蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 自分が尊敬していた人が死ぬよりも先に遠くに行ってしまうことがある。私はそれを島田荘司という人によって味わうことになるとは夢にも思わなかった。彼が6日のトランプ支持者が連邦議会を襲うという、民主主義そのものへの挑戦を、自由への狼煙であると言わんばかりの文書は、あまりにも私の見ている現実と乖離したものにしか思えなかった。

 彼がトランプを対中国において英雄視していることは、以前Facebookに投稿していたゴジラキングオブモンスターズ評の中で、キングギドラを中国、ゴジラをトランプに例えるという眩暈がするような比喩でにじみ出ているが、笠井潔tweetを見る限り、つまりは中国への脅威が沖縄の反基地運動への反発にもつながっているということも分かる。

 島田荘司は国をはじめとして大きな存在に押しつぶされる人々に関心を寄せ、その人たちの悲しみを描いてきたはずだった。この国に存在する弱者の声を、悲鳴を、どんな本格ミステリ作家より耳を傾けてきたはずじゃなかったのか。中国が脅威だから、アメリカの基地が必要で、そのために沖縄の人たちが彼らの海が埋め立てられるのを黙ってみていろというのなら、それはあまりにも国の視点に立った見方で、そこに住む人々を国という高みから見下ろすやり方じゃないか。それは、御手洗潔が一番嫌った持てるもの、強き者たちの視点じゃなかったのか。今の御手洗は、島田荘司は、東京タワーの上から、孤独な魂を、ただただ見下ろしてるだけの存在と化してしまった。

 私は彼が陰謀論にハマったり、トランプを生きがいい革命者みたいに持ち上げることよりも何よりも、それが悲しい。

ウマ娘 プリティーダービー Season 2 第一話「トウカイテイオー」感想

 ついに始まりましたね。何が? ウマ娘プリティーダービーに決まってるだろーが! 1月4日に始まった第一話、私は第一話再生マシーンと化し、Twitterで感想をあさり続けることで一日をつぶしました。正直、自分でもなんでそこまでやってしまうのかよくわかりません。2018に放送された第一期でハマったわけですが、別に競馬に詳しいわけでもないですし、いくらハマったとはいえその年のベストアニメは「よりもい」こと『宇宙よりも遠い場所』であることは客観的にも自分的にも疑いはないんですが、でもなんか好きなんですよ。「好き」というなら「よりもい」よりも好きなのです。客観的にはオールタイムベストというほどではないかもしれない、でもすごく好きだという、そういうものってあるでしょう。自分にとってのアニメ・ウマ娘というのはまさにそんな作品なのでした。

 まあ、とにかく一話の感想ですが、第一話からフルスロットルで、日常にギャグにレースにライブとウマ娘の魅力がこれでもかと詰め込まれた一話となっていました。ほのぼのとしたギャグで終わった一期の第一話とは対照的に、ものすごいきらびやかなテンションの中に不穏な空気が漂う緊張感のある第一話となっていて、その緊張感も含めてとても満足な一話となっていましたね。

 

  アニメ・『ウマ娘 プリティーダービー Season2』は主人公を前作のスペシャルウィークからトウカイテイオーにバトンタッチし、彼女の幼き日の憧れ、シンボリルドルフ以来の「無敗の三冠ウマ娘」を目指す、というのが大まかなストーリー。
ウマ娘の魅力と言ったら、多彩なキャラクターによる日常とそこに埋め込まれた競馬のネタ、そしてなにより実際の展開に基づいたレース、最後にライブ、ということになるでしょうか。それらを一話に詰めに詰めた、かなり気合の入った一話でした。控えめに言って最高の引き。

 

 では、まずはその概要を。基本的にはネタバレを前提に行うのでそのつもりで。

 

 開幕はアニメ一期や漫画シンデレラグレイでもおなじみのウマ娘の歴史を示す絵とらレーションが語られます。第一期ではやたら凝ったジブリ風な壁画、シンデレラグレイはエジプト風の壁画ときて、今回は地上絵。ナスカではなく、ミステリーサークルっぽい田んぼアートみたいなやつ。コンテンツが増えるにつれて伝統になりそうな予感です。そして「この作品は実際の競走馬の物語をモチーフとし、事実に基づいた表現を心がけたフィクションです」というテロップは、シンデレラグレイからですね。これもまた、今後コンテンツが増えるごとにつけられるものというか、ウマ娘というコンテンツのテーゼとして掲げられるのでしょう。それにかぶさるナレーションは、ウマ娘という存在が「別世界」の名を冠する転生者(?)であるとして、ある意味異世界転生みたいなものであることを示しています。これはアニメから明確になったと思うのですが、そのおかげで、画面の向こう側が、例の疫病のない世界になっていて、ウマ娘の運命だけでないIFになってしまっているのは何とも言えない感じです。

 ともあれ、まずは初っ端のレースシーンからすごいです。“皇帝″シンボリルドルフが直線で突っ込んでくるところの、その流れるような動きを回り込んでとらえるカメラ。レースシーンは第二期とは違った試みが多数なされているようで、新鮮です。そして、その姿にあこがれを抱くテイオーとルドルフの邂逅を経てテイオーの目標が語られる導入から、トレセン学園生となった現在へと移り、物語はスタートします。

 登校シーンからキャラクターがたくさんです。まず一期でテイオーが所属していたチームスピカの面々が登場。お嬢様なメジロマックイーン、人参くわえて登校してくる一期の正統派(?)主人公だったスペシャルウィークに、喧嘩友達なウオッカダイワスカーレットが競り合いながら校門を駆け抜け、セグウェイで登校してくるゴールドシップことゴルシの奔放さで、一期の地続き感と相変わらずな彼女らにうれしくなります

 そして、勢ぞろいしたスピカメンバーの後ろではイナリワンオグリキャップタマモクロススーパークリークの姿が。一応、ウマ娘ソーシャルゲームがおおもとの企画としてあるので、そこで実装予定のキャラクターには名前のテロップが付きます。特にセリフもなくモブ然として通過しているキャラクターも超有名な競走馬だったりします。

 みんなが教室に行かないことを訝しむテイオーに、今日はオープンキャンパスでその案内係になっていたことを説明しているうちに、キングヘイローセイウンスカイグラスワンダーエルコンドルパサーといった、前期でスペシャルウィークのライバルたちだったウマ娘たちも通過していきます。一期で登場したキャラクターたちを探すのも面白いですね。

 オープンキャンパスでは、キタサンブラックサトノダイヤモンドが幼年者として登場し、彼女たちを案内する中で、新キャラや一期の登場キャラクターたちを見せていきます。競馬の小ネタをちりばめながらも、シンボリルドルフを憧れたトウカイテイオーが、今幼い者たちに憧れられる存在になっていることを描く構成的なところがぬかりない。

 そして、学園パートではナイスネイチャツインターボ、そして新たなチーム・カノープスが登場。新たなライバルチーム(?)になりそう。ナイスネイチャの怪我がクローズアップされ、さりげない暗示となってるところもうまいですね。ネイチャさんは一期以上に出番や役割が増えそうでうれしい。

 そしていよいよダービー。知っている人なら、いきなりここからか、という思いが強いでしょうね。ある意味テイオーのキャリアの頂点が第一話ですからね。パドックでのテイオーステップ(ウォーク)のモデル馬再現など、いちいち細かい。第一期は初めてのレースまででしたが、がっつりレースが入ってきて、その見せ方も一期と違った形もあって楽しい。疾走感というか、大勢が走っている迫力が増したように思います。レースに危なげなく勝ち、無冠の二敗。夢に近づくテイオー。

 そしてライブ。ウマ娘といえばの奇妙なこの設定。まあ、元ゲームの企画自体は流行りのアイドルを競馬にぶち込んじゃえ、くらいのノリだったのかもしれませんが、しかしこの異様に気合の入ったライブは、今回とてもいい効果を上げています。トウカイテイオーの“夢”、その頂点を視覚的にも演出する、このライブという要素は、ウマ娘の勝利というのを視覚的に印象付けるためにも、なんだかんだで大事な設定なんじゃないかなと思いますね。

 

 概要と印象はこのくらいで、以下は、各要素についてもう少し詳しい感想を。

  • Season2について

ウマ娘 プリティーダービー Season2』は前作『ウマ娘 プリティーダービー』の第二作目に当たります。いわゆるパート2というやつなのですが、同一主人公で続けるタイプではなく、主役は前作のスペシャルウィークから、トウカイテイオーに代わっています。とはいえ、スペシャルウィークもチームスピカの一員として、そのまま登場します。前作の同一チームでサブだったキャラクターをメインに持ってくる形。全部を一新するわけでもなく、前作主人公が出ると言っても、Ζみたいな感じじゃなくて、同じホワイトベースメンバーでカイ・シデンを主人公にする感じ(?)でしょうか。こういうタイプの続編は割と珍しいかもしれません。

 まあ、アニメ・ウマ娘の場合、そのモデルとなった競走馬の事実をなぞっていくため、そのレース人生を描き切ってしまうと先を描きづらくなるという特性もあって、そうなるのはある意味当然と言えば当然でしょう。
ウマ娘は、基本、アイドルや魔法少女といったキャラクターが多数いるアニメにあるような、主人公以外の特定キャラ回はほぼありません。今のアニメは基本ワン・クールが主流なので、たくさんのキャラクターでメインを持ち回りにすることは難しいですし、前作は主人公スペシャルウィークと、その憧れの存在であるサイレンススズカの物語として描かれ、またそれを描き切ることに専念することで、きちんとした一本の作品にまとめていました。Season2もまた、トウカイテイオーとその“ライバル″であるメジロマックイーンを主軸にして描いていくようであり、この二人の関係性がどうなっていくのかを注目して見ていきたいところです。

  •  キャラクターについて

今回は第一話の時点でかなりのキャラが投入されました。第一期からOVAの『BNWの誓い』に登場したウマ娘たちの他に、Season2の準レギュラーになりそうな新キャラがたくさん登場。スピカ、リギルに続く新しいチーム、カノープス所属のツインターボ、テイオーとマックイーンにあこがれるキタサンブラックサトノダイヤモンド。さらにはダイタクヘリオスやちらりとメジロパーマーの姿も。ツインターボキタサンブラックサトノダイヤモンドダイタクヘリオスメジロパーマーは完全に新規のキャラクターですが、以前から公式キャラクター欄に載りつつも依然未登場だったスイープトウショウゼンノロブロイが登場。四コマ漫画「うまよん」登場回を意識したようなチョイスで知ってる人ならニヤリです。また、公式サイトのキャラクター欄にはいないながら、第一期で三冠ウマ娘の一人としてビジュアルが登場したミスターシービーもキャラクター横に名前が表示されたので、もしかしたら近々正式にキャラクター欄に登場するのかもしれません。

 キャラクターについては、公式が名前の許可を得たキャラクターとして、キタサンブラックサトノダイヤモンドが幼い姿で(おそらく小学生くらい)登場してきたことにちょっと驚きました。名前の許可を取るのはレースに出る前提で、全員が学園生という姿で出てくるものだと思っていたので。学園生と統一することで、先輩後輩はあるにせよ年齢をぼかしていた中で、はっきりとした幼年の姿で実際の名前のあるキャラクターが出てくるのは、結構思い切った選択のような気もしました。いまだ、アプリの公式サイトには追加されていないのですが、最後辺りに成長した姿になって追加されるのかもしれません。しかし、その場合、キャラクター間の年の差がくっきりした形で出てきそうですが。(マルゼンスキーやルドルフあたりが「学生」では収まり切れなくなりそうです……)

 第一期ではスペシャルウィークサイレンススズカに憧れを抱きつつ、最後に彼女がその姿を見る幼いウマ娘たちの憧れになるような予感が描かれていました。それを引き継ぐようにしてはっきりとした形で幼年キャラを出すことで、テイオーがルドルフに憧れたようにまた彼女もあこがれることと、その憧れを背負うことについての物語が展開されそうであり、またこの子たちも結構重要なキャラクターになりそうです。

 

  • レースについて

 レースは今回も迫力のある作画がさく裂していて、やはり、走ってるだけで面白いのがウマ娘ですね。ふつうはありえないような色とりどりの勝負服を着て人間を超えるスピードで疾走する絵はアニメの愉悦に満ちています。前作通りにするだけではなくて、いろいろためしてみようとする感じもあって、これからも楽しみです。特に、ダービーのレースでは、CGを使うことでたくさんの勝負服キャラクターがコーナーを回って直線に入る迫力のあるアングルを選べていました。CGの使用は一期はあくまで遠景とか上空から映す形にとどめ、レース表現はメインのキャラの踏み込みのアップやコーナー、直線での疾走感が中心だった気がするので、二期は表現の幅が広がった感じで今後よりバ群の近くに寄ったアングルによる迫力ある映像が見られそうで期待。練習シーンのCGはちょっと固いと言えば固いのですが、まあ、メインのレース以外の練習シーンだし、あれぐらいちょうどいい気はしますね。全部全力なんて無茶ですし。

 

  • ライブについて

 さて、ウマ娘の最大の特徴といえば、ライブです。いらない? いや、いる、というその特異さが、このアニメならではの楽しみの一つ。あえて思い切って言えば、いらないというやつは何もわかってません。メインである必要は全くないけど、独特の世界観と勝利後の余韻を作ってくれる存在として欠かせない、それがウイニングライブというやつなのです。今回は一期以上で、なんというか今時珍しい作画中心のライブをしかもかなりのクオリティで描き、主人公の華やかさ、夢に上りつめる寸前の絶頂――その演出面として最高な形で生かしています。そこにインサートされるルドルフとトレーナーの表情が亀裂となり、さらにテイオーの足と最後の表情、暗転して映し出されるサブタイトルが影を鋭く投げかけます。最高にかっこよくてアガるのに、忍び込む不安。事実を知っている人ならばよりキリキリするような引きを作っていて、第一話の引きとしては申し分ないでしょう。

 第一期と比べると、奥行きを使った動きや振付がふんだんで、そのクオリティアップが今後も続くのかも要注目ですね。レース表現同様、こちらも楽しみです。

 

  • 一期との比較

 第一期と主役を変えてきた第二期について、そのキャラクターや第一話の物語構成について少し。第一期はスペシャルウィークを主人公に、夢を持って田舎から上京してきた元気いっぱいな女の子が、少し年上のお姉さんに憧れながら、同世代のライバルたちと競い、日本一を目指してひた走る、という王道ストーリーでした。スペシャルウィークのストーリーは、勝ったり負けたりをしつつもその夢のゴールに向かう。いい意味で彼女は一貫したキャラクターであり、表の主人公にふさわしい変化を被らないキャラクターでした。そして、その表の主人公スペシャルウィークの裏――挫折を被る役割を持っていたのが、もう一人の主人公であるサイレンススズカ。彼女はスペシャルウィークとは対照的に変化するキャラクターでした。最初は他を寄せ付けない物静かな主人公の憧れとして現れた彼女は、足の骨折という決定的な挫折を経ての復活、そしてスペシャルウィークの憧れからライバルへと変化していきます。キャラクターもどこか人を寄せつけない孤高な雰囲気から、スペシャルウィークやトレーナーをはじめとしたチームスピカの面々とのふれあいで、多彩な表情を見せるようになります。

 また、サイレンススズカはアニメ・ウマ娘がテーマとする夢――その一つとして、モデルとなった競走馬のあったかもしれない、あってほしかった未来――そんなもしもの夢を体現する存在でした。そして、人に夢を与えたいとする彼女が夢をかなえたスペシャルウィークを見ながら、今度は私が夢をかなえる番と決めるところで、物語は閉じられました。

 第二期は、サイレンススズカの故障という転換点を物語の半ばに持ってきた一期に対し、トウカイテイオーの運命の日本ダービーを第一話に持ってくる思い切った構成がなされています。モデルとなった競走馬の事実に従うのなら、ここからは苦難が始まる。第一期は主人公がストレートに上り詰める形で(サイレンススズカの挫折もストーリーの半ば)したので、第一期に比べると挫折から始まる再生のストーリーという感じでしょう。ちょっと意外でしたが、順風満帆な滑り出しで無敗の連勝から皐月賞まで描いて真ん中に日本ダービーだと、構成がスズカと被ってしまう部分もあるので、ある意味必然的ともいえるのかもしれません。そして、だからこそもう一人の主人公であるメジロマックイーンの役割が気になります。テイオーが前作のスペシャルウィークサイレンススズカの役割を兼任している部分がある中、テイオーの“ライバル”として位置づけられた彼女は物語をテイオーとともにどんな風に動かしていくのか。第一話ではライバルという役割をちらつかせる以外は、ほかのスピカメンバーよりもちょっと出番が多いくらいだった彼女が、テイオーの挫折の中で自身のレースをどう戦い、ライバルとして鼓舞するのか。中盤はいろいろとマックイーンが支える構成になるのかなという気がしますが、どうなるのかとても楽しみです。

 とりあえず、なんだかんだで一年が過ぎた。

 やろうと思っていたことは、特に達成できずに終わった。

 悲しいことだが、いつものことだ。

 このブログの更新も、かなり停滞している。なんというか、パソコンを開いても文章を書くということは、難しいものだな、ということばかり痛感するので、手が止まって放置することが続いている。そもそもあんまり本が読めないということもあるが、いい加減、適当に書いてく感じでも楽しくなってくれればいいのに。

 そんななかで、去年から書き上げた小説をダラダラ改稿しているのだが、全然先が見えない。とりあえず投稿して、ダメだったらネットに上げようと思いつつ、踏ん切りがつかないまま時間だけが過ぎていく。しかし、いまどきコレはないだろ、というトリックで長編でっち上げてしまったのはいいのか悪いのか、自分でもよく分からない。とにかく、ダメもとで踏ん切りをつけて、次に進むのが適切だろう。

 いよいよ疫病がヤバい様相を呈しはじめるなか、世の中は比較的平穏な雰囲気だ。皆諦めてるのかもしれない。近くの本屋やTSUTAYAは時短営業を切り上げるらしいし、飲食店は割とどこも混んでいる。東京や大阪の年末ニューイヤーの集まりでは、ハッピーな人々が押し合い圧し合いである。みんな自分だけは生き残るに違いないという算段で臨むしかないということだろうか。まあ、頭が悪いを通り越した魯鈍で暗愚なリーダーが跋扈し、それを許す人間たちの世界は暗いだろうな、ということをぼんやりと思いながら、自分もどこへ行くのか、その道筋が見えないでる。

 まあ、こんな時代だから、だからこそ、本を読むぐらいしかないのかもしれないし、何かを書いていくにはぴったりな時代なのかもしれないな、と思いつつ、それが自分にとっての燈明になればいいと祈っている。ぶっちゃけ、色々気力は低調気味だし、本なんか読んだってなんになるんだよ、と思うことは多い。とはいえ、それぐらいしなければ、いよいよ悲惨な気がしていて、いたたまれないので今年も広く浅くと適当にいろいろな本に手を出していこうと思う。

 結局は、誰かの言葉にすがっているのかもしれない。とはいえ、そうやって誰かの言葉や想像力と繋がりながら、自分もまた自分自身の言葉を探して不格好な文章を書き散らしていこうと思う。新年の一本目もこういうなんだか分からない文章を書いているが、とりあえずなんか書くということを念頭に、少しでも誰かの想像力を受け取って感じたことをカタチに出来たらいいなと。

 まあ、とにかく、生き残っていこうぜ。

 

 それでは、もしかしてここまで読んでくれた人に

 あけましておめでとう 今年もよろしく。

羅小黒戦記とプロパガンダ。あとデカダンスとか。

 ※アニメ羅小黒戦記とデカダンスについてネタバレをしつつ語っていくのでそのつもりで。

 

 

 

 中国アニメのヒット作、羅小黒戦記について、そのプロパガンダ性の有無が少し前にちょっとした話題になっていた。要するに中国国内のウイグルをはじめとした少数部族問題と絡めて、作中のフーシンら妖精を少数部族の象徴として、住処を追われた彼らが人間の中で生活する様子を肯定的に描くことが、中国における少数民族の現状を肯定するということになっているのではないか。まあ、そういう政治的なプロパガンダの一部となっているのではないか、という趣旨だった。このアニメは中国の現状を肯定的に飲み込ませやすくしている“楽しいプロパガンダ”(辻田真佐憲)の一部なのか。

 プロパガンダというと、まあ、大雑把な定義としては特定の思想や主張について、政治的な意思をもって宣伝をし、大衆をその思想や主張へと誘導するものだ。ウイグル等の少数民族自治ではなく、「融和」のなかで多数派の中に取り込まれていくこと、ということが、この場合の政治的なメッセージということになるだろう。

 では、はたして羅小黒戦記はそのような政治的なメッセージでもって、少数民族(妖精)は多数派(人間)の中に共存という形で取り込まれるべきであるという主張を観る者に刻み付けるものだろうか。結果から言うと、もしそれを意図したものとするならば、それは失敗しているというように私には思われる。

 確かに、人間との共存を拒み、故郷を取り戻そうとするフーシン一派の戦いは敗北に終わる。だがしかし、彼らは確かに人間への反逆者として描かれつつも、その敗北を肯定的に描いているとは言い難いからだ。観終わって感じるのは故郷を奪われた妖精たちへの“後ろめたさ”ではないだろうか。しかも、フーシンは最後に自身を大樹へと変え、人間たちの街に根を下ろす。その姿を刻み付けるように。確かにそんなことをしても、他の妖精が言うように、切られて木材にされるかして排除されるか、公園として街に取り込まれるだけなのかもしれない。しかし、その樹の姿は最後まで徹底したレジスタンスの姿ではないだろうか。そしてその姿がどこか悲愴であるからこそ、後ろめたさが澱のように残る。

 最後のフーシンの姿を見て、果たして「融和」バンザイ、妖精(少数派)は人間(多数派)の世界で生きていく方が幸せであるという結論に鑑賞者を導くことができるか、というと私自身は疑わしいと思う。そこにはやはり前述した“後ろめたさ”がトゲのように突き刺さってはいまいか。

 プロパガンダとは分かりやすい結論に導くことが第一だ。要するに、プロパガンダの大敵というのは複雑さに他ならない。羅小黒戦記という作品において、人間と妖精の「融和」は声高に唱えられるものではないし、主人公たちもそれについてそうあるべしとは言わない。妖精たちも人間に親しみを感じているものがいる一方で、フーシンたちのような過激派や人間たちに反抗はしないけれど好きにはなれないというものまでグラデーションがある。この映画にはそういう形で、ある種の複雑さが組み込まれていて、観た人間を一つの結論に導くという意味でのプロパガンダ性は弱いというか、むしろ、中国製ということと、そこに描かれる少数派の妖精の姿からウイグル問題とプロパガンダ性を導くことこそに、ある種のバイアスがあるのではないかという気もする。個人的にはこの作品よりも、兵器や軍隊に無条件に親しみを感じさせてしまうような日本製の美少女ミリタリーアニメの方が、どこか無警戒な取り扱いを含めて警戒感を抱くが。

 もちろん、作品の掲げたテーマへの深度や二項対立の描写を含め、まだまだなところはあるが、それはともかく、アクション・エンターテインメントとしては目を見張るものがあるし、むしろテーマ性よりもそういうアクションエンタメの印象がはるかに大きく残る。そういう意味でも、そこまでこの作品に対しては、プロパガンダ云々という印象は薄かったように思う。

 一方で現状肯定感というのも、近い時期に見たアニメの方がよりラディカルだった気もしていた。日本製のアニメ『デカダンス』だ。

 『デカダンス』は、荒廃した未来の地球が舞台のSF作品だ。環境破壊により、人間はほとんどがサイボーグと化し、そのサイボーグを管理する会社が地球の一部を買い取って広大なテーマパーク“デカダンス”を運営している。そこはある種のゲーム空間であり、宇宙にいるサイボーグたちは人間の姿を模したアバターを使い、ガドルという生物を狩る。そして、サイボーグ化せずに奇跡的に生き残っている人間はそのゲーム上のNPCのような存在として、“デカダンス”内に存在している。ガドルや人間を含め、そこを管理するサイボーグたちは会社の所有物であり、会社が作り上げた“デカダンス”というシステムに奉仕する存在となっている。そして、そのシステムを脅かす存在は“バグ”として排除される。

 物語は当然、“バグ”とされた者たちによる対システム、管理者への反逆という方向へと進むわけだが、『マトリックス』でその手の古典的な反逆が脱臼させられたように、システムにとってはバグも織り込み済みであり、バグが管理できなくなるほど増えたとしても、管理者としてはシステムをいったんリセットしてやり直せばいいだけだ。

 管理者への反逆は織り込み済みであり、管理者を倒してシステムそのものを破壊するということができない。それが、マトリックスを経た対管理システムの物語の難題に他ならない。

 アニメ・デカダンスは最終的に、システムそのものを否定するのではなく、“アップデート”というまあ、現代的な価値観に落ち着くことになる。言ってみれば現状を肯定しつつ、より良い形にしていこうというわけだ。ゲーム内でNPCの如く飼われていた人間たちは、新しくアップデートされたゲーム“デカダンス”のなかの従業員として、ゲームを訪れるサイボーグたちをもてなす。なんというか、動物園の動物が従業員になって来園者をもてなすみたいな感じで、動物園自体は依然存在するという形に、ある種のモヤモヤ感があるという人がいるのは、まあ当然と言えば当然だろう。私もそれは否定はしない。

 システムは維持されつつ、アップデートをはかるというのは現代的な価値観ではあるが、アップデートするのは誰なのか、というのを考えると、アニメ・デカダンスの落としどころはどこか危ういものがある。とはいえ、このアニメの現状肯定感は、どこか現実の姿であるような気はする。

 大きなシステム、権力を打破するという感覚が薄れ、“調和”というテーゼの中で批判をせず、みんなで仲良く生きていきましょう。そういう空気。管理者によって新たに用意されたフィールドの中で、自分たちを管理していた側のお客さんたちと仲良く過ごしている主人公たちの姿は、個人的には羅小黒戦記の現状肯定云々よりもよりラディカルというか、悪く言ってしまえばグロテスクに思えた。

 とはいえ、そういう所も含めてアニメ『デカダンス』のラストは興味深いというか面白い物であったことは確かだが。

欲望という名の魔法:ジャスパー・フォード『最後の竜殺し』

最後の竜殺し (竹書房文庫)

 

 久々に面白いというか、好きな世界設定のファンタジーを読んだ気がする。

 魔法があり、魔術師がいてドラゴンがいるという古典的な要素を現代的な世界に持ち込んでいるのだが、それらが上位の存在として社会に君臨しているのではなく、衰退したものとして過去のものになろうとしている、という世界がこの作品のキモだ。

 かつては巨大な力を誇った魔法の力は年々衰え、それにつれて魔術師たちもその地位を低下させ、畏れられたり、尊敬されたりする存在というよりは、厄介でそこそこ便利な存在というぐらいでしかない。そして、ドラゴンもまた、かつての恐怖は伝え聞く過去のものでしかなく、広大な結界の中に潜む彼らが死ねば、人々はその土地をこぞって囲い込み、自分のものにしようとする。魔法や魔術師たち、そしてドラゴンもそれ以外の人間たちが形作る経済の中に飲み込まれようとしているのが、主人公ジェニファー・ストレンジの生きる世界だ。

 そんなヘタれたファンタジーが最後の最後で人間の欲望に反逆を起こす、その痛快さこそがこの作品の美点だろう。

 

あらすじ

 魔法の力が減少し、魔法に関する事柄は著しく価値を減じていた。かつて人々に畏れられていたドラゴンはかつての偉大な魔術師と結んだ協定により、それぞれの領地に封じられ、力を減じた魔術師たちも魔法のじゅうたんでピザを配達したり、配管工事を魔法で請け負ったりとすることで糊口をしのいでいる。

 そんな魔術師たちを抱える会社、カザム魔法マネジメントの社長代理はわずか十五歳の少女。彼女――ジェニファー・ストレンジは失踪してしまった社長、カザムの代りに気難しい魔術師たちを束ね、世話を焼き、仕事をあっせんする毎日だ。

 日々、魔術師たちの力は衰え続け、かつて彼らと戦ったドラゴンたちは、封じられたそれぞれの土地の中で数を減じていく。そして、ついにその最後の一頭の死が予言され、その予言が人々を最後のドラゴンの領地へと殺到させる。死んだドラゴンの土地は誰のものでもなくなり、その権利は早い者勝ちとなるからだ。

 人々が待ち構えるドラゴンの死。そんな中でジェニファーは魔術師たちが魔力を取り戻していることに気がつく。それはドラゴンの死と関係があるのか。それを調べるため、彼女は竜を殺せる人間、ドラゴンスレイヤーに会いに行くが、なんとそこで強制的に一分間の講習を受けさせられた上、最後のドラゴンスレイヤーに任命されてしまう。

 そして、ジェニファーが最後のドラゴンスレイヤーとなったことが知れ渡ると、ドラゴンを殺せるということで、国王や不動産会社といった人間たちが彼女を利用するべく続々と動き出す。資本主義が魔法やドラゴンを覆う世界で、ジェニファーは最後のドラゴンスレイヤーとして竜を殺さなくてはならないのか、そして、かつて最強の大魔術師と謳われたマイティシャンダーがドラゴンと交わした契約の秘密とは。

 

感想

 この作品、まず作品の世界観がイイ。魔法の力が衰えてウーバーイーツまがいのことをしたり、安上がりな配管工としてその身をやつしつつ、生きていくしかない魔術師たち。しかも力が衰えるごとに彼らが持つ二つ名もショボくなっていく悲しさ……。

 それでもかつての脅威だけは人々の記憶の中にあって、使った魔法はいちいち書類にして提出しなくちゃいけないし、それをうっかり忘れようなら、最悪火あぶりが待っている。そういう、現代的な時代設定の中に時折顔を出す妙な残酷さが物語の世界にいいアクセントをつけている。

 序盤は魔術師たちのショッパイありようと、しかし、そういうふうにしか生きていけない彼らに振り回されつつ世話したりとわずか十五歳で社長代理となってしまったジェニファーの奮闘が描かれる。孤児院出身の彼女は、四年前に社長のカザムに売られ、まだ二年の無休奉公が残っていて、それがすんでやっと自由になる手続きが踏める。結構ハードな身の上の彼女だが、それをあまり表に出さずに淡々と会社をまわすリアリスト的な姿が印象的。そして、そんな彼女がいきなり竜を殺せる力を授かる所から物語は一気に動き出していく。

 この作品、帯に大きく書かれているように、敵は竜ではなく資本主義というか、人間の欲望が魔法やドラゴンといったファンタジー的な要素の上に垂れ込めていることが強く印象付けられていて、所詮は世のなか金という形で突き進んでいくわけなのだが、だからこそ、この物語はそれが逆転する瞬間が気持ちいい。

 かつての大魔術師がドラゴンと交わした契約と最後のドラゴン、そしてドラゴンスレイヤーの真実が明らかになる時、人間の欲望を魔法が飲み込む。その瞬間こそがこの物語の最大のクライマックスであり、著者の周到な構成が光る。

 ある意味、逆襲の物語であり、解放の物語でもある。個人的には今年の一押しファンタジーだ。

ウマ娘 プリティーダービーのシーズン2が間近ということで。

 昨日の十九日、TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー』の第二期の放送日が一月四日と発表され、意外な早さにめちゃめちゃ興奮してます。やったぜ。アニメの二期って楽しみにすることあんまりないんですが(ああ、けものフレンズ……)、この作品はとても楽しみなのです。

まずはPVを。


TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』ティザーPV


TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』本PV

 

 アニメ・ウマ娘のセカンドシーズンは、前作主人公スペシャルウィークサイレンススズカのチームスピカメンバーを主軸にしつつ、メインをトウカイテイオーメジロマックイーンに変更して展開する形となります。

 基本的にアニメ・ウマ娘は主人公ウマ娘のモデルとなった競走馬のレース成績をなぞるため、同一主人公の物語はそうそう続けられるわけではなさそうということもあり、OVAの『BNWの誓い』同様、スペシャルウィークサイレンススズカは後景に引く形になるのでしょうが、同じチームメイトとして色々活躍してくれそうです。

 そして、アニメ・ウマ娘のコンセプトといえば、元ネタの競走馬のレース展開をなぞりつつも“IF”入れる展開。第一期では、サイレンススズカがその役目の多くを負っていましたが、今回はどんな形となるのか期待です。今のところ、トウカイテイオーが大きくフューチャーされていて、ライバルにしてもう一人の主人公として、キービジュアルなどで扱われているメジロマックイーンがどんな描かれ方をするのか、そこも注目したいところ。

 また、テーマについてどうなっていくのかも気になる所です。第一期は「夢をかなえる」をテーマに、“日本一のウマ娘”を目指すスペシャルウィークとそんな彼女の姿から、挫折を経て「今度は自分が夢をかなえる番」と心に決めるサイレンススズカによって閉じられる物語となっていました。そして、その物語後のOVA版では、主人公をナリタタイシンに移し、「期待に応えられない恐怖」をテーマにした、彼女の再起とライバルたちとの友情が描かれました。

 第二期の主人公、トウカイテイオーの夢は「無敗の三冠ウマ娘」です。そして、モデル馬の事実を知っている人は、明るくそう言い放つ彼女を見つつ、目を伏せてしまうかもしれません――それが叶うことがないことを知っているから。

 トウカイテイオーと言えば骨折。そしてそれによる無敗の三冠の最後の一つである菊花賞を断念せざるを得なくなる悲運。「無敗の三冠ウマ娘」というのは、スズカのように復帰してから目指せるようなタイプのものではなく、また、アニメウマ娘は“IF”を描くにせよ、挫折してしまう運命を回避することは今までなく、その“IF”はあくまで事実としてあった運命への救済としてありました。だから、おそらく、彼女の夢はかなわない。

 夢がかなわない時、どうするのか。そういうわけで、夢をかなえる第一期のアンチテーゼ(というか裏返し)としての物語が第二期の大きな要素となるのではないか、と個人的には予想というか注目している次第です。そしてその時、ライバルのメジロマックイーンはどういった役割を果たすのか。また、そのなかでアニメ・ウマ娘はどういった“IF”を組み込んでいくのか。そんな感じで観ていこうかな、と。

 まあ、色々書きましたが、そうじゃなくても楽しみなので、とにかく座して待つ、という感じではありますね。楽しみだなあ~。

 それから、新キャラたちも楽しみの一つ。新たにツインターボイクノディクタスマチカネタンホイザが登場。ナイスネイチャを入れたチーム・カノープスとしてスピカに挑むようです。スピカ、リギル以外のチームがメンバー込みで登場するのは初なので、カノープスのトレーナー含め、その活躍も楽しみでなりません。そして、トウカイテイオーメジロマックイーンをそれぞれ憧れるキタサンブラックサトノダイヤモンドも登場。彼女らはまだトレセン学園生ではなさそうですが、一期にはなかった主人公たちに憧れる後輩枠の登場は、また違った彩を物語に添えそうな感じです。そういえば、第一期のスペシャルウィークサイレンススズカのように、現実では出会うはずのなかったウマたちの出会いが奇跡を起こすということを考えると、意外とこの二人は重要な役どころだったりするのかもしれません。まあ、とにかく放送日を楽しみにして待つことにしましょう。

 

 最後の蛇足として、新キャラのデザインとして、チームカノープスのメインになりそうなツインターボのデザインがすごい。青髪のツインテールアホ毛オッドアイにギザ歯。あと低身長。ダイワスカーレットとはまた別な方向の属性お化けで、勝負服のビビッドな色使いも新鮮です。あと、ウマ娘は基本髪色はモデルに沿ってる感じなので、名前に寄せたようなセイウンスカイハルウララくらいしか、青やピンクなどのアニメちっくな色使いはありませんでしたが、今回はメンコの色を髪色として解釈した形みたいですね(ハルウララもそうか)。メンコの色を髪色にしちゃえば、結構色々な髪色のキャラクターを出せそうではありますが、あまりやりすぎるのもモデルから乖離しそうで難しそうな気はします。

 

 ああ、そういえば、ゲームの情報も出てきましたね。とりあえず張っときますので、まずはこれを。


【ウマ娘 プリティーダービー】CM「誰より速く駆け抜けたい」篇 30秒ver.

 

 色々ネタにされつつ、興味なさそうな連中からいつも揶揄されていた(そういうのをTwitterでブロるのが趣味の一つと化していた私)アプリゲーム。その一応のリリース予定日(あくまで予定)がついに告知されました。

 OP映像の一部らしいとのことで、今だ謎なゲーム内容と合わせて、どのくらいゲームの内実なのかは判然としませんが、この映像自体のクオリティはすごい。特にレース印象が初期のものとガラッと変わっていて、アニメ寄りの疾走感。ほかも妙な巨大タイヤトレーニングとか、アニメ準拠な場面もあり、アニメの影響を結構感じる映像です。なんというか、アプリの方がアニメのゲーム化みたいな感じになっているような。まあでも、アニメが強烈な指標になったことは、それはそれでよかったような。ユルめのアイドルものの一つというよりは、美少女がガチで走り抜けるレースゲームとしての方が、独自のカラーがはっきりするような気もしますし。

 一応自分も事前登録者45万人のうちの一人なので、出たら触ってみようかなとは思っています。その時は初ソシャゲというやつですね。しかし、本当にどうなるのだろう、ドキドキです。

 

 

 最後の最後に一応、このウマ娘という企画の一番最初のプロモーションビデオも張っておこうかと。このなんだかヘンなPVが、なんだか遠くまで来たもんだという感慨がありますね。


ウマ娘 プリティーダービー プロモーションムービー

 

 あと、とてもいい動画を見つけたので。ちょっと感じ入っちゃいましたよ。


[8bit] ウマ娘の歴史

東川篤哉の青春ミステリ――バカで、愉快で、しょーもない。

 青春ミステリ、と云うと、とにかく苦いとか、甘酸っぱいとかそういうイメージで語られたり、またそういう思春期の感傷を含有したものがジャンルとしての特徴であるという認識が共有されている。そしていかにそれらがエモーショナルな形で描かれ、読者に青春の郷愁めいた感動を与えられるかどうか、それが作品評価の一つのモノサシとして、どこか当然のように受け入れられている。

 痛みや苦みこそ「青春」というのは確かにそうなんだろう。私もそういう作品で好きなものはたくさんある。しかし、「青春」とはそんな湿った側面ばっかりではなかったはずだ。「青春」にはもう一つの顔がある。バカで、愉快で、しょーもないという側面が。

 怠惰とくだらない冗談で日々をやり過ごし、しょうもない行動を恥ずかしげもなくとってゲラゲラ笑い合う。

 東川篤哉の書く青春ミステリは、実のところ真正面から「青春」を描いてるわけではない。しかし、そんなバカで愉快でしょーもない「青春」に包まれている。そういう意味では、わりと昨今では貴重な存在なのだ、たぶん。

 そんなわけで、私は東川篤哉の青春ミステリが結構好きだ。なんというか、登場人物たちのあっけらかんさが好きだし、挟み込まれるしょうもないギャグも好きだ。

 彼らは特にあれこれ背負ったり悩んだりとかはしない。事件に対して被害者とは知り合いでどうこうと、悲痛な思いや動機で臨むこともなく、基本は第一発見者で、事件だ事件だ、という感覚で探偵行為に首を突っ込んでいく。そこに後ろめたさは感じられない。純粋に事件が目の前にあったなら、解かねばならない、真相を知りたい。そういう好奇心で動く。よくある、探偵行為をする資格だの、真相を知ってそこにある種の内省を感じ入ったりとかもしない。

 あっぱれなくらいの能天気さで、しょうもないギャグと推理を連発しながら登場人物たちは突き進む。まあ、そこに鼻白む人はいるかもしれない。不謹慎と言えば不謹慎かもしれない。しかし、そこにはバカな彼らが、バカっぽくかつ野次馬的に突っこんでいく爽快さ、フィクションならではの、それでしか得られない楽しさがある。それに、何にも考えないで突っこんでいくというのもまた「青春」というやつではなかろうか。

 ナイーブで洗練された青春ミステリとは違う、どこか野暮ったくてオジサンくさい部分もあるシリーズ。深刻さがないぶん、何も残らないというケチはあるかもしれないが、なんかワイワイ騒いで特に覚えてはいないけど楽しかったな、というのもまた「青春」というやつではなかったか。むしろそんな野暮ったくてくだらない「青春」こそ、私たちの日常を染めていたような気もするのだ。

 あと、この青春ミステリのシリーズは日常の謎というよりは、不可能興味を含んだ殺人事件や未遂事件を扱ってるパターンが多めで、ミステリ的な仕掛けも、こじんまりとしたものより大雑把かつ大胆なものがあり(特に赤坂通が主人公の初期のほうは)、そこも貴重で好きだったり。

 

 というわけで、鯉ヶ窪学園シリーズという形で作品としてまとまったそれらの作品群を短く紹介していこうと思う。

学ばない探偵たちの学園 (光文社文庫)

学ばない探偵たちの学園 (光文社文庫)

  • 作者:東川 篤哉
  • 発売日: 2009/05/12
  • メディア: 文庫
 

  巧い具合に騙され、探偵部なるものに入部させられてしまった語り手の赤坂通。その赤坂をまんまと引き込んだ探偵部部長の多摩川、先輩の八橋という探偵部トリオが連続密室殺人に挑む、鯉ヶ窪学園シリーズの第一作。

  そういえば、この鯉ヶ窪学園、芸能クラスというのが存在して、実際にアイドルが存在している。スクルールアイドルーーラブライブを先取り*1したような設定ではないか(そうなのか?)。まあ、アイドルはあくまで盗撮犯が学園に侵入するためのもので、後々はどっちかというと死に設定っぽくなるのだが。

 とにかく、その学園アイドルを盗撮に来た芸能カメラマンが密室状態で死んでいるところから始まる二重密室事件は、特に第二の事件のトリックがなかなか面白い(どっかで見たような気もするが)。その真相に気づくシーンも含めてちょっと抜けた感じがこの作品らしい。

 それから、ただ単にドタバタしてるだけの迷探偵役のような探偵部トリオだが、一応、なんだかんだで真相の一部には到達するという塩梅も悪くない。また、三人の中では基本的に推理を外す役の多摩川部長だが、その妙な行動力だけは裏主人公な勢いがある。

 

殺意は必ず三度ある (光文社文庫)

殺意は必ず三度ある (光文社文庫)

  • 作者:東川 篤哉
  • 発売日: 2013/08/07
  • メディア: 文庫
 

 赤坂通主人公の第二作。 

 東川篤哉の野球へのこだわりが前作以上に炸裂した一品。ベース盗難事件という日常の謎的な発端から連続殺人が発生し、なかなか凝ったかつキレのいいバカトリックが楽しい。ロジック、そしてしょうもないギャグに潜ませた伏線も好調なハイレベルの一作。個人的には一番のおすすめ。

 ミステリ度的にはこの探偵部トリオの二作が高い。

 

放課後はミステリーとともに

放課後はミステリーとともに

 

  舞台は鯉ヶ窪学園だが、これまでの探偵部の面々はリストラ(?)され、代わりに探偵部副部長なる霧ケ峰涼というエアコンみたいな名前の主人公が語り手になり、連作短篇の形式をとる。ただし、顧問かつ一応の探偵役である石崎先生は続投という、なんともなイイカゲンさがイイ。

 また、主人公の変更とともに大きな転換点があり、それは先に述べた連作短篇形式を取ることと、なにより殺人事件が起こらなくなること。そこは昨今の“人が死なないミステリー”に合わせたのか、事件性があっても殴られて気絶するにとどめている。まあ、一つの学園で殺人事件が起こりまくるのもアレだというのもあったのかもしれない。とはいえ、テイストは変わらず、事件は不可能興味がちりばめられ、ハイテンションかつ、しょうもないギャグが事件を彩る。

 出てくるゲストキャラたちも相変わらずのどこか抜けた連中ばかり。特に、地学の池上先生がいい。UFOのこととなると普段のクールぶった態度をかなぐり捨てて、文字通りUFO狂いの狂態をさらすシーンは必見。彼女が出てくる「霧ヶ峰涼とエックスの悲劇」もなかなか面白い(バカな)短編になっている。あと、自称陸上部エース、足立の際立ったバカキャラぶりもなかなか。こういうキャラは生真面目な日常の謎ものではなかなか拝めない(まあ、特に拝めたからといって、すごいというわけではないが……)。彼が登場する「霧ヶ峰涼の絶叫」は真相自体もバカなので最高だ。

 全体的にはある傾向のトリックを手を変え品を変え使っている。殺人事件ではなくなった分、真相はしょうもないというか、ギャグ的なものが強くなっているが、それはそれで霧ケ峰のドタバタとマッチしている。

 

  『放課後はミステリーとともに』の続編。主人公は再び霧ケ峰涼。今回は涼の「ライバル」なるキャラが登場し、創作ミステリでバトルを仕掛けてくる話が何話か入っている。作中作という形で殺人事件を扱うというのは、苦肉の策だったのかもしれないが、創作ミステリで挑戦してくるという形式とキャラクターが、次の作品に大いに生かされることになる。

 霧ケ峰以外のキャラクターがなかなかいい感じに固まっていて、特に涼の「ライバル」大金うるるの登場でいっそうキャラクターたちのドタバタに拍車がかかる。真相のギャグっぽさも相変わらずで、楽しさでいったらこの作品がシリーズ一かもしれない。

 あと、霧ケ峰と赤坂の鯉ヶ窪学園新旧主人公の何ともいい加減というか、シレっとした感覚でなされる邂逅がなんというか著者らしいサービス。

 

君に読ませたいミステリがあるんだ

君に読ませたいミステリがあるんだ

  • 作者:東川 篤哉
  • 発売日: 2020/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  シリーズ最新作。今作も鯉ヶ窪学園が舞台だが、またもや登場人物は一新されている。今回は文芸第二部という、文芸部の影で妙な活動を独りしている水崎アンナと、文芸部に入るつもりが彼女に一方的に絡まれ、アンナの創作ミステリを読まされる語り手の“僕”がメイン。

 全体の構成としては、“僕”を執拗に自身の部へ引き込もうとする水崎が、ことあるごとに自分をモデルにした主人公の活躍(?)するミステリを“僕”に読ませる。そんな一年を、連作形式で描く作品である。

 なんというか、作中作というか、水崎アンナという女子高生の素人作という設定を巧く使い、普通ならボツにするようなネタを作品に仕立てていて、そこがなんというか巧い(ズルいともいう)。そして、彼女の描く事件の真相や作品のあちこちににじむ自意識のしょーもなさに笑っていると、最後でなかなかなミステリ的一撃が読者を打つ。

 それから、アンナの最後の「告白」だが、書く作家が書くのなら、それなりに甘酸っぱい叙情性を盛り込んで、それはそれで、というかむしろその方がこの作品はウケた気はする。しかし、そこは東川篤哉。ドン引きする人はしそうな、なんとも妙な強引さでドタバタへと持って行く。読み返せば、一応、伏線的な描写は冒頭でしてあるのだが、ちょっとぎくしゃくした終わりというのは否定できないかもしれない。

 ことあるごとに作中の犯人たちの動機を“僕”に突っ込まれ、アンナのかなりいい加減な取り繕いが、一つの笑いとなっている本作。だが、それゆえに最後に飛び出すアンナ自身の「動機」のインパクトは、作品の核となりうるいい演出だと思った。だが、肝心の作品の雰囲気というか、お笑いで扱うよりは、エモーション的な「青春」で扱った方がより生かせるものだった気はする。そういう意味では惜しい。

 とはいえ、東川篤哉の青春ミステリとしては、これが正しいのかもしれない。なんというか、関節を外したような、そのしょーもないけれどドタバタした「青春」の姿は、とても東川篤哉の青春ミステリらしかったのだから。

*1:本作は2004年 ジョイ・ノベルス刊