蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

最近、イノセンスを結構観かえしている。今観ても圧倒的な画面は当時の最高峰だし、おそらく、今でもそうだろうし、今後、これを超えることができるのか、心もとない気がしないでもない。

ま、それはともかく、本編もすごいのだが、特典の対談、監督の押井守とプロデューサーの鈴木敏夫とのそれが、すこぶる面白い。

というか、鈴木敏夫という人の凄さみたいなものがよく分かる。表現者が何を表現したいかを的確に理解しつつ、それを分かりやすい形で第三者に伝えようとする、彼はそんなプロデューサーの権化みたいな男なのだ。的確な理解力とそれを分かりやすい形に加工するすごさと同時に怖さを彼からひしひしと感じるのだった。まさに映画は語られることによって映画になる。あの押井守が全面的に鈴木敏夫の咀嚼した映画の理解に同意している姿は珍しい。

というか、あの当時あそこまで理解してた人、観た人たちにいたんだろうか。

記憶を外部化するその先――人はかつて自身が名づける以前に存在した身体を外部化するという視点はいまだ鮮烈だ(まあ、あまりSFに明るくないので、僕にとってということかもしれないが)。

人は誰かと共に生きていかなくてはならないが、その横にいるのが人間である必要が必ずしもあるわけでなはい、という視点――今度アニメ化する『BEATLESS』は人の横にいるのは魂のない道具でもいいじゃないか、という話で、どんどん人の魂の輪郭が外部化していく。そう言うのを見ると改めてイノセンスの先見性は光るな、とまあ思った次第です。

しかし、『ブレードランナー2049』が人でないものを主人公にしながらも、古典的な「ピノキオ」を下敷きにし、人形が人間に成る、結局は人間中心主義的な価値観のまわりをぐるぐるしている(まあ、輪郭は曖昧になり始めていたが)なか、十年も前に、人間が人形になる話をここまで徹底して描いていた、というのはやはりすごいな、という気はします。

まっかな終末:『吸血鬼ゴケミドロ』

私がクリスマスも終わろうとしていた深夜、何をしていたのだというと映画を観ていた。タイトルは『吸血鬼ゴケミドロ』。

例のごとく観なきゃなあ、と思いながら積んでいた映画の一つ。ようやく観ることができましたよサンタさん。

ゴケミドロの話はシンプルだ。小型旅客機が未確認飛行物体に遭遇し墜落、そこに(何故か)留まる乗客たちに宇宙生物に寄生された客の一人が襲い掛かり、生き残った乗客たちは一人また一人と餌食になっていく……。

映画は開幕早々から不吉な赤い色。その空の色はタランティーノキルビルで引用したことから有名になっているが、そこを飛ぶミニチュアの飛行機はなんだか異様な感興を観る者に与える。すでに世界は変質している、そんな不安を。

 いや、すでに世界は終わっているのだ。あの異様に赤い空でそれはもう表現され尽くしている。あのワンカットだけで実はもうこの世の終わりを描いてしまっているのだ。

墜落シーンの特撮は今見ても悪くないです。56年のエドワード・ドミトリク監督の『山』とかの墜落シーンとかに比べてもまあ、そう遜色はないんじゃないんでしょうか。実物大の飛行機を用意していてなかなかお金かけてるな、なんて思ってましたが、そこに予算を全振りした以外はチープです。舞台にお金をかけた一点豪華主義の潔さ!

しかし、チープなわりに全編に異様な雰囲気が漂っています。特に人間がUFOへと誘蛾灯に惹かれるがごとくふらふらと近づいていくシーン、その合成は上手くいっていないにもかかわらず、非常に印象深い気味の悪さを醸し出しています。人間の額がぱっくり割れ、なかにアメーバ状の生物が入りこんでいくシーンの強烈さも、リアルとは違うしかし拭い難いインパクトをぶちまけています。

特撮のチープさ、それがはからずしも世界の歪みの効果として、観客の不安をあおっていきます。画面を嘘くさくしていることが世界そのものが嘘くさいモノへと変質している、世界が異質なものへとすり替わっているような不安と結びついていて、実は“特撮”は恐怖と相性がいい。それがいつしか“怪獣”の特権のようなものへとなっていったのはエンジンの片方が無くなったようなものなんじゃないだろうか。

まあ、それはさておき、閑話休題

本作の話は密室恐怖劇という感じで閉ざされた場所でバケモノが襲ってくるというシンプルなものなんですが、バケモノの怖さとそのバケモノに襲われた人々はどう反応するのか、という恐怖映画の基本がきっちりしているので面白く観れます。

 マタンゴと並ぶ、恐怖が人間性を抉り出していく過程がねちっこく描かれ、そこが映画をしっかりと支えています。恐怖映画におけるモンスターとは畢竟、それにさらされた人間たちの人間性を抉り出すための触媒であるということを理解している映画こそが面白い映画となりうるのであり、この映画もまた面白い映画なのです。

 世界はいつの間にか終わっている。まっかな空の色がそのことを明らかにするラストシーンは、映画史に残る風景であり、観た人の恐怖の原風景になることは間違いありません。

『屍人荘の殺人』の快進撃を見つつ、ほんとすごい新人が現れたなあ、と。本格ミステリ30周年にして斯界に力のある新人が現れたこのインパクトは、綾辻行人を思わせるものがあり、作品のもたらしたその手があったか、の衝撃も氏を重ね合わせるところがある。そしてさらにロジックもトリックもド直球の本格ミステリのテイストで、それがここまで多くの読者を獲得しているという事実は何よりも素晴らしいことだ。

屍人荘の素晴らしいところは分かりやすい、もしくは共有したくなる“驚愕の真相”という飛び道具的な仕掛けがメインではなくフックであるところだ。それ自体はコロンブスの卵ではあるが特に瞠目するようなネタではない。しかし、それをもって本格ミステリのロジックとトリックを成立させ、何より面白い物語として過不足なく語り切ったことにある。

本格ミステリというものが分かる人間たちのものではなく、そのクオリティを保ったままでも多くの人を読者にすることができる。面白がらせることができる。それを新たに示してみせた、それが私には何よりうれしいのだと思う。

あと、かなりどうでもいいが第27回鮎川哲也賞には私も初めて書いた作品を応募していて、まあ、最終選考に残れなかったので、大したことはないのだが、すぐ近くに名前が載っていたのはちょっといい記念になった。と同時に少し奮起するというか、面白い探偵小説が書きたい、という思いが沸いてきた(実は最終に残れなかったのは結構ショックだった……選評、欲しかった……)

頑張ろう。

わくせいだいせんそう

スターウォーズ 最後のジェダイ』である。なんかスルーしようかと思っていたら、町山さんの大絶賛でどうしよっかなあ~、な気分になったのもつかの間、先に観に行った連中の感想がいずれも低評価でまたも迷う。さらになんだか肯定、否定が革新派、保守派という単純極まりない二元的言語空間が形成されつつあり、それに観る前から萎え萎え。

僕が作品について“既成概念を破る”とか“進歩”とかいう言葉で絶対的な良きものとしての装飾が行われている事態に警戒感が強いのは、かつて新本格――本格ミステリー(もしくは探偵小説)がそういう言葉によって否定されてきた歴史を見てきたからで、それはただの進歩というポジションでふんぞり返りたいだけの、他を低めることで褒めそやしたいものを上げているだけの行為だった場合が多分にあったわけで、進歩や革新といった言葉が過剰に前に出過ぎている今回の新作に食指が動かなくなっているわけですよ。

観てないし、今回のことがそうであるかどうかは言えないことは確かだ。だけど、肯定する側が、革新、進歩を受け入れる側、みたいなポジションを取りたがる姿や、なぜ物語の外側の話をしたがるのか、そこが気になってしまう。否定するものは変革を受け入れない者、というレッテル張りに移行しているようだし、そういう選別が焦点になる作品って、ちゃんと物語の力は、構造の力は宿ってるのかな。疑いは濃くなる。

まあ、そんなことをグダグダいう前に観に行けよって話ではあるのだが……なんか気が進まない。

『誰も語らなかったジブリを語ろう』を読む。押井守ジブリ作品を忌憚なく語っているわけですが、主に宮崎駿、ついでに高畑勲にその他(宮崎吾郎米林宏昌等)への彼らしい遠慮のない作品評ももちろん面白いんですが、他者の作品を論じる中、押井監督自身の監督論、創作論が語られ、一粒で二度おいしい本となっています。他者の中で己を語らずにはいられない、そういう押井らしさ(?)が実は一番楽しかったり。

押井監督はティテールで映画は成立しない、宮崎駿監督のような溢れるディテールを野放図に描きたいだけ盛り込むのではなく、ディレクションに必要なのは引き算であり、何がいるのかいらないのかを厳密に精査する能力こそが監督に必要なものなのだと執拗に説く。それが出来ないがゆえに宮崎駿は監督として二流、三流なのだと。さらに客観性がカケラもなく、脚本の才能はゼロ、と。脚本については 結末をはっきり決めてスタートしない点も押井監督は批判しています。だから彼の映画は最後があやふやであり、ストーリーを観た後にすじだてて説明できないと指摘します。しかし、ディテールが並外れてすごいために、あのシーンはすごかった、という形で語られやすいのだと。

映画は思いを“熱く”語るツールではなく、構造的なものとしてあるべきだ、それこそが本質だ、と押井監督は言い続けます。監督の力は映画に芯を与え、構造を作り出すことだと。

まあ、僕もいわゆる“ライブ感”みたいな創作論は胡散臭い眼で見てるんですが、ただ、押井監督の指摘に賛同しつつも、映画というか作品の“語られ方”って、結局はディテールに集中してしまうんじゃないのかしら。結局はあのシーン、あのキャラクター、という視点からなかなか僕らは抜け出せない部分がある。それは押井監督の作品ですらそうではないだろうか。ラストシーンから逆算してキッチリすべてをそこに落とし込んだとしても、あのラストシーン良かったね、というふうに語られてしまう。だからこそ、構造を志向する押井作品がなかなか理解されないということなんだろうけど。

僕がよく読むミステリにしてもそうだ。ミステリは結末を決め、そこから人物配置や手掛かりを逆算していく。それはひとえに結末を強烈に、鮮烈にするためだ。しかし、そえれゆえミステリは、こんな話だったね、という物語ではなくトリック、ロジック、衝撃の真相、そいう言ったディテールにいちいち還元されたうえで語られてしまいやすいジャンルである。これこれのトリックが、ロジックが、隠れた構図が、キャラクター性が、すごいorいまいち、というふうに。

そこでプロットを、構造こそを重視すべきだ、という声が出てくるのだが、僕らはどちらかというとディテールに快楽を感じやすい。そういう風に作品の受け取り方を形作られているわけで、げんに押井監督の作品は宮崎監督の作品の前ではちと分が悪い。(いや、僕は同じくらい大好きなんだけど)

まあ、小説の場合は、キングや宮部みゆきといった、ディテールよりも「物語」を強烈に感じさせてくれる作家だっているわけだし、映画についてだって全部が全部そうであるわけではないとは思う。ただ、そういう語りやすさに人は陥りやすい。そこには沢山の人との共感のしやすさや共有感という面も潜んでいると思うのだが、とりあえず眼につく印象的なものたちから一歩引いてみて、この作品はどんな物語だったんだろう、というふうにじっと考えてみる、そういう形の振り返りっていうのは、作品を感じ取るうえで、もっとやるべきものなのかもしれない。

しかし、宮崎監督のエプロン姿を「――職人のつもりらしく、自分でかなり気に入ってるみたいだけど、僕から見たらレザーフェイスだからね(笑)」というのはめちゃくちゃ笑った。なんだかんだである意味しっくりくる気がしないでもない。アニメ界のレザーフェイス宮崎駿。つよすぎる……。

誰かのために物語るということ:KUBO/クボ 二本の弦の秘密

 『コララインとボタンの魔女』で知られるLAIKA制作のストップモーションアニメ。とにかく、その緻密で滑らかなアニメーションがすごすぎです。コララインからめちゃくちゃ進化しててとてもコマ撮りで人形を動かしているようには見えません。映し出される世界も壮大で、特に引きのショットがすごいのなんの。冒頭の大波が割れるところもすごいし、クボから、彼が住んでいる岩山へとワンカットでグーとカメラが引いていくカットなんかどうやって撮ってるんだろうというような驚きに満ちています。この時代、どんな映像を観てもすぐCGが頭に浮かんでしまいがちで、もちろんこの作品もグリーンバックの合成なんかは使われているのですが、それでもどうやってこの映像撮ったんだろう、という興味が強烈に沸く。船での戦いのシーンやクボが三味線で折り紙を操るところなんて、そこだけのために映画館へ行ってもいい。この映画はそれだけの映像の驚きを持っている。質感もすごくて、水の表現とか神がかってます。猿の毛並みとかほんとすごいよ。

 まあまず制作の工程がヤバいですからね。公式ホームページを見ると、全製作期間が94週と二年ちかく、一週間で3.31秒。クボの表情パターンだけで4,800万通りという聞いただけで気が遠くなりそうな数字で、いくら3D プリンターが発達したとはいえ、驚きを禁じえません。メイキングとか見ても、めちゃくちゃデティールすごいのでそれを見てるだけでも楽しめること間違いなしです。

 この映画は日本を舞台にしているわけですが、外国制作にありがちな奇妙な不思議の国感――中国やオリエントとの折衷みたいなエキゾチズム感はほとんどなく、僕たちの日本とは正確には違うかもしれませんが芯を外したものではありません。盆踊りや精霊流しを含めたお盆の光景は、(おそらくそのチョイスにもよるでしょうが)どこか懐かしくすらあり、スタッフの綿密な取材ぶりがうかがえて唸ります。

  さて、とはいえイカのCEOにして本作の監督であるトラヴィス・ナイトはこのような技術はあたりまえとしてストーリーが命、と述べているわけなのですが、そのストーリーはどうなのか。僕自身の感想を率直に述べるとすれば、構成と演出は巧い、がストーリーはもう少し何かが足りない……という気がしました。もちろん悪くはないし、ラストは涙を流しました。綿密に作られているし良作ではあると思いますが、ストリーラインが直線的過ぎ、起伏がもうちょい足りない。武具集めにもう少し機智やクボの技、仲間との連携で切り抜ける場面が欲しい。

 一番気になったのは、何故クボが狙われるのか、クボの祖父の狙いは何なのかいまいちはっきりしないということです。クボの片眼を抉った理由とかも強力な理由づけが薄いし、目的がはっきりしないため、クボが最終的に戦うバックボーンがぼやけてしまっているように感じました。最終的に家族というテーマに収まりはするんですが、敵である家族(まあ、親族ですが)にもう少し描写が欲しかった。

 とはいえ、伏線や演出がいいので、題にもある二本の弦の意味が明らかになる場面とか、きちっと心をゆさぶる場面を作り上げてくれています。

 でも、僕が涙を流したのは、たぶんこの話が死者と物語についての「物語」だったから、いやむしろ物語についての物語だったことに他ならない。

「物語る」とは何か

 この物語は、「物語る」ということに非常に意識的だ。クボは三味線を弾きつつ物語を語る。しかし、母親から伝えられたその物語は聞く人々を夢中にさせつついつも途中で終わる。クボは結末を母から教えられないまま旅に出ることで、母が語る父ハンゾーの物語を追体験しつつ、自分自身の物語の結末――そのピリオドの打ち方を探すことになる。

 一方で物語るとは語るだけでなく伝える、という側面があることが強調される。何を伝えるのか、そこで出てくるのが死者である。クボの村ではお盆の時期を迎えていて、人々は死者たちを墓で出迎え、そこで彼らの話をきき、精霊流しを行う。物語る、ということは死者の生きた証を伝えていくということ。クボもまた、死者たちの列に入った両親を物語る存在として生きていく。生きるということ、それは誰かのために物語るということだ。

 クボの敵となる祖父、そして伯母たちは不死の存在、己で完結することを願い、祖父は己自身の物語を滔々と語る。それにクボは言うのだ「それはあなたの物語じゃないか!」

 自分自身のためだけに物語はあるのではない、とここで製作者たちは明確に宣言するのだ。物語る者は誰かのために語らねばならない。それが語り継ぐ、ということなのだ。

 物語は誰かから受け取った物に自分自身を乗せ、そしてそれをまた誰かへと受け渡していく行為に他ならない。クボは戦いの最後でこれまで探してきた武具ではなく、両親から受け取った“弦”をかき鳴らすことで勝利する。武具を捜す、というこれまでの物語は父の物語だった。その母から受け取った父の物語を追体験し、自分自身をその物語に乗せ、そしてクボは死者たちを見送る。その姿は感動的で、僕は涙を流さずにはいられなかったのだ。

 最後にクボの祖父は記憶を失い、己の物語を失う。そこで、村の人々が新たな彼の物語を口々に語り始める。そこは記憶を上書きしているようで少し怖かったりするのだが、それは物語の怖い側面でありつつ、祝福でもある。彼のために人々は語り、彼は人々のなかへと還っていく。

 自分自身のためだけに物語を語る人間のそれはとても貧弱だ。「物語作家」を自称する人間はそれに自覚的でなくてはならない。誰かのために、受け取った物語を誰かに伝えてゆくために。

混沌ではなく混乱 いまさらなQ

今更なエヴァQ評。

事前にいとっきますが、僕はそもそもエヴァンゲリオンという作品にいい感情を持ってません。そういうわけで、内容としてはネガティブなものとなるので、そのつもりで。

まあ、僕のいいたいことはここのブログで言い尽くされているんで、盛大な蛇足、という感じなんですけどね。テレビ~旧劇場版については伊藤計劃エヴァ評で事足りる。

koeru.jp

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q。二十年以上前に一世を風靡したアニメ、その今更やってきた映画の三作目だ。

あらすじとかは省略する。一応劇場で見てからだいぶたった。当時覚えた真っ黒い負の感情はそれなりに消えたと思い、久しぶりにDVDで観たわけだ。

うん、微妙だね、コレ。スゲー微妙。というか退屈な映画だ。四回ぐらい一時停止してスマホいじったりしてしまうくらい普通に退屈な映画だった。

いやさ、まず前提的な問題として、抽象的な世界でキャラクターが抽象的なことをくっちゃべってる――そんなの面白いわけないじゃん。しかもみんながみんなだぜ。賢ぶるのもいい加減にしろよ。

まあ、今さらエヴァの抽象的で思わせぶりな会話なんて真面目に聞くつもりなんてないから軽くスルーするとしてさ、アニメーション的な快楽ほとんどないよね。冒頭からいつもの手管だ。

作戦手順の段取りセリフとガンガンなるストリングをアニメーションに重ねまくるいつものやつ。前二作はまがりなりにも物語を重ねていってそのピークとして持ってきたわけだけど、今回はそれしとけば君ら気持ちいいんでしょ、とばかりにそれだけやる。しかも冒頭の宇宙シーンに続けてヴンダー発進シーンと二回も。

同じような戦闘演出続けて二回もするんですよ。そんなの普通に考えて面白くなるわけないじゃないですか。だいたい監督二度目のヤマトごっこのヴンダー発進シーンだけどさ、ネタ元のヤマトや一回目のオマージュであるナディアのネオノーチラス号発進シーンだってそのシーンに至る前提があるわけじゃないですか。敵の強さ、切迫した状況、それらをきっちり積み上げなければ、アクションシーンは光らない。しかし、見事に何もない。

そんなの分かってないはずがないと思うのですが、なんかもう自分が気持ちいいとこだけやる。別に段取り省いたってヤマトだナディアだとファンが騒いでくれるだろうってとこなんでしょうか。だとしたらひどく怠惰な演出だし、客に甘えるのもいい加減にしろと言いたくはなります。ていうか、その時点でもう内輪向きですよそれ。

あと、とにかく使徒に魅力が皆無。こいつらに何か面白いギミックやインパクトのある姿があるとまだましだったと思うんですが、そろいもそろってアルミサエル以下。敵の能力や姿さえも抽象的ってもうなにをかいわんやですよ。

ラストの戦いも何だかこれといったインパクトはないし、二人ならできるよって、何ができるんだ? みたいな。描写不足もいいとこで、ダブルエントリーとやらも効果的な演出や物語性を引き出せていません。使い捨てギミックって感じでなんかもったいな。

 で、ストーリーはどうかというと、いろいろチグハグ極まりないが、とにかく次の最後のために落とせるだけ落としとこうということなんでしょうか。というか、それが目的化しておかしなことになっている。話が一方的にお前のせいだ、というふうにシンジを追い詰めてるだけで、観客が納得するだけの理屈を持てていません。肝心なとこがあやふやで、シンジが取り戻したいものが何なのかすらよく分からなくなっている。だいたい槍を抜けば世界は修復されるとかふわっとしすぎだろ。ちょっとは疑えよ。

そういえば、シンジがショックで頭グラグラするシーンは演出に工夫がなさすぎでヤバいです。ああ、いつものやつ(の劣化版)ね、くらいにしか思えないんですよ。ほんとそこはヤバかった。

そもそも抽象表現にメリハリがないんです。テレビシリーズでは、いわゆる精神世界はシンジがエヴァの中にいる時に展開されるという前提があって、そこで舞台劇的な演出が繰り広げられる、という境界線がきっちり引かれていました。しかし、この映画の中では、そこのメリハリが崩壊してて、ゲンドウを前にしたシンジの横で誰が操作してるのか分からないスポットライトがカチカチレイやカヲルを照らしたりする演劇演出なんかが平気でなされるし、そもそもが書割じみた背景ばっかりで、画面全体が抽象世界でしかない。そんなんだから世界が崩壊したとかいう話も抽象的過ぎて嘘臭さしか感じないんですよ。夢かこりゃ。

「混沌からモノは生まれるが混乱からは、何も生じない」という言葉にのっとるならば、この作品は混乱でしかない。作ってる側のやむにやまれぬカオスではなく、途方に暮れた混乱にしか僕には思えなかったし、監督しか、もしくは監督すら知らない作品世界にスタッフがついていきかねてるんじゃないかとすら思えた。

 あとさ、日本を代表する作画のスーパースターが集められているにもかかわらず、絵的な楽しさ、快楽が薄いってのもヤバい。ハッとするようなデザインや美術、シーンや動き、ほとんどないじゃないですか。書くものがないのかオブジェが少なすぎて画面がのっぺりしてて、それがまたこの作品の貧弱さに拍車をかけてるし。それがあえての演出? 冗談言うなよ、だとしたらつまんないだけじゃん。何描くか、ビジョンをきちんとみんなで共有できてるのか? そういう疑念しかわかない。

とにかく作品そのものの 行き詰まり感がすごくて、前二作を繰りかえすような演出が頻出するんですが、土台にしてるんじゃなくて、ネタとして消費して縮小再生産してるようにしかみえません。そもそも序も破も内容的には貧弱じゃないですか。まあ、いってみればまだ芽みたいなもんで、それをきちんと育てるべきところで逆に引っこ抜いてネタにしてる。どんだけ行き詰ってるんでしょうか。

キャラクターについては、一応注目していたマリ、見事にエヴァキャラになりました。オメデトー。そしてさようなら。エヴァキャラじゃないからキャラ立ちそうだったやつがエヴァキャラになってどうする。

〈勝手もいいですけど、エヴァにだけは乗らんといてくださいよ! ほんまかんべんしてほしいわ……〉

このセリフだけはなんかしみじみ共感しました。シンジ君にじゃなくて監督に向けてですが。ほんと、勘弁してほしいです。

その昔、旧劇場版を観た時、中学生の私が感じた感想が、「監督、たいへんそうだなあ」だったわけですが、Qを観た時もそう感じたんですよ。その瞬間、何でオレはいつまでもこの人に大変だなあ、と思わなきゃいけないわけ? と思って、すべてがすーっと覚めていったのが今でも思いだされますね。

いやまったく、勘弁してほしいです。