蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 『ラ・ラ・ランド』の、町山さんの解説を観てて、後半の質問で、質問者が町山さんに、芸術、好きなものを追求するためには恋愛とか、家族的な幸せみたいなものは邪魔だ、とかみたいな、表現したりする場合は何か自分の中に欠落みたいなものを抱えていないといけない、という思い込みっていうものが広くあると思うが、町山さんはそれについてどう思うか、という質問をする。それについて町山さんの回答は、ヘンな監督、ピカソのゲスさみたいなものを引っ張ってきて、ちょっとかみ合ってない感じなんだけど、その質問について少し思うところがあったのでちょっと書く。

 まずこの質問にはそもそもどこかズレあるように思うのだ。表現するには欠落がないといけないっていうのは、表現者自身が言ってるわけではなくて、その作品を享受する受け手側のある種凡庸な言い草であり、そういう意味で思い込みなのだ。要するに思い込んでいるのは、受け手である質問者の方ともいえる。

 受け手側からのそういう思い込みによって、因果が転倒している。欠落がないと表現できないのではなく、そもそも欠落というものはどこにでも生じるものだ。誰でも欠落を持っている。欠落のない人間という存在自体がある意味欠落を匂わせているではないか。恋愛や家族的な幸せを追求してもその中で欠落は生じる。それは単純な二項対立ではないからだ。

 表現しない人間はそういう欠落というポーズを気にしがちだが、表現する人間はたぶん自分が欠落してる「から」どうとかなんておそらく気にしていない。欠落なんて言うものは誰にでもある。表現する人間は自身のそれを見つめているだけだ。たぶん表現するしないの溝はそこにある。表現しない人間は他人の欠落(という見た目上そう思われるもの)を気にするが、表現する人間は自分の欠落を見つめている。それは別に俺はみんなと違うから~みないなバカな自覚とかそういうものじゃなくて、どうしても埋めがたい、ぽっかりと空いた何かが自分にあるということ、そしてそれが何なのかを自問し見つめ、探ろうとすること、そのなんとかしようとする行為が表現として作品として、出てきてしまうということなんではないか。

 表現というのは、誰にでもある自身の中の欠落をどこまで見つめることができるのか、というところでもあるんじゃないだろうか。まあ、この見かたは少々ナイーブという意見はあるだろうし、そう思わないでもない。でも表現するということを欠落というワードで特別視する必要はないように思う。そんなものは誰でも持ってる。そうなんじゃないのかな。