蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

詩野うら『偽史山人伝』

偽史山人伝 (ビームコミックス)

偽史山人伝 (ビームコミックス)

 『有害無罪玩具』に続く作品第二集。こちらも著者が自身のサイト「チラシのウラ漫画」で公開していた作品+書下ろしとなっています。今回は、日常に挿入される非日常な風景というか存在を語りつつ、そのことについての認識論的なテーマが通底してあるように思います。それが存在するという私の認識、意識とは何なのか、という問いかけに読者を誘うような作品が収められています。どれも面白いので、ぜひ手に取ってほしいです。また、これを読めば『有害無罪玩具』収録の「金魚の人魚は人魚の金魚」に登場するキャラクターが把握できて、より深く著者の宇宙を感じられると思います。

 それでは、各短編の感想を。

※話の詳しい所まで言及しますのでそのつもりでお願いします。

「日曜は水の町に」

 鏡や水面に移るもう一人の“私”と顔を交換した私。隣の席の好きだった少年から見て傷のない側を見て欲しい、そんな今となってはどうでもいい理由。しかし、交換してから私はその好きな子に何かするというわけでもなく、交換したまま12年の歳月が過ぎ、いつしか向こう側の“私”を見ることができなくなっていた。

 向こう側の“私”はかつての私。私を見ないように目を逸らすのはかつての”私”。左右対称の顔の傷、というギミックを用いて「私」についての揺らぎを見つけてゆきます。同じようで違う、違うようで同じ、そんな「私」の感覚。

「人魚川の点景」

 フラスコに入った人魚を見つけた高校生とその親友のお話。収録作では一番登場人物についての物語性が高いように思います。

 佐々木が、見つけたフラスコの人魚に執着するのは、その人魚が、粗大ごみであふれた川、そこでむやみに稚魚を放流したという事実、そしてその人魚を見つけた時の「こんなの見たことない」と思った自分を担保しているからだ。人魚が死に、埋めてしまえばそれっきり。それまでのことが無かったことになるような感覚に抵抗するように、佐々木は「フラスコの人魚」をホルマリンとエタノールで「固定」する――そうあった風景も事情も自分の気持ちも。そして、佐々木はその後自分の手で川のゴミ拾いを行い、「フラスコの人魚」にあった背景を消してしまうが、そこには新たな人魚の点景がまた一つ生まれるのだ。

「人間のように立つ」

 体の真ん中に穴が開いた水川とその友人、土倉が彼女に抱くふとした恐怖の感情を描く。

 今まで何も感じなかった水川にこれまでとは違う感情が忍び寄る。そのこれまでと違う「私」とは、何か。土倉が抱く恐怖のその瞬間を、水川の胸の穴を通して描く。彼女の恐怖の根源とは何なのだろうか。彼女はそれを背徳感と自分の中にある感情――罪悪感のような何かではないかと思う。

 背徳感はその水川の穴に手を入れるという行為だろう。水川は急に自分の穴に手を入れ、その先の橋の欄干に置かれたリンゴを取るように言う。言われたとおりにした土倉を触る水川。もともと穴が開いていない服に彼女が着ることで穴が開くように、彼女が触れ、その魂の一部になれば穴が開く。それは、自分の魂の一部にならないか、という誘いであり、かなり露骨なメタファーであることは明らかだろう(まあ、穴を通してリンゴ(生命云々のメタファー)をつかむのは見たまんまですし)。結局は服のようにはいかないのだが、そんな「私」の一部にならないか、という唐突な誘いが土倉の背徳感の根源だろう。

 ではもう一方の土倉の罪悪感のようなものとはなにか。それは恐らく中学生の時に死んだ六本腕の少女らしいことが示されている。直後見る土倉の夢では、橋の上で恐怖を覚えた瞬間――水川の穴に手を入れてリンゴをつかむ彼女たちの下、その六本腕の少女の死体が流れている。また、以前水川がそのクラスメイトについて尋ね、土倉が彼女の死を告げる場面では、川の死体を橋から眺めている土倉が描かれる。それ以上のことは分からないが、その時の罪悪感の延長が水川に覚えた恐怖に繋がっているのだろう。(※これはあくまで私個人の空想にすぎないが、六本腕の少女は自殺したのであり、それが土倉に対するある種の感情によってであって、それこそが土倉の罪悪感の源ではないか。もっと言うと、その感情を今度は土倉が水川に覚えたからではないか)

 背徳感と罪悪感とで変質してしまった「私」は水川にどう向き合うのか、その反応を彼女は決めなくてはならない。

「姉の顔の猫」

 死んだ姉の顔を擬態する猫とそれを拾った双子の妹の話。「日曜は水の町」にと通底するテーマを扱っている。姉と「私」の違いは目元のほくろの有無でしかない。この作品の世界では哺乳類は死んだ人の顔を盗める。しかし人間は猫ほど上手くなく、死者の肉を食べなくてはそれができない。つまり、人の顔をした猫を食べれば、猫が擬態した人の顔を引き継げる。妹である私は姉の顔をした猫を食べることで、自分の顔にほくろのついた姉の顔を引き継ごうとする。

 私は姉が死んだ実感がない。そんな自分は死にゆく姉の顔を見て、“私”が死んでゆくように感じていた。姉の顔を引き受けることで、なにかが変わる期待感がなかったわけじゃない。しかし、やはり日常は淡々と過ぎ、今度は私が捨てたはずの“私”の顔をした猫を拾い、しかしもう猫を食べることなく、姉の顔をした私は“私”の顔をした猫の死を看取ることを決める。

 同じ顔をした他者が死にゆくとき、「私」というものはその同じ顔だという認識を通してその他者ではなく、「私」の死を体験する。そうすることができなかった姉の代わりのように、姉の顔で「私」の死を看取る時、「私」はなにを思うのか、はたまた何も思わないのか。

「現代路上神話」

 これもなかなか一筋縄ではいかない話というか、「在る」という認識についてのお話。人が認識することで存在する、又は存在しない神たちについての話が、道の神、ガラスの神、水たまりの神……というふうに次々と語られてゆく。また、それらの神はこの漫画によって読者が認識することで創造されるという仕掛けが外側にしてあって、さらにはこの漫画もまた、あるメモ紙、そしてメモ紙は手帳に依っていて……。

 それを認識することで存在というものが立ち上がる、ということについて執拗に描かれた一編。個人的にはこの作品が一番好みかもしれない。

偽史山人伝」

 山人(やまびと)という存在を、執拗なほどのディテールで、その存在を浮き上がらせようとする壮絶な一編。様々な目撃談や研究資料から山人の性質、人との関係を多角度から綿密に描く。文献の引用や注釈が、さらに事細かに山人についてのディテールを上乗せさせてゆく。そこに描かれるのは、人間が山人をどう認識して来たのかという歴史に他ならない。そしてそれはなかったことになっている。

 なかったことになっているかつて存在したもの――。存在しなくなり、その記録もなくなって私たちがいずれ認識しなくなれば、それはもともと「無かった」こととなる。そうして「偽史」は生まれるのだ。

「存在集」

 書下ろし。こちらもまた、認識や存在についての興味深い話がザクザク。掌編だが、多彩。しかし、通して読むことで、一つの大きなお話のような感慨もある。

 

 最後の最後まで、徹底して認識を問い、この漫画を読む行為にまでそれは及ぶ。それは、「私」がぐらぐらする一種の体験だ。次は果たして著者はどのような作品を紡ぐのか、今から楽しみでならない。