蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

彼らが“ぼくら”になる7日間:映画『ぼくらの7日間戦争』

 宗田理の『ぼくらの七日間戦争』といえば、ジュブナイルの金字塔で自分も小学生高学年から中学生の時にこの作品に触れ、シリーズを結構読んだ覚えがある。『ぼくらの魔女戦記』の一巻の最後あたりがたぶん一番好きだ。

 このシリーズとズッコケシリーズやかぎばあさん、エルマーシリーズといった児童書が自分の青春物語に対するイメージというか嗜好の核を作っているのは間違いない。もしかしたら、自分の青春は小学生中学生で止まっているのかもしれない……。

 まあ、それはともかく懐かしの作品が新しくアニメ映画としてよみがえるというわけで、期待半分不安半分というか、むしろ不安七割くらいで観に行ったのだった。ちなみに実写版は観ていない。

 観た感想としては、観て良かったというのがまず言える。確かに、批判評にはそれなりの正当性はあるし、何かが引っかかってそれが展開上論理的に解消されなければならないという観点から見れば減点だらけになるだろう。とはいえ、それでもこの映画は楽しいというか、ただの新海・細田フォロワーではない、独自の味を持ち得ていると思う。

 原作小説からは登場人物の名前から違うし、廃墟に立てこもるという要素ぐらいしか引き継いでいるものはない。その立てこもりも、自分たちの意志というよりは成り行きにすぎない。彼ら自身も二人、三人の繋がりはあるのだが、全体としてはあまりよく知らないクラスメイトの集まりでしかない。そんな彼らが、自分たちが密かに抱えた思いを解放することでようやく“ぼくら”になる、そんな映画だったように思う。

 なお、新海だ細田だとか、見た目であれこれ言いたくなる人がいるのは分かるが、実質、そんなに絵似てるだろうか……。見た目のリッチさはないが、ミニマムな堅実さ、的確さのある作画やレイアウトだと思う。特に彼らが立てこもる石炭工場の美術はとてもいいし、夜空に浮かぶコムローイ(ランタン)の光景や夜の空気感もいい。この映画、青春映画としての夏の青空はもちろんあるのだが、どこか彼らが身を寄せ合うような夜の光景が印象に残る映画ではないだろうか。

 あと、確かに前半部はスピーディーというにはあまりにも段取りをすっ飛ばしている感は否めない。ただ、それでも実のところ、とある女の子たちの気持ちのラインは最初からさりげなくもきちんと描写されているし、なんとなく集まっている、背景がほぼ語られないからこそ、彼らが隠していたもののを暴かれる瞬間が鮮烈になる部分はある。

 それからもうさんざん言われているように、いわゆる百合というやつが炸裂します。まあ、個人的に登場人物の関係性をジャンルとしてラベリングする言葉ってあんま好きじゃないんですが、とりあえず、この作品の一番の見どころは二人の女の子の秘めた思いのやり取りにあるのは間違いない。なのでそういうのが好きな人は早めに劇場に急ぐべきだろう。

 

あらすじ

  鈴原守はクラスであまり目立たない、本ばかり読んでいる少年だ。戦史好きという彼は、それを話し合える同年の友達がいるはずもなく、もっぱら同じ歴史マニアが集う平均年齢高めのチャット。そんな守るには気になる女の子がいる。隣に住む幼馴染の千代野綾だ。幼稚園の頃から一緒だった彼女の誕生日にプレゼントを贈る守は今度こそ、その時告白をしようと心に決めていた。しかし、その綾の誕生日一週間前に急に彼女が議員である父の都合で引っ越さなくてはならなくなったということを知らされる。

 せめて誕生日まではこの街にいたかったな――そうこぼす綾に思わず守は口にしていた。

「逃げましょう!」

 守の言葉に自分もそう思っていたと顔を輝かせる綾。誕生日を迎えるまでの7日、東京行きを強行する父から逃れてバースデイキャンプをしよう。閉山された石炭工場の跡地に集まったのは、守の他に綾が呼んだ四人。守にとって特に親しいわけではないクラスメイト達だったが、なんだかんだと楽しく過ごしていくことができそうな雰囲気に。

 そんな折、彼らは自分たち以外の誰かが工場内にいることに気がつく。マレットと名乗る不法入国の子ども。そしてそれを追ってきた入国管理官の二人組。大人たちから隠れ、社会の外側にいたはずのバースデイキャンプは、彼らの登場で守たち6人をのっぴきならない場所へと押し出してゆく。

 Sven Days War――彼らの自分自身を問う戦いが始まった。

 

感想

彼らが戦う理由

 この作品は原作を大幅にアレンジしていて、話自体は全然違うものとなっている。しかし、現代ならではの要素を盛り込んで、原作のスピリットを自問する形で「今、ここ」で語る七日間戦争とは、という制作陣の真摯な思いが形となった作品に結実した。

 まず、大きな違いとして立てこもる人数(原作ではクラスの男子がほぼ全員)とかがあるが、何と言っても特に仲のいいメンバーでやり始めているというわけではないところ。原作では大人に一丸となって抵抗する仲間たち、という前提があったが、本作の登場人物たちは、一応クラスメイトということや、友人、幼馴染、というつながりはありつつ、全体的には小さなクラスターの寄り合いでしかない。そして、彼らは特に進んで大人なるものに反抗しようとしているわけでもない。

 綾だって、結局は街やみんなと離れることは仕方がないとは思っている。ただ、せめて自分の誕生日を街で迎えたい、というささやかな願いがあるだけだ。そんな明確に戦うものがない彼らが大人たちを向こうに回して戦う理由となるのが、マレットという子どもの存在。不法滞在外国人という問題をはらんだマレットをその両親に再会させる――それが、彼らが戦う大きな理由となる。

 このマレットというキャラクターがなかなか重要な存在で、ある意味本当の「子ども」という存在でもある。高校生にしたことでも明らかなように守や綾たちは「大人」の部分もある。それは、体面のために嘘をついていたり、不正義だとわかりながらも見てみぬふりをする領域に片足を踏み込んでいることでもある。彼らは「子ども」であるマレットから見返される存在でもあるのだ。「子ども」たるマレットのお前たちも大人たちと一緒じゃないのか、という言葉が守たちをその場に踏み留まらせる。

◇お互いを知り“ぼくら”になる

 彼らの戦いは、目の前の大人との戦い以上に、自分の中の大人――やがて大人になってしまう自分自身との戦いでもある。そして、この作品の本領は、そのどこかのほほんとしていた彼らが隠していたものがSNSによってさらされるところから始まる。

 前述したが、前半部のあまりにも最低限の段取りでメンバーが集まることが、なんとなく楽しい思い出を作って終わり、という外見以上のものを持たないかに見えたメンバーたちの、その隠されたものがあらわにされる瞬間を鮮烈に見せている。もしかしたら時間や予算の都合もあったかもしれないが。さらにさんざん言われている新海誠の『君の名は。』や『天気の子』の二番煎じみたいな演出や牧歌的なジュブナイル風味が一気に覆り、この作品本来の顔を見せるという二重構造にもなっている。

 そして、自分たちが隠し裡に抱えていたものを共有することで、ようやく彼らは綾を中心にしたなんとなくの集まりから、一つの結束体――“ぼくら”になる。この映画は他人を知る、知ってもらおうとする映画なのだ。守は自分の気持ちを綾に知ってもらうと同時に彼女の気持ちも知る。自分の気持ちは通じ合うことはないかもしれない。しかし、それでも伝え合うことで彼らはお互いをかけがえのない“ぼくら”になれた。

 その後半部の転機となる暴露部分だが、守と綾は主役級の割には暴露される「裏」というものが特になく、終始ニュートラルで健全なキャラクターで、なんとなく集められたような残りのメンバーに強烈な「裏」があったというのもなかなか面白い構成だ。前半部は守や綾の周りにいるだけのような「仲間」たちに急に陰影がつく。中でも山咲香織というキャラクターは裏主人公と言えるくらいの内面が前半部から丁寧に織り込まれている。彼女の顔半分に影が差す演出はベタながらも的確に彼女のキャラクター性を描き出している。さり気ない部分も含めてその表情に要注目なキャラクターだ。

◇最後に

 今作は原作とは対照的に空が解放のモチーフとして描かれる。ラストシーンやコムローイを浮かべる場面。中でも告白を経て結束した彼らが二度目にコムローイを飛ばすシーンは挿入歌の「おまじない」を含めて印象的な場面だ。今作は青春映画の定番、青空よりもどこか夜の空のシーンが良いように思う。どこかしっとりとしたトーンの夜空に浮かぶ、彼ら自身の思いを込めたコムローイ。その開放のイメージがこの映画の本質を示しているような気がした。