蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

自ら踏み越えようとする人間の深淵:『ザ・バニシング―消失―』

 

ザ・バニシング-消失- [Blu-ray]

ザ・バニシング-消失- [Blu-ray]

  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: Blu-ray
 

 1988年に公開された本作は、その評価とは裏腹に長らく日本で劇場公開されないまま、キューブリックが震撼したという言葉とともに、ちょっとした伝説の映画として、映画ファンの間で語り継がれてきました。その映画が、ようやく日本で劇場公開され(DVDは発売されていた)私の住む田舎の地方都市でも単館上映が行われて、何とか観に行った次第です。これが伝説の映画、というふうにちょいドキドキしながらの観劇でした。

 なんというか、この誘拐犯のオジサンこえー、というか気味が悪すぎてその人物像に戦慄した次第です。何気ない恋人たちの旅行、その隙間にインサートされる妙な男の影。そして、失踪する恋人。失踪した女性を探すプロットかと思いきや、事態は一風変わった様相を見せ、やがてジワジワと恋人を探し求める男、そして観る者たちを蝕んでゆくのは、真実を知りたいという欲求であり、その果てに現れる恐怖に何とも言えない嫌な後味を刻み付けてくれます。正直、中盤あたりは眠気があった私ですが、終盤は本当にじりじりとしたそのイヤな予感と焦燥感で押しつぶされそうでした。

 

あらすじ

  オランダ人のカップル、レックスとサスキアは、フランスへ小旅行へ出かけていた。ケンカをしつつも旅を楽しんでいた彼らだったが、途中で入ったドライブインでサスキアが忽然と姿を消す。必死で探すレックスだったが、その姿はようとして知れず、そのまま三年の月日が流れた。それでもサスキアをあきらめきれず、テレビで情報を呼びかけるレックスに、犯人と思われる人物からの手紙が何通も届き始める。

 

感想 ※この先はネタバレ前提ですので、そのつもりでお願いします。

 

 消えた恋人を探す男の話かと思いきや、事態は思いがけない方向に向かう。事件の真相を知るという男が名乗り出てきて、揺さぶりをかけるのだ。真実を知りたくはないか、と。この映画は、そのレイモンという男の映画だと言える。サスキアやレックスはこの男の自己証明の物語に巻き込まれた哀れな人間にすぎない。この映画はいってみれば踏み越える人間の物語だ。というと、フリードキンの映画を思い浮かべるかもしれない。向こう側へ踏み越えてゆく人々の映画。しかし、この映画はフリードキンのそれとは決定的に違うところがある。フリードキンの向こう側への越境は、人物たちにそれを強いる状況があり、その状況の中で人物たちは転がされ、果てに向こう側へと踏み越えてゆく。しかし、この映画のレイモンという男は、始めから自分の意志で踏み越えようとする人間なのだ。

 普通なら踏み留まる場所から自らの意志でそれを超えること。それは、彼が語る少年時代のエピソードーー二階のベランダから骨が折れることが分かっていながら飛び降りる――で示される。幼少期から“踏み越えてみたい”という欲求が、彼にはある。そして、結婚後にも“踏み越える”瞬間が訪れる。溺れた少女を助けるため、橋から川へと飛び込むエピソードだ。少年時代の出来事を反復する形だが、これは溺れている少女という状況がそうさせているに過ぎない。よって彼の満足するところではない。

 彼は状況に強いられるのではなく自らの意志で踏み越えることを望む。そして、女性を誘拐するという計画へ没頭してゆく。少しずつ、少しずつ計画を練り、実践のためのシミュレーションを積んでゆく姿は、滑稽な面もあるが、蛹がやがて禍々しいモノへと変態してゆく過程でもあり、イヤな焦燥感が募ってゆく。

 この映画は女性が消失し、その消失点へと向かう映画でもある。じりじりと“真実”へと向かう、それは避け得ない悲劇を見つめなければならない過程であり、常に最悪の状況を予感した上の宙づり状態となる。恐ろしい緊張感。

 そして、睡眠薬入りのコーヒーをレックスが飲むかどうかでその緊張感は頂点に達する。明らかに飲んではいけないのに、真実を知りたいという欲求が、地獄に突き進むことになる。そして、恐ろしい結末を刻み付けたまま、どこか穏やかな風景の中に溶けてゆく恋人たち……。なんてイヤな映画なんだ。

 映画の始めに写されるのはナナフシであり、それはレイモンの擬態している昆虫のような人物を暗示してる。そしてラストに写されるカマキリが、捕食者となった彼が犯行を続けてゆくだろうことを印象付け、家族たちの穏やかさの中に潜むレイモンという人物のおぞましさを際立たせているのだ。

 とにかくこのベルナール・ピエール・ドナデュー演じるレイモンという人物が気持ち悪いというか、得体が知れなくて、その気味悪さがそれこそ虫を見ているような嫌悪感を抱かせる。自ら踏み越えようとする人間というのはかくもおぞましいものなのか。この映画は、知りたいという宙づり状態が恐怖感を生み出しているということはよく言われるが、このレイモンという男の造形もまた恐怖の一因であると感じたのだった。

 踏み留まる人間には、踏み越えざるを得なかった人間の姿はまだ分かる部分がある。しかし、自ら踏み越えようとする人間の内奥はうかがい知ることはできない。それがこの『ザ・バニシング』という映画の恐怖の深淵なのだ。