蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

「高天原の犯罪」の構造 天城一『密室犯罪学教程』

 

探偵小説は読者に参加の夢を与えると称しながら、実際は読者を操作するにすぎませんでした。

                    『密室犯罪学教程』献辞より

 

 ※「高天原の犯罪」そしてチェスタトンの某作(ブラウン神父の童心収録作)に触れています。いずれもネタを割る、又は真相を示唆する部分が出てくるので、未読の場合は注意してください。

 ツイッターのフォロワーさんのブログに触発され、天城一天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)の主に「密室犯罪学教程」を読み返しています。個人的に天城一は結構むかしに読んで、短い割になんかよく分からん、密室トリックがことごとくしょぼい、みたいな印象で、代表作の「高天原の犯罪」に感心しつつも、ああ、チェスタトンのあれの日本的バリエーションね、みたいな感じで、かなり不真面目に読んでいました。というか、私にそれを読み込むだけの力がなかった(今だってあやしいもんですが)。密室犯罪学教程も結局はトリックカタログとして、トリック第一主義の阿呆の前には作例集的に消費されただけでした。トリックに囚われるな、という言葉も囚われた人間にはうるさい小言にしか聞こえなかった、というところでしょうか。

 天城一は、トリック中心主義――その真ん中に居座っているとして江戸川乱歩を批判するために、トリックなど大したことないよ、ということを理論と実作によって証明しようとしました。その批判はまるで、トリックに囚われた乱歩を救おうとしているかのように見えたりします。天城は戦後も乱歩に戦前のような小説を書いてほしかったのかもしれません。

 トリックは大したものではない。確かにトリックなどどうとでもなる。しかし、乱歩と天城にはそのトリックに対する食い違いがあったように思われます。無二のトリック、人跡未踏の地を渇望する人間を、ある意味既成の理論によって生成されるトリックがその渇を癒せただろうか。トリックは大したことない――確かに大したことないトリックがそこには量産されていた。

 大事なのはトリックではない。それをいかに使うか。そのためにはシチュエーションが大事だ――トリックの鬼に多分それは伝わらなかった。

 天城一はそのトリックをいかにして成立させるか、そのシチュエーションに拘ります。密室犯罪はメルヘンですと喝破し、徹底した作り物として高度にフィクショナルでなければならない、そしてそれこそがこの《教程》が書きたいところだというのです。

 天城一の興味は恐らく“構造”にある。トリックの構造を解析し、徹底してフィクショナルな世界としての探偵小説に還元する。先ほどの乱歩との食い違いを絡めていうならば、乱歩は新たな“構造”を求めたが、天城は“構造”を分析して自分なりのカタチで複製することに拘った。

 原理を発見することで特定の恩寵を誰にでも分かつことができるとする、それが天城の構造への希求だった。それが科学である、と。それによって探偵小説は神秘ではなく、誰にでも開かれたものになりうるのだ、というのが数学者でもある彼の信念だった。

 その構造を分析する、という信念がトリックとともに、それを成立させる空間に及んでいきます。それはフィクショナルなものでありながら、しかし磨き抜かれた故にか現実の社会を映し出す鏡となってゆく。やがて天城一は“我々”を分析し、その構造を見つめてゆくことになる。

 密室犯罪学教程は後半になるにつれ、社会批評的な色を帯びてゆきます。

 体制は批判ではなく対策を出せといいます。対策は否決できますが、批判は否決できません。体制は批判を恐れます。

 批判を欠く体制は破滅です。それでも権力は批判を恐れます。

  これなど、今なおこの国を蝕む腐敗の構造ではないでしょうか。そして、天城が日本人なるモノの構造を分析して生み出されたのが、かの傑作と名高い「高天原の犯罪」でした。その前段階として天城はチェスタトンの「見えない男」のトリックの構造を意識下の密室であると分析します。明なものは見えない――それはこの国の人間にとって何か? と問うことで神殺しのトリックを案出します。

 次にトリックが成立するシチュエーションを探すこと。それは社会の構造を分析することであり、日本人の構造を分析することだったわけです。そして日本人にとって明らかなるがゆえに見えない存在――天皇を導き、それを神と紙に還元し、新興宗教団体を縮図として「神殺し」を描いたわけです。

 神と紙。冗談のように聞こえるかもしれませんがこれが重要なのです。神は見えないだけでは片手落ちなのです。神として上がっていったモノが紙として下りてくる。そしてそれは時代の変遷をも示唆している。「高天原の犯罪」の凄みとは、見えない“神”が見えない“紙”として戦前と戦後の間を行き来する。現人神が憲法という成文によって象徴となる。ただの人間となって詔を持って下りてくる。内実を失った象徴。しかし我々はそれを形式的に受け入れていく。

 内実は関係ない。形式さえ崩れていなければ、お前たちは滞りなくそれを続けるだろう。それがどんなものかなどどうでもいいのだ。お前たちがぬかずくのは神と書かれた紙で十分なのだ。このトリックを外部から眺めるようにし、まるで千万年前から「民主国」に住んでるような顔をして、今度は民主主義という「神」をあがめるか。天城一による彼の、そして我々日本人なるモノの構造へのナイフのような批評は、今なお我々の喉元に突きつけられているのではないでしょうか。

 最後に、天城一は探偵小説の構造は本質的に平凡人の勝利を、そして平林初之輔が予感したように大衆の時代を予知するものであるとしています。すべての人々に探求の門が開かれている。誰にでも参加の資格があると告げ知らせるものとしての探偵小説。それはこの時代に達成されたでしょうか。そもそもそれはどういうことなのか。冒頭にあげた彼の言葉のように、やはり今でも探偵小説は読者を操作するにすぎないのか。

 すべての人々がある程度、平等に情報を発信するようになった時代。ある意味、平等に探偵たる大衆の時代は訪れた。それが天城一の思い浮かべた光景だったのか、この時代に書かれる探偵小説の姿は果たしてどう映ったのか、もう彼が答えることはないにせよ、それを我々が自問することは意味があることなのかもしれません。

 

 

天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程