蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

闇を払うは滅びの剣:麻生俊平『ザンヤルマの剣士』

 今回は私の好きなライトノベルを紹介しようかな、と。まあ、ぶっちゃけ本読めないし、それっぽい感想というか、妄想もまとまらないので……。後々それぞれの巻ずつの解説というか感想を書いていきたいとは思ってはいますが、まずはざっくりした印象解説をとりあえず書いときたいな、と。

www2u.biglobe.ne.jp

 ※その前にこの評が的確かつ見事なので、まずはこれを読んで欲しいです。ていうか、これで十分じゃね……(ということでしたが、こちらは現在サイトがなくなっています。とても簡潔で要を得た評だっただけに、とても残念です:2020/4/21)

 

 私自身はラノベの黎明期から本格的に現在膾炙するジャンルとして確立する時期前のカンブリア紀っぽい、何でもアリの時期に読んでたと思うんですけど、すぐ本格ミステリに移行して、そこまで数は読めてないんですよね。

 まあ、そんなラノベ揺籃期の一番印象に残っている作品の一つとして、『ザンヤルマの剣士』について語りたいわけです。とはいえ、この作品はリアルタイムで追っかけてたわけじゃなくて、乙一氏がこういう暗いの書いてもいいんだと挙げていた、というのを聞いて(また聞きなので出典は知らない)読んだクチなんですが。

 それで読んだら、まあ暗いんですよ。なんなんでしょう、露悪的なグロとかそういうのじゃなくて、人間のもつ本来的な弱さみたいな、そういうものを主人公は自分や他者に見てゆく。そして、そこから生み出される悲劇や企みと戦ってゆくわけです。

 とりあえず、大まかなあらすじは、主人公の高校生、矢神遼はある時不思議な老人から不思議な形状の剣を渡される。それは波状のさやに収められた一見して抜けるとは思えない形の短剣。老人は言う。その剣を抜くことができたなら、巨大な力を得ることができるだろうと。そしてその剣こそが人類以前の文明であるイェマドを滅ぼし、再びこの世に滅びをもたらすとされる「ザンヤルマの剣」だった……みたいな割と定番な感じなんですが、すごく大雑把にもっぱらファンの間でのざっくり要約は“ドラえもんのいないのび太が、笑ゥせぇるすまんを追いかける話”、です。どういうことかというと、遼に剣を渡す老人裏次郎は前文明イェマドの生き残りで、イェマドの文明の遺産である便利道具を道行く人間に与え、彼らが道具の力に魅入られ、自滅してゆくのを見て楽しむ半分愉快犯みたいなやつなのです。そして、イェマドの最終兵器を与えられた根暗少年の遼が、その道具に魅入られた人間たちと戦いつつ、遺産を破壊し裏次郎を追う、というのが大まかなメインストーリーなんですね。

 イェマドの遺産というのは、イェマドの人間にとって、取るに足らない道具だったりするんですが、それでも人間にとっては社会や国家が動くほどの力を持っているわけです。で、そういうものを個人が手に入れてしまうことで、その人の欲望が噴出してしまう。そして、それに対峙するザンヤルマの剣を持つ遼は彼らを通じ、人間自体の弱さや愚かしさと向き合わなくてはならなくなるのです。

 大体初っ端からキツイ。彼が最初に闘うのが、ほのかに好意を持っていた同じ高校の女性教師で、次が同じように遺産を持ちながら、友達になれると思っていた人物だったりします。彼ら自身の弱さは、遼自身のものでもあった。そして、傷ついてきた主人公の前に満を持して現れるのが新興宗教という完璧な布陣。三作目の『オーキスの救世主』はオウムの事件に先駆けていたこともあり(まあ、当時自己啓発セミナー花盛りの時代だったわけではありますが)、特にザンヤルマといえば、という風にファンから挙げられる代表的な作品でしょう。

 そして、ザンヤルマの暗い所は、割と救われないというか、毎回はっきりすっきりとした終わり方じゃなくて、最悪じゃないにせよどこかやるせない思いを残すんですよね。「オーキス」も宗教に囚われたクラスメイトや人々はオーキスムーブメントが潰えた後もまた似たような救いを求めてさまよってしまう、みたいな描写があったりして、それがまあ、この作品が重たいライトノベルの一角として語り継がれる要因でしょう。そしてそんな人々の普遍的な弱さを執拗に描いてきたからこそ、読んだ者の心の中に残り続けてきたのだと思います。政治に対するポピュリズム的な人々の姿や忘れっぽい有様なんかもなんていうか、時間が経てば経つほど、“変わってない”という思いを強くさせます。

 それと、他の優れたサイト様の指摘にあるように、ザンヤルマは“敵の正しさ”というのが毎回がっちりとあって、それを簡単には突き崩せない。それは、主人公である遼にもある一面であったり、その人の側にとっては論理的に正論だったりして、容易には否定しがたいものがあったりするわけです。そして、遼は悩む。その主人公の逡巡がある意味この作品の根幹みたいなものですね。そして出した結論が必ずしも正しいものではないのかもしれない、主人公の勝利を見つつもそんな風に読者にわずかな刺を残す。それがこの『ザンヤルマの剣士』という作品なのです。

 それから敵の造形というか、そのスケールアップがなかなか良くて、より力の強い遺産が出てくるとかじゃなくて、その遺産を利用する側がスケールがアップするというのが上手い所です。どういうことかというと、遺産の力をめぐる主体が個人の欲望から次第に組織や企業、国際組織という風に大きくなってゆくわけです。オーキスムーブメントなどの宗教団体から、TOGO産業という企業、そして民族主義的な思想背景を持ち、遺産を管理しようとする国際組織FINALという風に、社会的な形で敵がスケールアップしてゆくというのは、なかなかライトノベルとしては珍しかったと思います。テーマ自体も社会的な領域に踏み込んでゆきますし。富士見ファンタジア文庫はおろか、ライトノベルとしてもちょっと特異な位置を今でも占めているのはこの部分によるものでしょうね。

 元凶である裏次郎のキャラクターもなかなか凝ってて、彼は最初から人類に対して悪意を向けていたわけじゃなくて、イェマド滅亡後、新たに生まれてきた人類に対してイェマドの段階に達するようにあれこれ干渉し、導いてゆこうとしていた。しかし、それが逆に人類の愚かさを裏次郎に刻み付けてしまう。ついに絶望した彼は、人類はイェマドとは違うただの愚かな存在でしかないということを、気まぐれにばらまいた遺産で証明しては悦に入るという暗黒面に堕ちてしまう。ある意味彼もまた善性を纏っていたキャラクターなわけです。後々、もう一人の剣士である佐波木君という著者に扱いかねているのをあとがきで謝罪されちゃうラスボスよりもキャラクターとして立っていて、裏次郎がその人類への絶望をわずかながら改めるところが、ある意味クライマックスといえなくもないです。ザンヤルマの文字通りの裏主人公かもしれませんね。元歴史学者っていうのもポイント高い。そして、彼のこのセリフがまたすごいんです。

「欲にとり憑かれた人間に、どうして世界を滅ぼすなどという何の得にもならない仕事ができるものかよ! それができるのは純粋な人間、愚かなまでに純粋な人間のみ! 教えてやろう少年。今世の人間の心の闇の深さを。どんな無知蒙昧の迷宮で愚行に耽っているかを。その迷宮の中、その闇がおまえの心を包む時、おまえは手にした剣でこの世を滅ぼすのだ」

 この一巻の最後にあるセリフが最高にかっこいい。欲にとり憑かれた人間には世界を滅ぼせないんですよ。愚かなまでに純粋な者のみが世界を滅ぼす。そして、その愚かなまでに純粋な心が、だからこそ裏次郎の企みを挫くのです。

 この作品の本当に素晴らしい所は、痛みや疎外を描くだけではないところにあります。人間の弱さや卑屈さを描いてしまえば、何かを描いてしまったような、そういう地平から、精いっぱいの一歩を踏み出そうとする。痛みや疎外に傷ついたとしても、それでも手を伸ばす。たとえ、理想的な結末に至らなかったとしても、純粋であり続けようとする、その意志の物語。それが、『ザンヤルマの剣士』なのです。

 そういうわけで、なかなか一筋縄ではいかない話が展開する『ザンヤルマの剣士』ですが、この作品、同時代*1にあの『新世紀エヴァンゲリオン』という存在があって、世界を滅ぼせるほどの巨大な力を持たされながらも戦うことに逡巡する主人公、暗く重い展開、そしてラストに姿を現すとあるモチーフ、という共通点により、何かと一緒に言及されたりしますが、個人的にはその終盤のアレについての根幹は、ほぼ正反対だと思うのです。正直エヴァよりこっちが流行ってたらなあ……と思うことしきりなのですが。まあそれはどうでもいいことです。

 また、この『ザンヤルマの剣士』は巨大な力を授けられてしまった少年というテーマを見事にやり切ったという作品としても、個人的には筆頭の物語です。巨大な力を少年がふとしたことから手に入れてしまい、その力に振り回されつつも次第に使いこなしてゆき、世界を救った後にその力を返上する。そういう物語としても素晴らしい達成を見た作品だったと思います。根暗な主人公がだんだんとハードボイルドな感じになってゆくのも魅力ですね。

 あとキャラクターですが、地味といえば地味ですがみな忘れがたい人物です。裏次郎と同じイェマドの生き残りで、遼に手を貸す氷澄は嫌味で完璧なキャラクターかと思いきや葛藤して放浪したり、ホームレスに身をやつし、その過程で人間的な成長を遂げたりと、なかなか魅力的です。そして遼の親友であり、シリーズのオアシスである神田川君。後半つらい目にあったりですが、彼がいたことが、遼にとってどれほど助けになったことか。それから何といっても、遼のいとこにして主人公より強いヒロインである朝霞万里絵です。アメリカ帰りの彼女は現地でサバイバル訓練を受けていて、武装集団と普通にやり合います。あとアパートの屋上でベーコン作ったり、なんかあると酒を飲んだりとなかなかすごい女子高生。遼を逃がして囚われた彼女を救いに行くため、あーだこーだと勇気を奮い起こそうとしている遼をよそにあっさり脱出し、あげく情報収集までしてしまう、というかそのために捕まった、という場面は笑ってしまいます。実は主人公よりも色々フラグを立ててたり。かなりどうでもいいですけど、個人的な三大いとこヒロイン(ってなんだよ)の筆頭です。(残りの二人は『夢のつばさ』の深山勇希と『ベン・トー』の著莪あやめ……ってスゲーどうでもいいですね)

 ※こっからはちょっとネタバレ込みで話しますんで、そのつもりで。

 

 本作がエヴァと比較というか、同列に語られる最大の要因は最終的に立ち上がるモチーフがコミュニケーションの問題だからです。人々を隔てている「心の壁」を壊し、一つにまとめ上げる。人類補完計画とザンヤルマの剣が持つ機能は共通しているように思えますが、実のところその方向性は真逆なのです。というか、まず前提が違う。エヴァは一つになることが気持ちいいことであるという前提で、でもそれを否定しなきゃね、という話でしたが、ザンヤルマの場合は、一つになることで人々は嫌悪や絶望で自壊してしまう。一つになるということは危険なことなのだ。

 発達の果てにイェマドの人々は個とその「守護神」で完全に充足する存在となっています。個々がそれぞれ独立して存在し、その完全性こそが平穏であるとする。そのような形での「他者の不要」。そこでザンヤルマの剣が守護神に干渉することでそれを打ち消してしまい、むき出しの個々が衝突し合うことで古代イェマドは崩壊する。それはある意味、現在を予見しています。ザンヤルマから二十年ほど、我々はグローバリズムやインターネットで一つにまとめ上げられようとしていますが、そこにあったのはより反発しあう現実です。ネットが星を覆い、光や電子が駆け巡っても、我々はそれを快とは思わない。より強い反発を招き、人々は激しく傷つけあっています。そして、深刻なのが心地のいい守護神(それは今についていうならばイデオロギーや人種、国家なのかもしれない)を破壊したとしても、どうにもならないのではないか、という予感です。

 それでも、だからこそ個々のつながりを求めてゆくしかない。著者は我々が生きる世界の絶望を描き、主人公にそこを彷徨わせる。そのなかで出会った人々がいたからこそ、主人公は人類の持つ愚かさという闇を払えた。一人で挑むしかなかった裏次郎の誤算はそこにあったのでしょう。結局のところ、我々はシステムによって強制的に分かり合うことはできない。それをなすのは、そうしようとする個々人の意志と勇気でしかないのでしょう。友達になろう、そう言って佐波木に差し出す遼の手こそが、希望なのだ。

 まあとにかく、そういう意味でも、私個人としてはザンヤルマの想像力の方がしっくりくるわけであり、この作品が自分の中で特異な位置を占めている理由なのです。

 なんだか妙に長くなりましたが、中身はともかくそれだけ思い入れは示せたということで。それでは、最後はイェマドのこの言葉で締めくくろうと思います。

 「今日からあなたの幸せな日々が始まりますように」

 

*1:■『ザンヤルマの剣士』:『ザンヤルマの剣士』1993年3月25日-『イェマドの後継者』1997年12月25日 ■『新世紀エヴァンゲリオン』:1995年10月4日 - 1996年3月27日 ■『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』:1997年7月19日