半分つぶされた虫のように、地面の上をのたうちまわるような打撃をうけた人々には、自身の身に起こったことを表現する言葉がない
子供のとある時期、私は海とともにあった。住んでいた小さな町の学校のすぐそこには、生活排水が垂れ流される、そこまできれいではない海が広がり、しかし少し足をのばせば、コバルトブルーの海や海の底のナマコが数えられる透明度を持った海があった。
海の中を泳ぎ、遠浅の海岸を歩く。そんな日常はしかし、いつしか遠のいて行ってしまった。私は日に焼けることを嫌がり、塩水を浴びた後の痛みを嫌がり、海を避けるようになった。そして、住む場所も変わって、ただ遠くに見える湾をたまに眺めることしかしなくなった。
この本を読んで、久しぶりに私の中の海を少し思い出した。そして、その海がただただ海であったことを、この本は鮮明にする。
著者は海の近くに住んでいる。沖縄の海に。基地のある海に。
著者の上間陽子氏は沖縄で未成年の少女たちの支援・調査に携わっている。若くして母になった少女たちの声を拾いながら、著者は辺野古の海が赤く濁ってゆくのを見ている。そして娘を育て、祖母の死を見送るなかでエッセイを綴ってゆく。
この本には声をあげられない、どう上げていいか分からない人々の押し殺したような言葉が著者によって拾い上げられている。そこには、濁った力によって押さえつけられた人々の姿がある。
高校生くらいの若さで子を持ちながら風俗で働く少女。近親者に性暴力を受ける少女の声にならない叫び。米兵にレイプされ息絶えた少女が握りしめた草。父親に暴力を受け続けた青年は、恋人を風俗で働かせて荒稼ぎをし、ホストになってからは父に稼ぎを送り続ける。土砂が流される海に、爆音が轟く空にうなだれる人々。
私には窺い知ることができない。分かることができない。沖縄の問題は、いつだってテレビの、メディアの向こう側の問題でしかなかった。彼女の東京の大学での教官が放った言葉のように、どこか眺めるだけの私に、私たちに、著者は彼女がため込んだ言葉の海をすくい、そそぐ。
言わなかったから、その言葉は私の中に沈んだ。その言葉は、いまも私のなかに残っている。 本文P238
「海をあげる」この言葉はある種の呪詛でもある。静かな部屋で、電車の中で、川のほとりで、彼女の言葉を、その海をもらい、絶望を託される。
押し殺されたような言葉たちは、本当にどうしようもなくて、私はその一編一編を読むごとに涙を流してしまう。でも、それはこらえなくてはならないのだう。
彼女からもらった海を、せめてこぼさぬように。