蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

細切れにされてゆく「わたしたち」

 最近、色んな積読をペラペラ見ては次に移るという感じで、なかなか一冊を読み切ることができないでいる。なんというか、無気力感もすごい。文字を追うのが酷く億劫でしかたがない。

 例のウイルスの影響は、地方の都市にも確実に忍び寄ってきていて、相変わらずマスクはないし、トイレットペーパーもマスクほどではないが、棚の空きが目立つ時がある。久々に足を運んだ書店のレジにはビニールの覆いが設置されていた。映画館もついに自粛で入ることができなくなった。

 とはいえ、自分の生活が劇的に変わったというわけでもなく、ただダラダラそんな状況を横目にしつつ目の前の生活にしんどさを感じ、日々減退していく読書量を嘆いている。本当に自分は本が好きなんだろうか、本を読んでなんになる、そんな思いがやたらと頭に浮かぶが、自分には本を読むくらいしか取り柄がない。そういうふうにして、本当のところ、たいした取り柄ではないものに縋り付きながら、ズルズルと後退戦をしているような気がするが、もうどうしようもない。以前ほど読めないが、それでも本を手に取る。

 今ペラペラつまみ読みしている中途半端な本の一つにオーウェルの『あなたと原爆』(光文社古典新約文庫)がある。これはなかなか面白いというか、オーウェルの鋭くて広い視線が今読んでいる自分に突き刺さる。原爆や科学について、スペイン内戦回顧、そしてナショナリズム。そこに展開されるオーウェル指摘は今の世界の近似だ。

 ネットへの期待とそれによる分断も、世界を結ぶ技術が通ってきた繰り返しの一つであり、かつて「国境を無効にした」といわれた飛行機が、実際には本格的に兵器になることで国境をよりくっきりとさせ、国家間の理解や協力を押し進めると期待されたラジオも、ある国をほかの国から分離する手段となる。そして網というよりは、細かいセル状になった世界の中で醸成されていくナショナリズム

 記録された歴史の殆どが多かれ少なかれが嘘である、という言い方が最近の流行である――それは、オーウェルの当時から今でも“最近の流行”だ。そして私たちが生きているこの時代に特有なのは、歴史が正しく書かれうるのだ、という考えの放棄であり、それは今でもこの国ではびこっている歴史に対する認識でもある。そこにはそれでも双方が本気で相手を否定したりはしない中立的事実ともいえる共通基盤はない。

 歴史だけでなく、国と国、人と人を包括する共通基盤といえるようなものが砕かれ、細かな「共通基盤」によって人々はクラスター化していく。しかし、細切れにされた「わたしたち」は自分が信じる単純化された“強いもの”を核に寄り集まってしまう。なんというか、共通基盤という台地の上で個人がやり取りし、くっついたり離れたりを繰り返すモデルが崩れ、宇宙空間に投げ出された個人は巨大な「核」に引き寄せられるようにして、結局は細切れにされつつも単純な集団となって衝突を繰り返している――そんな感じだろうか。

 オーウエルはナショナリズムについて、ナショナリストはただ強者の側につくという原則で行動しているわけではない。むしろ逆であって、いったん自分がどちらかの側につくか決めたなら、ナショナリストはそちらの側こそが強者であると自分で信じ込むのであり、事実が圧倒的に不利な場合でも自分の信じたことに固執するのだ、と述べる。そしてナショナリズムとは自己欺瞞によって強化された権力欲だと。

 複雑なものを複雑なまま受け入れることができる社会のことを鈴木健は「なめらかな社会」と定義づけていたが、それが到来するのはいつの時代になるのか。

 細切れにされたわたしたちは、自己欺瞞によって強化されたより単純な権力欲にとりつかれているように思える。ネットは網ではなく、ただただ単純な方向へと細分化していくためのシステムと化している。

 わたしの中の「つよい一つ」に取りつかれがちな中で、だからこそ、億劫だと愚痴をこぼしながらも、なるべく多くの本を、時間や空間を越えた誰かの言葉を私は求めざるを得ない。自分とは縁もゆかりもない、時間も空間も離れた遥か彼方の様々な人々の言葉こそが、一つに向かう重力に対抗するすべであると信じるから。物理的にも人が遠くなってゆく中、私を中心にした他者の言葉の網目をコツコツと編んでゆくことにしたい。

 なんだかんだで、私はまだ、本を読むことを止めたくはないのだ。

 

モノトーンの幻影:ブッツァーティ『神を見た犬』

 つまり、私たちが書き続ける小説や、画家が描く絵、音楽家が作る曲といった、きみの言う理解しがたく無益な、狂気の産物こそが、人類の到達点をしるすものであることに変わりなく、まぎれもない旗印なんだ。

 このうえもなく無益だろうとかまわない。いや、むしろ無益だからこそ重要なんだよ。

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

 

  ブッツァーティーといえば『タタール人の砂漠』ということらしいのですが、バーナード嬢曰くで紹介されていて興味を持ちつつも未だ読んだことがなく、光文社古典新訳文庫のこれが私の初ブッツァーティーとなりました。

 納められている22編はどれもモノトーンな趣きながらも多彩で、現実の中に溶け込む幻想のさじ加減が絶妙。そしてその現実と幻想の混じり合いの果てに、どこか寓話のような手触りを作品に与えています。不条理感も確かにあって、カフカ云々といわれたりするのも分からなくはないですが、カフカよりはどこかまとまりがあって、とっつきやすさはあるような気はしますが。

 彼の作品は、全体的に緩やかな形で死や老いをはじめとして終焉に向かうものや、なぜかそうせざるを得なくなってしまった人々を描き出します。その代表が「七階」や「神を見た犬」でしょう。「七階」はゆるやかに死へと向かう感覚というか、なにか逆らいがたい流れに沿って引っ張られてゆくのです。ある種の不条理ですが、それは死もまたそうであるわけですね。

 「神を見た犬」は、なんてことないはずの一匹のみすぼらしい犬に、村全体が支配されてゆく様子を描く。これもまた、なぜかそういう状況にどうしようもなく流されてしまう人々の行き着く果てを描いています。滑稽なはずなのに、どこかやるせない作品なのは、多分人間の本質の一部を切り取っているからでしょう。

 一方、寓話的な色合いが強いのが「コロンブレ」や「戦の歌」とかでしょうか。そして、背広の右ポケットからお金が出続ける「呪われた背広」や神によって最高指導者の地位にいると死んでしまう状況から生まれる平和「一九八〇年の教訓」、相手のイデオロギーを自分たちと同じくする兵器による顛末が苦笑を誘う「秘密兵器」など、フックの利いたアイディアからオチなのも含めて星新一のショート・ショートめいたテイストがとても楽しい。

 それから、天国の聖人たちをテーマにした可笑しみや何とも言えない寓話的な感情に訴えかけるお話群も好い味わいです。

 そして、個人的に大好きなのが「護送大隊襲撃」です。仲間たちに見捨てられた山賊の首領と彼を慕う青年の生と死のはざまに現れる幻影の風景がとても素晴らしいのです。ブッツァーティの淡々とした筆致で現実から幻想へと塗り替えられる瞬間がどこか清清しくて、老いた山賊が護送大隊を襲撃しようとしてあっさり死ぬ話なのに、どこか明朗でさえあるのです。

 それから「驕れる心」も個人的になんか好きな話です。司祭と人から言われたことで気持ちよくなってしまうことで罪の意識を感じ、懺悔しに来る青年とそれを許す老司祭。青年の懺悔する気持ちよくなってしまう名称は司教や枢機卿へと変わってゆき……という展開で、最後がどういうことになるのか察しつつ読むのですが、何故かジンと来てしまう不思議な話。老人たちが抱き合う姿に、どこか静謐で尊さのようなものを感じてしまうのです。

 「戦艦《死》」もまた、状況が人を縛る話ですが、謎の転属を受けた兵士たちの行方と《作戦第9000号》という作戦名、そして明らかになる決戦兵器の存在――どこかSF的な超兵器に謎の敵という構成要素が楽しい。そして、状況に飲み込まれた人々が、幻影の霧をくぐってゆく描写はやはり巧い。

 「マジシャン」の創作に対する今も昔も変わらない状況と、その愚痴の果てに出てくる、トップに引用した文章は、著者の小説を書く者としての堂々たる宣言の様で、お話全体もどこか温かみを帯びた、そんな創作者たちの肩を叩くような作品となっています。

 どれも、どこか淡い質感を伴った筆致で描かれていますが、その淡々とした中から、シームレスに幻影に導かれるような感覚がなかなか良かったですね。なんというか、著者が吹き出す紫煙の中に見る幻影の世界、そんな感じでしょうか。

王と神:浅倉秋成『教室が、ひとりになるまで』

教室が、ひとりになるまで

 

私が目指したのは、教室を一つにすることではなく、教室をひとりにすること。 

 

 素晴らしい作品であり、青春物語だった。

 帯に書いてある通り、“最高”のクラスを巡る物語だ。主人公のいるA組と隣のB組、二つの教室は合同で様々なレクレーション企画を催し、そしてそれは全員参加で盛り上げるものだった。もうそれだけでゲーっとくる人も多いだろう。分かる、分かるよ。そんなのは一部の人間が盛り上がるだけで、いわばクラスの上位連中のイケてる俺たちパーティ。それにおけるモブでしかない人間はクッソ面白くなんてねーよ。

 まあ、そうだ。最初からこの“最高”のクラスは胡散臭い。しかし、いちいちそんなことを主人公にダラダラ指摘させて、私みたいな陰キャ読者に寄り添うような野暮いことはしない。その辺はただ、その“最高”のクラスとその中心を淡々と写すだけだ。そして、主人公もまた終始、そんなクラス自体をどこか無関係のように距離を取っている(そのぶん、溜めて溜めて、ラストに決壊はするのだが)。

 そして、この作品は抑圧されるボクらというものよりは、“最高”のクラスの欺瞞性は、上位の人間――いわばジョックス側が一方的に押し付けてくるわけでもない(まあ、ジョックスの一人、八重樫君はかなりヤバイサイコ野郎だと思う読者は多いだろうが)、ということ、そして「抑圧される側」の方にも、ある種の罪というか、欺瞞性があり、一方的な被害者ではないことを明らかにしてゆく。

 連続自殺事件という冒頭から、スクールカーストを軸にしたオーソドックスなミステリっぽく開幕する本作だが、主人公に届く手紙によって、その雰囲気はガラッと変わる。そして、事件の「犯人」は意外にも早く判明する。しかし、そこからが本番というか、犯行方法を巡り、どこか得体のしれない犯人との緊張感のあるやり取りがとてもいい。どこか静かなバトル的展開。主人公と犯人のどこか冷たい戦いは、とても読みごたえがあるし、主人公が犯人の手口を見破る場面は映像的でバシッと決まった好きなシーンだ。そしてそのシーンですらも、どこか冷たいガラスのような雰囲気は崩さない。

 ラストの展開は、犯人の処遇を含めていろいろ意見が分かれるかもしれない。でも、だからこそいいのではないかと思う。加害性や被害性をどんな人間も抱えて生きている。それは一方の側に所属するとか、そういうわけではないのだ。そして、分かり合えない者とは永遠に分かり合えない。しかし、歩み寄ろうとすることはできるのだ、八重樫のように。それが解決になるかはともかく。

 それから、この作品は「一人でいること」を否定する。ただ、孤独ではダメで、みんなと一緒にいましょうという単純なメッセージでもないだろうと思う。一人になりたい、でも一人で居続けることはできない。メルヴィルの『白鯨』じゃないが、ぶつかり合いながらも肩をたたき合って生きていくしかない。一つにまとめ上げられる力ではなく、一人一人が誰かと手をつなぎ合うこと。一つとひとり、その相克を隣にいる“あなた”に託すことでこの物語はほんの少しの風が吹き抜けるようにして終わる。

 それがはたして希望なのか、それは読者の判断にゆだねられるだろう。

 

あらすじ

 垣内友弘のクラスでは、生徒の自殺が相次いで起きた。自殺者はいずれもクラスの中心的人物たちで、クラスのレクレーション企画を牽引していた者たちだった。

 三人目が自殺してから学校に来なくなっていた幼馴染、白瀬美月の様子を見に行ってくれと半ば強制的に担任から頼まれた垣内は、その白瀬から奇妙な話を聞く。A組と隣のB組で定期的に行っているレクレーション、その仮装パーティの時に死神の姿をした人間から、自殺した二人は自分が殺したのだと告白される。そして三人目として「一人目の候補は山霧こずえ、そして二番目の候補者は――あなた」

 唖然としている白瀬に、死神は山霧こずえでいいのね? と言いながら彼女のもとを去っていった。そして、山霧こずえは自殺し、白瀬は学校に行けなくなった。

 自殺者は全員同じ文言を残して自殺している。「私は教室で大きな声を出しすぎました。調律される必要があります。さようなら」すべては、殺人者の仕業なのか。

 同時に垣内は差出人不明の手紙を受け取る。そして、その手紙が、垣内を事件の渦中へと向かわせることになる。はたして、殺人者は存在するのか、そして奇妙な遺言書はなにを意味しているのか。

 

※ここから先はネタを割る形で話すので、そのつもりで読んでください。

  まあ、だらだらした解説もどきですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 主人公の垣内が差出人不明の手紙を受け取るところから、代々学校の間で受け継がれてきた力を巡る、いわゆる能力バトルものの展開になるわけだが、このちょっと意表を突いたプロット展開が面白い。そして、自分以外の能力の受け取り人を探す犯人捜しを経て、メインはその犯人――檀優里の受け取った能力とは何か、という方向へと収束する。彼女の能力については、伏線も丁寧だし、主人公たちが受け取った能力レベルだと考えれば大体は検討はつくかもしれない。とはいえ、終始冷たい死神然とした態度を崩さない檀優里とのやり取りは、とても緊張感がある。

 そして、教室が一人になるまでという題名におけるテーマ性が面白い。檀優里は教室を王をトップとしたカースト制だと説く。そして、別種の動物が閉じ込められている檻だとも。別種の動物とは分かり合うことはできない。だからこそ檀優里は彼らを殺そうとする。相手が自分を脅かそうとするならば、相手にいなくなってもらわなくてはならない。

 そして、彼らの王を頂点としたシステを覆すために、別のシステムを上書きする。檀優里は王の上に神を――教室に神を作ろうとする。それは、大きな声を出すものを粛正する死神だ。そして、教室は全員が平等の“ひとり”の空間となる。

 檀優里は受け取った力によって自分の意志で神が支配するシステムを教室に生み出そうとした。一方、王のシステムは自然発生的だ。それは、カーストのトップにいる人間たちが自らの意志で支配するのではなく、こういうポジションだから、そうしなくてはならない、そういう目に見えない力に動かされることで、王をトップとしたカースト制がシステムとして出来上がる。そして、八重樫が言ったように「下」にいる人間たちが、自分たちが「下」だと思い続けることでシステムは維持される。だからこそ、このシステムは普遍的で、教室だけの話ではなく、これから一生ついて回ると檀優里は説くのだ。

 ひとりがひとりでいていいユートピア。それは無理矢理創り出した一過性のものでしかない。しかし、学校にいられる間だけはひとりでありたい――それが檀優里の王のシステムへの絶望の深さであり、王のシステムに押しつぶされた小早川燈花への弔いでもある。ひとりであれば、役割を強要されなければ小早川は死なずに済んだのではないか、という思いが恐らく檀優里にはある。

 王のもとで一つであろう、という同調圧力にたいして檀優里がとった行動は、死をちらつかせてひとりであろう、という同調圧力となる。それは、一つのルールを順守させるということでは、同じようなものだ。

 分断されることで得られる安寧、というのは確かにある。垣内もまたそういう人間であるし、スクールカーストという王の制度に憤りを感じる読者もそうかもしれない。しかし、この作品は主人公たちを抑圧される側として一方的に描かない。垣内たちの、ひとりであることの醜さもまた描く。このままみんなが死んでくれたらすっきりする、いっそみんな死ねばいい――神のシステムはそういう思いのもとにあるのだから。

 しかし、垣内は最後の最後までひとりであることに拘る。半身であった檀優里を「殺し」てさえも、ひとりに拘った垣内だが、同じような人間だと思っていた学校外の人々に裏切られるようにして失望の中に落ちる。この辺の構成は幻影が解ける感じで、檀優里の能力を軸としたミステリ部分と重なる感じでとても良い。

 本当のところ、垣内は完全なひとりではなかったのだ。ひとりであろうとしながら、結局は同じようだと思っていた人間に面倒のない程度で寄りかかっていただけだ。最後の最後で、垣内はひとりであることの孤独さを突きつけられる。

この世界、近くに人がいるのは叫び出したくなるほど煩わしくて、でも――一人でいるのは耐えられないくらいさみしい。

  そして、そんな垣内に公園で出会った白瀬は声をかける。大丈夫、生きていけるよ、と。ひとりでありたいけど、ひとりではいられない。その抱えた矛盾によって垣内が奔走したことにより、白瀬は救われた、だから大丈夫だよ、と。

 その言葉を引用して、この長々とした拙文を終えようと思う。

「私は、丘を降りるよ。でもそれは別々に生きるとか、決別するとか、そういうことを意味しているわけじゃない。私たちはそれぞれの人生を生きるけど、時折、都合良く、いつだって肩を貸し合うようにして一緒に生きていける。 辛いときに手を差し伸べてくれてありがとう。 今度は私がお返しをする番だから、垣内が本当に辛いと思ったときは、いつだって声 をかけて」

 

悪魔のドールハウス&箱庭:映画『ヘレディタリー/継承』&『ミッドサマー』

※軽くネタバレとか踏んでいると思うので、そのつもりで読んでください。

 

 

 

 

 悪魔がドールハウスや箱庭を作っている。そこには一見、影や悪意の気配はしない。だが、普通とはどこか違う匂いが少しする。悪魔はそこに心が傾きそうな人形を入れ、その心を針でつつく。やがて、それらは歪み、変貌してゆく。そして、ついには人形――人間を異様な世界へと連れ去ってしまうのだ。

 悪魔は名を、アリ・アスターという。

 アリ・アスターが監督した『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』、これらにあるのはドールハウスや箱庭のような異界の感覚だ。ヘレディタリーでは冒頭、ドールハウスの中に登場人物たちがいるというショットで直截的に示され、『ミッドサマー』は、ホルガ村という舞台そのものが箱庭的な感覚を常時見せつける。

 というか、彼の作品自体がどこかハコ的な感覚を纏っているといっていい。昼から夜へ、静謐な雪色の森から電話のコールが鳴り響く街の夜景へと唐突にジャンプカットする演出は、背景の円盤を回せば切り替わる仕掛け絵本のような、もしくは一気に紙を引いてしまう紙芝居のような、背後に世界を自由に操作しえる語り手の存在を強く感じさせる。そんなハコのような映画を映画館というハコで観る。だから、彼の映画を映画館で観るというのは、それだけで合わせ鏡のような異様な体験ができてしまうように感じるのだ。

 ヘレディタリーもミッドサマーも登場人物たちは何者かに操られ、もともとが不均衡な心を蝕まれ、ついにその心が破砕されることで、“向こう側”へと足を踏み入れる。アリ・アスターウィリアム・フリードキンと同じく向こう側を希求している監督だと思われる。しかし、両者の決定的な違いは、アリ・アスターは、渡ってしまった、という感覚を祝祭として描く。

 ヘレディタリーもミッドサマーも、登場人物たちは、自らの意志というよりも、外部からの意志に導かれるようにして一線を越える。それは徹底して、作られた世界に据えられている人形のような扱いだ。しかし、その超えた先に彼らを待っているのは祝福なのだ。そしてそれが、観る者のなかに何か見てはならなかったような感覚として映画が終ってもべっとりと残る。

 二つの映画のアウトラインはカルト教団に操られる主人公たち、というシンプルなもので、ホラー映画としてはある種の合理的な枠組みに収まっていると行っていいかもしれない。しかし、アリ・アスターの映画は、その操りの構造が観ている側の背中に張りついているような感覚を覚えさせる。それは先ほど述べたような映画との合わせ鏡のような感覚で、自分の世界の外側をふと意識してしまうような、もしかしたらそんな異界からの呼び声に応えてしまうかのような怖れ。だから、すべてはカルトの仕業だったというオチにミステリ的な解決の安堵のようなものはなく、そのカルトを含めて操っている世界の外側を意識する。そしてそこにあるのは神ではなく、悪魔なのではないか、という恐れ。

 さらにいってしまえば、それは悪魔に祝福されてしまう恐怖、なのかもしれない。

 

 

 

 ……まあ、これは自分の二つを大雑把にまとめた妄想みたいな感想なのでともかく、恐怖のディテールやじわじわと、そしてあっという間に日常が異界に塗り替えられる感覚としてヘレディタリーの方が好みではある。なんでもない暗闇の恐怖とかも。ミッドサマーのまばゆさの中に平然と居座る恐怖とかも悪くはないが、どっちかというとその箱庭的な村のディテールを見ていく楽しさの方が上回っていて、恐怖感というと自分としては一歩譲るのかな、と。まあでも、どちらも不安定な人間の心を針でつついていくようなヒリヒリしたイヤな感じは甲乙つけがたいですが。

ミステリ感想まとめ2

 ここ最近読んだミステリの感想をざっと上げていこうかな、と。結構避けがちなミステリ感想ですが、そこそこ読んでて、感想書いてないのが溜まってきたので。まあ、軽く触れる程度に。

 

電氣人閒の虞 (光文社文庫)

電氣人閒の虞 (光文社文庫)

  • 作者:詠坂 雄二
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2014/04/10
  • メディア: 文庫
 

  名前を読んだら現れて、電気で殺す――電気人間という都市伝説を巡る一風変わったミステリ。噂を追いかける人々が次々と被害者になり、最終的にフリーライターと作家がその噂を追いかけるパートを経て、物語は電気人間のお話として幕を閉じる。人を食ったようなラスト二行の効果は正直好みのものではないのですが、「噂」や「物語」をパーツとして作り上げられる構造自体は面白いですし、下の『狐火の辻』とはまた違った形での、虚と実の関係性が見られます。

 

狐火の辻 (角川書店単行本)

狐火の辻 (角川書店単行本)

 

  竹本健治の最新作。こちらも噂、そして偶然をテーマにした作品。氏の作品は『将棋殺人事件』を偏愛しているのですが、こちらもまた、「将棋」と同様にそれ自体があやふやな噂というものの存在を追いつつ、何かが起こっているのか判然としない、しかし確実に何かは進行している、という境界線上をゆらゆらとたゆたう感覚が楽しめます。

 今作は、将棋以上に出てきた要素たちがまとまったミステリとしてある一定の形を取るのですが、その事件の構造そのものというよりは、ゆらゆら揺れていた偶然や噂などの実態のあやふやなファクターが、いつの間にか実事件を現出させてしまう、そんな虚から実が生まれ出るような奇妙な体験ができる作品になっていると思います。

 一応、シリーズ探偵の牧場智久は登場しますが、登場シーン自体は控えめ。メインは追跡者を追跡する男にまつわる噂に触れた中年男女たちで、居酒屋で噂の出どころなどを色々と検討する居酒屋探偵団的な雰囲気が楽しい。

 

朱の絶筆~星影龍三シリーズ~ (光文社文庫)

朱の絶筆~星影龍三シリーズ~ (光文社文庫)

  • 作者:鮎川 哲也
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/13
  • メディア: Kindle
 

  鮎川哲也が生んだ名探偵の一人星影龍三シリーズの長編最終作。長編は三作しかないし、『りら荘事件』と『白の恐怖』を読みついにこの作品に手をつけました。原型になった短編作品の方を読んでいたので、メインのトリックや犯人は分かって読む形になりましたが、それでもなかなか楽しめました。分量が増え、傲慢な作家に遺恨を持つ人物たちを名前を伏せてじっくりと描き、事件が起きてからようやくそれらが誰なのか判明していく趣向は、ミステリとはそこまで関係はないですが面白い趣向でした。

 サブの毒殺トリックは単純ですが、なかなかうまい手。そして、作家以外の被害者たちがなぜ殺されるに至ったのか、その殺しの動機に対する伏線は、メインのトリックと結びついて見事。読者への挑戦のあと、満を持して現れる名探偵星影隆三は、今回も外部からやってきてあっという間に謎を解きます。今回は電話越しといういつにも増した簡潔さ。

 しかし、これで星影隆三は短長編含んでほぼほぼ全部読んでしまった……軽い達成感とともに、なんだか寂しいような。

 

錬金術師の密室 (ハヤカワ文庫JA)

錬金術師の密室 (ハヤカワ文庫JA)

 

  錬金術が存在する世界で、行われた錬金術師殺害事件。現場は三重の密室。そして、謎を追うのは被害者と同じ錬金術師。

 昨今、特殊状況ミステリの作品が増えつつあり、ファンタジーミステリというジャンル作品も多数刊行されています。本作もそんなある特殊な条件を前提にしたミステリ。

 とはいえ、錬金術というファクター以外は、おおむねストレートなミステリの展開を踏み、錬金術で超バトル! みたいな展開はないです。捜査も容疑者を順々に聴取していく堅実なもの。まあ、時間制限内に事件を解決できないと死刑とか、思わぬ襲撃者に遭遇するとか、そういう要素はありますが。

 錬金術師を巡る国家間のパワーバランスや彼らを擁する様々な国家の面白そうな設定が垣間見えますが、今はまだ垣間見える程度。

 トリックは分かる人はわかるとは思いますが、それを主人公コンビのとある設定面の二重写しにして、主人公たち自身の物語を浮かび上がらせている点などはなかなか良いと思います。なんというか単なる破天荒探偵とツッコミ助手という以上の、コンビの必然みたいなのが盛り込まれているのが良いですね。とても読みやすいですし、ファンタジー・ミステリに興味があるならぜひ。そうでなくてもスタンダードな本格ミステリ味を感じられる作品だと思います。

 色々とこれからという感じなので、売れて続きがかかれるといいなあ、という作品です。

舞阪洸『彫刻の家の殺人―御手洗学園高等部実践ミステリ倶楽部〈2〉』

彫刻の家の殺人―御手洗学園高等部実践ミステリ倶楽部〈2〉 (富士見ミステリー文庫)

 御手洗学園シリーズ第二弾。今回もまた、実にストレートな本格もので、登場人物表に見取り図に、読者への挑戦もついております。

 クオリティも前作に勝るとも劣らない秀作なので、こちらも本格好きにおススメしたいですね。

 今回は長編ということで、結構ゆったりと進み、事件が起きるのは二百ページ以降になってから。色々とエピソードはありつつも、そこまで事件に関係ありそうな話はあんまりないような、と思いつつ読み進めていましたが、それがきちんと伏線になっているところはなかなか。

 ジャグジーの中で発見された被害者は何故水着を脱いで、あるいは脱がされていたのか。水着は何故ジャグジーではなく、離れたプールの中に沈んでいたのか、という謎が設定され、奇妙な状況かつ伏線となっている手際はなかなかです。

 そして今回もまた、動機に関する部分が物語としての芯を通していて、その動機がメンバーにも波及してくるため、事件がより一層主人公たちと骨がらみになっている点がいいですね。あとがきによると、著者はエラリー・クイーン好きらしく、本格としてのこだわりみたいなものが伺えるそのあとがきも、なかなか読みごたえがありました。

 外装だけでなく、きちんとした骨格の古典ミステリを作ろうという著者の思いがあふれた作品となっていて、なかなかいい作品ですので、こちらもまた見つけたら手に取ってみることをおススメします。キャラクターがちょっと軽薄なところはありますが(特に今回の漫画家小説家コンビはスベリ気味)、締めるところは締めていますので、まあそこは過去のキャラクター小説を概観するようなつもりで。

あらすじ

  部長の西来院有栖の誘いにより、伊豆半島にある〈彫刻の家〉と呼ばれる館のパーティに参加することになった伊場薫子以下、実践ミステリ倶楽部の面々。館の主にしてサイケイグループ代表取締役の柴京遊薙(さいきょう ゆうなぎ)の誕生パーティは特に問題もなく過ぎてゆくかの思えた。今回ばかりは行く先々で死を呼ぶ男、榛原夏比古を死は避けるのだろうか。しかし、やはり事件は起こってしまう。

 被害者はプールの上階にあるジャグジーで発見される。その遺体は全裸であり、着ていたと思われる水着は下のプールの中に沈んでいた。どこか奇妙な状況。しかも、関係者全員にアリバイが成立してしまう。クラブの特別顧問、村櫛天由美はこのある種の不可能状況にどう挑むのか……。

 

感想 ※今回はかなりネタを割って話す部分がありますので、どうぞそのつもりでお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回もなかなかのクオリティで、著者のミステリを書くセンスは確かなものがあると思います。氷の彫像に水着を着せてアリバイを作るというオーソドックスなトリックではありますが、それを不可解な死体の状況として演出し、またそれによって解体する手つき。そのための状況設定などもいい。みんながプールの氷像を被害者と誤認しているシーンでの真赤な夕陽の描写も、禍々しさの予感の演出とともに、正にその時トリックが行使されていたという瞬間として読者に刻み付ける筆致が巧いですね。

 今回は死体が発見されるまで二百ページ弱あるのですが、その中のよけいとも思われる行動こそが犯人を特定する伏線になっていたりと、ゆったりとした中のエピソード自体を手掛かりとする、そういう部分もまたミステリ作法としてうれしい。

 そして、あとがきでクイーン好きと語っていることが伺える二重底の解決。父の復讐心を操る幼い娘という構造が浮かび上がり、同時にこの解決が思わぬ動機を明らかにします。単に自分がしている投資の資産を増やすために、祖母を殺すことを父に示唆するという娘の無邪気で、だからこそインパクトのある動機。そしてそれが、冒頭の有栖の家や有栖自身が投資によって生活している設定の話と結びついて、投資仲間でもあった少女のその動機が、有栖に思わぬ形で向かってきます。それによって、前回以上に事件がメンバーに迫ってくる形となっています。特に有栖にとっての事件となったことで、今回は前回では警察から情報を引き出す以上の役割があまりなかった有栖の回と言えそうです。

 そういうふうに事件とメインの登場人物を結びつけることで、物語とミステリをきっちりと結び付け、作品としても芯の通ったものになっていたと思いました。そういう、物語構成もなかなか巧いな、と。

 結局、このシリーズはこの作品で事実上打ち止めとなっていて、著者自身は第三作を書く意思があったようなので、とても残念です。東京創元社あたりが拾ってくれなかったのかなあ……と今さらながらに慨嘆してしまうのでした。

富士見ミステリー文庫の隠れた良作:舞阪洸『亜是流城館の殺人―御手洗学園高等部実践ミステリ倶楽部』

亜是流(あぜる)城館の殺人―御手洗学園高等部実践ミステリ倶楽部 (富士見ミステリー文庫)

 かつて富士見文庫にはラノベのミステリーレーベルという存在があった。富士見ミステリー文庫。自由な形で様々な快作珍作含めたライトノベルミステリが生まれ、そして消えていった。そんななかで、本格ミステリとしての結構を備えた作品も多数刊行されていた。そして、この作品はそんな直球のミステリとして申し分のないクオリティを示していて、本格好きはもしどこかで手に取ることがあったら是非読んでみて欲しい、そんな作品なのだ。

 あらすじ

 御手洗高校に進学した伊場薫子は、ミステリー作家になる夢を秘め、一年生狙いのサークル勧誘の中を彷徨っていた。目指すはミステリ倶楽部、そこなら創作について色々と話が聞けると思ったのだ。しかし、それはなかなか見つからない。ぐるぐる彷徨う雑多な人の渦の中、突き飛ばされて尻もちをついた薫子は、メイド姿の麗人に助け起こされる。助けられたついでにミステリ倶楽部の場所を聞く薫子だったが、メイドに教えられた倶楽部の場所として、何故か洋館にたどり着いてしまう。なんで学校の敷地に洋館が……そう思いながらも足を踏み入れた薫子は、執事とメイドを控えさせるその洋館の主にして、“実践”ミステリ倶楽部の部長、西来院有栖に見込まれ、いつの間にか実践ミステリ部に入部することになってしまう。

 有栖を部長とし、薫子を導いたメイドの服の麗人――女装男子である榛原夏比古、そして、大学院生でありながらなぜか有栖の洋館に入り浸る村櫛天由美という個性の強い人物たち。おまけに彼ら実践ミステリ部とは、薫子が思うようなミステリ倶楽部ではなく、実際にミステリのような事件に探偵よろしく介入し、解き明かす倶楽部だったのだ。

 「殺人を呼ぶ」体質である夏比古、そしてその家のコネクションで警察から強引に情報を聞き出す令嬢の有栖。何故か特別顧問として入りこんでいる大学院生の天由美。そんな実践ミステリ倶楽部のメンバーの中に組み込まれた薫子は、やがて実際に事件に首を突っ込むことになってしまうのだった。

 

感想

 富士見ミステリー文庫の作品の中でも、かなりきちっとした本格ミステリになっているのではないでしょうか。ちょっと古臭いジャンプネタとか軽薄な表層を装いつつも、確かなミステリに対する力量を感じさせる作品です。ただ、女装男子に対する冷やかしみたいなしつこいネタ描写は、今となってはジャンプネタ以上に鼻につく人も多いでしょう。

 “御手洗”学園やナツヒコやアリスなど、本格ファンへの目くばせ的なものがあるように、著者の新本格ミステリに対する思い入れが伺えます。霧舎学園やアリスガワ学園といったネーミングの先駆だったり、死神体質の人物を使って事件に介入していったりと、メフィスト的なものも感じたり。

 本作は中篇の「完全密室の死体」と表題作の二本立てで、いずれもミステリ作家の別荘を訪れた先で遭遇し、被害者は作家という薫子の憧れの存在。

 現場はどちらも密室状況で、表題作にはきっちり見取り図もついています。

 事件当時の状況を少しずつ整理していくことで、不可能興味が浮き上がってくるワクワク感。そして、その状況の矛盾を、ある視点を導入することで解明の道筋へと一気に開ける推理の感興が、伏線回収とともにきっちりと決まっていて、なかなか基礎のしっかりとした良作です。

 そして、この作品、意外と芯がしっかりとしているというかドタバタコメディ的な中に生真面目な部分があって、それが探偵役である村櫛天由美のキャラクターです。彼女は、どことなくミステリアスな部分を持ちつつ、いつもは有栖の執事にビールを所望してはそれをぱかぱか飲み干す豪快な酒豪なのですが、「完全密室の死体」の事件後に薫子相手に自身の夢を語るセンチメンタルな部分が印象に残ります。

 また、彼女は動機についてあまり語りたがらず、動機というものは、本来分からないものを他人が不安だから納得するためにでっち上げていると語ります。とはいえ、どちらの作品にも読者を「納得」させるような動機は語られ、それによって一見軽めに見える雰囲気の作品に芯を通す形にはなっています。

 しかし、それでも動機というものは、本人にもわかっているようでわかっていないものなのではないのか、届きそうで届かない犯人の心の裡を、どこか遠くを見やるように語る彼女の存在は、この作品をより印象深いものにしています。

 そして、彼女が作家なるモノに思いをはせる、はっきりとは語られないものの、それとなく示唆された背後の物語がまた、作品に厚みを持たせています。単純に憧れている薫子との対比もまたいい感じです。