蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

食べる孤独な姿にほっとする:施川ユウキ『鬱ごはん 3』

 

鬱ごはん(3) (ヤングチャンピオン烈コミックス)

鬱ごはん(3) (ヤングチャンピオン烈コミックス)

 

  この世には食べ物についての漫画があふれている。おいしいものを食べることの喜び、それを多くの人と共有する瞬間が描かれ、そこに読者は幸福をかいま見る。そのような漫画でなくとも、大抵のフィクションは食によって、人々のつながりや幸福感を演出する。実際問題、人はおいしそうなものをおいしそうに食べる姿を見るのが好きだ。

 そういう食べ物をめぐる、まばゆいばかりの表現があふれ返るなか、ひときわ異様な暗さを放つ食べ物漫画がある。それがこの施川ユウキが描く『鬱ごはん』だ。タイトルからしてなんかもうアレな感じがするが、その名の通り、ご飯を食べるシーンはことごとくおいしそうではない。むしろマズそうだ。

 主人公は鬱野という自称就職浪人の青年だ。一巻では二十二歳だった彼は、九年後に刊行された三巻では律義に年を取り三十路に突入している。そしていまだに就職する気はない。というかもはやそれをあきらめているような雰囲気で、しかし、それでもどこか自分の人生について、疑問やこれでいいのかという思いを捨てきれてはいない。そんな微妙なモラトリアムのギリギリを浮遊するしかない青年の孤独な、しかしどこか自由を感じさせる食事の風景が引き続き描かれている。そして、彼の鬱々とした食事の風景は、苛まれる自意識やそれによって引き寄せられる失敗で、どこかしらの可笑しみが漂っている。それがこの作品の大きな特徴と言えるだろう。

 1から2巻では自意識が先行しがちだった鬱野だが、三十路に突入したせいか、どこか軽さのようなものを手に入れつつあり、それまで自意識の似姿として鬱野に突っ込みを入れていたイマジナリーフレンドみたいな猫(なんというか、村上春樹の『海辺のカフカ』におけるカラスと呼ばれた少年みたいな存在)が消えて、バイト仲間の描写や親戚をはじめとした周囲の人間も描かれることはなくなり、いよいよ鬱野は今まで以上に独りでご飯を食べてゆく。その姿は“孤独のグルメ”なんていう孤高の姿でもなく、相変わらず忍び寄るこのままでいいのか、という影にふと胸を突かれながらも、鬱野はその孤独をご飯と一緒に咀嚼する。

 そしてやっぱり、鬱野が食べる光景はおいしそうではない。なんら特別でもない既製の食糧たちを特に感慨もなく口に入れてゆく。だが、我々の食事風景というのも、そういうともすれば味気なく、孤独な風景がつきまとってはいないだろうか。鬱野ほど極端ではないにせよ、独りでなんとなく選んだものを口に入れて、作業的に食事を済まし、ぼんやりとそんな自分を眺めるような感慨にふける。時には実際に、ふと食器や紙包みから顔を上げ、ガラスなんかに映ったそんな自分を見ているかもしれない。

 この作品は一巻でエドワード・ホッパーの『ナイト・ホークス』を挙げてまさにそんな孤独を描くことを宣言していた。あと、石田徹也的なにおいもちょっとしていたと思う(『燃料補給のような食事』とか)。ただ、孤独や停滞している自分を感じつつも、三巻に至って鬱野はそういう自分の人生を楽しみつつある。別に開き直っているわけではないだろう。相変わらず就職への――というか、それを通り越して自分の人生を生きているのか、という切実な思いにとらわれる瞬間はある。しかし、それでも食べ物を口に入れなくてはならない。マズかろうが、失敗しようが、その時間はその人の生きている時間だ。そしてそれは、私たちの食事の風景の一面でもあるはずなのだ。

 施川ユウキは鬱野を通して今の人が陥ってしまう生きにくさを描きつつ、それでもなんだかんだで生きていけるんじゃないか、という希望ではないが、それでいいんじゃないのか、それもまた人生を生きていることなんじゃないのか、というふうに肩をたたく。別にそれで救われるわけじゃないけど、でも、少しほっとする。

 三巻になって、鬱野は頻繁に外に足を向けるようになる。今まで自分に縁がなさそうだったオシャレな店にもなんとか入るし、旅もする。鬱野が動物園に行く話は著者も気に入ってるそうだが、この巻出色のエピソードといっていいだろう。雪の降る動物園をぶらつき、独りであることを自覚しながらも、充実したような鬱野の姿。

 そんな感じで、鬱野の自意識は後退しつつ、しかし、相変わらずのブラックなギャグは読者を笑わせてくれる。その笑いはどこか身近でもあり、それが、この漫画がただ単にネガティブなアンチグルメ漫画ではなく、私たちの食事の風景に起こり得るかもしれない一面であるということを切り取っているのだ。ラストのペットボトルに飛翔を託す鬱野はなんというか、痛々しさを通り越して滑稽極まりないが、でもそんなしょうもない、“飛んだ”ペットボトルをつかむ姿に、私は少しほっとしてしまうのだ。