蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

煙草と霧と放射能:島田荘司『ゴーグル男の怪』

 

 

ゴーグル男の怪 (新潮文庫)

ゴーグル男の怪 (新潮文庫)

 

 

 とりあえず結論から言うと『ゴーグル男の怪』は幻想小説の傑作である。著者だから書き得た異形の幻想ミステリといってもいいのかもしれない。

 よって、ミステリ的なネタの切れ味や著者ならではの豪快なトリックを期待する読み方をすると、はっきり言う、失望するだろう。また、謎がすべてはっきりと解かれないとミステリではない、という方がいたとするなら、手に取る必要はない。この小説はその明らかにならないことが幻想小説としての最大の効果なのだから。

 あらすじ

 事件は煙草横丁という、煙草屋が三件隣接する町――その一軒の煙草屋の店主である老婆殺人事件から始まる。通報を受けた警察官はそこで現場をうかがう奇妙な男を発見する。男は逃走するが何故かゴーグルをつけていて、そのゴーグルの中は赤くそまり、まるでただれているかのようだった。

 そして、霧に沈む町にゴーグル男の目撃情報が多発しはじめると、人々は噂し始める。あの男は住吉科研――核燃料製造会社の敷地内からやってきたのだと。かつて臨界事故が起こったその敷地内でうごめくものは何か。ゴーグル男とは何者なのか。老婆殺人事件から始まった奇妙な出来事は、やがてその霧に沈むくそったれな世界の底でもがく人々の思いを、青白く発光させる。

 

※とりあえず、この先はネタバレ前提で語っていきますので、そのつもりでいてください。

 

 

 

 この作品はかつて、NHKの犯人当て推理ドラマ「探偵Xからの挑戦状」のために書かれたシナリオへ、大幅にディテールを追加した形で刊行したもので、私が読んだ今回の文庫版はそれに最後の40章を書き足したもの。ミステリ的な部分――ゴーグル男の生れる理由やら、殺害された老婆のそばで発見された奇妙な蛍光ラインの入った五千円札がドラマ時の部分で、事件と並行して語られるある人物の半生記のようなものが小説として新たに大幅に書き足された部分であります。というか、この小説のほとんどメインといってもいいものとなっています。

 そして、この事件とは別のもう一人のゴーグル男の存在が、この小説を幻想小説として成立させることとなったのです。

 この人物は核燃料を製造する住吉科研で働いている社員であるということは示されますが、ついに名前を明かされません。最後まで名前のわからない――そしてそれが最初に書いたようにこの小説を幻想小説として強く覆うことになっている。その半生を含め、幼い日に受けた性的虐待などをディテール細かく描くかれる青年は、最後まで名前を明かされず、彼自身の内面が抱える傷や不安はくっきりしているのに、存在自体はどこかあやふやなのです。

 あやふやといえば、この小説の大枠もまた、ディテールは細かいが、時代や場所がどこかあやふやです(場所の名前ははっきりと書かれているが、実際には存在していない)。そして、この舞台は頻繁に霧に包まれ、その霧の中で名無しの青年の不安定な情緒が投影されるように、時おり夢か現か判然としない、悪夢のような光景を見せていきます。

 この小説を幻想小説たらしめている基礎的な要因はまず、そういう島田荘司ならではのディテールの細かさといっていい。貧しい町であえぐように生きている人々、生々しい被害の記憶。そして、実際の東海村での臨界事故を再現した描写。その社会派的なリアリズムがやがて揺らぎ、霧の中に沈み始めることで幻想性が浮かび上がってくるのです。

 そしてその為の小道具の使い方が周到です。要は舞台の町には霧、事件には煙草、そしてメインの人物である名無しの青年には放射能という割り振りが、見事に最近の島田作品にありがちだった大きな要素どうしの乖離を防ぎつつ、全体的に幻想の靄をかけることに成功しています。これは本当に見事で、ドラマ時期に重なる東日本大震災による社会テーマの浮上が、奇跡的に結びついた結果といっていいのではないでしょうか。

 霧が覆うある種の異空間に日本で実際に起きた臨界事故を持ち込み、過去に傷を負った名も無き青年に事故の原因や悲惨さを細かく語らせていく。読者にもついに名は明かされないその寄る辺なき青年が、最後の最後で、思いがけなく出会う――その一瞬の幻想的な邂逅に、彼は希望の光を見る。彼は自分自身の半身と信ずるものに出会うのだ。その瞬間はどこか滑稽で悲しく、しかし尊い

 ただの一方的な思い込みのようなものでしかなかったのかもしれない。だが、それは確かに青白く光ったのだ。