蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

アニメ・ウマ娘における“ライブ”の役割

 BNWの誓いの記事に、ウマ娘のライブについて、視聴者は特にそれを期待していないと書いたが、アニメ・ウマ娘においてライブという要素は、本編の大筋とは別の形で重要な役割があると私は思っていて、今回はそのことについて書こうかと。 

 アニメ・ウマ娘にはレースのほかに、元のソーシャルゲームにある要素として、ライブが組み込まれている。サイゲームスが開発中のソーシャルゲームウマ娘・プリティーダービー』はもともと過去の競走馬+アイドルがコンセプトで、PVを見る限り、レースに勝つことで、ウイニングライブとして自分が持つキャラクターのライブ映像を見ることができるというシステムのようだ。ゲームはどちらかというとお気に入りのキャラクターのライブを見ることが最終目的で、レースを勝つことがそのための手段となる。そういうことで、レースとアイドルが不可分になっているわけだが、プレイヤー視点ではなく、ウマ娘たちの視点で展開されるアニメでは、レースに勝つということが最重要視される。よく観てみると、彼女たちはレースに勝ちたい、とは言うのだが、ウイニングライブに出たいからレースに勝ちたい、とは言わないのだ。ゲームとアニメではそのレースとライブのニュアンスが逆転している。競走馬視点なのだから当然といえば当然といえる。

 ではライブは必要ないのか? それは少し違う。ゲームにとってレースとライブが不可分のように、アニメ・ウマ娘にとってライブもまた、そのアニメのオリジナリティとして切り離せない要素なのだ。

 こちらの記事で、Cygamesの石原プロデューサーが、ウイニングライブの意図を語っている。

kai-you.net

 石原 ギャンブルの側面もある実際の競馬と違って、『ウマ娘』におけるレースはあくまでもショーレースなんです。その中でも、物語をつくる上では勝ち負けがあったほうが面白いのも事実です。だからといって、敗者が勝者を恨んだり、ウジウジしたりするのはあまり好きじゃないしやりたくない。

それなら、レース後にはみんな笑顔で歌っているシーンがあると、「そんなにギスギスしていないのかな」と思ってもらえるかなと。競馬という勝負の世界をモチーフにしつつもやわらかさを出したかったんです。

  アニメ・ウマ娘はレースを描くが不思議と禍根を残さない雰囲気作りのためのライブ、その意図が明確に出ているのが2話のスペシャルウィークが放り込まれた初めてのレースである。スペシャルウィークに絡んで、反則すれすれの妨害行為をするクイーンベレーというオリジナルキャラが出てくるのだが、レース後はスペシャルウィークの横で屈託なく歌うシーンが挿入され、プロデューサーの言う意図が確認できる。

 一方、競走馬をモチーフにしていることでライブで緩和できない、むしろライブを映せない事態も存在する。サイレンススズカの存在がそれを象徴しているように、レースで事故があった場合、当然それは描かれないにせよ、ライブという要素が気まずいイメージを喚起させてしまう場合もある。まあ、それは例外と言えば例外だが。

 ただ、石原プロデューサーの勝負事の緩和としてのライブは、具体的なライブシーンが描かれていた1、2話以降はアニメ・ウマ娘の競馬面を統括する伊藤プロデューサーの解釈する競馬の延長上――授賞式のコールや実際にあったキタサンブラックの馬主である北島三郎のウイニングライブなど――のショーを飾るものとして扱われていく。

 そもそもレースとライブ、どちらも作画カロリーを異様に消費するわけで、いくら何でもどちらもは描けない。アニメ・ウマ娘が取ったのはレースであり、ウマ娘たちが目指しているのはあくまでレースでの勝利だ。実際の競走馬名を冠しているのだから、それは当然といえば当然だ。スペシャルウィークが目指す世界一のウマ娘はレースで勝つことが第一であり、歌や踊りはあくまでファンへの感謝として描かれる。

 物語はスポーツ青春ものとして描かれ、視聴者もそういうものとしてこのアニメを受け入れた。しかし、ただレースを実際の競走馬がたどった形で、そこにIFを交えつつリアルに描いたからこのアニメは人気を獲得したわけではない。もちろんそれは大きな人気の核ではあるが、この作品はそもそも美少女擬人化アニメという存在でもある。アニメとしての面白さを纏うことで、上の記事タイトルどおりの“美少女アニメ”だから出せた最適解としての競走馬+アイドル、それがアニメ・ウマ娘だといえる。

 そのアニメの面白さが、競走馬をモチーフにしたキャラクター、その勝負服、そしてキャラクターソングだろう。明らかに走るのに向かない衣装でキャラクターたちが全力疾走するというのはアニメでしかできない画作りだし、キャラクターソングもアニメ的な演出を彩る。サイレンススズカのSilent Starのない第七話なんて、いわゆるクリープのないコーヒーみたいなものだろう。

 とはいえ、元ゲームには重要な要素であり、アニメでも演出を彩るキャラクターソングなのだが、正直なところ、レースを描くことを選択したアニメ本編そのものにはプラスに働く要素とはいえない。同時にライブもそうであって、結局ライブシーンはこのアニメの頭と最後にあるだけである(厳密にいうと5話でスペシャルウィークのキャラソングが流れるEDに止め絵としてあったりするが)。

 ではやっぱりライブはいらないのか、というと前に述べたようにそうではない。あるのとないのではだいぶ違うし、やはりウマ娘という世界観、というかアニメ的には必要なのだ。キャラクターソングは、5話や7話のような余韻を演出する特殊EDのためには必須だし、ライブはアニメの締めの役割、いわゆる「打ち上げ」としての機能を果たす。これは伊藤プロデューサーがウイニングライブを解釈した競馬の受賞コールの延長上みたいなものだ。

 実のところ、よく観ると基本的にウマ娘たちはレースで敗者が勝者を恨んだり、うじうじしたりはしないのだ。自己嫌悪に陥ることはあるが、レースに負けたことはあくまで自分の問題であるという形で処理される。ライブは実際的にはアニメの演出的な構造というか、勝利の宴、もしくは先ほど書いた頑張った後の打ち上げという風に組み込まれてゆく。ある意味、このアニメにおけるライブとは、ウマ娘というアニメを縁取る額縁と言っていい。なくてもいいかもしれないが、あることで作品に独特の良さや味わいを添えることができる。

 あと、13話で思ったのだが、着順がつかない、つけられないケースにおいて、ライブでのカタルシスの演出はかなり有効であると気づいた。あの場合、ライブがあるのとないのでは大違いだろう*1。アニメ的な大団円を演出するのにかなり有効な役目を果たしているのだ。

 そういうわけで、アニメ・ウマ娘はその本編において、ライブ要素は必要ではないし、視聴者もそれをメインに見たいと思っているわけではないだろう。しかし、あくまでアニメという形で作品化するうえで、かなり有効な役割を果たしている側面があることは確かである。そのバランス感覚が、アニメファン、競馬ファン、双方に受け入れられた重要な要因なのだ。

※追記:本記事とは関係ないですが、BNW含めてライブシーン見てると、客席側でサイリウム持ってるキングヘイローが結構な回数で映るので、彼女がセンターに来るライブシーンがついに来ちゃったりしたら、すごく、こう、クるものがあるだろうなあ、と思ったりしたのでした。

*1:と書いたものの、後で13話観返したら、最後のトレーナーのところでかなりキちゃうので、最後のゴールまえ横一線でぶった切っても、カタルシス的に問題が無いといえば特に問題はない。終わった気はしないかもしれないが。