蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

死を見つめる:施川ユウキ『銀河の死なない子供たちへ』感想

 

 

  施川ユウキはどこか暗がりを抱えた作家だ。ギャグをベースにしつつ、個人がはらむ孤独感と、そんな一人になった時にふと忍び込む諦念のような暗さ。それがよく表れたのが『鬱ごはん』だ。世に百花繚乱と咲き乱れる食についての漫画の中にあって、それはひどく異質な漫画だった。食漫画はひたすらおいしそうなものをおいしそうに食べ、幸福感をひたすら演出する。たくさんの人たちとそれを共有するシーンが読者の心を温かくさせる。しかし、現代にあって物を食べるということは、孤独な瞬間であることの方が多くないだろうか。ちょうどそう、エドワード・ホッパーの『ナイトホークス』が描いた都市の孤独のように。『鬱ごはん』はひたすらそのホッパーの絵の男の姿を描くように孤独と諦念を描く。主人公の飯はいつも味気なく、ともすればマズく、それを前に諦念じみた自問自答は、滑稽でありながらもどこか読者の心の隙間に滑り込む。

 そんな『鬱ごはん』で孤独と諦念を覗き込んだ先にあるものについて、施川ユウキはより視線を向けてゆく。それは『ヨルとネル』で色濃く描かれる“死”だ。『ヨルとネル』は小人化した二人の小学生たちが出会い、その小人視点での生活がコメディタッチで描かれるのだが、物語は後半から濃密な死のにおいで満たされていく。そこで描かれる死は劇的なものとは違う、一歩一歩近づいていき、少しづつ自身から死臭が漂ってくるのをじっと見つめざるを得ない、そんな死だ。

 施川ユウキは『バーナード嬢曰く 四巻』の空きページで自身が死に関して並々ならぬ関心があることを吐露している。避け得ざる死について考え続け、そしてそんな死についての著者初の上下巻の長編ストーリー漫画、それが『銀河の死なない子供たちへ』である。

 『銀河の死なない子供たちへ』はそのタイトル通り死なない――不死の子供の姉弟が登場する。彼らは何らかの理由で文明が崩壊し、人類が消えた地球で数百年、数千年と変わらぬ姿のまま、ただ生きている。ものすごい勢いで周囲は変化し、生き物たちは死んでゆく。それでも姉弟が死ぬことはない。そんな周囲から取り残された姉弟はある日、墜落したロケットに乗っていた女性から彼女の死の間際、出産した赤ちゃんを託される。ひょんなことから人間の赤ちゃんを育ててゆく二人。この物語はその姉弟のパイとマッキ、そして彼らが育てることになる赤ん坊ミラによる死についての物語だ。

 上巻は主にパイとマッキの不死ライフが描かれる。命のサイクルの外にいる二人。パイはひたすら外の世界をめぐり、その生と死のサイクルの中に身を置こうとしている。一方、マッキは対照的に一つ所にとどまり、過去の人類が残した書を読み、そして動物を飼うことでそれら動物たちの死をひたすら見つめている。いずれも彼らが生と死のサイクルからはじかれていることが強調されていく。そんな二人に現れるのが、彼らが育てることになる人間のミラであり、後半は彼女の成長とそして彼女に訪れる死をめぐって物語は展開してゆく。

 そういえば彼らの名前には意味が持たせてある。パイはπと表記されている。つまり、どこまで行っても数字が続く永遠を。マッキは恐らく末期。彼は終わりを見つづける。そしてミラは文字通り自分の未来(死)を見つめる。

 『ヨルとネル』は引き延ばされた死に向かう主人公たちの視点のみで描かれたが、本作はその引き延ばされた死――残り少なくなる時間、すぐではないが確実に一歩一歩近づいてくる死についての視点をミラが担い、その外側で彼女の死を見つめるパイとマッキ。彼らが三者三様に死についての決断を下す姿が下巻のメインとなる。

 三人のほかにもう一人重要な人物としてパイとマッキの「ママ」がいる。彼女はパイとマッキを不死にした存在だ。ある意味、子供を永遠に子供にし続けようとする親の暗喩ともとれる存在だ。パイとマッキはミラを育て、疑似的に親となることでこのママの「子供」であることを止めるというのも、この死を縦糸とする物語の重要な横糸となっている。

 三人が死というものについて下す決断について、それ自体の是非を問うことは特に意味はない。この漫画は答えを探すが答えが描かれるわけではないし、その答えは読む者にゆだねられている。何故私たちは死ぬのか。いつか死ぬということを知りながら、私たちはそれについて考えることを先送りにしながら日々を生きている。普段意識しないようにしている死をこの漫画を通して少し考えてみる。そうすることで何か見えてくるかもしれないし、何も見えてこないかもしれない。いや、むしろ分からなくなるだけかもしれない。

 多分、いやきっと死ぬまでわからない。しかし、私たちは死を抱え、必ず死ぬものとして生きる。その事実を意識させてくれる、そんなものとして私はこの作品を読んだ。

 死があるから生は尊いのか、生があるから死は恐ろしいのか、そんなある意味凡庸と言える認識すれすれをかすめつつ、しかしその凡庸な認識を改めて見つめる。この作品はそんなふうにして「死を見つめる視線」を読む者に与えてくれる作品なのだ。