蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

それは、過去の希望の姿:映画『イカリエ₋XB1』

 イカリエ、なんだか不思議な語感。聞きなれないこの言葉は、旧チェコスロヴァキアの映画のものだ。

 1963年。鉄のカーテンの向こう側で、『2001年宇宙の旅』(68年)に先駆ける形で生まれたSF映画。そしておそらくキューブリックのそれに何らかの影響を与えたといわれていたりもしています。観ていたのではないか、という声はあるが本当のところは分からない。しかし、2001年で見たような場面がちらちら見え隠れすることは確かです。欧州でも上映され大ヒットしたということなので可能性は高いでしょう。そしておそらくは65年のゴダールの『アルファヴィル』にも何らかの影響を与えていそうな気もします。なんというか、この映画自体はヌーヴェル・ヴァーグの延長線上にある映画といっていい映画です。ヌーヴェル・ヴァーグの影響下にあるウルトラセブンも同様の雰囲気を纏っていたり。だから、セブンとかを観ていた人にはなじみ深い映像かもしれません。

 原作はレムが生前外国語に翻訳を許可しなかった初期長編『マゼラン星雲』。狭い宇宙船の中でやがて人間が精神の均衡を失ってゆく閉塞感は『ソラリス』に通じるものがあります。そして、映画の幾何学的な構図――特に一点透視法で通路の向こうからやってくる人を捉える映像は2001年のそれですね。あと、円の意匠を多用した内装のデザインがなかなかカッコいいです。宇宙船のデザインと出てくるロボットはなんだかレトロな感じでちょっとチグハグな印象がしますけど(まあ、ロボットは劇中でもレトロな存在なのですが)。

あらすじ

 宇宙船内で錯乱した男。彼は叫ぶ「地球は消滅した!」

 隔壁を閉じ、他の乗組員からの呼びかけにも応じることなく、光線銃でカメラを撃つ男。彼は何故そのような行動に出たのか。

 2163年、地球外の生命を探査するため、アルファケンタウリ星系へと向かう乗組員40人を乗せたイカリエ₋XB1はその途上、過去の探査船が残した核兵器による死者や、ダーク・スターから発せられる放射線の影響により、乗務員がこん睡状態に陥るなどのトラブルに見舞われる。限られた空間の中での代わり映えのしない人間たちとの生活などもあり、精神的に疲弊してゆく乗組員たち。そして、船外活動にあたっていた乗組員の一人であるミハエルは放射線の影響から体調の変化をきたし、それが地球への郷愁へとともに精神の均衡を欠いてゆく。そして彼はついに冒頭の錯乱状態へと陥るのだった。

 感想 ※一応、ここから先はネタバレを含みますので、注意です。

 

 

 共産圏の代表的なSFというと、『不思議惑星キン・ザ・ザ』とか、『ストーカー』『惑星ソラリス』『シルバー・グローブ』なんかがありますが、それらの最初期にあたる作品といっていいでしょう。そして、あの『2001年宇宙の旅』に先駆けてこのような映画が作られた、その意義はとても大きい。宇宙船の通路を人が歩いてくるカットや漂う硬質な質感、見つけようとしていた生命に見つけられる形でファーストコンタクトを果たし、そして何より最後の赤ん坊を大写しにして人類の新たな夜明けを語るあの感覚。

 この映画が公開された60年代と言えば、米ソの宇宙開発競争真っただ中、61年に初の有人宇宙飛行をソ連が成し遂げ、63年にはワレンチナ・テレシコワが女性初の宇宙飛行士として宇宙飛行を行っています。人類の新たなステージ、そんな予感が世界中を覆っていた――同時に核の恐怖もまた。この映画にもその当時の希望と不安という状況が反映されています。ニコライが囚われる地球の消滅は、過去の探査船が残した核兵器によって仲間を失うことから来ているように思われますし、新たな発見を目指す乗組員を苦しめるのは放射線の影響なのです。

 中盤に出てくる核兵器を搭載した探査船はこの映画の中で唯一共産主義的なイデオロギーを匂わせるシーンです。探査船の中で息絶えている人間たちは金や宝石を手にしたスーツ姿の人間たちで、これは明らかに資本主義を意識しています。少なくなった酸素のために一部の人間たちが他をガスで殺したという全滅の経緯も資本主義の利己主義的な面を強調しているように思われます。しかし、これは表向きはそういうプロパガンダを匂わせつつ、その実彼らが劇中でいうように、アウシュビッツヒロシマ、というように、20世紀に人類がなした愚かさのカタマリとしてこの探査船を描いているのです(まあ、アウシュビッツヒロシマはドイツとアメリカの愚かさみたいなイデオロギーでしかないのかもしれませんが)。先祖を選べない、という乗組員の言葉は、自分たちもそういった20世紀的なものから出発していることを自覚するとともに、そこから新たな理想を目指す意思が感じられます。

 共産主義、というとそれだけで、ゲーとなる、左翼、パヨク、問答無用で嗤いの対象、“そうしてもいいもの”というのが今のトレンドってやつですが、かつてこれはすべての人間が平等であるという、そういう理想を打ち立てるための理念だった。男女が均等に乗り込み、同じものを食べ、同じ服を着て新たな発見を目指すイカリエは、そういう共産主義的な理想の象徴なのでしょう。

 もちろんそれは「理想」でしかなかった。ただ、格差を是認しそれが「現実」であると開き直ってすら見せる。そんな姿もまた、我々の「先祖」が目指した「理想」だったんだろうか。この映画を観ると私たちの理想や希望って何だったんだろう、そう考えずにはいられないのです。

 まあそれはとにかく、過去のめずらしいSF として観るのでもいいですし、そこにかつてあった過去の希望の光を、そんなのあったな、みたいな感じで鑑賞するのもいいんじゃないのかな、という感じでした。

 そういえば、この映画スタイリッシュな宇宙船の内部に恐ろしく似つかわしくないレトロなロボットがいるのですが(『禁断の惑星』のロビーみたいなやつ)、これは博士の趣味みたいなやつで、劇中の人物たちからも恐ろしくレトロなものと扱われているのはなかなかうまいと思いました。実際に実用的に使われているロボットは映さないので、描きづらい未来のロボット出さずにしかし、ロボットの存在は劇中でもレトロなロボットで代用する。そういうところもなんかクレバーな感じがしましたね。