蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

映画『ChaO』(2025)

あらすじ

 船舶会社に勤める平凡な会社員、ステファンはある夢を抱きながらも、それを実現する機会を持てないまま、社長にどやされながら意にそわない仕事をこなしていた。そんなある日、急に人魚の姫だという魚、チャオから求婚されてしまう。突然のことに戸惑い、魚に求婚されてもな……という思いを隠せないステファン。しかし、世間はこれを「人間と人魚、両族の友好関係を樹立する」として大注目。社長も人魚の王とのコネクションができることに喜び、ステファンに求婚を承諾するよう迫る。周囲の圧に負ける形で、ステファンはチャオとの結婚生活をスタートさせることになるのだが……

 

感想

 STUDIO 4℃製作のオリジナルアニメ。この夏、『鬼滅の刃』が劇場を席巻する中、公開されたこの映画は、公開後早くも多くの映画館で興行回数の縮小や打ち切りという憂き目にあい、いわゆる”大コケ”映画として、別の意味で注目を集めることとなっている。まあ、この映画、昨今のあらゆる創作物が「大衆にウケる」ことを金科玉条として血眼になっている中で、そういうマーケティング的な視点から(特に日本での)全力で背をそむけている感じで、ある意味、当然の結果といえなくもない。とはいえ、映画としては、そのアニメーションについて評価する声は多いし、 アヌシー国際アニメーション映画祭 審査員賞を受賞している。

 監督は青木康浩。ベテランアニメーターで、この作品がおそらく初の長編映画監督。キャストはメインの二人を含め、ほとんどが俳優で職業声優を使っていないし、キャラクターデザインも目をかなり小さく、しかしリアル風というわけでもなくで、アニメ『ピンポン』や『鉄コン筋クリート』など、ない系統というわけではないが、国内アニメの平均からも離れたそれは、ビジュアル面でのフックはあまり見込めないようなデザインだ。ディズニーとかの洋画アニメだって、ぱっと見そのキャラクターたちをずっと見てたいと思うようなデザインしてるじゃないの、と言いたくなるが、まあ、観てると結局は慣れる。ただ、このアニメ、作中のキャラクター内でもデザインのバラツキというか、あたまが異様に大きい三頭身キャラとか、首がない風船みたいな人間とか、その辺の統一感のなさも序盤は慣れない要素になっている(まあ、アニメなんだから、なんでもいいだろ、という意識でこれも観てれば慣れる――いってみればキャラデザなんて所詮は慣れでしかない)。

 まあ、そんなこんなでアニメファンに好まれそうな要素から背を向けているのだが、じゃあ、背を向けた先にそれを理解する”大衆”が待っているかというと、そんなことはなく、所詮「アニメ好き」の好みなんて”大衆”とそう変わりはせんわけで。そんな”大衆”がアニメーションのみの評価で観てくれるかというと、まあ、かなり厳しいんだろうなあ……という結果になっている。ただ、こういう作品もちゃんと存在している、というのは良いことだとは思うし、「豊かさ」というのはなんか嫌な言葉だが、なじみのない世界を覗き込める機会あるのは悪くはない。そう思いたい。

 で、そのアニメーションについてだが、確かに素晴らしく、総作画枚数10万枚以上という話にたがわないパワーがあり、特に終盤の海での戦い(?)では、ものすごい水の表現によるスペクタクルが味わえるし、中盤のチャオが水しぶきとともに踊るところとかも素晴らしい動きをしている。他にもカーチェイスもあるし、ロボット(!)も出てくる。日本の作画アニメーションを堪能したいという意味でなら、鬼滅の刃もいいだろうけど、せっかく同時期に同じように粋を凝らしたアニメーション作品があるので、興味がある人は観てみるといいと思う。

 そうはいいつつ、まあ、なんというかSTUDIO 4℃のアニメにありがちな、プロが観たらすごいんだろうけど、素人が素直にこの動きカッコイイ、とか気持ちいい、みたいなアニメーションの快楽に浸れるのか……というと個人的には何とも言えないところはある。そして、ストーリー面にもやや難があり、分りにくいというわけではないが、どうしてチャオが魚形態から人魚形態に移行するのか――心を許すと人魚形態になるらしいのだが、その心を許している瞬間みたいなのがあんまり伝わりにくいというか、押しかけ女房的に来られたステファンの、当初の、魚じゃん! みたいな反応からチャオを受け入れていく展開はちょっと弱いかも。まあ、結局は破局を経て、ステファンが過去を思い出すことで、本当の意味でチャオを受け入れるのだが、そこもまあ、チャオはそれでいいのか……? みたいな気はしてしまう。てか、そもそも幼いステファンはチャオの姿をちゃんと見てたっけ? その時は恋心みたいな感じはしないし、チャオのそれは刷り込みなのでは……? という気がしなくもない。

 それから、この世界には人魚と人間がいて、ステファンがそのさらなる共存の道を開いたみたいにされているのだが、観終わってそういう役割を果たしたようにあんま思えないのもどうかと思う。映画での出来事が終わってからほとんど世間から離れていたみたいだし、そんな世界が一変するような影響力あったのか……?

 まあ、それはともかく、物語冒頭で登場する記者が、その世界を変えたとされるステファンを見つけて過去の顛末を聞き、時おり現在の記者とステファンの場面が挟まるというカットバック手法で、最後二人ははどうなったの――という形で気を持たせる構成は悪くない感じだった。

 あと、物語の端々にあるキャラクター描写について、今現在の「アップデート」されたらしい価値観からすると、減点対象として扱う人間が出てきそうな要素がないとはいえず、その辺も「ウケ」ない要素になってきそうではある。個人的には最近、そういう「正しい」表現によって、私たちが考えるノイズを取り除けばより大きな支持を得るでしょう、みたいな物言いに対して、他者の表現に対するものすごい傲慢さを感じることも多く、半分はどうでもいい感じがしたが、ただ、幼い時からのすり込みみたいなものじゃなくて、もう少し、チャオの気持ちの面での描写を多面的に描いてほしかったかな、という思いはある。

 それから最後に、どうしても魚人⇔人魚なヒロインとか、主人公大好き! みたいな感じで押しかけてくるところとか、あの『ポニョ』を想起せざるを得ないのだが、正直、映画としてなんか狂ったパワーが幼児映画の体裁で叩きつけられていたアレと比べると、何とも穏当な印象を個人的には抱かざるを得なかった。水の表現も波乗りポニョ走りとか、幼児を乗せて爆走する車を追いかける異様な生き物めいた水塊とか、水没する町とその海の中の古代魚たちetc……と表現の幅みたいなのもだいぶあの映画スゴくなかった? みたいな感じでどうしても引き比べてしまって、ポニョの方をやたらと思い出してしまうのだった。

 最後の最後、凄くどうでもいい(わけじゃない)のだが、ステファンがスクリューにトラウマを植え付けられる場面、なんでスクリュー付近で作業するときにエンジン切らなかったの? トラウマ与えるための段取りエピソードに見えるんだけど。もしかしたら見落とした理由とかあったのかもしれないが。

それは一つの風景:映画『秒速五センチメートル』

秒速5センチメートル

 

 なんか久しぶりに観ようかな、と思い立って観たので感想を書いた。

 『秒速五センチメートル』といえば、今は宮崎駿に続く「国民的」なアニメ作家としての地位を確立しつつある新海誠による第三作。全体が三つの章立てになっていて、「桜花抄」、「コスモナウト」、「秒速5センチメートル」とそれぞれが短編的に展開されつつの連作構成を成す。

 私は監督の第一作『ほしのこえ』の衝撃を、衝撃として受けたリアルタイムな世代ではなかったが、この作品は新海誠と言えば、という作品として長らく認識していたし、アニメ好きの間でも新海誠を唯一無二のアニメ作家とする、そのメルクマールとして扱われていたのは間違いない。『君の名は。』が公開される前は、新海誠といえばこの作品だったし、たぶん今でも彼の最高傑作として挙げる人は少なくないだろう。ただ、最高傑作と推す人たちの一部はこの作品に新海誠の作家性が色濃く反映され、商業的な大衆性を獲得する以前の、純粋な作家性がむき出しになっている、みたいなことを言うが、まあ、それは単に作家性を矮小化し、「それが理解できる私」という狭隘なな占有欲でしかないだろうなと思う。

 それはともかく、『ほしのこえ』から現れていたか監督の特質を一つのピークにまで高め、いま観ても色あせない魅力を放っている作品なのは間違いない。

 そして、この作品は新海監督が”風景”の作家であるということを明確に刻印するものとなっている。この作品のメインは人物たちというよりも、無人の風景と人物たちがオブジェのように存在する風景に他ならない。正直この映画、アップで映る人物たちの絵にはそれほど魅力はない。まあまあきれいな人形みたいな感じで、人物だけでは到底映画を支えられていないし、彼らは表情も乏しい(第二章コスモナウトにおける澄田花苗はある程度例外だが)。キャラクターの分りやすい喜怒哀楽や動きで物語を語るようなタイプというよりは、登場人物の感情を風景とモノローグでとらえようとするタイプなのだ。だからこそ、それはミュージックビデオ的な演出に行き、ラストの「One more time one more chance」は今でも秒速と言えばこれ、と語り草になるくらいの印象深い映像と音楽、そして歌詞が一体化したシーンであり、その後の新海作品と言えばの要素の一つを確立したと言っていいだろう。

 それはともかく、個人的にはやっぱ一番最初の「桜花抄」の映像がすごくイイ。会いに行けるんだろうか、という不安と孤独が電車の車内や構内、そして吹雪によって描かれ、ちっぽけな子供にすぎない自分と茫漠な世界への畏れのような思春期の感覚をこれほど鮮烈に描いた映像があっただろうか。しかし、まあ、こういう経験をしちゃうとある意味”呪縛”されてしまうのはしょうがない気はする。彼女、というよりも彼女との強烈な思い出に主人公は「運命」を見出してしまうのだ。「コスモナウト」の冒頭、妙にファンタジックで全体から浮きまくったシーンがあるのだが、そこですでに彼女と主人公がファンタジックな「運命」の象徴と化している、ということなのだろう。

「コスモナウト」は主人公に恋心を抱く女の子視点で描かれ、作品中では人物の感情の揺れを表情で追っているシーンが多い一編で、風景の力は前と後には一歩譲る感はあるけど、サーフィンのシーンとか良いし、種子島を舞台にしていて、ロケットが道路を輸送されていくシーンは非日常感があって、スゲー好き。ああいう、夜とかに重機に遭遇する感覚はなんか好きなんよね。

 そして最後の「秒速センチメートル」もとい「One more time one more chance」のPV。なんというか、個人的にはこのラストについてはある種の爽快感みたいなのがあって、ずっととらわれていたものに、ある種の踏ん切りがつく――その瞬間、新しい始まりが訪れたようでもあり、それは後続の『君の名は。』でテーマ的に雪辱を晴らされるものとかではなくて、同じような清々しさがあるんじゃないかと、そんな風に思うのでした。しかし、表情で終わった『君の名は。』とは違い、最後まで人物を「風景」として描き、かつてあった鮮烈なものの、その終わりの風景は、この作品独自の魅力として観るものに残り続けるのだと思います。

 それにしても今回観なおして、やっぱ凄い作品だわ、という気分になりましたね。いまでも映像に見入る感じで、その光の質感が映し出す風景は唯一無二なものがあるな、と。そういえば、なんか実写映画化するらしいのだけど、実写になるとやはり人間にフォーカスするだろうし、人間の表情の演技主体になったりすると、それはもう「風景」の映画としての魅力ではない方向に行きそうだけど、どうなんでしょうかね。まあ、そこまで実写には興味はないんだけど。

立ち上がる光:『スーパーマン』

 観た時から、だいぶ時間が経ってしまい、なんだか記憶も薄れてて今さらな感じがしてしまうが、とりあえず感想を残しておこうという気分で押し通したものとなっている。

 

 スーパーマンか……という気分ではあった。

 スーパーマンといえば、アメリカのコミック史における最古のヒーローであり、そしてヒーロー映画としても、1978年に公開された『スーパーマン』は今に至たる世界中を席巻したハリウッド産ヒーロー映画の先陣を切るようにヒット。まさに記念碑的な存在として人々の記憶に残っている。

 そしてクリストファー・リーヴという、スーパーマンとして理想的ともいえる俳優を得て4作を数えたシリーズだったが、このアメリカを象徴するヒーローの映画は、それ以降、最初の作品が持ち得ていたとされるある種の牧歌さ、明朗さ――それは、古き良き「アメリカ」の似姿として求めらるもの—―と時代との長い長いすれ違いの歴史というような期間をたどっていく。

 勃興するリアル志向のヒーロー映画の波を受け、深刻さを導入し、スーパーマンが同族を自らの手で殺すという『マン・オブ・スティール』でそのすれ違いは頂点に達したように思える(映画としての出来はともかく)。そして、以降はMCUのように、ヒーロー纏め売り映画の中の顔として収まるような形が続いたが、監督をマーベルの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でヒットを飛ばしたジェームズ・ガンを迎え、タイトルも、副題もなくストレートに『スーパーマン』と銘打ったそれが今年、人々の目の前に現れた。しかし、私は実のところ冒頭のような気分でそれを迎えていた。

 そもそも個人的にマーベル系のヒーローものを筆頭に、スーパーヒーローの映画ってそこまで好きじゃないし、ヒーロー映画の傑作といえば、バートンのバットマン2作、ノーランの『ダークナイト』あと、マンゴールドの『ローガン』くらいじゃないの? みたいな感じだ。それに今ヒーローものってどんな顔して観ればいいんだよ、みたいな気分だったりするのだ。しかもアメリカ製の。

 「ヒーロー」をある意味商品として他国にバンバン売ってた国の体たらく(まあ、今に始まったことじゃないが)が極まりきったような現在の状況で、もはや胡散臭さ満載の「ヒーローの映画」を観る意味ってあるんかいな……そういう思いがあった。

 だが、だからこそ、公開初日に観に行ったのだ。今更ヒーロー映画が何を語る? 何を語れる? しかもスーパーマンといういささか時代遅れに思える存在で。

 一方、そういうのとは別に、ジェームズ・ガンだから、というのもちょっとあった。彼は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が有名だろうけど、ああいうポップで楽しい作品を撮る一方で、私がヒーロー映画の極北と推したいイタくてグログロの『スーパー!』を撮った監督でもある。そして、『ブライトバーン』なんていう、幼少期のスーパーマンが力と性に溺れて人間たちを挽肉にする悪趣味な映画の製作にも携わっていて、最近でも『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』においてその悪趣味ぶりは健在だった。そもそも、 「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」も「スーサイド・スクワッド」も元ネタは全然知名度(ハーレイはともかく)ないキャラクターたちで、そんな、どことなくヒーロー物の裏街道を走ってきたような監督が、ヒーローの中のヒーローをどう描くのか、そんな興味も少しあったのだ。

 で、観てきてどうだったかというと、これほどの明朗さ、善良さを体現したヒーロー映画は久しぶりだったと思う。まさに、光のような――眩いというわけではないが、確かにそこにある光――そんな印象を観るものに刻む映画になっていたように思える。たぶん、リアル志向とはまた別の、ヒーロー映画の新しいステージを告げるものになっていたのではないか、そんな感慨をもって映画館を出たのだった。

 

 この映画は、スーパーマンの敗北から始まる。それはすぐに立ち直りはするのだが、この冒頭のシーンを筆頭に、スーパーマンは何度も大地に叩きのめされる。闘いはもちろん、中盤で敵に投降した時もわざわざ顔面を叩きつけられて拘束されるし、怪獣に踏まれたりがれきの下敷きになったり、果てはクリプトナイト(スーパーマンの弱点とされる物質)で床に転がり死にかける(これは毎度のことではあるが)。

 そして、そのたびに彼は立ち上がる。この映画は、そんなスーパーマンの再起を軸にした物語だ。

 また、スーパーマンという存在をこの映画ははっきりと”移民”として描く。監督もインタビューで彼をそう描いたと答えている。そもそもスーパーマンは大多数のヒーローが人間かその亜種――超能力を持ったメタ・ヒューマンに分類される中、異星から来たという異質な存在なのだ。そして、そんな彼を今回の敵であるレックス・ルーサーは吐き捨てるように言う、「なにがmanだ、人間じゃないじゃないか」と。

 この映画は政治的な要素を隠さない。相変わらず、娯楽作品に政治性を持ち込むなという、スカタンなことでこの作品を批判する人間がいるが、優れた娯楽作品は政治性と不可分だったりするのだ。そもそもどんな作品も自分たちが生きている”いま”、という時代の空気に根を張っているし、ヒーロー映画なんて彼らが救う人や社会を描かなくて何を描くというのか。

 今作のスーパーマンはボラビアという国に武力介入したとして、アメリカ国内では彼の行動の是非が問われていた。メディアは彼の行動を軽率な政治的行為と非難し、ネットでは彼のアンチがハッシュタグでボロクソ叩いている状況。中でも世界的なテック企業ルーサー・コープスのレックス・ルーサーはスーパーマンを危険視し、スーパーマンに替わる超人、ウルトラマンを筆頭に独自の武装組織を政府に売り込む。

 アメリカの「友好国」であるボラビアは、明らかにロシアとイスラエルをモデルにしてるし、その大統領はプーチンだったりトランプだったりネタニヤフだったりが頭をよぎる。スパーマンの代表的なヴィランの一人であるレックス・ルーサーは、これまでの天才科学者要素は薄く、逆に独善的な起業家の側面が強調され、ネットを使ってデマをばらまきスーパーマンを陥れるその姿は、容易にイーロン・マスクやそのシンパが思い浮かぶだろう。

 そんな風に2025年現在が色濃く反映されたこの物語で、スーパーマンは自分が信じる「正しさ」をひたすら実行しようとする。それは、命の危機にさらされた人々を救うということ。そして差別や争いをやめさせること。それはひどく単純で純粋な願いだ。

 ボラビアに武力介入を行い、軍事作戦を中止させたスーパーマンに恋人のロイスは言う、アメリカ政府に話を通すべきだったのではないか、いきなり他国の問題に介入することは軽率ではなかったか、と。そんな彼女にスーパーマンは怒りをあらわにして答えるのだ「いま、そこで市民が殺されかけていたんだ!」。

 スーパーマンは愚直に行動する。そこに命の危機にある人がいるならば、なぜ助けることをためらうのだ。彼は人だけでなく、リスやイヌといった小動物も無視しない。地球にいるすべての生きとし生けるものが、彼の救済対象なのだ。しかし、そんな”理想”は普通の人間には無理だ。助けたいと思ったから助けた――そんなスーパーマンの思いを、「政治」が疑義を呈する。そして、政治的手続きを経ない力を、権力者は危険視し、一方、人々はすべてを超越する力を持つ者をどこか畏怖している。

 それでもスーパーマンは再び立ち上がる。何度でも。ひたすら善きこと――人々を救うために。

 また、今回スーパーマン単独映画ではあるのだが、一応、他のヒーローも出てくる。ジャスティス・ギャングを名乗るグリーン・ランタン、ミスター・テリフィック、ホーク・ガールといったメタヒューマンたちだ。彼らはスーパーマンと違い、雇われて活動する超能力者であり、活動をアメリカ国内に限定していて、ボラビアなどについても「政治的な介入はしない」という政治的な姿勢を貫いている。彼らがスーパーマンの代わりとして自分たちの信条とは関係なしに人々を救うシーン—―人々に向けられる暴力に文字通り”中指を立てるシーン”は、この映画の一つのクライマックスを成していて、好いシーンの一つとなっている。

 そして、なにより個人的に一番印象深かったのが、スーパーマンが倒れるビルから逃げる女性の車を救うため、ビルを支える場面。無事ビルの下から抜けきって、土煙が上がる中、彼女が後ろをうかがうと、その中から現れるスーパーマンの姿。煙が払われ、見え始める太陽の光と重なるその姿に、思わずちょっとウルッときてしまったのだった。戦闘シーンとかじゃなくて、巨大な脅威から身を挺して誰かを守る姿、それがやはりスーパーマンの本質的な姿なのだ。そして、その眩いまでの善性に、人は希望を見る。このシーンのためにたぶんこの映画はある、そんな確信を持つ素晴らしい場面になっていたと思う。

 今までヒーローとその正義について、その価値観に挑戦するような作品を突きつけていたジェームズ・ガン。それは、本作でスーパーマンとロイスの趣味のやり取りで出てくる言葉――パンクと言っていいだろう。彼の創作姿勢は、既成の価値観に対する挑戦としてのパンクであったというならば、その”挑戦”が愚直なまでの善性――例えば、人を殺すな、とか、差別をするな、とか、そういった当たり前のこと――を訴えなくてはならなくなったことを世界の変化としてとらえる人もいそうだし、実際そういう評もある。

 ただ、私は世界へのカウンターとかじゃなくて、ある意味、凡庸ともいえる”きれいごと”にただ徹しているからこそ、素晴らしいのだ、と言いたい。そして、私はこの作品と同時に、日本のある特撮番組を思い出す。『仮面ライダークウガ』という作品だ。その中では、延々と暴力を行使することへの抵抗感、疑義を執拗に描いていた。「暴力はいけない」というそれこそ「凡庸なこと」を訴え続ける。そんなこときれいごとじゃないか、ということを観ていたガキの私やついには劇中でも言われて、主人公の五代雄介は言うのだ「そうだよ。だからこそ、現実にしたいんじゃない。本当は綺麗事が一番いいんだもん――」

 「凡庸」であればあるほど、それは”きれいごと”と言われてきた。差別反対や戦争反対という言葉にたいして「きれいごといってんじゃねーよ、現実を見ろ」と口をへの字にする態度は、別に今になって始まったわけじゃない。それは、差別や戦争が存在した時からあったはずなのだ。そして”きれいごと”はいつだって、何か変わったことを言いたい、気の利いたことを言いたいとする欲望に負けた人間たちから叩きのめされてきたのだ。何度も何度も打ちのめされて、しかし、そういう「あたりまえのこと」を作品に込めてきた人々の存在――そのかすかな光を、私はこの作品にも見たと言いたいのだ。

 チャップリンが『独裁者』を撮ったところで世界は独裁者を警戒はできなかったし、この作品が具体的な影響を世界に与えることは特にないだろう。劇中のピタパンサンド売りの彼のように迫害され排除されるマイノリティは後を絶たないだろうし、スーパーマンの旗を掲げてヒーローを願うような少年たちも戦車にひき潰され、爆弾で四散し続けるだろう。ボラビアのような他者の土地を奪う国も奪い続けることをけしてやめようとはしない。人々も簡単にデマに騙され続け、愚かさをむしろ誇るようにして悪気もなく差別し続けるだろう。

 ただ、どんな時も「あたりまえのこと」を訴える人が、人々がいたというと、そしてそれを受け取った人たちがいたであろうこと。その反復が、その何度でも立ち上がる光が、きっと意味があるものになるはずなのだ。

気持ち悪さの輪郭:映画『アングスト/不安』

アングスト/不安

(スチル写真怖いよ……)

 

 例によってというか、元ツイッタのフォロワー青さんのブログで見かけて、なんかヨーロッパで上映禁止になった曰くつきの作品という紹介と、映像がカッコいいという評に惹かれて観ました。青さん、とりあえず映画との出会いをありがとう……食ってたパン戻しそうになったけど……。

 公式サイトによると、公開された1983年当時、本国のオーストリアでは嘔吐するものや返金を求める観客が続出し、1週間で上映打ち切り、他のヨーロッパ全土では上映禁止、イギリスやドイツではビデオ発売も禁止された。アメリカではXXX指定を受けた配給会社が逃げたとのこと。監督であるジェラルド・カーグルはこれが唯一の監督作となった。なお、殺人鬼の心理を探るという崇高な野心のもと全額自費で製作、監督は全財産を失ったとある。

 そんな壮絶な経歴を持つ映画をなんかよさそ~という気軽な気持ちで観るものではない。観終わった後、そんな軽薄な気持ちは霧散し、吐き気とともにひたすら感じたことは、この犯人、気持ち悪すぎる……ということだった。

 てか、なんかこの映画、メインの殺人犯を頂点にして、人間がみんなキモチワルイ感じがして仕方なかった。最近の映画だと、黒沢清の『Cloud』が人間キモ、という印象が強かったが、あれよりももっとジットリしてるし、より映し出される人間のイヤさがすごい。特にアップになったときの人間の気持ち悪さというか、犯人はもちろんなのだが、犯人が入ったコーヒーショップにいる若い女性二人や新聞を読んでいる老人、店員の老女もアップになった時、どことなくあまりいい感じはせず、落ち着きのない緊張感を喚起させる異様な存在に見える。そして、なにより、この犯人に殺害される被害者の初登場シーン、なんかジャンプスケアみたく登場する被害者のアップが、はっきり気持ち悪く映し出されて、被害者も同情すべき存在というよりは、なんか異様な物体のように見えだす。そして彼らが死体に変わるシーンがまたなんかイヤというか、生きた人間が肉の塊と化す異様な質感が本当に気持ち悪い。

 とはいえ、なによりやはり犯人がクソキモ過ぎる。娘を殺した時の、血を啜り半ば死姦するように体をむさぼる感じとか、死んだ母親の体を運ぶ時のエクスタシーでビクビクわななく感じとか。絶対パンツに漏らしてるよ、というような気持ち悪さがすさまじいのだ。しかし、それでいてこの犯人、やることなすことしょっぱいというか、やたらとモノローグで御託を並べて綿密な計画がどうたらとか、獲物には恐怖を与える云々とか言ってるわりには、全然行動が行き当たりばったりで、家に侵入するときのガラスを割る時の締まらなさとかもそうなのだが、さんざん殺す云々独り言いっときながら、いざ家人と遭遇した時は突きとばして脱兎の勢いで逃げようとし、入り口のガラス戸に思い切りぶつかって外に出れなくなったから、今度は家の人間たちを縛り上げようとするわけのわからなさ。その辺は、ある意味コントじみて笑いを誘うような感じすらあるが、この、犯人のしょーもなさ、しょっぱさの果てに、一家惨殺の大惨事が口を開いているわけなので、そういうの含めてひたすら気味が悪いし、なにより怖い。

 なんだかやたら気持ち悪い気持ち悪いというばっかりな感想になってしまったが、映像自体は確かに印象的なカメラワークや音楽の使い方がふんだんにあり、そういう意味での見どころもある。犯人の刑務所を俯瞰でとらえながらどんどんカメラを下ろして対象である犯人の男にたどり着く冒頭から惹きつけるものがある。独房を出て、釈放される時の後ろからあおり気味で捉えられる歩きのショットとかも、なんか地味にカッコよさがあったりする。それから、特に所々挿入される、犯人を俯瞰でとらえるカメラは、この映画の特徴ともいえるものとなっているのは間違いない。基本は手持ちカメラみたいな近さから、ところどころで段々と極端なロングの俯瞰に移行し、まるで観察するかのように彼を捉える。

 主観的/客観的映像を巧みに交えながら、描かれる犯人の身勝手さ、不可解さ、そして気味悪さ。その輪郭を存分にとらえた映画、それがこの作品の真骨頂と言えるだろう。全編、暗くて寒々とした画面もまた作品の中の陰惨さを際立出せていて、タイトル通りの「不安」が充満した画面となっている。

 正直、もう一回観たいかと言われると躊躇するが、それでも妙な魅力というか印象が残り続ける映画なのは確かだった。

なかなか挑戦的で異色な作品:アガサ・クリスティー『三幕の殺人』

三幕の殺人 (クリスティー文庫)

 

あらすじ

 元俳優、チャールズ・カートライトのパーティーにて、招かれた牧師が急死する事件が起こる。その時は事件性はないものとされたが、その後、再び開かれた別のパーティーで今度は医師が死亡。同様の状況で起きたそれは毒殺と判断され、同時に牧師の死との関連が浮かび上がる。チャールズは演劇パトロンのサタースウェイト、そしてチャールズを慕う女性、エッグらとともに、事件の謎を追うことになるのだが……。

 事件の前に現れつつも、あくまで彼らの調査をアシストする側に回るポワロは最後に何を語るのか。

 

感想

 あらすじで書いたように、メインは事件関係者で素人探偵に乗り出す三人組であり、途中まではあれ、これポワロシリーズだよな? ってくらい、ポワロの影が薄い作品で、ポワロはあくまで素人探偵三人組の「助演」として事件を解決に導く体裁。とはいえ、最後にはやはりポワロのシリーズだな、という締めを見せてくれる。

 俳優や演劇パトロンに劇作家といった役職の人々をはじめ、作品を三幕構成としたり、どことなくそれっぽい筆致だったりと、演劇要素を意識した作品だ。

 そういえば、演劇要素と言えば個人的にエラリーのドルリー・レーンが思い浮かぶ。レーンの登場が1932年の『Xの悲劇』『Yの悲劇』で、本作は1934年発表と近い。あくまで探偵のキャラ付けくらいの要素しかなかったエラリーの作品に対して、探偵をより演劇的な形で扱おうとする試みは、先発への挑戦みたいなものがあったりするのかしらん、とちょっと妄想したりした。

 それはともかく、本作はポワロの扱いを含め、これまでと一味違うテイストの作品になっていることは間違いない。そして、これまで読んできた中だと、いちばん退屈な作品だったりする(読んでない『ビッグ4』を除いて、「スタイルズ荘」から本作までの中でというくくりだが)。

 なんというか、読んでていつものサスペンスフルな文章の妙というか、クリスティはクイーンと違って容疑者の話を聞きまわっているだけでも、人物間の意外な関係性、過去の出来事などをほどよい緊張感を纏わせて語らせるのが巧い作家だ。乱歩が中段のサスペンスといえば彼女を例にするような、たとえ事件の件数が一件でも、事件捜査を退屈させないその筆致は彼女の大きな強みでもある。しかし、本作はメインとなる三人の探偵行がほんとに退屈というか、それこそ素人らしくダラダラうろうろしながら聞きまわっているだけのような感じで、いつものキレはあんまりないと言わざるを得ない。

 とはいえ、最後の真相に至れば、そこはこれまでのクリスティの冴えというか、これまた彼女の犯人の隠し方ついての技巧、そのミスディレクトに上手くやられた、という感慨を持つことは事実。ただ、この最終的な真相によって、これまでの退屈さみたいなのが許せるか――美点と反転するかは正直微妙なところだと思うが。この「退屈さ」ゆえに、最後の最後にポワロにあたるスポットが、際立っていることは間違いないが、そうまでしなきゃいけない演出という気はあんまりしない。ただ、最後の何とも言えないセリフとともに、幕切れは良いので、そういう意味で終わり方は印象的ではある。

 また、この作品に充満する演劇という要素が、殺人の動機の一つを成り立たせていて、それが普通だと突飛な感じのものを、ミステリならではの動機に仕立て上げていて、その辺の、動機をミステリ的に作り上げるテクニックなんかも印象的だったりした。

 

※ここからは、真相に触れる部分について語るのでそのつもりで。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 犯人が探偵を演じ、そして最重要容疑者とされながら消えた執事も演じていたというメインのトリックは、チャールズが俳優という時点で気がついてしかるべきな真相だが、今回もやっぱり気がつかなかったという私。シリーズ探偵を差し置いて探偵をする人物が犯人という、それこそ手あかがついたようなトリックにまんまとはまったのは、彼らの捜査物語が退屈過ぎて、半ば真相とかどーでもよくなってきたから、というのがないわけじゃなかったというか(ヒドイ言い訳)……。

 それはともかく、全体で三件の殺人が起きるが、犯人の真の目的は第二の医者殺しで、残りは実は誰でもよかったというもので、第一は第二のためのリハーサルだったという「動機」はこの演劇的な要素で固めた本作ならではのものとなっていて、これが一番ミステリの力を感じたものだったかも。

 そしてなんといっても目的の殺人に関係のない殺人をつなげて一つの連続殺人のように見せかけるという構図が、作品そのものの出来よりもなによりも意義がある部分だろう。それはつまり、本作ではそこまで上手くいっていなかったこの構図が、これ以後にある作品として、最高の形で生みなおされるからだ。そう言う意味で、傑作ヘ向けての「挑戦」的な作品と位置付けることはできると思う。

 というわけで、個人的には、本作は作品そのものというよりは、ここで生まれた発想を後の傑作へとつなげるステップボードとして記憶された作品だった、ということで感想を終わりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チラ見せの技術:アガサ・クリスティー『エッジウェア卿の死』

エッジウェア卿の死 (クリスティー文庫)

 

あらすじ

 奔放な舞台女優、ジェーン・ウィルキンソン――たまたま居合わせたホテルでポワロの姿を認めた彼女がしてきた依頼、それは夫とどうしても別れたいのだが、彼がそれに応じてくれいないというものだった。そんな彼女の夫であるエッジウェア卿を説得するため、会見に向かうポワロ。しかし、ジェーンの話とは打って変わり、エッジウェア卿は彼女と別れることをあっさりと承諾。ポワロに同行し、拍子抜けするヘイスティングスだったが、その後エッジウェア卿が自宅で殺害され、しかもその時、屋敷でジェーンの姿が目撃されたというのだ。しかし、同時にその時刻、彼女は別の場所の晩餐会に出席していたという。妻と夫の食い違いや目撃証言の矛盾といった、ちぐはぐな様相を呈した事件はそのまま第二の被害者を生み……

 

感想

 前作の『邪悪の家』に続き、ヘイスティングスも続投。事件も同時に二か所にいた容疑者というカーが好きそうな不可能犯罪的な状況だが、クリスティはそれを引っ張ることはなく、割と早い段階で、読者の予想に追随するような解答を示す。

 この事件は、一人が二地点に同時に存在するとか、鍵のかけられた部屋とか、人間が消えるとか、そういった事件の奇妙な状況――謎をいかに解くかを主眼に置くというより、人物がどうしてそのような言動を取ったのかや、そのような関係性を続けるのはなぜか、という人間の感情や行動に関する謎にフォーカスを当てる。そして、登場人物の関係性の中心に鎮座するジェーンという存在の扱いが巧い。こういう存在感のキャラクターの使い方こそが、クリスティの真骨頂といっていいだろう。この人物のあっけらかんとした言動とその存在感が、事件の全容を覆い隠す大きなファクターとなっている。

 そしてなんといっても、やはり誤誘導の滑らかさだ。昔、テキトーなノリでクリスティを本格ミステリ界の我妻善逸に例えたことがあったが、やはりクリスティはミステリの基本中の基本技、ミスディレクトが抜群に上手い。この作品も、なんというか、構造自体はめちゃくちゃ単純なのだが、それをミスディレクト一本でミステリとしての驚きへと昇華している。そのミスディレクトが、明らかにひっかけるみたいなハメ技というよりは、いつの間にか引っかかってる幻術みたいな領域に達していて、一つの頂点を極めた感がある。そしてそれを可能にしているのが、チラ見せ――ある程度真相をオープンにすることで、逆にそれが誤誘導になるというテクニックなのだ。

 あと、前作から薄々感じていたことなのだが、ヘイスティングスいるのか問題。確かにポワロとの掛け合いはユーモア味などがあるにはあるが、ホームズとワトソンほどのニコイチ感には欠けるし、事件関係者の中でその関係性を強烈に支配するようなキャラクターとポワロという二つでつり合いが取れるということを、クリスティ自身が前作と今作で気がついたような気がしてならない。以降、間隔をあけて『ABC殺人事件』『もの言えぬ証人』に登場するも、最終作と位置付けられる『カーテン』まで登場しなくなる。

 

 

 

※ここからはネタばらしして語っていくのでそのつもりで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルにしたが、「チラ見せ」の技術がこの作品のミスディレクトの神髄と言えるものだ。読者に真相の一部を開示することで生み出される、開示されたことによる認識の固定。つまり、「真相」を示されたという認識が、その先に隠されている真相から目をそらさせる。この作品は、その技巧の教科書ともいえる作品なのだ。

 ジェーンの人物模写を得意とするカーロッタ・アダムズという新人女優の存在を冒頭でみせ、アリバイトリックの一人二役――つまりエッジウェア卿の屋敷に現れたジェーンがカーロッタによる扮装というトリックを読者に先読みさせるとともに、その後やはりカーロッタがジェーンの扮装をしていたという事実を提示する。そして一人二役というトリックが使用された、というところで読者の認識は止まってしまい、その奥にあるジェーンとカーロッタによる二人二役という真相が覆い隠されてしまうのだ。

 そして、メインの仕掛け。ひとことでいえば、いちばんの容疑者がやっぱり犯人でした、というものすごい単純なものだが、これをまず、ジェーンがかねてよりエッジウェア卿と離婚したがっており、そのために彼を殺したいというような言動をさんざんみせ、いかにも動機がある上に不用意な言動をする人間であると演出する。この事前の仕込みが巧い。そして、エッジウェア卿が離婚を認め、ポワロがジェーンに報告するという段階を踏んだ後で卿が殺害されることで、ジェーンの動機が消え、なおかつ普段の言動を利用された人物という煙幕が彼女にかかる。ジェーンの動機を、「離婚してくれない夫」と固定することで、その先にある、再婚相手の宗教上の理由のため、再婚するためにはやはり殺すしかないという動機が覆い隠されるのだ。

 そして、彼女のトリックが瓦解するのが、彼女のキャラクター性(目的のためなら”賢い”が、無教養)であるというのがまた見事というか、キャラクターによってミステリを構築するクリスティらしい手管だと思う。

 

 

 

言葉が、人を動かさないとしても:藤つかさ『名探偵たちがさよならを告げても』

 

名探偵たちがさよならを告げても (角川書店単行本)

 

 高校教諭にして作家だった久宝寺肇が癌で死に、その遺稿を彼の教え子である辻怜人が発見した時、すでに事件は引き返せない場所に来ていた。

 久宝寺の遺稿には探偵と被害者、そして簡単な事件のあらまし、さらには妙な言葉選びでの読者への挑戦があっただけで、解決編がないままという中途半端な物だった。そして、ほどなくして女子生徒が学園の物置で死体で発見され、それは遺稿にあった通りの様相を呈していた。

 死んでいた女子生徒の知り合いで、「探偵」になりたいという深野あずさに協力する形で、怜人は事件に関わっていくのだが、そこには彼が傷を負った八年前の事件が、まるで彼を追いかけてきたかのようにして顔を出し始めるのだった。

感想

 本作は、死ぬまでにやりたいことリストという、手書きの箇条書きが冒頭に掲げられ、それが「探偵になる」以外が達成された状態で始まる。そして、「探偵」になりたい女子高生、深野あずさと、かつての卒業生で久宝寺の教え子でもある辻怜人の視点で彼らが遭遇した事件を描いていく。

 主人公の一人である、あずさの単純なまでの名探偵願望と、軽率ともいえる言動や行動に戸惑いつつも、最後に至って、名探偵を望む彼女が抱えたものの重さに言葉を失った。そして、それまでのあちこちに伏線がばらまかれていたことに気がつく。この伏線の張り方が、ことさら登場人物が指摘したり作者が回収するというよりも、読者が自分で気がついてそれで良しとするように張られていて、かなり巧いと感じた。あずさが猪突猛進主義で行動を重視していることもちゃんと伏線になっている。

 中心となる事件は、ミステリ作家の未発表原稿通りに事件が起きるという設定や、被害者以外が部屋に入るところがカメラに映っていない、といった現場の密室的な状況だったりと、いかにも本格ミステリなミステリ部分に比して、物語自体は名探偵が現れて事件を解決するというより、等身大な人間たちの悩みに深く入っていくタイプの青春もの。それらは、どことなくミスマッチな雰囲気がするが、それも含めてこの物語の重要な核から生じている。そして、人物の心理的な物語だけでなく、ちゃんと作中の事件のミステリも手堅い作りになっている。あと、動機をひたすら登場人物の個人的なものとし、読者に共有させて何らかの感情を引き出させようという書き方から距離を置いていているように感じて、その辺も好感を持った。

 言葉より行動を重んじるあずさ。そしてもう一人の主人公である辻怜人は行動こそ積極的ではないが、彼もまた過去の事件によって言葉について、その力というものを特に信じない。一方で、死んだ久宝寺は作家として言葉というものに希望を見出そうとする。彼はその希望を最後ミステリに託した。しかし、その当の久宝寺もまた、最後の最後で事件を回避すべき言葉を持てなかった。本作はそんな、言葉についての物語でもある。

 言葉では動かしがたいことは厳然とある。しかし、それでも言葉が必要な時がある。それは、なんとかしてでも自分の中から押し出さなくてはならない。その重くどうしようもない塊を描くラストは、この物語の誠実さの現れだろう。

 なんとかでた言葉は、不格好で大したことなくて、全然状況を変えられる力なんてない。でも、適切な人から出た言葉は、人を動かし得る。この物語はそこに言葉の希望を見出す。それは、ネットで強い言葉における”誰が言ったか”みたいなものとも違う、心底、自分のものでしかない塊――それを取り出す時に生まれる、個人個人での信頼なのかもしれない。

 人と人はどうしたって言葉を交わさないといけない。そこで人を動かすのは、言葉そのものというよりは、その言葉を必死で取り出そうとする行動に伴う信頼なのだろう。

 そんなことを思った。