蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

IMAXで観てきた。

 観てきた。ブレランを。『ブレードランナー ファイナルカット』を。

 いまさらといえば今さらだ。しかし2019年11月のロサンゼルスは、相も変わらず「未来」の先端で、果たしてフィクションはこれに変わる新しい「未来」のパラダイムシフトを起こせるのか、いささか心もとない。いやまあ、ブレラン以外にもさまざまな「未来」は描かれてきたし、興味深い「未来」はたくさんあった。ただ、いまだに多くのフィクションにおける「未来」像の広範な基盤になり得るそれを僕らは持てていない。

 かつてはもう一つの未来があった。整然とした科学技術にすべてが塗り替えられた未来が。いってみれば『2001年宇宙の旅』的な未来が。「未来」とは、ユートピアにせよディストピアにせよ、着ている服や食器などの日用品から建物や乗り物まで、“いまここ”とは違う世界がたくさん描かれてきたのだ。主に過去において。

 未来になるほど、僕らは「未来」を描けなくなっていった。というよりも、たぶんより「現在」の延長として「未来」を考えるようになってきたのだろう。過去のように、言ってみれば無責任かつ野放図な「未来」に現実感を持てなくなったのだ。こうなったらいいな、という願いは影を潜め、このままだったらこうなるな、というそれは僕らの思考の変化なのかもしれない。

 それは結局、ある種の悲観的なビジョンに彩られている。『ブレードランナー』はその僕らが囚われたビジョンの象徴でもある。環境は改善せず、酸性雨が降り続け、格差もまたそのままに、街は地上の荒廃と煌びやかな高層ビル群や空に浮かぶテクノロジーに二分化される。(『ブレードランナー』においては地球自体が貧しいものたちの居住地でしかなく、富裕層は宇宙コロニーにいるわけなのだが)

 それは、科学技術と“いまここ”が二重化された未来。もちろんそれは『メトロポリス』にもあったし、ブレランは『メトロポリス』の末裔だ。だから、結局のところ『メトロポリス』にあった思想が最終的に生き残っただけなのかもしれない。

 また、リドリーがいう所の「レトロフィッティング」はそういった「未来」への感覚に共鳴したと言えるのかもしれない。レトロフィッティング――古くからある建物などに骨格はそのままに改装や改修といった形で新たな要素を付け加えていくやり方は、この映画に「未来」のリアリティを与えた。それはつぎはぎの未来だ。僕らがリアリティを感じる「未来」というやつは、結局のところそういうものなのかもしれない。

 まあ、とにかく、「未来」のビジュアルとしてはいまだにこのロサンゼルスに囚われたまま40年が経とうとしている。果たして僕らはこれを塗り替える「未来」のスタンダードを描き得るのか。いずれにせよ、まだしばらくはこの「未来」が僕らを支配し続けるような気がしてならない。

 とまあ、なんだか割とどうでもいいことを長々と書いてしまったわけだが、IMAXブレラン、すごいですよ。あの重低音の一発目が体の芯に響いてからの燃え上るコンビナートの炎、陰影のなか星のようなきらめきを放つあのランドスケープ。あれがただのエッチング技法を用いた真鍮版だといまだに信じられない思いがする。タイレル社のビルの存在感、というか実在感。どうでもいいけど、コンビナートの場面とかFF7の魔晄炉とダブったりして、そういう後発作品のあれこれを二重化して観てしまうのも、この作品の影響力のすごさというかなんというか。

 あとなんといっても画像がめちゃくちゃクリア。そこはフィルム撮影の強みか。そして、なんといってもその陰影。光と影が作り出すこの映画の空気感。湿っていてどこか猥雑な空気。そして雨。地上を叩き、壁や人の顔を伝う雨粒の流れ。そういった質感が何層にも焼き付けられた映像をまだの人はぜひIMAXで堪能してほしい。

 そういえば、最終版とかではなんだか場違いな映像が紛れ込んだようなハトが飛び立つシーンは、ファイナルカットでは移りこむ建物や空をきちんと馴染ませているのだが、僕としてはあの妙な、ここどこ? 感極まりない工場みたいな建物と抜けるような青空が今でも焼き付いている。

 急にインサートされるあまりにも青いあの空が、彼の魂が飛び立つ先にふさわしいような気がして。