蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

家族であろうとすることが、できない場所で:映画『万引き家族』

 観てきましたよ、『万引き家族』。是枝監督の作品は、これまでは『それでも僕はやってない』ぐらいしか観てなくて、今回でやっと二作目。そして今作も「それでも~」と同じように、すっきりとした終わりではなく、どこか遣り切れない。映画の終りが終わりではなく、これからも登場人物たちの人生が続くであろうこと強く意識させ、だからこそ暗澹とした、重たいしこりを残す映画となっていました。

 そして、この映画は家族の映画でありながら、その家族のカタチとは何か、それをはっきりと指し示すことなく、観る者に委ねる形をとっています。だからこそ、観終わった後も考え続けることになる、そういう映画でしたね。

 というか、そもそも家族なるカタチとは何なんだろうか、そんなものは存在するのか? この映画は僕らがそう思いたいものを悉く否定というか、ボロボロと崩していきます。形を成すかに見えたらすぐに崩れてしまう。その無情にもさらさらと零れ落ちてゆくものの中に、観る者は何をみればいいのだろうか。

 

あらすじ

 とあるスーパー。中年の男と少年が目くばせをしながらあたりの様子をうかがっていた。店員の動き、他の客の動き、流れるその間隙、空白の瞬間を見定めて、男が合図すると、少年は手に取った小品を背負っていたリュックサックに詰めた。そしてまた小品を手に取り、淡々と詰めてゆく。

 万引き、と呼ばれる行為を彼らは日常的に行っている。

 肌寒く雪が降りそうな日、いつものようにスーパーので万引きを行い、商店街でコロッケを買った帰り道、男と少年は通りがかった団地の前で物音に足を止める。ふと覗いた隙間から廊下の前で凍える少女の姿が見えた。

 見かねた男――治は少女を家に連れて帰ってしまう。

 周囲をマンションに取り囲まれ、埋もれ、見るからに取り残された古い一軒家にその中年男と少年――治と祥太を含む5人の男女が暮らしている。そこへ治が連れてきた「ゆり」が加わり、貧しいが笑顔の絶えない“家族”の営みが「ゆり」を中心にして、より強くなってゆくのもつかの間――“祖母”の初枝の死をきっかけに、やがて“家族”の結びつきはほどけていく――。

 

 感想 ネタバレ前提で語るので、観てない人はそのつもりで

 

 まあでもほんと重い。まずはその貧困描写がすげーズンと来る。部屋の中の汚さがいちいちリアルなんですよ。薄汚れた服とかがやたらとその辺に置いてあったりとか、なんていうか、使えなさそうなものが雑多と置いてあるあの感じ。カップ麺にコロッケつけるのもあんまりおいしそうに見えない。というか、ご飯食べてるシーン、あんまりおいしそうに見えないんですよね。全編通していいもの食べてない感は見ていて苦しい。

 ほんと前半は結構苦しい感じがするんですよ。日雇い労働、クリーニング、風俗、働いてもお金が足りなくて、初枝の年金と万引きで補う生活。そういう、閉塞感漂う冒頭から、虐待されていた女の子「ゆり」を新たな家族に迎え入れてゆく過程で、少しづつ、それぞれのつながりがよりくっきりしていく姿は心を和ませると同時に、どこか不安定で薄氷を踏むような危うい影が常にちらつく。

 その危うさというのは、後で明らかになる様に彼らが世間的には認められない家族である、という所からきている。彼らは全員血のつながりのない他人であり、ゆりをはじめ、祥太、亜紀といった未成年たちはみな本当の親がいるし、「ゆり」に至っては半ば誘拐のような形で加わっているのだから。

 しかし、彼らは元居た親の許では家族にはなれなかった者たちなのだ。そんな彼らが世間の片隅で寄り添う様に生きていき、家族としてふるまう姿はその一つ一つが温かみを持ってみることができるだろう。そしてそれは崩壊の予感を感じさせつつも、海水浴のシーンで頂点に達する。初枝が海で戯れる五人を見て、観客には聞こえることのないつぶやきを漏らすシーン。その瞬間だけは、たとえその後あっさりと彼らの結びつきがほどけてしまっても、“家族”であった――だからこそ、そのシーンは目に焼き付いて離れない。

 しかしその幸せの瞬間をピークに、初枝の死とともに彼らの“家族”としての結びつきはあっさりとほどけていきます。その大きなきっかけが祥太の万引き――その行為への疑問。

 「妹」である「ゆり」万引き行為に引き入れることが、駄菓子屋のおやじにたしなめられたこと、そしてそのおやじがほどなくして亡くなり、駄菓子屋が閉まってしまったこと。忌中の文字が読めない祥太は自分が万引きをしていたから店がつぶれたのか、という思いを抱きます。そして、車上荒らしをノリノリで行う治に違和感を感じ始める。

 「ゆり」が押し止めたのにもかかわらずスーパーでの万引きを自分も行おうとするところを見て、ついに祥太の中で何かが決壊したのか、彼は店員の目の前で商品を掴んで逃げます。その商品がネットに入った夏ミカン(違ったかな?)で、それが最後、追いつめられた祥太が飛び降りた拍子にバラバラに散らばるのは示唆的です。

 そして祥太が捕まったことを皮切りに、初枝の床下の埋葬、年金不正受給、そして「ゆり」の誘拐――ということが次々に明らかになり、「家族」はバラバラになっていきます。彼らは世間からは家族とは認められない。それがどんなに「家族」として彼らなりにやってきたとしても。

 治が家の隣の空き地でサッカーをする親子を見つめるシーンがあります。そして、祥太に父さんと言って欲しいというアピールをする場面が何度もあり、彼が祥太に対して「父親」でありたいという願望が繰り返し語られます。そして、なぜ子供に万引きを? と警察官が尋ねる場面で彼はこういうのです、それぐらいしか自分には教えられることがないのだと。学も何もない自分が万引きのやり方を教えること、それが「父親」として教えられることだった――生き生きと祥太に万引きを、犯罪を教授してきた彼の姿を思い出し、そのあまりの痛ましさに胸が重くなります。

 最後の方で、すべての罪をかぶる形で収監された信代が面会に来た祥太に彼が治と信代に拾われてきた時の状況、そして本当の親に繋がる車のナンバーを伝え、肉親へと戻る選択肢を示します。祥太を筆頭に、「ゆり」や亜紀は元の親――血のつながったそれへの再帰属を促されることになるのです。この辺りが、この映画の特徴というか、アメリカ映画的な疑似家族でハッピーエンドとは違う、というかそういうわけにはいかない日本の在りようを示しているようでした。そしてかつてあった『東京物語』的な、血のつながりよりもすぐ隣にいる他者とのつながりに希望を託すこともできない。

 つまり、独立した個々が寄り集まることも許されず、血縁的な縦や地域的、他者的な横の関係にも希望を見出すことができない――その暗澹たるありさまが、この国のより今日的な有様なのかもしれず、さらに胸を締め付けるものとなっているようでした。

 だからこそ、連れ戻された「ゆり」――樹里が本当の親の許で再び疎外され、もしかしたら最悪の結果すら待っているかもしれない日常の中、再び団地の廊下のなか、塀を乗りだし、外を見る。その自ら外部を見つめようとする姿に、ほんの少しの希望を、僅かかもしれないそれを祈らずにはいられないのでした。