蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 なんだか結局、全然上手く書けないじゃん、という思いがうつうつと重たくのしかかり、文章指南書に手を出すことにした。というわけで、鶴見俊輔の『文章心得帖』を読んでいるわけだ。いつまで続くか分からないにせよ、こんなふうに外に向けて公表する以上、一応分かりやすい文章書きたいと思っているのです……一応ね。

 この本の中で著者は紋切り型を突き崩すことを執拗に求めている。要するに他人の言葉で書くのではなく、自分の言葉で書けということだ。まあ、基本中の基本としてよく言われることだろう。とはいえ、紋切り言葉を共有するというか、それで囲い込むことが即効性を持つわけで、なんだかんだ言ってそういう「共感」型文章が「読みやすい」んじゃないの、と思わなくもない。だが、僕はそういう「人気者」的な気の利いたことはできそうもない。リアルでもネットでも、隅っこでブツブツつぶやくだけなのだ。

 まあいい、続きに行こう。その紋切り型を突き崩すために必要なのが誠実さ、明晰さ、そしてわかりやすさ、ということらしい。誠実さはそういう紋切り型に頼らず自分の言葉で話すようにすること。明晰さははっきりとしていることで、そこで使われている言葉がきちんと自分で説明できるということ、そしてわかりやすさは言葉通り、特定の読者に対して〈わかりやすい〉こと。その読者は、自分であってもいい。とにかく分かりやすくということだが、けれどもと著者は続ける。わかりやすさというのはたいへん疑わしい考え方で、究極的にはわかりやすいということはないとする。

 自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。だから、表現というのは、何かを言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る。そういう風に著者は結論付ける。

 そして、割り切れる文章がいい文章ということではなく、重大な問題を抱えてあがいているというか、そのあがきをよく伝えているということがいい文章なのではないか、というふうに著者は言う。

 結局のところ、こうこうすれば、良いのだというような形式やマナーなんてなく、ただただ、なにを、いかに伝えるのかということについて、徹底的にあがくしかないということなのか……なんかますます気が重くなってきたぞ。

 まあでも、そういうことなのかもしれない。とりあえず誠実で明晰で分かりやすくを目指して、その永遠にたどり着けない場所に向けて精いっぱいあがくということ。そして自分の言葉を探し続けること、なのかもしれない。

 しかし、ある種のセラピーみたいな、「解放」を求めて始めた部分があると思うのだが、霧の中を彷徨ってるみたいになっていくのはどうしてなんだ。過去の文章を読み返すとその不格好ぶりに毎度毎度目を覆いたくなる(まあ、そのたびコソコソ修正するんだけど――だからといって綺麗に成形されてるわけでもないが)。

 まあ、お決まりの言葉はなるべく使わずに、紋切り型を突き崩すことを目指して苦悶するしかないのかな……と。なんか余計気が重くなっちゃったじゃないか、みたいな感じで回帰してしまったが、この本自体はとても面白いというか、あてもない文章の暗がりを征く、そのほんの少し先を照らしてくれるような、そんな文章たちが詰まっている。

 

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)