蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 ちょっと『ジャナ研の憂鬱な事件簿』などの青春ミステリを読んでダイイングメッセージについて、少し思ったことなど。

 ダイイングメッセージというと、かつて密室などと並んで探偵小説といえば、というガジェットであったにもかかわらず、今現在「本格」方面をはじめミステリからはあまり顧みられていない(ように思える)ネタである。いいとこ頭の体操的なネタというか。日本における本格のメンター的な位置づけにあるエラリー・クイーンがその創作の中期から後半期にかけて執拗に拘りを見せたのにもかかわらず。いやむしろ、偉大な巨匠が拘っておかしくなった原因とし敬遠されているのだろうか。有栖川有栖のように作中にダイイングメッセージを取り入れている作家もいるが、批判的に作中人物に語らせたり、事件の解明には直接関係がないものとしている場合が多い。

 とにかく、たびたびダイイングメッセージは批判にさらされてきた。曰くいつものリアリティ問題――死ぬ間際にそんな複雑なこと考えつくはずがない。回りくどい。そもそも残されたメッセージなどいかように解釈できるので唯一の正解にはたどり着けない、など。もちろん、作家は突っこみを逆手にとってあれこれとダイイングメッセージを利用してきた。とはいえ、書き残されたダイイングメッセージをダイレクトに解読しようとする作品はあまり顧みられていないように思われる。

 しかし、こと青春ミステリの中では少し事情が違うように思えたのだ。もちろん、ダイイングメッセージをそのまま推理するというわけではない。しかし、ダイイングメッセージが形を変えて息づいているのではないか。

 ダイイングメッセージの本質とは何か。それは、死んだ人間の意思(その多くが犯人を指し示そうとするもの)を解明することだ。もはや物言うことのない人物の意思を――彼、彼女が残したメッセージを読み取ること。それは青春ミステリにおいて死者ではなく、学校を去った人物が残したメッセージを解読することに代わる。そしてなぜそのメッセージは残されたのか? という動機の部分がクローズアップされ、その謎を解明することでメッセージの意味とともに、そこに隠された意思が浮かび上がる。その場合、メッセージは告発というよりは、去りゆくものが残した押し殺した叫びである。そしてそれが青春ミステリのある種のクリシェともいえる“苦さ”へと回収される。そういう意味でも「相性がいい」。

 隠されたメッセージを探るというダイイングメッセージの本質部は、(大げさに言うならば)学校というある時期の世界の中心を去らねばならなくなった、物言えぬ人物の意思を探るというカタチで生き残るというか、青春ミステリをその沃野として独自の広がりを見せていくような気がしている。というか、犯人は誰か? というガジェットから、何故その奇妙なメッセージは書かれたのか、という動機にシフトすることで、単線的なガジェット以上の、物語を作るツールとして使用されるようになっていく、ということかもしれない。また、そしてそういう風に使用できる(しやすい)というのが学校というフィールドの特殊性なのかもしれない。

 まあ、半ば感覚的な思いつきみたいなものなので、あくまで、かもしんないなーという程度の話ですが。