蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

『悪魔のいけにえ2』

 同じ監督が同じ題材で続編を撮る。まあ、割とよくあるシチュだ。その場合、第一作の再演となるわけだが、それをどのように再演するのか。それが映画の形を決めるのかもしれない。

 基本的に人気が出た作品の二作目は予算が増えるわけだし派手になる傾向がある。ターミネーターしかり、ランボーしかりエイリアンしかり……。基本的に派手になるのだから映画は動的になる。セットも大きく豪華になり、空間は広くなる。それはアクション映画にとっては有利に働く。2で評価が高いのは割とアクション系が多いのも頷ける。

 しかし、ホラー映画にとってはどうか。アクションの乏しさが不安や緊張感を、空間の狭さが息苦しさをもたらすジャンルで、それを正反対に振ってしまうと作品がもともと持っていた怖さが損なわれてしまう。低予算からくる歪なざらつきが恐怖に貢献していた場合などもあると、なおさらである。

 しかし、予算がついた以上派手にならざるを得ない。それは前作のウケた要素をパワーアップさせる。そして、やり過ぎた過剰な表現はパロディめいたものとなり、それは恐怖というよりも笑いを引き起こす。

それはこの映画でも例外ではなかった。

 

ここからはネタバレ前提で語っていくので注意です。

 あらすじは……ラリパッパな学生がドライブ中にチェーンソー男に遭遇して惨殺! 偶然ローカルラジオのリクエスト中で、電話がつながったままだったため、その時の様子が生中継。その音声テープを甥(って、ラリパッパな学生の方ではなく、第一作で惨殺された車いすの青年フランクリンのこと)の復讐に燃える保安官が、何故だか番組があるごとにリピートリクエスト。証拠の音源を狙った殺人鬼一家にDJの女性が狙われちゃってさあ大変!……みたいな感じです(もうなんかメンドクサイんです、これ以上は許してください)。

 

 まあとにかく、そんな感じでうっかり殺人鬼一家と接点を持っちゃった女性DJ災難の巻、がこの『悪魔のいけにえ2』の概要です。

 この映画、前述したように色々パワーアップしているわけですが、冒頭のラリパッパ学生の惨殺からみんな大好きチェーンソーが大活躍。トム・サビーニ大先生による特殊メイクで思う存分、頭をバックリ切り飛ばし、のっけからゴア描写が容赦ない。

 そして、チェーンソーにはチェーンソーだぜ、とばかりにデニス・ホッパー演じる保安官がチェーンソー三丁装備して暴れ回ります。

 レザーフェイスら殺人鬼一家は廃園になったテーマパークを根城としており、前作の悪魔の家をディテールアップさせたそこはまさに悪魔のテーマパークと化していて、見ててなかなか楽しいです。

 そして悪魔の晩餐もパワーアップし、豪華なディテールのなか、爺様のハンマー芸が皆様の期待に応えて再演。爺様もパワーアップし、割としっかりハンマー持てるようになりました(しかし、的をボロボロはずすのは相変わらずですが)。

 三男レザーフェイスの長男次男たちにドヤされながらの困った感じも健在で、今回は彼の恋心が描かれちゃったりします。恋と殺人の板挟み!? どーするレザーフェイス! みたいな。

 恋したDJに剥いだ生皮をかぶせて自分と同じにする――フランケンシュタインじみた同じ配偶者を求めるような行為は残虐かつ滑稽ですが、ある意味フリークスの純真性ともいえて、ちょっとせつない。

 まあ、そんな感じで全編が過剰なパロディじみた画面は悪趣味なほどどきつく、そしてどこかしらシュールで滑稽な雰囲気を纏っています。悪魔のいけにえといえば、の要素や場面を派手に繰りかえす。同じことをもう一度やる、ということは盛らずにはいられず、歌舞伎じみた大仰さを避けることはできないのかもしれません。そしてそれをホラーでやるということは必然的にコメディになってしまう。サム・ライミはそのことに自覚的で、トビー・フーパーは恐らく自覚しつつも、愚直であった、ということなのかもしれません。この作品はあくまでホラーであろうとしているのは間違いないからです。過剰な残虐さはどこかしら滑稽味を帯びる、という“恐怖”についてのことを追求した一本、と言えないこともない、と思ったりするのですがどうでしょう。

 とはいえ、絵的な印象性はどうしても前作に軍配が上がってしまいますね。あの何かが起こる前の不気味な緊張感をたたえた静画のような絵作り。悪魔の家に引き付けられるように進む女性とそのホットパンツの赤色、レザーフェイスが出現する前の赤い壁紙に動物の頭骨が並ぶ部屋の吸引力。

 ホラーの神髄はやはり、表現の過剰性というよりは“予兆”にあるといっていいのではないでしょうか。

 

決断せよ:『ペンタゴン・ペーパーズ』

 いろいろタイムリーといいますか、どこもかしこも腐り切った世界で、映画の神様が掲げた力強いプロテストは鮮烈で、まだあきらめるには早すぎる、そんなふうに勇気づけてくれる映画でした。

 まあ、政治的な意味合いは言うに及ばず、普通に主婦として生涯を送るはずだった一人の女性の決断の物語として、ずっしりとくる作品となっています。

 時代の中で決断を下さないといけない時はきっと来る。どっちつかずでいることができなくなる時が。その時何を選び取るのか、その根拠となるものを自分の中にもつことはできるのか。

 

あらすじ

 1971年、ケネディが始め、ニクソンが受け継いだベトナム戦争は泥沼化していた。現地を視察した政府系シンクタンクランド研究所のダニエル・エルズバーグはその泥沼化が事前に予測されていたにもかかわらず、なおも戦争を継続しようとする政府に疑問を抱き、これまでの軍事行動を記録した7000ページにも及ぶ機密文書、通称ペンタゴン・ペーパーズを持ち出す。

 持ち出された文章は一部が全国紙ニューヨーク・タイムズにリークされ、政府がこれまで公表してきた内容が虚偽であったスクープは全米を揺るがす。しかし、政府は国家安全保障を脅かすとして、ニューヨーク・タイムズに対し記事の差し止めを連邦裁判所に対して要求することになる。

 そんななか、一地方紙であったワシントン・ポストは、夫の死で急遽社主となったキャサリン・グラハムが株式公開を控え、なんとかして社主としてふるまおうとしていた。が、役員を含め男ばかりの世界で、担ぎあげられつつも半ば無視されるような日々を送っていた。跡を継ぐはずだった有能な夫の影を懐かしく思いつつも、社の将来を模索するキャサリン

 一方キャサリンの友人でワシントン・ポストの編集主幹ベン・ブラッドリーは、ニューヨーク・タイムズのスクープを横目見見つつ、自分たちも何とかスクープをものにできないかと考えていた。そんななか、ワシントンポストにも同様のリークが舞い込み、元ランド研究所の記者ベン・バグディキアンはかつての同僚であったダニエル・エルズバーグとの接触に成功、7000ページにも及ぶコピーを入手する。

 次の日までに早急に記事に仕上げるために全力をあげるベン達報道部だったが、弁護士たちは情報源がニューヨーク・タイムズと同じだったということから待ったをかける。ニューヨークタイムズが訴えられている中それを報道することは法廷侮辱罪が適用され、負ければ全員が刑務所行きになる可能性がある、と。

 報道の自由は報道によってなされる、という信念のベンたち記者と、株主たちを、そして会社を気にする役員たち。記事を載せるか否か――その最終判断は、社主であるキャサリンの判断にゆだねられた。

 

感想

 報道の自由とは何か、という大きなテーマが宣伝として前面に出ている映画ですが、それと並んで、大きな柱となっているのが、女社主となったキャサリンの決断の物語といえるでしょう。

 父の経営する新聞社を夫が継ぐことになっていて、彼女自身は主婦で終わるはずだった。あくまでお金持ちの奥様であった彼女が夫の自殺によって、右も左も分からない状態で、新聞社の経営に乗り出さなくてはならなくなったのだ。

 このキャサリンという人物を中心に据えたところが、スピルバーグの目の付け所の鋭さというか、上手いところだなあと思いますね。記者視点で、巨悪に立ち向かうというだけではなく、当時としても大変だったであろう女性経営者という視点から、決断することとは、という物語を描く。

 このキャサリンという人物の位置というのが絶妙で、彼女はある意味体制側の人間で、政府の要人たちとの交流があり、国務長官とも顔見知りなわけです。そういう立場の中で新聞社の人間として、彼らの不正を暴くかどうか、という局面に立たされる。記者のベンはひたすら報道の自由を追うわけですが、彼には最終決定権はない。

 つまり、このに描かれる報道の自由、そしてそれは報道によってなされるという信念は、経営者の判断によっている。もちろん、信念は大事だが、それを貫くには最高責任者の判断が必要になる。スピルバーグはこの映画を通じて報道の精神の他に、トップに立つ者たちの責任を促しているのだ、判断せよ、決断せよ、と。

 顔見知りであり、交流のある人物たちが不正を働いていたことを知った時、どのような行動をとるべきか、どちらの側に立つべきか。そこにどっちつかずの中道という道はない。時代が選択を迫る時が必ず来る。その時、判断する者はどのような決定を下すべきなのか。

 報道の精神をひたすら体現しようとするベンに対して、未熟な経営者のキャサリンが、死んだ父の、夫の会社ではなく彼女自身の会社としての決定を選択するまでの物語として描くことで、この映画は報道の精神を声高に訴える以上の映画としての独自の面白みを獲得したのだと思います。

 あと、機械類というか、印刷関係の機器類――暗がりで光を放つコピー機やカチカチと組まれる活字による製版、うなる輪転機といった描写が地味に燃えます。一つの意思決定が、様々な手を通して形になっていく過程がビジュアル化されていいるのもこの映画の燃えポイントですね。

 いわば記事が作られていく、というのがアクション映画でいうアクションのようなビジュアルの高揚感があると言いますか、そのような演出はスピルバーグの上手さといっていいでしょう。そういえば、今回は近作恒例(?)の冒頭にクライマックスがある歪な構成ではなくて、ちゃんと後ろにクライマックスがある構成でしたね。ラストは映画マニアらしい、映画のユニバースをみせてくれてニヤリ。

 まあとにかく、一人の映画人が今の時代に向けてどうしても作らねばと作り上げた作品――その力づよいプロテストには勇気づけられるものがありました。

 『バーフバリ 王の凱旋』を観た。確かに凄い。なんというか、むやみなエネルギーがある。マッドマックスとはまた違う、制御しきれない器からあふれ出すようなパワーだ。

 この映画はマトリックスから続く、アニメ、ゲーム、漫画文法の映画化という流れの先にある。ゲームや漫画、アニメのビジュアル化をここまで盛大にやられてしまうと、本当に口を開けて見入るしかない。

 王は強い。というか王族は強い。それは当たり前の前提としてバーフバリの世界はある。陰りや葛藤といったものとは離れた、ものすごい光輝く人間。それは今の日本はおろかアメリカ、ヨーロッパ、恐らく中国やロシアなんかでも失われた人間像。

 言ってみれば近代が捨て去った人間像、と言えるのかもしれない。強い理想、光り輝く人間像。それに突っ込みを入れることで、現在のフィクションは「深み」や「人間を描く」という仕草を獲得してきた。観る側だって、完璧な人間像をリアリティがない、人間味がないというふうにしたり顔で鑑賞することを身の振り方として体得してきた。

 しかし、この映画にはそんな姑息なものは通用しない。光り輝く人間はいる、その名はバーフバリ! そう高らかに宣言し、しかも観る者たちもまたそう頷かせるにたるパワーを彼に与えている。圧倒的な立ち居振る舞い、その迷いのない行動。カントのいう善のように、理由などなく、それそのもの存在自体においてバーフバリは偉大な王にして人間なのだ。

 捻くれきった現代の観客にそれを受け入れさせてしまうその映画のパワーにひたすらひれ伏すしかない。この映画は、その画のゴージャスさといい、かつてあった『クレオパトラ』や『ベン・ハー』といったある種の神話の映画の再来なのだ。それもとびっきりの。失われたはずの神話。それが我々の前に再び現れた。これはそんな映画の奇跡の一つなのだ。

意外と出来がいいぞ:映画『スクリーマーズ』

 

スクリーマーズ [DVD]

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  • 発売日: 2001/06/21
  • メディア: DVD
 

 

 フィリップ・K・ディックの短編「変種第二号」を原作とした1995年に公開された映画。監督はスキャナーズ2など(観たことない)クリスチャン・デュゲイ。主演はロボコップでおなじみのピーター・ウェラー。そして脚本がダン・オバノン

 数あるディック原作映画の中では、あまり語られない映画の一つといっていいと思われる本作ですが、なかなか悪くないです。まあでも、84年の『ターミネーター』の衝撃とさらに91年の『ターミネーター2』を通過してしまってこれ、というのは確かに埋もれるのはむべなるかな、という気はします。低予算の後追い映画っぽいですしね……。

 しかし、原作を尊重しつつ、ひねりを加え、そして大衆向け的なエンドの中に不安をこっそりしのばせる、というオバノンの見事な脚本術が、きちんとディック原作映画として成立させています。

 原作の兵器クロ―が自己進化していつしかヒト型兵器となったそれらは、人間と区別がつかない数々の“変種”を生み出し、見境なく人間を襲い始めていく。人間に成りすました変種は誰か、という原作のサスペンスをきっちり組み込んで、殺人マシーンが紛れ込んでいるという「ターミネーター」では味わえなかった人型アンドロイドならではの恐怖をみせてくれます。地味っちゃあ地味ですが、しかし基地が乗っ取られ、大量の子供型変種第三号がわらわらと基地内から出てくるシーンとか、同規格のものがゾロゾロわいて出てくる恐怖感が出ててなかなかいいです。

 ただ、ラスト付近の改変はたぶん賛否が分かれるところでしょう。いかにも大衆映画向きな“愛”の演出とかは、ちょっと唐突感もあって嫌う人もいるとは思いますが、人間に似せる、ということのテーマとしてはアリというか。陳腐かもしれないけど、そこにある葛藤とかは、ちょっとグッときました。

 そして、最後のテディ・ベアの演出とか、恐らくハッピーエンドにしろというプロデューサーあたりからの圧力を受けつつも何とか原作のテイストを守ろうとする矜持のようなものを感じたりして、その辺にもちょっと感じ入ったしだいです。

 まあ全体的に地味目で、ヴァーホーベンの『トータル・リコール』のように異形の独自色で記憶に刻むようなインパクトは薄いかもしれませんが、似ても似つかない作品になってしまうディック原作群の中では、比較的原作を尊重した佳作になっているのではないでしょうか。(まあ、実のところ、『ブレードランナー』や『トータル・リコール』『マイノリティ・リポート』の方が好きな自分としては原作に忠実、ということはそんなに気にするポイントではないのですが)

 

変種第二号 (ハヤカワ文庫 SF テ 1-24)
 

煙草と霧と放射能:島田荘司『ゴーグル男の怪』

 

 

ゴーグル男の怪 (新潮文庫)

ゴーグル男の怪 (新潮文庫)

 

 

 とりあえず結論から言うと『ゴーグル男の怪』は幻想小説の傑作である。著者だから書き得た異形の幻想ミステリといってもいいのかもしれない。

 よって、ミステリ的なネタの切れ味や著者ならではの豪快なトリックを期待する読み方をすると、はっきり言う、失望するだろう。また、謎がすべてはっきりと解かれないとミステリではない、という方がいたとするなら、手に取る必要はない。この小説はその明らかにならないことが幻想小説としての最大の効果なのだから。

 あらすじ

 事件は煙草横丁という、煙草屋が三件隣接する町――その一軒の煙草屋の店主である老婆殺人事件から始まる。通報を受けた警察官はそこで現場をうかがう奇妙な男を発見する。男は逃走するが何故かゴーグルをつけていて、そのゴーグルの中は赤くそまり、まるでただれているかのようだった。

 そして、霧に沈む町にゴーグル男の目撃情報が多発しはじめると、人々は噂し始める。あの男は住吉科研――核燃料製造会社の敷地内からやってきたのだと。かつて臨界事故が起こったその敷地内でうごめくものは何か。ゴーグル男とは何者なのか。老婆殺人事件から始まった奇妙な出来事は、やがてその霧に沈むくそったれな世界の底でもがく人々の思いを、青白く発光させる。

 

※とりあえず、この先はネタバレ前提で語っていきますので、そのつもりでいてください。

 

 

 

 この作品はかつて、NHKの犯人当て推理ドラマ「探偵Xからの挑戦状」のために書かれたシナリオへ、大幅にディテールを追加した形で刊行したもので、私が読んだ今回の文庫版はそれに最後の40章を書き足したもの。ミステリ的な部分――ゴーグル男の生れる理由やら、殺害された老婆のそばで発見された奇妙な蛍光ラインの入った五千円札がドラマ時の部分で、事件と並行して語られるある人物の半生記のようなものが小説として新たに大幅に書き足された部分であります。というか、この小説のほとんどメインといってもいいものとなっています。

 そして、この事件とは別のもう一人のゴーグル男の存在が、この小説を幻想小説として成立させることとなったのです。

 この人物は核燃料を製造する住吉科研で働いている社員であるということは示されますが、ついに名前を明かされません。最後まで名前のわからない――そしてそれが最初に書いたようにこの小説を幻想小説として強く覆うことになっている。その半生を含め、幼い日に受けた性的虐待などをディテール細かく描くかれる青年は、最後まで名前を明かされず、彼自身の内面が抱える傷や不安はくっきりしているのに、存在自体はどこかあやふやなのです。

 あやふやといえば、この小説の大枠もまた、ディテールは細かいが、時代や場所がどこかあやふやです(場所の名前ははっきりと書かれているが、実際には存在していない)。そして、この舞台は頻繁に霧に包まれ、その霧の中で名無しの青年の不安定な情緒が投影されるように、時おり夢か現か判然としない、悪夢のような光景を見せていきます。

 この小説を幻想小説たらしめている基礎的な要因はまず、そういう島田荘司ならではのディテールの細かさといっていい。貧しい町であえぐように生きている人々、生々しい被害の記憶。そして、実際の東海村での臨界事故を再現した描写。その社会派的なリアリズムがやがて揺らぎ、霧の中に沈み始めることで幻想性が浮かび上がってくるのです。

 そしてその為の小道具の使い方が周到です。要は舞台の町には霧、事件には煙草、そしてメインの人物である名無しの青年には放射能という割り振りが、見事に最近の島田作品にありがちだった大きな要素どうしの乖離を防ぎつつ、全体的に幻想の靄をかけることに成功しています。これは本当に見事で、ドラマ時期に重なる東日本大震災による社会テーマの浮上が、奇跡的に結びついた結果といっていいのではないでしょうか。

 霧が覆うある種の異空間に日本で実際に起きた臨界事故を持ち込み、過去に傷を負った名も無き青年に事故の原因や悲惨さを細かく語らせていく。読者にもついに名は明かされないその寄る辺なき青年が、最後の最後で、思いがけなく出会う――その一瞬の幻想的な邂逅に、彼は希望の光を見る。彼は自分自身の半身と信ずるものに出会うのだ。その瞬間はどこか滑稽で悲しく、しかし尊い

 ただの一方的な思い込みのようなものでしかなかったのかもしれない。だが、それは確かに青白く光ったのだ。

やみをみるめ

 先日、復刊していた『八本脚の蝶』を手に入れることができ、少しづつ読んでいる。これは本で読みたかった。本になって、その遺された言葉たちをカタチとして手に触れる、その手触りを愛おしみながらページをめくる。

 彼女は自分とはあまりにも違う人だ。その言葉に触れるたびこんな人がいたのか、という思いが離れない。その繊細で研磨された精神はあまりにも遠く、私はただただ、その遠くにいる存在を畏怖の念と共に見つめることしかできない。

 どうやったらこんなにも本が読めるのだろう、どうやってこんな本を見つけてくるのだろう、そしてどこからその言葉は出てくるのだろう。そんなことばかり考える。

 次元の違うその絶対的な距離を測るために、私はこの本を開いている。

こわがりでよわいのはかまわない(仕方がない)が、楽になろうと力任せに粗雑に何かを定義してはいけない。

 

 ※とてもどうでもいいことだが、二階堂氏は怪我をした女の子が好きということだが、私はご飯をおいしそうに食べる女の子&男の子が好きだ。闇の眷属にはなれそうにもない。

メイドインアビスを二巻まで読む。これ、もしかしてヤバイやつなんじゃ……。ものすごい細かい世界のディテールを作者が楽しみながら作ってるのがビンビンに伝わってきて、うわあ……という感じでその世界を楽しく覗き込んでいたわけですが、作者が隠し持っていた闇の片鱗が露になり、傍観者的なものだったはずが、にわかにニュッと手が伸びてきて、その深淵を覗き込むこむことになった気分。

思いのほかこの作者は暗がりを抱えている……いや、どちらかというと鋭い光を持つというか、描く意思を持っている。そしてそれゆえに濃い闇を呼び寄せているのか。

とにかく、続きがいろいろ気になる。