蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

「私」を拡散するために 江戸川乱歩『盲獣』

※ 一応、ネタバレというやつなので注意してください。とはいえ、そんなことでどうこうなる作品だとは思いませんが。

盲獣 (創元推理文庫)

盲獣 (創元推理文庫)

 

  やっぱりこの人変態だよ。

 いきなりなんだと思われるかもしれませんがそうとしか言いようがない。

 探偵小説をことさら標榜する人間が生み出したアンチ探偵小説というべきなのか何なのか。よくできた最高作とはいいがたい。しかし、その得体のしれないじっとりとした闇のような暗がりが奇妙な魅力を放つ作品がこの『盲獣」である。そして、乱歩のある種の到達点と言える。そういう意味で最高の作品と言えるかもしれない。

 この作品はいわゆる通俗長編に分類され、『蜘蛛男』や『黄金仮面』、『魔術師』といったそれらの中にあって、しかしひときわ異様な光芒を放つ作品である。

 通俗長編には曲がりなりにも探偵小説であろうという意思が残っていた。自ら純粋な本格ものではないと嘆きつつ、それでも怪人が逃げ、探偵が追うという通俗探偵小説であろうとしてきた乱歩は、この作品でそれを完全に放棄する。まあ、同時期に『黄金仮面』『魔術師』『吸血鬼』と同じような通俗長編を連載していたわけで、流石に倦んだというか、うっぷんが集中したかのよう。

 そして、この作品の犯人、盲獣のごとく、己の欲望のままに昏く、そして血みどろの妄想を全開にしてゆく。そこには何のリミッターもない。ひたすら盲人の犯人が殺人を重ね、その痕跡を隠す気などさらさらない彼は、手にかけた女性たちをあの手この手で衆目にさらす。当時人気だった通俗路線にあてつけるような、あんたたちはこれが好きなんだろう、という思いがあったのか、コイに餌でもやるようにバラバラ死体を人々の中に投げ込んでゆくのだ。

 この作品は探偵小説的にも乱歩作品的にもあまり顧みられることがないと思われるが、不思議と引き付けられる奇妙な作品といえる。展開はストレートに盲獣が気に入った女性に近づいては殺し、死体をばらまく。まずそのばらまき方がいちいち凝っている。彼の犯罪を称賛気味に批評するような探偵は存在せず、語り手である作者はその残虐ぶりを次々と語る。圧巻は盲獣を出し抜こうとしてきた物好きな未亡人倶楽部の夫人を難なく返り討ちにし、風呂場でバラバラにした死体を並べてイモムシごーろごろ、などと死体の上を転がり出し、あげく死体を雑にハムへと加工し、堂々と売り飛ばす。その残虐のバリエーションがえらくねちっこくしかし官能的に描かれていて、気味が悪いほど悪趣味なのに、不思議と目を離すことができない。そしてその官能性において出色なのが、海女を海辺の岩陰に引きずり込んで殺すシーンだ。その岩場にいた蟹がたどった先に死体を描写する場面は、そのおぞましくも官能的な部分がよくできている。

 だが何といってもこの作品の素晴らしい箇所は、盲獣が第一第二の被害者を連れ込む屋敷の地下に広がる、盲獣の感覚世界そのものといってもいい異様な光景だろう。屋敷に据えられた鏡を動かし、鏡をぬける『鏡の国のアリス』的な、しかし待っているのは悪夢のような世界。そこは腕、腿、脚、乳房といった人体のあらゆる部分が彫刻として、ゴム製をはじめ象牙、黒檀、朱檀といった様々な材質製のもので形作られ、あるところでは同じ形のものが密生していたり、同じ部位でもばらばらのものが据えられていたりと、ひたすら感覚を――ひときわ視覚を狂わせる地獄風景が広がっている。

 ここの描写はやはり乱歩というか、彼にしか書けない異様性と迫真性を持ち、その妄想力には本当に平伏する。みんなが思っている異様なことを上手く描く作家は多いいだろうが、読者が思ってもいない光景を描く人間はそう多くはない。新しい異様の感覚を描き出すこと。安易かもしれないが、それはやはり天才にしかできないことなのだろう。そして、やはり乱歩は天才なのだ。私はいまもこの人の文章は本当にすごいと思う。

 さて、このシーンで、盲獣は視覚が狂った空間の中で触覚の快楽へ被害者たちを堕としてゆく。ここから盲獣の触覚芸術とでもいうべき思想は醸成され、それが一つの芸術品とでもいえるオブジェ――彫刻へと結実する。冒頭の彫刻の展覧会へと回帰する構成になっていて、気ままな殺人行を書き連ねていた話がそこでうまい具合にまとまりを見せていく。

 そして、その触覚芸術がこの作品の重要なキモであり、また、乱歩の本質に迫る重要なキーであると思うのだ。乱歩の本質というと変身願望からくる自己抹殺や破壊、ということが語られるが、私は何か少し違う気がしている。たぶん、その先がある。

 この作品に先行する『孤島の鬼』には不具者による不具者製造という行為から、それを世界に広げる――フリークスを世界で満たすという思想が現れる。「私」を外へと拡散する。そんな欲望が確かに描かれていた。そして『盲獣』はその延長上にある。盲獣は殺した被害者を秘匿しない。殺人という自分の行為を隠さずに、その成果物である死体をばらまく――人々の中へと。それは「私」を拡散する行為ではないのか。「私」を仮託した「女」を破壊し、細切れにしてばらまく、果ては食べさせようとするのだ。「私」の広がりの行き着く先として同化を試みることは、ごく自然なことのように思える。

 しかしそれではダメだ。まだ不完全だ。究極的に盲獣は、作者は思想性の拡散に至る。それが触覚芸術であり、それが込められた彫刻として姿を現す。その姿は、一言でいえばあの地下世界が像となったもので、この見た目には異様としか言えない彫刻は、とても奇妙な効果を見せ始める。

 盲人――触覚の発達した人間にしか堪能できないその美。しかし、そうでない人間にもそれの一端に触れる可能性がある。目を閉じればいいのだ。かくして、その芸術を味わうためにすべての人間が盲となり、その像を一様に撫でまわす。像を中心にして、盲とそして触覚芸術が人々の間に拡散されてゆくわけだ。

 ここにきて、『孤島の鬼』におけるフリークスの拡散が、思想性によってなされる。触覚の美を通して、人々を自身と同じくする盲獣。それを見届けて彼はその中心である像の下で死ぬ。「私」は拡散された。広がる「私」の中に「私」はある。ならば、一個の「私」である必要はない。むしろそれは、大きな「私」の檻でしかない。

 この『盲獣』によって乱歩の変身願望が完成される。人が椅子(人間椅子)になる、イモムシ(芋虫)になる。そして著者である乱歩は「女」(陰獣)になり、「女」を介してその欲望がついには「私」以外のすべて――つまり「あなた」になる。

 「私」は「あなた」になりたい。

 彼の究極の願望とはそうだったのではないか、そんなふうに私は思うのだ。

 

  ※あと、まだ連載中ですがこちらのコミック、かなりいいです。原作のエロティックさとグロテスクさの表現、そして中盤の麗子のキャラクターを生かして、絶妙に探偵小説へと改変しています。原作読了済みでも、麗子がどうなってしまうのか……これからの展開を含めてとても気になる作りになっています。絵とその雰囲気が気に入ったらぜひ、というおすすめ作です。

盲獣1

盲獣1

 

  それから、この文の下敷きというか、参考にしたのが安藤礼二『光の曼陀羅』に収録されている江戸川乱歩『陰獣』論「鏡を通り抜けて」。『孤島の鬼』→『陰獣』→『盲獣』を軸に展開される乱歩論、乱歩の「私」へのこだわりが論じられ、著作のごく一部にすぎませんが、面白いので興味があればぜひ。

光の曼陀羅 日本文学論 (講談社文芸文庫)

光の曼陀羅 日本文学論 (講談社文芸文庫)