蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

君と僕であなたと私の物語:映画『HELLO WORLD』

 『HELLO WORLD』観てきましたよ。イーガンでディックでマトリックスな青春ラブストーリーと言えばいいのか。結果としてはなかなか面白かったです。

 とはいえ、やはりイーガンというか、この手の量子力学ガジェットSFは頭がこんがらがる。時間とか空間とか、ミステリだってアリバイがどうとかいう要素には頭がパーになるのに、SFだといっそう手が付けられない感じがします。とはいえ、何か分からんが面白いという、その面白さは担保されていたように思います。

 セルルックCGは最初、もっさりしたような気がしてましたが、そのうち慣れました(多分気のせい)。というか、堅書君が頭突っこんだ一行さんのスカート越しのお尻の質感が妙にリアルでビビった。一番すごいと思った3DCGのシーンがそこかよ、というのは自分でもどうかと思いますが、すごかったんだからしかたないじゃん。

 まあ、それはそれとして、3Dモデルでのアクションは実のところ見劣りする方だと思う。ただ、CGの変化エフェクトとかがとてもいい。プロメアも良かったんですが、この作品のCGエフェクトを観るのも楽しみの一つだと思いますね。10年代的なリアルな日常描写アニメの中に、それ以前のアニメのケレン的演出(板野サーカスとかさ)も結構あって、新旧のごった煮感みたいなものも結構楽しい。

 で、あらすじはというと、ざっくりいえば自分に自信のない本好きの少年のもとに、未来の自分が現れて、三か月後にあの娘と付き合うようになるから、俺の言うとおりにしろ、みたいなことを言われて、最強のマニュアル本(日記)片手にギャルゲーよろしく未来の彼女を攻略する……という話――というのはごくごく表面な話であり、実は……みたいなレイヤーが幾層も重なっているので、予告とか見ないで観てみるのが一番いいと思いますね。

 ※というわけで、この先は具体的な話の内容に触れていきますので、そのつもりで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実のところ話の内容はあまり整理がついていない。最後のシーン、堅書直美が目覚めるところが一番外側ということなんだろうけど、ということは、落雷事故にあったのは本当は堅書君なのか、と一瞬思ったが、一行さんがあのジャケットを持ってたところを見ると、落雷事故後のカタガキナオミが一行さんを助けるために奮闘した結果、こん睡状態になり、その後目覚めた一行さんが今度はナオミを助けるために奮闘した、ということなのか? あのカラスによって一行さんはナオミや堅書君を導いていたということ?

 それはそれで疑問点が出てきそうだが、私の頭ではそういう感じでハッピーエンドということでもういいかな、みたいな。最後の世界の外側にも……みたいなディック的思考とかも振り払うんだ。とはいえ、少年少女の堅書君と一行さんが行きついた新しい世界、新しい宇宙って何なんだ……分岐? 量子テレポート? あと、博士たちの、量子的世界内でその装置を止めることの意味とかよく分からない。あれは博士たちのアバターなのかな。うーん、小説やその他のスピンオフで補完する必要がありそう……。

 自分の拙い頭では考えが追い付かないところがあるが、まあそれはそれで、色々考えて楽しんでねということなのかもしれない。SF的な辻褄はともかく、キャラクターの変化、特にヒロインの一行さんの変化と主人公との関係性の変化を見ていくだけでも楽しいし。

 少しあるベタな、というかはっきり言って古臭いアニメっぽさ(というかギャルゲのイベントみたいな演出)と、丁寧な芝居の混在は気になる人は気になるような気もしますが、丁寧な描写の比重の方が大きいですし、堅書君の必死さ、一行さんの可愛らしさとか丁寧に描写されていて、SF的に分かんなくてもラブストーリーとしての満足感はあるのではないかと。

 あと、やっぱり大人カタガキナオミの切ない感じですよ。あのデ・パルマなスプリット画面とか、京都駅の階段での一行さんとのやり取りとか。「まどマギ」のほむらちゃん味がありますね。

 本作は明らかに『君の名は。』ヒット後のプロダクツで、歌音楽流して日常早送り、みたいな演出含めてそれを意識した諸々があるんですけど、そんな君と僕(キミとボクみたいなカタカナ表記とかセカイ系とか正直好きじゃない、てか無内容すぎて嫌いな言葉ですが)で、あなたと私の物語(ここは後述します)はついに宇宙を創るに至る。開闢ですよ。ブラックホールは伏線なのか(どうだろう)。

 主題歌の『イエスタデイ』は本当にストレートに映画の内容を歌詞に書いている。

「はるか先へ すすめ 身勝手すぎる恋だと 世界が後ろから指さしても ふりむかず進め 必死で 君のもとへいそぐよ」

 『天気の子』もかくやの突っ走りぶりで、君と僕な物語はしかし、最後に至り、あなたと私の物語であることが分かる。というか、あなたと私たち、かな。対世界において頼れるのは自分自身みたいな形で進む物語は、実は救おうとした女の子が男の子を救う物語でもある。かなりさりげないのだが、堅書君は仲間たちがいることがED含めて描かれていて、それは大学に見学にいってから縁を結び、のちに研究室で本格的に出会う人々だ。一人で戦っていたかに見えた堅書君だが、ほんの最後の数秒で縁を結んだ人々が救いに来る、そんな王道的な物語が瞬時に立ち上がる、というのもある意味ラスト一秒の衝撃であり、個人的には地味に感動するところだ。彼らが、月面(だよね?)という地球の外にいるのもなんとなく対世界的な意味で示唆的な気がする。

 そんなわけで、『君の名は。』とかもそうでしたけど、一人では届かないけど、二人が等距離を歩みよれば手を結べる、そんな物語が好きということもあり、私は好きですよ、この映画。一行さん可愛いで推しても良いですけど(カタガキさんもいいぞ!)。

 

 

 

 <こっからはただの関係ない独り言なので、あんま読む必要はないです。>

 

 なんていうか、90年代的な、というと主語でかすぎと言われそうですが、まあ、その一部で存在した物語群、というかこれまでずっとあった物語のカタチとして、喪失を飲み込み、そんなままならない現実を失ったキミごと受け入れるボク、みたいな書いててオゲーな物語(いやまあ、それは一つの物語のカタチや選択としてはアリなのだが)と、それがご都合な物語よりも上位に位置するみたいな、圧力かけてくる人たちがいたじゃないですか(『BEATLESS』のラストについての感想とかでもそういうの見たんだよな……)。何かと主人公に都合のいい(と彼らが言うだけなのだが)のを許さない、みたいな。結局のところ、それは、誰かを助けようとはしないくせに、みんなのために我慢しろという、時代の気分というか、今でも続く世間の本性みたいなものから発せられていたような気がしないでもない。ていうか、そういういう論評書いてた連中、現在では見事な現状追認大好きの冷笑主義者になってるような。

 黙っていれば奪われるだけだ――たぶんこれからはそういう気分がよりリアルになっていくように思う。たとえお前たちが世界のエラーであると寄ってたかって“修正”しようとも、それを蹴っ飛ばして、投げてちぎって、新しい世界を造る。それは一歩間違うと革命主義的な方向に行きそうな気がするが、それでも進むしかない。ここにきて、『七日間戦争』が劇場アニメ化されるのはたぶん偶然じゃない。

 まあ、本作の世界はあくまでデータというふうに装っているので、対世界、反社会みたいなトーンは『天気の子』ほどあからさまではなく、あくまで隠喩にとどまっているので、そこまで反発は抱かれないような気がするが。とはいえ、ある種の「反旗」がアニメの世界からあがってきているように思ったり(まあ、それが続くかどうかは、それこそ分からないけど)。