蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

生きながら死んでいる男たちの:ウィリアム・フリードキン『恐怖の報酬:オリジナル完全版』

 映画ファンの中では伝説ともいえるウィリアム・フリードキンによる『恐怖の報酬』。そのオリジナル完全版を観てきました。ネタバレ前提的に語るので、まあそのつもりでお願いしますです。

 『恐怖の報酬』――もともとは1953年製作のアンリ⁼ジョルジュ・クルーゾー監督による傑作サスペンス。それは今なお古典として映画の殿堂に列せられている。

 77年に制作されたリメイク版はその影となった。色々な意味で。監督はあの『エクソシスト』のウィリアム・フリードキン。『フレンチコネクション』『エクソシスト』と続く、一番脂の乗り切った時期。フリードキンも自身の最高傑作と語る映画はしかし、長い間不本意な扱いを受けることになる。それは、当時のハリウッドの潮流、映画が迎えようとしていた流れとも少なからず関係がある。

 77年と言えばあの『スターウォーズ』が公開された年として、これからも刻まれるだろう。その前の76年はこれまたあの『ロッキー』。これまで、映画界を覆っていたリアルで重たいアメリカンニューシネマの流れがついに覆されようとしていた時代。『スターウォーズ』と同年に『未知との遭遇』を放ったスピルバーグが次々と娯楽作を送り込み、ハリウッドの重苦しいリアリズムを払底し、娯楽の復権を遂げはじめる、そんなちょうど境目にこの映画は生まれた(一応、77年にはあのリンチの『イレイザー・ヘッド』も公開されていたりする)。つまりはこの映画は「時代遅れ」になりつつあったのだ。

 古典であるクルーゾー版に引きずられた評論家の評価、そして興業の大失敗(製作費2200万ドルに対し興業収益は900万ドル……)。それを受け、ドキュメンタリータッチで重い前半部、そしてハッピーエンド的な終りになるようにまさしく「カット」された短縮インターナショナル版が米国以外で公開されるも、こちらも不評で終わり、この映画は輝かしい監督のキャリアのつまづきの石と化し、「失敗作」として(特に米国以外で)埋もれていく。

 複雑な権利関係もあって、再上映もままならず、DVDも北米のみ。そんな状況が長い期間続いていた。しかし、フリードキンの執念が二大映画会社の権利関係を解き、レストアを施し、元々のランニングタイム121分オリジナル完全版として2013年にヴェネツィア映画祭で上映。それから5年、ついに日本でそのオリジナル完全版が上映され、私の住む日本の片田舎でも上映される時が来た。

 そんなわけで恐怖の報酬。クルーゾー版はDVDで観ましたが、フリードキン版についてはもちろん劇場で観たことも無い。一応、リメイク版があることは知っていましたが、へー、あのエクソシストの監督かあ、ぐらいの興味しかなかったです(いきさつを知らなかったので何故かDVD見ないな、という感じで終わっていた)。調べたらうちの地方でもやってるということで、映画館へ。

 いやー、マジ凄いですね。何なんじゃこりゃ。こんな映画が半ば埋もれてたとか、そりゃ作った人間は意地でも日のあたる場所に出したいと思うだろうよ。本当に、とんでもない映画を掘り起こしたという感じだった。確かに当時の評価に憤る気持ちはわかる。まあでも、日本の批評については、短縮バージョンでこの映画の一番重要なところをカットされてたわけだし、あまりこう、見る目ねーなと罵倒するのはフェアじゃないかな、という気もしますが。

 とにかく、この映画はオリジナルを踏襲しつつ、まったく別の映画として成立しています。先人をリスペクトしつつ、独自のものを打ち立てる。そんな気迫に満ち、またそれを見事に成し遂げている。すごいよフリードキン、あなたはやっぱり映画の鬼だ。いや、この場合はこの映画の原題(Sorcerer)に倣って魔術師というべきか。

 あらすじ

 アイリッシュマフィア(ロイ・シャイダー)、不正取引をはたらいた投資家(ブルーノ・クレメル)、アラブテロリスト(アミドゥ)、ナチスを追う殺し屋(フランシスコ・ラバル)。罪を抱え追われる立場になる四人の男たちが流れ着いた場所は南米の小国。支配者の将軍のポスターが至る所に貼られた貧しい村。入ったら出られない、そんなアリ地獄のような国からの脱出を図る男たちは、石油会社のにおける事故火災を鎮火するためのニトロ運搬という危険な仕事にすべてを賭ける。もう戻る場所のない、戻ることができない男たち。生きながらすでに死んでいる彼らはひたすら行くしかない。しかし、どこへ?

 向こう側へ

 クルーゾー版が終始、それこそ運転席背後のニトロに火が付きそうな、じりじりと太陽の照りつける画面を展開したのに対し、フリードキンの映画は迷宮のようなジャングルの中を突き進んでいきます。まとわりつく緑、叩きつける雨。鬱蒼とした暗がりを悪魔のようなシルエットの改造トラックが、社会的に死んでいる亡者たちをのせて突き進む。どこか暗く湿った画面はクルーゾー版の陰画のようなものとなっていて、映画自体の境遇含めて、最初に言った通りまさに影といった感じの映画なのです。

 映画の前半部はクルーゾー版をリスペクトし、吹き溜まりに集まってくる男たち4人の境遇を一人一人かなりきっちり描きます。そのドキュメンタリータッチの部分ですでにじっとりと重い。同時に描かれるのが、彼らがそれぞれ何らかの形で、ひとに死を与えたということが描写されていきます。のっけからナチス残党を狩る殺し屋のサイレンサーで幕を開け、アラブテロリストは爆破テロを起こし、投資家は共同経営者を自殺に追い込む。そしてアイリッシュ・マフィアは教会を襲撃後の逃走中、仲間内のいざこざのなか運転を誤り、自分以外の仲間を死なせる。そんな彼らが、今度は自らを死のそばに置き、やがてそれに追われるようになる。

 この映画もまた、フリードキンの向こう側への希求が前面に出ています。フレンチコネクション、エクソシスト、それらは主人公たちが物語の果てについにここではない向こう側へ足を踏み入れてしまう、その瞬間が描かれてきました。そしてこの映画もより強烈な形でその向こう側が描かれます。仲間を一人また一人と失い、アイリッシュマフィアのドミンゲスが独りたどり着くは、むき出しの岩が石筍のように並ぶ砂漠。白い骨のような岩がまわりを覆い、紫色に沈む空はまるで寺山修司の『田園に死す』の恐山のよう。彼の耳に響くのはつい先ほど死んだ元殺し屋の高笑い。呆然としつつ、どこへ? と自問する男。もはやここは黄泉の国。そこの“踏み越えた”感はこの映画のクライマックスといっていいでしょう。嵐の吊り橋ももちろんすごいのですが、やはりここの瞬間こそがフリードキンの真骨頂でしょう。ここはマジでやばい。

 ついにトラックがエンストし、事故現場――闇夜に火柱が吹き上がる場所へ、最後はニトロを抱えてふらふらとした足取りで征くその姿はもはや幽鬼のようだ。ここのロイ・シャイダーもほんとすごい。死を抱え、彼は向こう側へ渡る。かつてのポパイ刑事やカラス神父のように。

 死が人をつかむ瞬間を描く

 そして、映画のラスト。やはりここをカットしたら映画の印象は180度変わる上に、映画が死んでしまう。それほど重要なシーン。というか、ここがすごくドキッとする。タンジェリン・ドリームのテーマソングがここまで禍々しく響き、死のにおいを奏でるとは思いませんでした。なんとなく古いけどカッコいい感じだと思ってたら。やばい。

 ここの一連のシーンもすごい。黄泉の国を渡りつつ、帰ってきて“しまった”男をカメラはアップで映す。その表情はどこか虚ろで、魂を置いてきたような表情。金を手に入れたのにこれからの行き先を決められない彼。気を紛らわせるように店の女中である老婆の手を取り、踊る。陽気でやすらかなタンゴが流れる中、カメラは引いていく。店の外へ出てゆき、その一気に客観へと変わるカメラワークにぞくっと来ます。店の外に横づけられるタクシー。そして、彼の追手が、まさに死の天使のように降りてくる。

 この濃密な、死が人に追いつき、そしてつかむ瞬間を見事にとらえる。フリードキンの冷徹なカメラが主観と客観という境界を越えてその瞬間をつまかえ、観客に突きつける。まさに映画史に残るべきラストだと思います。本当に素晴らしくて、これを劇場で観ることができて本当によかった。そして、フリードキン監督の執念に畏怖と感謝を。

 最後に。この映画、極限までセリフを削って、画で見せる映画となっていて、そこもまた緊張感と相まって凄みがあります。最初は先んじて賞金を独占しようとしたり、どっちが危険地帯で誘導するかで対立する男たちが、道をふさぐ大木をみんなで工夫して突破した時の、あの全員の何とも言えない連帯感が生まれた瞬間。みんな何も言わないんだけど、確かにそれが画面に映っている。このシーンもなにげにすごいというか好きなシーンでしたね。