蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

モノトーンの幻影:ブッツァーティ『神を見た犬』

 つまり、私たちが書き続ける小説や、画家が描く絵、音楽家が作る曲といった、きみの言う理解しがたく無益な、狂気の産物こそが、人類の到達点をしるすものであることに変わりなく、まぎれもない旗印なんだ。

 このうえもなく無益だろうとかまわない。いや、むしろ無益だからこそ重要なんだよ。

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

 

  ブッツァーティーといえば『タタール人の砂漠』ということらしいのですが、バーナード嬢曰くで紹介されていて興味を持ちつつも未だ読んだことがなく、光文社古典新訳文庫のこれが私の初ブッツァーティーとなりました。

 納められている22編はどれもモノトーンな趣きながらも多彩で、現実の中に溶け込む幻想のさじ加減が絶妙。そしてその現実と幻想の混じり合いの果てに、どこか寓話のような手触りを作品に与えています。不条理感も確かにあって、カフカ云々といわれたりするのも分からなくはないですが、カフカよりはどこかまとまりがあって、とっつきやすさはあるような気はしますが。

 彼の作品は、全体的に緩やかな形で死や老いをはじめとして終焉に向かうものや、なぜかそうせざるを得なくなってしまった人々を描き出します。その代表が「七階」や「神を見た犬」でしょう。「七階」はゆるやかに死へと向かう感覚というか、なにか逆らいがたい流れに沿って引っ張られてゆくのです。ある種の不条理ですが、それは死もまたそうであるわけですね。

 「神を見た犬」は、なんてことないはずの一匹のみすぼらしい犬に、村全体が支配されてゆく様子を描く。これもまた、なぜかそういう状況にどうしようもなく流されてしまう人々の行き着く果てを描いています。滑稽なはずなのに、どこかやるせない作品なのは、多分人間の本質の一部を切り取っているからでしょう。

 一方、寓話的な色合いが強いのが「コロンブレ」や「戦の歌」とかでしょうか。そして、背広の右ポケットからお金が出続ける「呪われた背広」や神によって最高指導者の地位にいると死んでしまう状況から生まれる平和「一九八〇年の教訓」、相手のイデオロギーを自分たちと同じくする兵器による顛末が苦笑を誘う「秘密兵器」など、フックの利いたアイディアからオチなのも含めて星新一のショート・ショートめいたテイストがとても楽しい。

 それから、天国の聖人たちをテーマにした可笑しみや何とも言えない寓話的な感情に訴えかけるお話群も好い味わいです。

 そして、個人的に大好きなのが「護送大隊襲撃」です。仲間たちに見捨てられた山賊の首領と彼を慕う青年の生と死のはざまに現れる幻影の風景がとても素晴らしいのです。ブッツァーティの淡々とした筆致で現実から幻想へと塗り替えられる瞬間がどこか清清しくて、老いた山賊が護送大隊を襲撃しようとしてあっさり死ぬ話なのに、どこか明朗でさえあるのです。

 それから「驕れる心」も個人的になんか好きな話です。司祭と人から言われたことで気持ちよくなってしまうことで罪の意識を感じ、懺悔しに来る青年とそれを許す老司祭。青年の懺悔する気持ちよくなってしまう名称は司教や枢機卿へと変わってゆき……という展開で、最後がどういうことになるのか察しつつ読むのですが、何故かジンと来てしまう不思議な話。老人たちが抱き合う姿に、どこか静謐で尊さのようなものを感じてしまうのです。

 「戦艦《死》」もまた、状況が人を縛る話ですが、謎の転属を受けた兵士たちの行方と《作戦第9000号》という作戦名、そして明らかになる決戦兵器の存在――どこかSF的な超兵器に謎の敵という構成要素が楽しい。そして、状況に飲み込まれた人々が、幻影の霧をくぐってゆく描写はやはり巧い。

 「マジシャン」の創作に対する今も昔も変わらない状況と、その愚痴の果てに出てくる、トップに引用した文章は、著者の小説を書く者としての堂々たる宣言の様で、お話全体もどこか温かみを帯びた、そんな創作者たちの肩を叩くような作品となっています。

 どれも、どこか淡い質感を伴った筆致で描かれていますが、その淡々とした中から、シームレスに幻影に導かれるような感覚がなかなか良かったですね。なんというか、著者が吹き出す紫煙の中に見る幻影の世界、そんな感じでしょうか。