこと。そしてその原動力は成功への執着という、けた外れの野心。

 ほんと見事なまでに彼はマクドナルドがマクドナルドたる全てについて何一つ生み出してはいない。作中で確執の原因の一つになる粉末ミルクシェイクだって彼のアイディアではない。彼が語る成功哲学ですら、どこぞの誰かさんが吹き込んだ「ポジティブの力」というレコードの言葉の引用なのだ。彼自身の根っこは何もない。しかし、それでも彼はマクドナルドの全てを手に入れた。

 そもそも彼はその時点ですでにある程度の成功者なのだ。立派な家に住み、金持ちクラブでの交流も持っている。同じ年ごろの人間たちはゴルフに酒の悠々自適の生活で、52歳にしてもう一旗揚げようとする彼のその野心の原動力とは何なのか。

アメリカンドリーム――開拓の再演>

 セールスマンとして、売るものをとっかえひっかえし、彼自身は何かを生み出すことはない。だからこそ“成功”というものに固執するのか。いや、彼が固執しているものは実は“アメリカ”そのものなのだ。最後に彼がマクドナルドという名前を手に入れたがった理由についてこう言う――響きがとてもアメリカ的だ、と。クロックでは人は振り向かない。それはじめじめしたスラブ系の名前だからだ。マクドナルドというフランチャイズの本質がハンバーガーではなく不動産業であり、遅れてきたスラブ人の彼がかつて西へ向かって開拓したアメリカを、今度は東のカルフォルニアから西のニューヨークへと開拓してゆく。乗り遅れたアメリカンドリームの再演だ。彼が作中唯一といっていいほど成功を体感するシーンは新店舗の開店時、そこの土地の人々に感謝と共に歓迎されるシーンだ。そして糟糠の妻を捨て、出資者から略奪するように再婚する妻は明るいブロンド美人。

 アメリカであること。それが根無し草である彼の望みだ。しかし根っこがないことは現状に満足し、根を下ろすことがない。彼は際限なく彼の店をアメリカ中へ広げてゆく。アメリカになるために。アメリカが彼になるように。その貪欲ともいえる様は怪物的で、無慈悲にローカルな人々を飲み込んでゆく。かつての“開拓”がそうであったように。そして今日でもまた、マクドナルドは“アメリカ”を世界に広げている。

おわりに

 なんというかキャストが絶妙ですよね。なんといってもマイケル・キートン。その胡散臭く脂ぎった野心が、わざとらしいしぐさの端々に現れるレイ・クロックを好演しています。やりすぎな感も無きにしも非ず、しかし、怪物的な人物としてはちょうどいいくらいです。演出もくっきりしていて、特に電話の演出でマクドナルド兄弟とレイの関係性の優劣がやがて逆転していく様を分かりやすく示し、善良で頑固な兄弟が次第に怪物にのっとられていく過程は一種のサスペンスと言えるでしょう。

 映画のラスト、鏡に向かいマクドナルドの創業物語を練習しようとするレイ。それは冒頭のセールストークの構図と同じ我々に向かって語り掛けるように。しかし、どうにもうまくいきません。それもそのはず、彼にはその実体験はないのだから。巨大な帝国の「創業者」には肝心の根っこがない。それは私たち観客がよく分かっている。そしてラストショットの部屋を出ていく彼の後姿はピンボケしたようにぼんやりとしています。それが彼そのものなのか、その姿はどこか蜃気楼めいて、映画のラストを印象付けているのでした。

 少女☆歌劇レビュースタァライト、なるほど、これは何というか「語りがい」のありそうなアニメといいましょうか。そういえばこういうアニメあんま見なくなったなあ、という感じで観てました。ウテナは好きなので一~二話を結構楽しく観ました。少女が歌劇部で頑張る話かと思いきやスゴクアニメな話で、最近『リズと青い鳥』とか『ゆるキャン△』、『宇宙よりも遠い場所』といったどっちかというと演出などが写実よりっぽいアニメ見続けてきたので、こういう奔放な抽象演出が連発するアニメって少し懐かしい感じで観てます。

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 この動画、いま結構出回ってて、中身の議論は発信者がSF寄りの人なのか、SFの問題として論じつつ、SFを創作する際の注意として「Experience is Sexy」と結論付けるわけなんだけど、どうもこの中身についてもうちょい精査するというか、SFやアニメを乱暴に総括ぎみの論調に対してあまり議論が上がらなく、すでにある自分の結論を強化する、もしくは肯定してSFは、男性は、オタク(そもそも「オタク」は男性を指すだけの言葉ではないと思うのだが……)はという風に、共感の集団内で吐き捨てて憂さを晴らす、まあそういう、いつもといえばいつもの光景が繰り広げられていて、なんだかなあ、という感じでしょうか。

 一口にSFやアニメって言ったってそもそも凄く裾野が広いし、個々に挙げられている数点の実例は良くないテンプレの一つとして議論されているはずなのだが、それがSFやアニメの特徴みたいにされるのはなんだか納得がいかない。SFはSFでも私の読んだ数少ないSF小説のなかでここで挙げられているようなBorn sexy yesterday的な作品は目にしたことはあまりないし、クラークやベイリー、ディック、ディプトリー、コーニイ、冲方丁長谷敏司などなど……にあっただろうか、そういう要素。ヤング……は少しそういう要素があったかなあ。『BEATLSS』はそういう嗜好をAIが利用するという要素があるが……。あと今はもう残っていない量産パルプ小説には沢山あったのかもしれない。でももうそれは主流でも何でもない。

 確かに表現としてあるのだけど、それでSFやアニメをひとくくりにしてだからSFは嫌いだとか、所詮は男性の願望充足などとものすごく大きなくくりで吐き捨てるのはあまりにも短絡だし、ただ単に嫌なものがあるからみんなそうだ、といういささか幼稚な振る舞いに見える。

 私はこの動画の本質ってSFのテンプレートがうんたらではなくて、過去からあらゆる創作ジャンルに忍び込んできた人物間の関係の不均衡で、それは動画内でずばり“永遠の教師と生徒の関係”という言葉で指摘されている。

 ――なのだが、過去の様々なSF外の映画から抽出してきたこの本質を、SFのジャンル内で論じるために、この本質をSFの想像力がよりテンプレートとして可能にする、という論立てになってて、結果的にSFだけがやり玉に挙げられているような結論になっちゃってしまい、結局、一部でだからSFは、男は、みたいな単純な流れにワッと吹き上がってしまっている。

 私としてはこの動画についてはせっかく本質にたどり着いていたのに、結論も含めてなんだかなあ、という感じです。関係性の不均衡が、宇宙人とかアンドロイドとかSFのガジェットと結びついてよりスムーズに実現しやすい要素があるというものであって、その“永遠の教師と生徒”という関係性は、他のジャンルの映画で挙げられているようにどんな創作物にも入りこむだろうし、これは男女間の不均衡にとどまらない。これから色んな関係性がより創作の中で描かれていく中で、男性同士、女性同士にも生じるし、そこに性的搾取な不均衡もまた生じるはずだと思うのだが。これからの作品創作のうえで注意しなければならないのは、色んな関係性においての不均衡、その一方的な支配だと思うのです。

 もちろんこの動画で挙げられた作品にある無知で無垢なキャラクターを性的に消費するのは褒められたことではないし、第一あまり面白くない。『猿の惑星』の喋れないブロンド美人なんてほとんど覚えてないよ。ジーラ博士の方がキスシーン含めてキャラクターとして印象に残ってるし。こういったキャラクターは幅がないのでそもそも面白くない、印象に残らないという視点も、創作する際には必要かもしれません。

 まあでもなんていうか、正直、全体的にはざっくりしすぎてて、これで我が意を得たりっていうのは、結局はざっくりした理解をしてるつもりの人なのではないか、という疑問もあったりしますね……やはり元動画そのものに色々議論と検証が必要かなあと思いますが。

 ジャック・リッチー『10ドルだって大金だ』を読み終える。時間がめっちゃかけちゃったので正直前半の記憶はほぼない……。そんなわけで、あまり良い読み方もしなかったし、また再読する必要があるかもしれないのだが、まあ、今のところ自分には合った感じはしないというか。

 小粋でユーモアをまぶし、脂っ気の抜けたいかにも通人仕様な感じといいましょうか。破綻も少なくというか、そうなる前に切りあげる巧さとか、減点視点で見ると点数が高めになる感じ。

 私は通人から見たら眉を顰めるかもしれない、破綻してたり変な話を含むゴリゴリの本格探偵小説ってやつが好きなので、帯にある優雅な殺人、洒落た犯罪ってやつにはあまり興味がわかない部分があります。あーなるほどな、ここをニヤリとするわけか、というところを眺めつつ、どうも物足りない思いがしてしまって、なんか距離がある読書でしたね。

 まあ、時間が経てば何か違った感興を覚えることもあるだろうということで、とりあえずしばらくは寝かせておく感じでしょうか。一応、他の作品は『クライム・マシン』あたりを読んでおこうかな、という気はしてますけど。

 またぞろ、甲子園の“物語”に一直線に熱中して、自己中心的に球児を消費し始めてるの、私が嫌いなニッポンジンって感じで、大変薄気味悪いです。オリンピックもまたこの調子でみんなでつつき合える“物語”を見つけたら一直線なんだろう。

 あと、twitterの現実を物語にパッケージして、みんなでネタ的に消費する、そういう装置としての機能が大きすぎて、最近嫌になっている。