蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

少女の運命を世界が引き受けること:映画『天気の子』

 観てきましたよ、新海誠の最新作を。とりあえず感想に入る前に、私個人の新海誠作品との距離感というか、遍歴みたいなものを書いておきましょうか。(あ、先に言っておきますが、あらすじはめんどいんで省略しますね)

 新海誠の名前を知ったのは一応、その最初の作品である『ほしのこえ』でした。弟が、一人でアニメ作ったすごい人がいるということで知らせてきたのが始まりだったのです。観てすごいとは思ったものの、正直、当時のというか(今も)その時に流行っていたサブカルチャーの気分というか、まあ言ってみればエヴァの支配する空気になじめないものを感じていたので、特にその作家性にのめりこむことはなかったのでした。その後も一応、弟に付き合わされる形で『空の向こう、約束の場所』『秒速五センチメートル』『星を追う子供』をDVDで観ましたが、何とも言えない気分だったことを覚えています。

 そんなわけで特にファンでもなければ意識もしてなかったわけなのですが、そんな自分が何故『君の名は。』に足を運んだのか、あまりよく覚えていないんですよね。ただ何となく予告につられたのとSNSで話題になってたから、だったかと思います。それで、『君の名は。』を観てから、もう一回『ほしのこえ』から『言の葉の庭』まで観てみた次第です。それでもまあ、初期作品の印象はあんまり変わらなくて、個人的に新海作品で良いなと思ったのは『言の葉の庭』と『君の名は。』という感じです。

 あと、特に新海誠をめぐって語られる泣きゲ―にも興味ないし、それらが席巻していた90年代後半から00年代のサブカルチャーの空気が苦手だった人間の感想ということを始めに言っておいて始めようかと。セカイ系という言葉もあんま好きじゃなかった。(ちなみにアニメは10年代に入ってからの方が割と好きな人間です。一応、世界名作劇場とか『白鯨伝説』あたりの衛星アニメ劇場で育った人間ですが)

 とはいえ、なんというか感想が言いにくいんですよね。ああ、面白かったなという感慨は確かにあるのですが、手放しでエンタメとして楽しんだ、と言うには胸の中に澱のようなモノが観終わった後に結構溜まっている。純粋に楽しかったという意味でなら、『君の名は。』の方が私は好きだとは思います。まあでも、この『天気の子』は大ヒットした前作の陰画のような、ある意味双子のような作品なので、どっちが好きかはあまり意味はないかな、とも思いますが。

 今回も前作同様、少年と少女の話ではあるのですが、前作が男女のお互いへの思いの比率が同じような感じで、それぞれがそれぞれの場所で頑張ることで手を伸ばし合う物語だったとするなら、今作は男の子の思いの方に寄せていて、男の子が女の子に手を伸ばす物語――そういう意味で、過去作品の構造に回帰しています。男の子が女の子の力に意味を与え、彼女がその役割を演じることで女の子から引き離されてしまう。だから今度は自分が与えてしまった役割から彼女を解放するために、あらゆるものを振り切って会いに行く。そういう男の子の、まあ言ってみれば幼いエゴで物語が駆動してゆく。そのどこか不均衡な感覚が、観る人を戸惑わせると同時に、主人公を好きになれない要因の一つになっているように思いますね。

 主人公である森嶋帆高君は16歳で、いい子ではあるのですがかなり幼い印象を与えます。まあなんというか、すべてにおいて行き当たりばったりで後先ほぼ考えていない感じとか、女の子や女性に対する初々しいというよりは、それに相対する自意識のウザったさとか。個人的に一番アレだと思ったのは、陽菜さんの「雨やんで欲しい?」という言葉に平然と「うん」と答えるところ。まあそうしなければ彼女が“失踪”しないという作劇上の都合もあるのでしょうが、彼女の運命を知ったあの状況でうんと屈託なく言える考えのなさは、帆高君を象徴しているように思えますね。

 まあ、こんな感じでちょっと好感を抱きにくい主人公を据えながら、しかしその主人公への好感で駆動するエンタメの文法を取っているため、確かに構造上後半のカーチェイスや帆高君がひたすら走るシーンなど、エンタメなんだろうなと思いつつ、俯瞰的な形で観てしまうそういう人が前作よりは多かったんじゃないかな、という感じはしました。

 ただ、その俯瞰しつつも、その主人公のまっすぐさに感じ入ったことは確かで、それが最後にもたらしたものに対して、その踏み越えた感に驚かされつつも、彼がそれを選んだのなら、それはそれで構わないんじゃないかな、という感じでした。もちろん、そのこと自体がいいのか悪いのか、という議論はあるとは思いますが。

 全体的には、手放しで楽しかったと言える映画ではなかったのですが、それでも一回目よりは二回目の方が断然良かったし、なんというか、雨が波紋を広げてゆくようにしみじみとした良さが広がってゆくような、そんな映画だったと思います。個人的には『君の名は。』よりは勧めずらい所はありますが、でもいい映画だよ、という感じでした。

 ※ここから先は、ネタバレ込みで色々と踏み込んだ感想となるのでそのつもりでお願いします。

 

 

 

 

世界の形を決定的に変えてしまったんだ――

 このセリフを聞いて、またまたあ、なんかいわゆる00年代的エモーショナルな比喩か何かなんでしょ、と思ってたら沈みましたからね、東京。三年雨が降ってああなるのか、とかそういう突っこみは置いておいて、少年が少女を取り戻したことでそうなってしまったことを監督は描いた。

 しつこく作中で代償がどうとか個人へのそれとして伏線を張りつつ、破る気満々だったが、その代償を払わないのではなく、都市の方に、そこへ住む人々へと転化した。何も知らず、知ろうとせず、少女を犠牲にしようとした世界に代償を支払わせたのだ。そして、それは彼らが三年後に再会し、ともに生きてゆく世界でもある。

 情況を変える大きな力を持つ少女と彼女に惹かれる無力な少年。その関係性が彼らを取り巻く大きな状況と対峙する時、押しつぶされるのは幼い彼らであり、無力な少年に同調することでやるせなさや、短い少女との触れ合いに感じ入るタイプの物語がある。それはどちらかというと通過儀礼的な形で消費されている、と思う。もちろん異論はあるだろうが、そういう物語の悲劇を泣きとして享受しつつ受け止めることで「大人」の側から、物語を批評的に見ようとする態度、それは00年代がどうとかじゃなくて、割とある物語とその受用のされ方だった。

 痛みを、喪失という代償を払い、大人になりなさい。そういう物語の定型を信奉する場合、その規格からはみ出した物語を主人公たちに都合のいいものだと攻撃する傾向がある。前作はそういう批評的態度の標的になった部分があり、今作もまたそういう批判は散見される。

 しかし、どうなんだろう。特別な力を得た少女にすべてを背負わせて文字通り人柱にした世界で、なにも知らない、どっちかというと彼女を使役して晴れを享受していた人々はそれでいいのか? というふうに思える。というか、監督はそんな幼い少女一人で救われる世界というものを拒否して、少しずつ少女の運命をその他多くの人間たちに背負わせることを選んだ。一人の人間が人知れず原罪のようなものを背負って消えるのではなく、それをみんなで分け合うこと。私としては、喪失の物語がどうこうというよりも、そういう物語の方がずっとましだと思った。

 なぜ、須賀さんが部屋の窓を開けて室内に水を入れてしまうのか、一見して謎な行動なのだが、おそらくそういう「水」を引き受ける物語であるということを暗示しているのではないか。須賀さんの部屋は沈む東京への暗示なのだ。

 主人公の帆高君ははっきり言って好きなタイプのキャラクターではないし、その幼さや視野の狭さにイラつく人は多いと思う。まあでも、だからこそできることなんだろう。純粋なまでに愚かだからこそ、出来ることはある。ただひたすらに会いたい少女のために線路や高架を走る帆高君。そこには前に向かって進む意志しかなく、すべてを振り切って走り抜ける姿は、たぶん多くの人間がやりたくてもできない、出来なくなった眩しさがある。まあ、メタ的にも見えるというか、帆高君と彼にやめろとか笑ったりする周りの人はたぶん監督と観客だよね。線路を走る彼を止めもしないし、ただ単に口しか出さない我々をしり目に、監督は突っ走る。そういえば、どこかの南極アニメの女隊長さんが言っていた。「思い込みだけが、現実の理不尽を突破する」のだ。

 監督はパンフレットのインタビューにおいて、調和を取り戻す物語はやめようと思ったと語っている。さらに、帆高と社会の価値観が対立する物語であり、その価値観とは社会の常識や最大多数の最大幸福であると。それらがしたり顔で個人を押しつぶして調和を取り戻そうとする社会や物語に監督はそれこそ狂っているのではないか、という気分をぶつけている。帆高と対立する価値観こそが正しいと思っているのなら、監督の方こそ狂っている、となるのかもしれない。

 まあどちらにせよ、世界なんて狂っていて、その狂った世界で生きていかなくてはならないわけで、そこで新しい物語を生み出したい。そんな監督の意志は観る人々に様々な波紋を投げかける、そんな映画になっていたことは確かだろう。

 この映画の作画――その雨や光の描写は相変わらずすごく、じっくりと描かれた東京の街やそこでの帆高の生活を音楽とともにダイジェストで回してゆく前作で確立されたやり方は相変わらず楽しい。天気の子という題名だけあって、雨だけではなく、快晴や嵐、雷や雪といった様々な天候とその中の都市の姿も楽しめる。ただ、正直コメディ要素は前作ほど上手くはいっていないような気がした。それと、やっぱりあくまで帆高君の思いの物語という感じで、陽菜さんはそのためのマクガフィン的要素が強い。その辺は何か「古い」感じがしなくもない。

 あと、はっきりわかる商品のタイアップがウザいという声があるが、監督曰く貧しさの表現でジャンクフードに喜ぶ話として、タイアップの商品でそれをやるというのは逆にすごい気もしたし、そもそも都市の話なのだから、都市のご飯としてどん兵衛だとかからあげクンだとかは、そういう生活実感を感じさせる上で効果的だったように思う。

 

 まあ、そんなわけでそろそろ筆を置こうと思いますが、一人の女の子に助けられる世界なんかよりは、彼や彼女が思いのままに突っ走れる世界の方が、まだましで、そのために狂った世界を彼らと一緒に引き受けるのも悪くない。そんな気もしたのでした。それが正しいのかは分からないけれど。

 

追記:他の人の感想を見ていると、素直で真っ直ぐな映画、であったり、暗くて自意識過剰な映画だとそれぞれが違った見方が出てきていて、ある種鏡のような見た人に様々な想念を抱かせる映画となっているようだった。

 一方で、やっぱり俺たちの新海だったという言説がちらほら散見される。「俺たちの新海」とはどういうことなのだろうか。こういった言説は、まあまあよくあることで、メジャーマイナー関係なくある程度作品を続けていれば、その作家の最初からのファンという人々が醸成する、作家を中心とした「我々」という共感的な認識が形成される。

 そしてそれが、はっきり言って厄介なのは、「我々」から踏み出そうとする、もしくはそう彼らが一方的に感じた場合に鎖となって、作家を縛り付けようとすることだ。それが、「俺たちの何々」という言葉の根底にあるものなのではないか。つまり、前作は彼らにとって「我々」の外に出ていたのだろう(本当にそうか、という問題もあるが)。だから、今回は戻ってきてくれた、という気分が、その言葉を言わせているのだろう。

 はっきり言ってくだらない。それにそれは、様々な人に大きくリーチする『天気の子』という作品を小さくすることでしかない。優れた作家は常に自分の故郷となる場所に軸足を置きつつも、常に前進し変容しようとするものだ。宮崎駿は初期のファンのあのうざったい「冒険活劇」という鎖を無視することで小さな「我々の作家」という存在であることを振り切った側面がある(もちろん、プロデューサーの役割も大きいだろうが)。新海誠は、前作で怒った人をもっと怒らせたいという姿勢を示したが、それとは別により厄介で、だからこそ怒らせないといけない存在があるのではないか。

 まあ、そんな風な私の思いも、作る側からしてみればどうでもいいことではある。気にせず進んでいくのだろうし、私はそれを見ていきたいな、ということだ。

 追・追記:『天気の子』観て「地球規模で迷惑なバカップルの話」と短絡するのは結局、お前が黙ってれば全部うまく回るんだよってのが染みついてるんだよ。確かに自然にそう思うくらい学校が職場が国がそう言ってくる。自分だってそれに浸かり切ってるけど、いい加減ふざけるな、と思わないか。